00 ある学者のノートより
久しぶりの投稿、そして初めての創作作品。今回はプロローグにあたる部分です。
……短けぇ。
ゲームの中で構築された仮想現実において自分自身が登場人物として遊べるゲームが当たり前になり、少し前のSF映画に登場した架空の機械や乗り物がほとんど現実のものとなった時代。
一人の学者が五十冊のノートを残して自殺した。
手首を切ったことによる失血死で、まるで何かを抱きしめていたように状態で発見されたが、肝心の抱きしめていたものは見つかることはなかった。
『世界はゲーム以上にゲームのような世界になるだろう』
これはその学者が遺したノートの表紙をめくったページの冒頭にあったものだ。
ノート、というよりも日記に近いそれにはあらゆること――――学者がその日思ったことや気になったこと、中には近所のスーパーで購入するリストと本来ならば日記に書くことかどうか疑問に思うものまで――――様々なことが書かれており、一冊目のノートの最後のほうには自殺する原因になったとおもわれる内容も存在していた。
それは新聞記事を切り抜き、スクラップブックのようにノートに張り付けただけのページだった。
ほかのページには関連性のない多くの事柄が乱雑に書かれている学者にしては極めて異質に感じられる。
記事の内容は要約するとこうだ。
ある研究所が被験者の脳から抽出した“意識”をデータ化し、他人にその“意識”を転写することに成功した、というものだ。
この記事が学者の琴線に触れたのだろう、次のページに学者の怒りがありありと感じられる内容が書き殴る様な文章とともに残されていた。
◆
2050年5月16日
天気は清々しいほどに雲一つない快晴だ。こんな天気の時は庭にロッキングチェアを持っていき暖かい日光の下、読書するのに限る。
しかし今日のそんなことをしたいと思わない。
私の心は天気とは全く正反対の、雷鳴轟く嵐のように穏やかじゃないからだ。
原因はわかりきっている。いつも読んでいる新聞の一面にでかでかとあったあの記事だ!
“意識”を抽出してデータ化?転写だと!?
記憶のデータ化や転写・複製ならまだ多少理解できる。倫理的には問題があるだろうが。
しかし“意識”だけはだめだ。
これではゲームのセーブやロードするのと同じ要領で不完全ながら不老不死を、いつまでも生き続けることが可能になってしまったようなものじゃないか。
……現実をゲームと混同してはならない。それは人の犯していい領域じゃない。人ならざる者の領域だ。
私は神の存在を信じているわけではないし、何かしらの宗教に入信している訳でもない。
それでも、だ。
人間が犯していい領域がわからないほど馬鹿じゃない。ましてや神話に登場するような神の真似事など。
あの研究所の連中は神の意思を代行する存在になったつもりなのか?
研究所の所長は学生時代、ともに科学の在り方を語った友人であるだけに私は悲しかった。
……人生は一度しかないからこそ、人は何かを残そうとするものだ。
故に人生は美しいというのに。
学者が怒るのも無理はないのかもしれない。
この研究所が成功させたことはいうなればゲームオーバーになってもセーブデータをロードすることでやり直せることに近い。
例えば今、あるゲームで遊んでいた最中に、何かしらのミスでゲームオーバーになってしまったとする。
その際にあなたはどんな行動を起こすだろうか。
いくつか選択肢があるものの、セーブデータをロードするなりゲーム機に備え付けられているリセットボタンを押してやり直そうとするのではないか?
