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コーヒー恐怖症

作者: 砂井乙月

 人が生きてる以上、怖いものが無いなどということは無いだろう。幽霊であったり、昆虫であったり、高い所であったりと多様であり程度も様々だが、本当に怖いものが何も無い人間は居ない。

 故に、よほど変わったものでなければ何かが怖くても馬鹿にされることなどほとんどなく、社会的に問題の無い生活が送れるのだけれど、どういうわけか俺の場合はそういうわけにはいかないらしい。

 俺の怖いものは驚くほどたくさんあちこちに存在しており、たちの悪いことにそれが怖いのはどうも地球上で俺だけのようなのだ。

「じゃあ十時に駅前の喫茶店で待ち合わせね」

 そう言われたときは戦慄した。喫茶店で待ち合わせなんてことになったらどうなってしまうか分からない。俺の十六年の人生の経験が俺に瞬時に言い訳を言わせた。

「いや、やめよう! あそこの喫茶店は喫煙ブースがしっかりしてないからさ。朝から煙草の煙吸ってテンション下げたくないだろ?」

「あ~そっかぁ、じゃあどこにする?」

「普通に改札の前で良いんじゃないかな。俺早めに行って絶対美紀ちゃん待たせないからさ」

「そんなこと言って遅刻したら許さないからね~。気をつけなさいよ」

「へいへい。じゃあ明日ね」

 電話を切って一息ついた。なんとか喫茶店での待ち合わせは回避したが、明日はあいつと出くわさずにすむだろうか。いや、きっと完全に逃げ切ることはできないだろう。あの黒い悪魔はどこにでも居るのだ。「コーヒー」は。

 思えば、物心ついたときから俺はコーヒーが怖かった。特に何かトラウマがあるわけでも、アレルギーがあるわけでもない。飲んだことが無いから味も知らないし、一体コーヒーの何がそんなに怖いのか分からない。しかし、何故か怖いのだ。コーヒーの存在が怖い。コーヒーが自分の身の回りにあるという感覚が恐ろしい。

 例えば中身の無いコーヒー缶があるのは怖くない。しかし、道端に落ちている「恐らくコーヒーが残っていないだろうコーヒー缶」は怖い。もしかしたらコーヒーが残っているかもしれないからだ。コーヒーがあるという自覚が恐怖を呼び起こすのだ。そういう点ではある種幽霊を恐れるのと似ているかもしれない。

 コーヒーが怖いという事実のせいで、これまで俺は人付き合いで多くの失敗を重ねてきた。友人関係も異性関係もかなりの割合がダメになった。話だけ聞けば大したことは無いように思えるが、「コーヒー恐怖症」は十分人間関係を破壊するに足る病気だ。なにしろ缶コーヒーを飲みながら歩いている友人からは全速力で逃げるし、コーヒーの存在を感じ取ればとにかくその場から逃げ出す。何もない場所で唐突に動揺し、走って逃げ出す奴が周りに居れば、まあほとんどの人間はそいつのことをどこかおかしい人物だと思うだろう。かといって、「実は俺、コーヒーが怖いんだ」などと言ったところで誰にも信じてもらえず、結局「変な奴」のレッテルを貼られることになる。

 しかし人間というのは成長すると色々なことを隠すのが上手くなるもので、高校に入学して三ヶ月、俺はこの秘密を必死に守り通してきた。教室で紙パックのコーヒーを飲んでいる人を見ても冷静を取り繕いつつトイレに逃げ出し、授業中隣の席でコーヒーを机に置いている奴がいれば落ち着いて教師に保健室へ行きたい旨を伝えるというような対処を取った。恐怖はある程度演技で隠すことができる。その点では一般的な他の恐怖とそれ程変わらないようであった。

 ともかく、そのような努力の末、周りからは普通の人間として認識され、しっかりと人間関係を築くことに成功していた。おまけに彼女までできて、この三ヶ月の努力は十分すぎるほどに報われたと言えるだろう。もう俺は一生こうやって生きていこうと思った。しかしそこに突然の先ほどの電話である。遊園地に行こうという願ってもない初デートの誘いだったが、早速虚構が破綻するかと思った。

 そうはいかない。これからもずっと隠し続けてみせる。決意を拳に握りこみ、俺は明日へ力強く誓いを立てた。


 翌日、カーテンの隙間から漏れる光に目を覚ますと、見事なまでに空は透き通っていた。驚くほど青い空、強い日差し。今年一番の快晴ではなかろうかと思われる天候に、自然と気持ちが高揚する。何か良いことがありそうだと思わずにはいられない。

