相楽 秀一(sagara_syuuiti)<3部>
・相楽 秀一、その人だった。
2ヶ月前、意識不明の重態だった彼も、今では歩けるまでに回復していた。
・「大至急だって。ほら飛、早く立って! ちゃっちゃと動いて!」
「ヘェヘェ。わーった、わーったって。ホンマお前はうるさいなぁー」
「うるさいって何だよ。飛がちゃっちゃと動かないからだろ?」
・「ねえ、飛」
「……あん?」
「だから、何であんな事言ったんだよ。『葛雲』なんて……」
「……ええやろ、何でも」
ハハハと小さく笑って、飛は明後日を見ながら言う。
「お前、まだ無理やろ。長時間飛ぶの」
「……」
「くるんやろ? ほんならええやないか」
「……でも」
「俺がいいっつってんやないか! 四の五の言うな」
・中継で一泊した際、飛は2人乗りに平気な顔をしていたが。むしろ秀一の方が飛に気を使っている様子だった。
「ごめんね、飛」
「何がや」
そんな会話を何回か瑛己は聞いた気がする。
・すかさず追加の注文をしているのは秀一。空いたグラス分の飲み物まで、個人の好みを的確にオーダーしていた。
・言わなかったはずの秀一の言葉は、なぜか瑛己には届いた。
―――最近飛が、おかしい気がする。
・「……僕、何かしたかなぁ……」
「……ん?」
「僕……飛、怒らせるような事したのかなぁ……」
「……」
「昨日僕、ずっと考えてて……。僕、トロイから。いつも飛の足手まといになるような事ばっかりだし……この前も、一番に撃たれてあんなふうになっちゃったし……」
「……」
「ここへくるのだって、基地で待ってれば飛は1人で気楽に飛べたし。『葛雲』なんて使わなくてもよかったのに……」
「……」
「でも僕……怖くて……」
「……怖い?」
「1人でいるのが……」
・「秀一はどないしてるんやろ」
秀一はまだ1度も湖の方には顔を出していない。
「祭りを見てきます」と、1人街に残った。
・「いってらっしゃい」
「おう」
「楽しみにしてる」
「おう」
「ここから見てるから」
「ああ」
「飛」
「ん?」
「……ううん、何でもない」
「何や」
「何でもない。本当に。……頑張って!」
「……任せとけ」
・「飛ッッッ!!!!」
彼の異変をすぐに、秀一は気づいた。
最初から、飛の飛行はおかしかった。
(いつもの切れがない)
「誰か!! 飛空艇を貸してください!!!」
知らず、秀一は叫んでいた。
「誰か!!! 誰か―――!!!!!!」
・「飛ッッ!!!! 瑛己さんッッ!!!!」
担架に運ばれる飛と瑛己を。
秀一は滅茶苦茶になって追いかけた。
「相楽君!!」
「総監!! 離してッッ!!」
「落ち着け!!」
・「飛」
こんな時、飛がどこへ行くのか。秀一には思い浮かばなかった。
(いや、)
むしろ。
飛が行く場所は。
「―――!」
1つしかない。
バカだ、僕は。そう思いながら秀一は再び走った。
格納庫へ。
・1歩。秀一が踏み出そうとしたその時。
飛は突然その拳を振り上げ。
自分の飛空艇を、殴りつけた。
「―――ッ!! 飛ッ!!」
「アァアアアアアア!!!!!」
その右で、機体を何度も何度も。
殴られたバックミラーの鏡が砕けた。
破片が飛ぶ。拳が切れる。けれども飛は殴るのをやめなかった。
「やめてッ!!!! 飛!!!!」
その体に飛びついた秀一を、なりふり構わずふっ飛ばす。
「アアアアアアァァァァアアァァアアアアァァア!!!!」
秀一は尻餅をついたが、すぐさま立ち上がり、またその腕にしがみついた。
「やめて飛!! お願いだから!!!」
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」
飛の息が上がってる。けれどもそれは、尋常な様子じゃない。
体当たりに近い方法で飛を地面に押さえ込む。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「飛」
秀一は必死にその肩を抑えた。
「退けッ……!!」
「退かない!!」
「……くそったれッ」
秀一は飛の胸に顔を埋め、必死に、飛の心が静まるのを待った。
そして。
ようやく飛の腕が弱まり、呼吸も少し落ち着いてきたのを感じた。
肩を掴む手を、少し緩めて。
その顔を見上げようとしたが。
「……何でや」
飛が呟いた。
それは、涙声だった。
「何で、こんなふうに、なってまったんや」
「……」
「飛べんかなったら、俺は……」
「飛」
秀一は、飛の胸に顔を埋めたまま、上げなかった。
飛が泣いている。
「飛べんくなったら俺に、何が残るっちゅーんや」
