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第138話 退職

屋敷に戻ってきたのは日が昇った後だった。ひんやりとした早朝の静けさに包まれて、俺は玄関の大きな扉を開こうと、


「陽登君、お帰りなさい」


「うわっビビった」


扉が勝手に開いてメイドさんが出迎えてくれた。

起きるの早いですね。もしくは俺が帰ってくるまで待ってました? 別に気を遣わなくていいのに。


「旦那様と奥様は?」


「お二人は昨夜屋敷で食事された後、出発されました」


あら忙しいですね。秘書の母さんが倒れた直後でも仕事するとは、いやはや天晴れですよ。社会人ってすげー。

……メイドさん。そんな顔しても、俺の決意は変わりませんよ。


「屋敷で晩飯っすか。そりゃあさぞ雨音お嬢様が喜んだことでしょう」


「陽登君、昨日言ったことは……」


「荷物は全て持ち帰るつもりですけど忘れ物があった時は捨ててもらって結構です。運転手さんに送ってもらう必要もないので安心してください」


「……やっぱり出ていくんですね」


「ええ。俺は使用人を辞めます」


唇を噛みしめるメイドさんの横を通って屋敷の中へと入る。

広い屋敷内、立派なカーペットや豪華な装飾、改めて見ると圧巻の光景で、いつしか当たり前の空間になっていた。


「この部屋ともおさらばか」


二階の端、物置部屋。俺に与えられた個室だ。梅雨はジメジメして夏の今は蒸し暑かった。唯一の窓は丸くて小さく、朝は日差しがピンポイントで俺の顔に当たった。

もうここで過ごすことはない。数ヶ月の間だったが俺の寝床になってくれてありがとな。部屋に別れを告げ、荷物をまとめたリュックを背負う。


物置部屋を出て廊下を歩く。朝起きたらいつもここを歩いて一階に下りて掃除や洗濯をしていた。それが終わったら食堂で朝食を食べたり、寝起きの悪いお嬢様を起こしたり、朝から忙しなく働いていた。マジ激務だったわー。洗濯物を干すの超キツかったわー。

でもそれは今日で終わり。俺は、使用人を辞めるのだから。


「あれれ、待っていたんですか。見送りとかしなくていいですって」


一歩も動いていなかったのかな。メイドさんは俺を見つめる。

最後だし挨拶くらいしておくべ。


「今までお世話になりました。もう二度と会うことはないでしょう」


「考え直してください……」


「あ、母さんが過労で死んだら葬式で会うかもしれませんね」


「陽登君……」


横を通る。メイドさんは俺の腕を掴んだ。

俺は即座にその手を引き剥がす。何も躊躇わず、心動かされることなく。


「メイドさんが気に病むことはありませんよ」


「……私は、もっと陽登君と一緒に……」


「そう言ってもらえるのは嬉しいですねー。俺、メイドさんのこと好きですから」


「私も陽登君が大好きです」


相思相愛ですね。クソクズな俺のどこを好いてくれたのか分かりかねますが。


「仕事を教えてくれてありがとうございました。野球観戦や飲みに行くの嫌がっていたけど、今思うと楽しかったです」


あなたとは一緒にいることが多かった。メイドさんは俺の下ネタに冷淡なツッコミを入れて、俺は野球観戦に付き合わされて、何が印象深いってわけではありませんがメイドさんとの思い出はいっぱいある。

こんな俺を受け入れてくれて感謝しています。そしてさようなら。


「私も……それに、お嬢様だって……」


「雨音お嬢様にはよろしくお伝えください」


靴を履く。メイドさんに背を向けて、屋敷から出ようとした。



「待ちなさい、陽登」


……この声を何度聞いたことか。

俺を呼ぶ、生意気でツンツンとした声。振り返れば予想通りそこに立っていたのは天水雨音。俺の、元主人だ。


「起きていたんですか。朝弱い設定はどうしましたー?」


「……その荷物は何よ」


「メイドさんから聞いていませんでしたか。俺、使用人を辞めます」


「昨日沙耶に聞いたわ」


じゃあなんで聞いたんだよ。今の無駄な質疑応答の時間を返してください。あ、やっぱ返さなくていいよ、もう会うことはないのだから。


「駄目。辞めるなんて許さない」


ブラック企業かな? お前は死ぬまで我が社の社畜となれ的なやつか。


「知るか馬鹿。俺は辞める。テメーの父親には伝えてある」


「駄目。絶対に駄目。私が許さない」


有無を言わせない一方的な否定の仕方にため息が出る。

お前は昨日から何一つ変わってないのね。今日もワガママは全開フルパワーだ。


「今まで粗相ばかりで申し訳ありませんでしたー。俺が辞めたらお前も清々するんじゃねーの?」


口答えして下品な言葉ばかり吐いて、セクハラ行為もするし、使用人としてろくな働きをしなかった俺が辞めるんだ。寧ろ喜ぶべきでしょ。な?