 時刻を確認すると、待ち合わせの時間よりも三時間早い七時であった。昨日のうちに着る服の検討を始めとして準備はほとんど終わっていたので、特にすることもない。かといって他の何かに集中できるとも思えなかった。なにせ今の時点で既にかなり心臓は高く波打っているのだから。

 少し考えて、散歩をすることにした。歩きなれた道だが、高揚感の中で歩くと普段とは少し違ったように感じられる。時折道端に飲み物の缶が捨てられていてドキッとしたが、全てコーヒーではなかった。やはり今日はついている。何か良いことがあるに違いない。コーヒーの件がバレないのはもちろんのこと、それ以上の何かが。実に素晴らしい。

 そんな思案だか妄想だか分からないものだらけの散歩から帰ってくるとそこそこの時間になっていた。忘れ物が無いことを改めて確認した後、家を出る。

 待ち合わせの改札前には二十分前に着いた。さすがに休日なだけあって多くの人が出入りしている。平日の誰もが嫌がる通勤通学の移動時とは違い、喧騒が活気を帯びていて心地良い。

「お、ホントに早めに来てるな。感心感心」

 背後から突然投げかけられた美紀の第一声はそんな言葉だった。

「遅刻したらどうなるか分かんなかったからな。二時間前からいたぜ」

 適当に言葉を返しつつ振り向く。彼女は夏らしい活動的な服装だった。短めのすっきりとしたデニムにチェックのブラウス、アクセサリーの類は一切無し。さっぱりとした彼女の性格と驚くほどに合致しており、思わず笑みがこぼれた。それでいてしっかり決まっているのが素晴らしい。

 今日は楽しい日になりそうだという予感はどうも的中しているようだと思いながら、遊園地へ移動した。地下鉄の中や歩いている途中での他愛ない世間話がなかなかに楽しく、移動時間はずいぶんと短く感じられた。

 道中で、時折すれ違う人の目線が美紀に注がれることに気づいた。美紀の容姿は客観的に控えめに見積もっても上の中ってところだろう。人の視線がとっさに引かれるのも無理はない。

 そんな彼女の横を自分が歩いていることに不思議な誇らしさを感じた。そして改めて、この関係を崩したくないとはっきりと思った。

「どうしてジェットコースターって無理に回転させたりするんだろうね。私は純粋にスピードだけで怖がらせてくる方が好きなんだけどな」

「ただ単にスピード出して走ってるだけじゃ新幹線と同じだからじゃないか」

「それは全然違うでしょう。新幹線は人が露出してるわけじゃないしね」

「まあそりゃあ新幹線に壁と屋根が無かったら怖いだろうな。かなり命懸けの乗り物になりそうだ。でも屋根とか取り払ってスピード維持できるのかな?」

「別に私は新幹線を怖くしたいわけじゃないんだけど」

 些細な会話がひどく楽しい。彼女は屈託なく笑うのだ。それは一本筋が通った生き方と性格から来るものだろう。会話を重ねれば重ねるほど、彼女の笑顔が愛おしくなった。

「何か喉渇いちゃったな。飲み物欲しくない?」

 二時間弱あちこち歩き回り遊んでジェットコースターに乗った後、急に美紀がそう言った。コーヒーへの恐怖はあったが場の楽しさがそれを凌駕しており、自然と俺はなるべく気の利いたことを言うようになっていた。

「じゃあ俺が買ってくるよ。園内販売ブースは遠いし、自動販売機で良いよな。何にする?」

「なになに? おごってくれるの?」

「まああんまり金は無いけどね。飲み物くらいならおごれるよ」

「そうだなぁ。じゃあアイスコーヒー。微糖のやつ」

 その答えを聞いた瞬間、視界がふらついた。どうして俺にはいつもこんなに過酷な運命が待ち構えているのだろう。今日は良い日だと思っていたのに、そんな幻想は一撃で吹き飛ばされた。俺にとってコーヒーという言葉は、それほどの破壊力を持つ言葉だった。

「……どうしたの?」

 ショックのため数秒動けなくなっていた俺の顔を美紀が覗き込む。そこでやっと気合が戻った。

「いや、なんでもない。じゃあ買ってくるよ。ここで待ってて」

 その声に素直に反応し美紀はベンチに座った。俺は作戦を考えながら自動販売機の方へ小走りで行く。徒歩二分とかからないところに自動販売機はあったはずだ。しかし幸い美紀のいる広場からその自動販売機は見えないし、広場から見て自動販売機側にあるのはジェットコースターなどのこれまでに見て周ったもののみだ。つまりこれから後この自動販売機を見ることは無いだろうと判断できる。それなら、「コーヒーは売り切れちゃってた」という言い訳が成立するのだ。彼女は夢にもそんな嘘をつく奴がいるとは思わないだろう。完璧なプランだ。