涙が。出てきた。
「飛べんくなったら、俺は、どないすればいいっちゅーんや」
秀一は、飛の肩をぎゅっと掴んだ。
その腕が不意に動いた。
飛は泣きながら、手を伸ばしていた。空へ向かって。
もがくように。
その手は血まみれだった。
そしてそのまま、ダンと地面を殴った。
・そんな事言わないで、とその時秀一には言えなかった。
ただ、痛くて。
涙があふれて止まらなかった。
・海月が何度何があったか聞いても、結局秀一は何も答えなかった。
海月はその姿にため息を吐き、とりあえず今夜はここに泊まって行くように勧めた。
秀一は断ったが、海月は頑として譲らなかった。
「こんな雨の中、そんな様子で、放り出せるわけがないでしょう?」
「ごめんなさい、海月さん……」
食堂の2階にある一室で。
泣き疲れたのか、すぐに秀一は寝息を立てた。
一晩、海月は母親のように彼の傍に付き添った。
・「……瑛己さん、僕、どうしたらいいかな……」
「何が」
と言ってから、自分でも馬鹿な返しだと思った。
「飛がね、言ったんだ……飛べなくなったら、自分には何も残らないって」
「……」
「どうして、こんな事に……」
・瑛己は首を振った。「それだけあいつは、お前を大事に思ってるって事だ」
「……」
「それに気づいたんだろう。そしてその瞬間にできた心の隙間にヒビが入った。そういう事だろう」
「……」
「大事な物ができると、人はもろくなる」
瑛己は空を見上げた。「でも、それは、弱さとは同義じゃない」
「飛は、弱い奴じゃない。弱いから心を病んだわけじゃない。……世にいるすべての者、俺もお前も、いつだってその可能性がある」
ちょっとした、精神のズレ。
ただそれだけ。
心に生まれた葛藤が起こした、少しの隙間。
「元に戻るには、少しの時間と……あいつの意志が、必要だろう」
「……」
「俺たちにできる事は、それを見守ってやる事」
「瑛己さん」
「理解して、傍にいてやる事。……俺はそう考える」
「……」
もう一度、瑛己はブランコを漕ぎ出した。
秀一は地面を見て、やがて自分もブランコに乗った。
「できるかな」
「何が」
「僕に、飛を守るって」
「もうやってるだろ」
「……そうかな」
「そうだろ」
「うん……」
「秀一、」
「え?」
「逃げるな」
「……」
「あいつから、目をそらしてやるな」
・「……うん、えへ」
「……なんだ」
「瑛己さんってさ、何だかお兄ちゃんみたい」
・「じゃあ途中まで一緒ですね。僕らも『天晴』だから、岐北線。一緒に行きましょう」
・「瑛己さんが戻れば、家族の人も喜びますよ」
・『天晴』に戻って以来、秀一は飛の実家に居続けている。
それほど距離はないにも関わらず、飛の傍を離れない。
飛の祖父・祖母は大歓迎で秀一を置いているが。
「お前、」と飛は口を開いた。「実家、戻らんでいいんか」
「……明日考える」そう言い続けて4日経つ。
秀一の実家は診療所だ。両親共に医者。
秀一にも医療の道を……そう望まれていたのを押し切って、空軍に入った。
大喧嘩だった。
実家に戻りにくい気持ちもわかった。
ならなぜあの時、故郷に戻ろうと言い出したのか。
(俺のためか……)
飛はため息を吐いた。
「お前」
「何」
「……何でもね」
「ねぇ飛、後でさ、花火でもしない? 昼間に買ってきたからさ」
「んー」
「瑛己さんもいたらよかったよね」
「……」
「今頃、何してんのかなー」
飛は答えなかった。
ただ少し。ほんの少し。
胸がチクっとした。
ただそれがなぜなのか、飛にはまだわからない。
・「秀ちゃん、えらい別品さんになったやないか、なぁ、飛」
・「母さんがさ、」歩きながら、秀一が何の前触れもなく言った。「泣くんだ」
「僕の髪見て。もういい加減慣れてもいいと思うのに。もう何年経つんだよ」
・「父さんも何も言わない……。何か実家は息が詰まる。どうしてもいてくれっていうから、2日過ごしたけど」
「ほうか」
「飛のトコはいいな。じじ様もばば様も優しくて。あったかくて。いいな」
・あの発作が起きて以来、飛の口数は明らかに減った。
内心秀一はそれをとても心配していた。けれど決して表情には出さなかった。
秀一の胸にはこの数日いつも、瑛己の言葉があった。
―――飛から、目をそらしてやるな。
・「……空軍におったらお前も危険な目に遭う」
「そんなのもうとっくにわかってるよ」
「それにお前の両親かて、」
「それは飛には関係ないでしょ」
「……」
「自分が調子悪いの、人に託けて逃げないでよ!」
・―――飛が空軍を辞める?