「勝手に話進めないで。アンタが辞めるなんて認めないわ!」


けど雨音お嬢様は受理してくれない。昨日のカラオケと同じで駄々をこね続ける。全てが自分の思い通りにならないと気が済まない、傲慢で自分勝手な物言いだ。


ふと重なる。不機嫌な顔で俺を睨む雨音お嬢様の姿が、旦那様や奥様の姿に見えた。そして俺自身が母さんみたいだなと思えた。

社畜になって働けと目の前の女は言っているのだ。母さんのように、親父のよう、働けと言っている気がした。……心の中にどす黒い感情が溢れ出す。


「陽登は私に従えばいいのよ。アンタの意思なんてどうでも」


「黙れクソ女」


「は? 何よ?」


「これ以上喋んな。これ以上、キレさせんな」


いつもやってきた。お嬢様と悪態を言い合って互いを罵倒してきた。クソ女と何回言ったことか。

でもな、今のは違う。俺が、本気で、嫌悪感と敵意を持ってテメーに怒りをぶつけた。その意味が分かるか? この、クソ女が。


自分でもビックリするくらい拳が痛い。怒りで身体中が熱い。

ただじっと、俺は目の前のクソ女を睨み返していた。クソ女の目が動揺して潤む。


「天水雨音。テメーの理不尽さにはうんざりだ」


「な、何よ」


一歩進んでクソ女を近づく。睨みを効かせて、敵意を込めて。


「なんでも自分の思い通りになると思っているその態度がムカつく。庶民を見下す態度が気に食わない。自己中心的な態度に吐き気がする」


声は抑える。気持ちも抑える。でないと今にも叫んで暴れそうになるから。血が昇った頭を冷まそうと何度も空気を吸っては熱い息を吐く。

そもそもこいつのことなんて無視して出ていけばいいのにね。俺も大概アホだ。


「っ……う、うるさい馬鹿陽登!」


「ウゼェんだよクソ女が。それしか言えねぇのか」


「あ、アンタは 私の使用人なんだから……」


「だからこれ以上イラつかせんな。本気で殴りたくなる。テメーの両親も含めてな」


「な、何よ……陽登なんて、か、片親のくせに」



……完全に切れた。抑えていたものが弾けて、どす黒い憤怒が全身を駆け巡り、脳がひたすら叫ぶ、こいつを許すなと。


「お、お嬢様っ! そ、それは……!」


一応は元主人だから手は出さないつもりだったんですけどね。

青ざめた表情でクソ女の口を塞ごうとするメイドさんを押し退けて、俺が胸ぐらを掴むとクソ女は焦燥した表情浮かべて手足をバタバタと暴れさせる。


「な、何するのよ馬鹿陽登!」


全身に怒りが染み渡る。我慢していた分、一度解放したら止まらない。

片腕だけでクソ女を持ち上げ、顔を近づけて、睨む。


「は、陽登?」


「よくそんなことが言えたなー」


もう片方の手は拳となって狙いを定める。耳に入ってくるのは泣き叫ぶ声。その声の主は俺の腕にしがみついて必死に止めようとしている。


「陽登君やめてください……うぅ、っ……!」


ごめんねメイドさん、だが俺は止まらない。止められない。目の前の、こいつが許せない。


「確かに俺は片親だ。親父は死んだ」


親父は死んだ。なぜなら、


「過労で死んだよ。テメーの親の会社で働いていたせいでな」


「…………え……?」


「俺の両親は仲良くお前の両親の部下だったんだよ。親父は死んで、今度は母さんが倒れた」


「は、陽登のお父さんが私のパパの部下……え、そ、そんなこと……」


「俺は片親だ。……お前ら天水家は、俺から母さんまでも奪うつもりなのかよ。あぁ!? この、人殺し一家が!」


メイドさんを振り払い、腕を引く。狙い定めるのは、クソ女の顔面。

こいつの親が、俺から親父と母さんを奪った。母さんと俺から父さんを奪った。俺を、一人ぼっちにした……!


「は、陽登君やめてぇ……!」


「テメーらが……!」


一度解放したら止まらない。止める気もない。怒りで暴れ狂う腕を振るい、握りしめた拳に渾身の力を込めて、


俺は思いきり殴った。






「っ……ひ、ひうぅ……?」


「は、陽登君……!」


クソ女とメイドさんの声。それが聞こえる前に轟き響いたのは衝撃音と、バキィ!と砕けた音。

僅かだが壁に小さな亀裂が入り、拳からは赤い血が流れ落ちる。


「……では俺はこれで。壁の修理費は俺の今月分の給料使ってください」


「ま、待って陽登君! て、手が……!」


我ながら、本当に、情けない。怒りに任せて殴るとか中学生かよ。自制心なさすぎマジキモイ死ねよ俺。

運が良かったなクソ女。ギリギリで狙いを変えてやったわ。テメーなんて、殴る価値もない。

俺は踵を返し、屋敷を出ていく。


「は、陽登、待って……」


後ろから聞こえる、クソ女の声。

俺な振り返ることなく、一言だけ言葉を返す。


「じゃあな天水雨音。お前とは二度と会いたくない」


「……っ!」


後ろで誰かが崩れ落ちる音、誰かの声にならない泣きすする声。それらを最後まで聞くことはしない。扉が閉まり、噴水の横を抜けて、門を通り、


俺は天水家を去った。

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