 自動販売機前に立つと、缶コーヒーは四種類あり、見事にどれも売り切れてはいなかった。しかしあまり見ると恐ろしいのでできるだけ目をそらして、何を買おうか考える。二種類買って「どっちが良い?」というのもありだが、おそろいのものを飲むというのも好ましい。

 少し悩んで、オーソドックスにコーラを二人分買うことにした。

「コーヒー売りきれちゃってたから勝手に俺と合わせてコーラ買ってきたんだけど良いかな?」

 したくもない人生経験のお陰で、嘘をつくのはわりと得意だ。ケロッとした顔で堂々と言い切れば大体のことは悟られない。完璧だと思った。

「あ……ごめん。私炭酸ダメなんだ。それは飲んじゃって。ごめんね」

 やってしまった。という感覚が体を通り抜けた。そういえば炭酸がダメな人というのも確かに存在しているのだ。コーヒーを避けようとするあまり頭がそこまではたらかなかった。

「あとちょっとトイレ行ってくる」

 俺が何か自分のフォローの言葉を言う間もなく、彼女は席を立ってしまった。機嫌を害したのかもしれない。いやきっとそうだろう。「炭酸ダメなんだ」と言ったときの彼女の気分の悪そうな顔は、俺の見たい笑顔とは正反対のものだった。

 少し泣きそうな心情になりつつ、コーラを持っていてはこの嫌なできごとをずっと引っ張ってしまうかもしれないと思い、一気に飲み干した。二本はキツかったが、半ばやけくそで勢いで飲み、缶を速やかにベンチの横に設置されているゴミ箱に捨てた。

 俺がコーラの缶を捨ててから一分ほどで、美紀は戻ってきた。落ち込んでいた気分に追い討ちをかけるように、手元に缶コーヒーを持って。「売り切れてなかったよ」というようなことを言いながら。

「え、マジで? じゃあ俺が見間違ったのかな。ちょっと浮かれすぎてたせいかもな」

 などと、精一杯平静を装って答えるが、全身が逃げたしたい衝動に駆られていた。十秒ほど必死に衝動と戦い、結局負けた。

「あのさ……」

「あ、俺もトイレ行ってくるわ」

 最悪だ。声が被った。余計空気がおかしくなる。先ほどの微妙な空気を取り払うためにここでは良い感じで会話しなければいけないと俺も分かってはいる。彼女もきっとその思いで声を発したのだろう。だがあのまま無理して恐怖と戦っていても顔が青ざめたり最悪倒れたりするだろう。大げさかもしれないが俺は確かに選択肢が逃げるしかない己の運命を呪った。

 美紀の方を窺いつつ適当にトイレの周りで時間を潰し、缶がゴミ箱に入れられたのを確認してからベンチへ戻った。

「よし、じゃあ次行こうか!」

 ここしばらくのことは頭の中から振り払い、無理に元気を搾り出して美紀に声をかける。

「うん、そうだね」

 そう言って形作られた彼女の微笑みはあの晴れ渡った笑顔とは違い、色あせた銀のような印象を含んでいた。俺は何事も無かったように振舞いながら、大きく動揺した。

 そこからの時間は、辛いばかりだった。表面上は最初と何も変わらない会話をしていたが、なにか二人を取り巻く環境が違っていた。空気はずっしりと重く、気力を奪っていく。あれ程魅力的に感じていた彼女の笑顔も、一切俺の心に突き刺さってはこなかった。たかだか飲み物を買いに行くときのすれ違いが原因で、どこかがおかしくなってしまった。お互いに何か心にとっかかりのようなものが残ったのだ。

 何をしても前のように心は揺れない。どんな言葉も、心に染み入ることはなかった。

 まるで二人の間に透明な壁が立ちはだかったみたいだった。壁は心を通わせるにはあまりに厚く、言葉を伝えるにはあまりに高かった。あの黄金色の時間は、いつまでも続いていて欲しいと願うようなあの輝きは、どこに行ってしまったのだろう。

 そんな調子でかなりの時間が過ぎた。どちらからともなく「夕食を食べて帰ろう」というような話になっていた。本来は夜にもイベントがあり、それも見て周る計画だったのだが、二人に重くのしかかる何かをつれて行くのは、今までの道のりでも十分に長すぎた。