だが現実ではどうだろう。
自分の未来を決める重要な場面までロードして戻ることはできないし、リセットボタンを押してやり直すこともできない。
現実とは自分の行動の結果がどうであれ、周囲の環境が変化しないことが決してない世界であり、自分の過去に干渉して結果を覆すことが不可能な非情な世界のはずである。
しかしこの研究所が行ったことが進んでしまえば、不完全ながら意識の転写で別の肉体で“やり直し”行える可能性を秘めているのだ。
そして学者の懸念は最悪の形で的中することになる。
◆
2052年7月8日
恐ろしいことを知ってしまった。
例の意識の抽出・転写複製を成功させた研究所、並行してクローン技術を完成させたらしい。しかも裏では政府が絡んでいるようだ。その筋の信頼できる友人が教えてくれたのだ、間違いないだろう。
……最悪だ。
いつの時代だってそうだ、古の中国にいた始皇帝さえも『それ』を実現させるために様々な方法を模索しながらも結局実現しなかった『それ』が完成しようとしている。
老いると灰の中から生まれ変わるという不死鳥の如く『それ』、つまり不老不死が実現する領域に達してしまったことが何よりも悲しかった。
人間は自分たちに都合のいいことならば、都合の悪い部分を隠しいい部分だけを強調して正当性がある様に仕立てあげる。
結果として人間は『死』の鎖から解き放たれる方法を手に入れてしまったのだ。
◆
人間とは欲深い生き物である。
時には自分の目的のためなら邪魔な存在をあらゆる手段を持って排除することさえ平然と行ってしまう。
この場合も同様で、権力者たちがどのような方法で自分たちにとって都合の悪い邪魔者を排除したことがノートには記述されていた。
◆
2059年6月9日
もう手遅れかもしれない。
すでに『バックアップ』となるクローン体はすでにいくつか保管されており、準備が万全だという。しかも国民のクローン技術に対する忌避感というものが数年前と比べて薄くなっていた。
誰もこのことに対しておかしいと思っている人数が減っていた。むしろ好意的にとらえている人数が増えてきている。
周囲の環境の変化に恐怖を覚え、独自に調査を行っていたがようやくその原因が判明した。
ここ数年政府がわざわざ役所に行かなくてもいいように、仮想現実にアクセスできる端末さえあれば仮想現実空間で手続きを行えるシステムを導入していたのだが、彼らはそれを利用したようだ。
仮想現実で手続きを行う際に密かに記憶の改竄をおこない、クローン技術と意識のデータ化技術を使った永久的に生きる行為に対して『おかしい』と疑問を抱かないようにしていたのだ。
意識を抽出して転写複製する技術があるのだ、記憶や物事に対する考え方も覆すことなど容易だろう。
ありえないとは思うが、科学とはその『ありえない』を現実にするために進歩しているようなものだ。
実際、不老不死の方法が確立されていることがその最たる例だろう。
私の場合、幸か不幸か仮想空間での手続きよりも直接自分がいかないと本当に手続きが完了したのかどうか気になってしまう性質のおかげで、意識の改竄はされなかった。
もう何が正しいのだろうかわからなくなった。
不老不死などいらないと思う私がおかしいのだろうか、それとも『死』を恐れすぎたが故に、多くの人が政府の洗脳行為があったとはいえクローン技術と意識のデータ化技術による半永久的な命を受け入れた世界がおかしいのか。
少なくともわかっていることはこのままだと私が『人間』として死ぬことができなくなりそうな気がする、ということだ。
◆
少なくともこの学者は現時点では死ぬことを決意したわけではないようだ。
それでも自殺をほのめかすような文章がこの記述の後、数日間は書かれるのだがあくまで文章として書くだけで行動にはなかなか移れないようだった。
自らの命を自らの手で殺すことは決して容易ではない。
よほど精神的に参っていたときか何かの目的のために出なければ人は己を殺すという行動にはなかなか移ることはできないものだ。
それから数年間クローン技術関連のことがほぼ毎日のように書かれるのだが、ノートも五十冊目最後のページ、つまり学者が最後に記したと思われる記述に突然『あるもの』が登場する。
◆
2059年9月24日
私は古本屋を営んでいる知り合いの胡散臭い男から『魔導全書』という丁寧な装飾が施された年季を感じさせる一冊の本を見せてもらった。
中世時代のヨーロッパで書かれたもので、術者の命を必要とするが思い描く世界を実現させることができるという。
実際何度か使われたという記述も当時の出来事を記した書籍に記録として残っていた。
普段の私ならこんなありえないものを信じることはないと思うが、すでにこの世界に生きる意味を見いだせなかった私はいつの間にか本を男に頼み込み、自宅に持ち帰っていた。
私らしくもない。こんな本に縋らなくてはならないほどに今の世界の在り方に絶望していたのだろうか。
科学をつき進めた結果、人間は人間という種を自身の手で終わらせようとしている。
寿命を失った存在は生きているとは言えない。ただの“化け物”だ。
それを私は許せなかった。だから魔法という幻想の存在を持って世界を塗り替えるという嫌がらせを行うことにする。
もし失敗してもどのみちこの救いようがない世界から自分自身を消すという目的は達成できる。
なら何も問題はない。
研究所の連中や所長の慌てふためく姿を見ることができないのは残念だが。
『魔導全書』によれば、自身が思い描く世界が空想の世界であればあるほど効果が及ぶ範囲が広くなり、願いが叶う可能性が高まるという。
なら私が思い描く世界はひとつ。
それは―――――