飛の飛ぶ事への情熱。それを一番知ってるのは秀一だ。
小さい頃からずっと。
空が飛びたい。その一直線の思い。情熱。
それは傍で見ていて羨ましいほどだった。
(捨てるのか、飛?)
確かに……このまま空軍にいたら危険が伴うのは間違いない。
現実、かつて秀一は飛が死ぬ所を夢で見た。
そしてそれだけじゃない……秀一はギリと歯を噛み締めた。
自分でもわからない。
空軍を去って欲しい。空から遠ざかって欲しい。危険な所に行かないで欲しい。
けれどもそう思う以上の。
―――夢を、捨てないで欲しい。
「それでいいの? 飛……」
空を捨てて、それでいいの?
翼を捨てて。本当にそれで。
「後悔しないの?」
「……」
やや沈黙があって。「俺は、」
「お前が傷つくのを、見たくない」
「……」
秀一は言葉を失う。
なんだよそれ。
なんだよ、それ……。
不意に、秀一の脳裏の瑛己の言葉が蘇る。
―――あいつは、お前の事を大事に思ってる。
「飛……」
俯いたまま顔を上げない飛に。
秀一は腕の時計を取って、その前に差し出した。「これ」
「僕だって、生半可な覚悟で空軍に入ったんじゃないよ」
「……」
「この時計を手にするまでに……僕だって必死だったんだ。僕だって、努力して努力して、ここまできたんだ」
「……」
「僕にだって夢はあるよ」
「……夢?」
「ああ。だから」
まだ、諦めないで。
立ち上がって。
この先に困難があるのはわかってる。
でもくじけないで。
逃げないで。
危険な目に遭ってほしくないとは思う、だけど。
現実から目をそむけないで。
「僕が好きなのは、」
いつも空を睨みつけ。
いつも飛びたい飛びたいと騒いで。飛べる事に大喜びして。
どんな強い者にもひるむ事なく、立ち向かってく。
どんな空でもどんな雲でも、貫いて。突き破って進んでいく。
そういう、飛だから。
・―――相楽 秀子 1202/3/30 『天晴』出身 『湊』第23空軍基地 第327飛空隊『七ツ』所属。
・「秀一の本名は、相楽 秀子……そうや。女や」
苦しそうに息を吸い、絞り出すようにしてそう言った。
「〝秀一〟っちゅーのは……俺が昔あいつにつけたあだ名や。あいつが昔苛められとったって話はしたやろ? 町から越してきた事、医者の一人娘っていうやっかみ。あいつ泣き虫で、いつもオドオドしてて。その上未来が予知できるっていう極悪なオマケ付」
ハハと乾いた笑いを浮かべた。だが瑛己は笑わなかった。
ただ、苦しそうに語る飛を、眉間にしわを寄せながらそれでもなぜか無理に笑おうとする飛を。黙ってじっと見つめていた。
「せやから俺は、あいつの事を〝秀一〟って呼ぶようにしたんや……俺はこの辺の仲間内じゃぁ、ちったぁ名が通ってたもんやから。俺の弟分や、手ぇ出すなってタンカ切って、俺はあいつの事をそう呼ぶようにしたんや。おかげであいつを苛める奴はいなくなった」
「……」
「それをあいつは使ってる……航空学校時代からや。あいつは1個下やったけど、男として、俺らと同じ訓練を受けてきた。……せやな、今思えば、相当きつかったやろうな」
相当? 瑛己は眉間のしわを一層深くした。それは計り知れた物じゃない。男と偽るために女の身で、男と同じだけの訓練を受けるなど。
瑛己とて、航空学校の訓練を思い出せばゲッソリする。航空力学等の机の上での勉強だけでは空まで上がれない。まして、飛空艇を操るというのは相当の体力も必要になってくる。
「……」
ある程度、上は認識していたのだろう。それが証拠に、時計は本名で刻まれている。
黙認という形で、潰れたらそれまで。その程度だったのではなかろうか?