 太陽は沈んでもまだそれほど暗くなっていない時間。俺達は夕食を食べるために園内に用意された簡易的なレストランのような施設に入った。

 夕食の時間にはまだ早く、施設内は空いていた。コーヒーを飲んでいる人もいない。

 店の内装について話したりしながらテーブルにつく。相変わらず二人の会話は何か不気味な重い雰囲気に支配されていた。

 間もなくウエイターがオーダーを取りに来た。あまり考えもせず適当なメニューを頼んだ。続いて美紀がウエイターに注文を告げる。

「レディースセット一つ。あとアイスコーヒー」

 またか。また神は俺に試練を与えようというのか。神は血も涙もないのだろうか。昼のあの件でもう十分二人の関係は悪くなったのに。

 そして途端に、泣き出しそうになった。今日あったことが思い出された。あんなに穏やかで暖かかった時間がちょっとしたことで崩れた。俺のコーヒー恐怖症のせいであんなに心地よかった時間がなくなってしまったのだ。あの魅力的な笑顔を、俺達の間の壁がかき消してしまったのだ。

 大したことなんて何もなかった。ただお互いの心の中にひっかかってしまう何かが俺達をこうした。

「実は俺さ、コーヒーが怖いんだ」

 気づいたら俺の口からそんな言葉がはじき出されていた。何故そんなことを言い出したのか自分でも分からない。最初から正直に打ち明けていれば、どういう形にせよこんな思いはしなくて済んだだろうという思いからかもしれない。心に残るひっかかりの原因は、言いたいことも言えずに隠していることではないかという思いからかもしれない。

 でも言ってしまって後悔は無かった。とにかく、もう逃げたくないと思った。自分のことを知られる恐怖から。人と真剣に向き合うということから。

「なんだ。そういうことだったんだ」

 美紀はそれだけを呟き、なんだか異様に深く納得したようだった。俺の予想しない返答だった。てっきり「何言ってるの?」と突っぱねられるものだと思っていた。

「すいません。やっぱりアイスコーヒーはキャンセルで。オレンジジュースにしてください」

 どうやら彼女はあっさりと俺の言葉を受け止めたらしい。一体どういうことなんだ。

「なあ、なんであっさり納得できんの?」

「なんでってどういうこと?」

「だって普通じゃないだろ。コーヒーが怖いなんてさ。おかしいと思ったり、気味悪がったりするものじゃないのか」

「人間はさ、生きてる以上怖いものなんてたくさんあるじゃない。ある人にとって怖いものはある人には怖くないなんて当たり前、そんな感覚はズレてて当然だよ」

 あっさりと答える彼女の顔は特に気負っている様子も無理をしている様子もない。至って自然で温かみのある微笑みだ。

「いや、でもコーヒーが怖いなんて不気味に思うだろ。だから俺もずっと隠してたし」

「恐怖なんて誰にでもあるものだし、むしろそれを隠して生きていく方がはるかに不自然だと思う。人は、怖いものを他の人に話して楽になって、他の人と一緒に克服したり、補っていける生き物だよ。何も不気味に思うことなんてない。私は思わない」

 思わず、先ほどまでとは別のベクトルで涙がこぼれそうになった。コーヒー恐怖症がここまで暖かく受け入れられたことは一度も無かった。彼女の包み込むような優しさと暖かさで、これまで体を覆っていた重いものが一気に吹き飛んだような気がした。思い切って話してみてよかった。心からそう思った。

 心にひっかかっていたものがとれたからか、ずいぶんと会話が弾み、最初以上に楽しい時間が訪れた。当然計画は再修正して、夜までいることになった。夜までと言わず、やはり永遠にでも続いて欲しいと思った。

 夕食を終えて店を出るとき、ちょっと気になっていたことを聞いてみた。

「なあ、恐怖なんて色々あるっていう主張はすげえ良いと思うし救われた気がするけどさ、やっぱり『コーヒーが怖い』なんて珍しいなんてレベルのものじゃないだろ。普通、具体的にどういうわけなのか色々聞きたくなると思うんだけどさ。『コーヒーが怖い』の一言だけで納得できたのはどういうわけなんだ?」

「ああ。まあたしかに普通はすぐ理解できるもんじゃないよね」

 そこで、彼女はゆったり間を取った。星が少しずつ見え出している夜空を仰ぎ、息を大きく吸って言った。


「私も、コーラが怖いから」



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