「あいつは何一つ弱音吐かず航空学校を卒業して……俺が赴任した『湊』にやってきたんや。志願したら通ったって、こっちきた時そりゃめっちゃ嬉しそうに笑ってたな」
瑛己はふと思い出す。自分が時計を受け取ったのは、総監の手からだ。それは最初の赴任先である『笹川』基地でも同じだった。
ともすれば、―――白河は知っていたのだろう。
秀一が、女だという事。
瑛己の脳裏に、苦笑を浮かべた白河の顔が浮かんだ。そして、その胸中を改め思った。瑛己はため息を吐きたい気持ちになった。
「磐木隊長は?」
「さぁ……聞いた事あらへんから」
・『何やお前、ホンマにきたんか』
『えっへっへー。明日から正式に『湊』配属だよ』
『あー、うるさいのが来おったなー』
『見て見てこれ。さっき総監からもったんだぁ。いいなぁこれ、カッコいいなぁー。すっごい嬉し い』
『ブラブラ振り回してなくすなよ』
『やっと僕、飛に追いつけた』
『アホぬかせ。お前なんかまだまだ俺の足元にも及ばんわ』
『うんうん。そうだね』
『空は甘ない。ええか秀、言っとく。ここにきたからにはハンパじゃ済まんぞ。覚悟はええんか?』
『もちろんだよ』
『……お前の顔には緊張感がない』
『えー、うるっさいなぁー。この顔は生まれつきなんだから、仕方ないでしょ?』
『……まぁええわ。お前は俺の弟分やからな。ここに来てまったんなら仕方がない。俺の目が黒いうちは、何があってもすぐ飛んでったる』
『えー?』
『俺がお前を守ったる』
『―――』
『あー、めんど。お前がおる限り、簡単に死ねんやないか。空で死ねたら本望やのに』
『……うん。アハハ、絶対だよ、飛』
『あぁ? 任せとけ』
『うん、うん、うん……えへへ』
『何や、ニヤニヤと。気色悪い』
『え、だって何か、嬉しくて』
『阿呆。早く俺に守ってもらわんでもいいように一人前になれ。ええな』
『うん。わかった』
・「ヤバイな……柔道やっててよかった」
学生時代、他の男に負けるのはシャクと思ってこれだけは打ち込んでいた。それがこんな所で生かされるとは。
・「〝生きて〟欲しいのならば」
ウツツメの目に負けない。
その狂気に負けない。
強く強く、放て。
ここに存在。
ここに全神経。
魂を。今燃やせ。
―――烈火のごとく。
「あなたこそ、動くな」
「……ほう」
「本気です」
確かに。秀一の持つナイフは見事に頚動脈を中心に得ている。
ウツツメはニヤリと笑った。
「これは愉快」
されど。
「それで、次の一手をどう打つ?」
・「飛ぶか、青き小鳥」
「……」
「その身に生えた翼は、いずこまで飛べる?」
ククと笑うウツツメに対し。
秀一は初めて、笑った。
「望む限り、どこまででも」
強い笑みだった。
その笑みに、ウツツメでさえ見とれた。
・―――例え今ここで死んでも。
行くから。必ず。
飛の所へ必ず。
笑った。
笑って。
目を閉じた。
・―――俺がお前を守ったる。
「あ」
蘇るのはあの日の映像。
『湊』に赴任したその時、飛が言ってくれた言葉。
(僕はあの時)
嬉しかったんだ。
たまらなく。
嬉しかったんだ。
そしてあの時僕は誓ったんだ。
「飛」
自分を抱きしめる飛を。秀一もその身を抱くように、その背中を掴んだ。
「空軍を辞めるなんて、言わないで」
「……え?」
「飛、お願いだから。空軍を辞めるなんて、言わないで……」
「……」
「僕の夢は。飛に……お前、凄い飛空艇乗りになったなって。お前強いなって、飛に認められる事だから」
「……」
「辞めないで、飛」
初めて、秀一は泣き出した。
その様子に、飛は驚き、そして苦笑した。
たった今まで捕まってたのに。たった今、死にそうになったのに。
なのに今、言う事がそれか。
それを今言うのか。
「……阿呆」
飛はポリポリと頬を掻き、その頭を抱いた。「……辞めんに決まってるやろ」
「お前を置いて、辞められるか阿呆」
「飛……」
「お前はもう充分、いっちょ前の飛空艇乗りだ」