白雀の写真
・扉を開ける事に、少し躊躇った。
それなのになぜそれを開けたのだろうか?
音もなく、扉は開いていく。
天井は意味をなしていない。密封された空間ではない。なのに、中からふんわりと香ったその空気は何なんだろうか。
その空気を、瑛は知っているような気がする。どこかで感じた事があるような気がする……だが、わからない。
足を踏み入れれば、そこには。ただの空間があるだけである。
ここが民家だったのか、何かの店だったのか、それとも……? 何も、わからない。
本棚の一つも、食器棚の一つも、テーブルの一つも、残っていない。
あったのはただ、椅子。
壁際に唯一、形を留めていたその上に。
なぜか。写真立てが置かれていた。
瓦礫の中にあって。その一角だけが、奇妙な違和感に包まれている。
瑛己は一歩、踏み出した。
誰かの意思が、ここにある。でなければあり得ない光景。
瑛己はその写真を、そっと手に取った。
――扉が守っていたものは。
「……!」
なぜ? そう思った。
心臓が、大きな音を立てて跳ね上がる。
それは、こんな所で見るはずのない写真。
――飛空艇。
こんな所で見るはずのない、人。
――それを背にして、飛行服に身を包んだ2人の男が立っている。
どうして、こんな所に。
――聖 晴高。
なぜ? 何で父さんが。
――そして、もう一人は。
「……」
――微かに微笑む、その顔は。
瑛己はその人を知っている。
いや、知っていた。父が消えてしまう、その前までは。
家にもよく遊びにきていた。
冷たいとか、怖いとか、仏頂面だとか、そういう印象よりも。
瑛己はその人を、こう思っていた。
手の大きなおじさんだと。
いつも、瑛己の頭を撫ぜてくれた。
あまり言葉を交わした記憶はない。だけど……。
瑛己はその人が、嫌いではなかった。
世間で流れるどんな噂よりも。
瑛己はその人が、時折見せたはにかみ笑いを……信じていた。
ずっと。
いつかの、あの日まで。
――橋爪 誠。
あの人の事を。
信じていた。
・瑛己は何となく不思議な面持ちで、去り行く磐木の背中を見つめた。
額に浮いた汗を手の甲でぬぐい。瑛己はふと胸元のポケットを探った。
飛やジンならタバコが入っているその場所。瑛己のそこからは、1枚の写真が出てきた。
セピアに汚れた写真。それほど鮮明な物ではない。
けれども瑛己には、そこに映っている人物が誰かすぐにわかった。
父・聖 晴高と、橋爪 誠。
2ヶ月ほど前、『白雀』で偶然見つけた写真だ。
地図から消され、瓦礫と廃墟しかなかったあの街に、なぜかそれだけポツンと置かれていた物。
あの日以来瑛己は、ずっとこの写真を、胸のポケットに入れ続けている。
・「やっぱりあなたも持っているのね」
「え?」
「それ、あの時のでしょ」
「?」
首を傾げた瑛己に、雨峰はキョトンと目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。
「それ、聖 晴高君と橋爪君……20年前の航空祭の時の物でしょう」
「え」
瑛己は雨峰を見た。
「今から20年前の『園原』航空祭、10回目の記念大会。その時、模擬空戦の相手として招待したのが、聖 晴高君率いる隊だったのよ」
「父さんの……」
瑛己は写真を見た。
「そしてその時相手をしたのが、橋爪君率いる隊だった」
「え」
「そこで2人は出会ったのよ」
20年前の航空祭で―――。
「その頃はまだ聖君は部隊を任されたばかりで。『湊』でも駆け出しの部隊。でも当時『湊』の総監をしていた高藤が凄く推しててね。『湊』の1番はこいつらが取る。いやこいつらはこの国で1番の隊になる!って。だったら勝負しましょうよって話になったのよ。うちで1番の隊と高藤の1番の隊」
雨峰はクスクスと笑った。
「私も高藤も若くて。お互い、総監になって基地を持ったばかりだったから。同期だし、いつも彼とは競い合ってきたわ」
「……試合の、結果は……?」
瑛己は恐る恐る聞いた。それに雨峰が嬉しそうに笑った。「勝ったのはうちの斉藤君の隊」
「……と言いたい所だけれどもね。勝敗は結局つかなかったの」
「?」
「被弾数も同じくらい。どっちがって判別はつけられなかった。しかもどちらも、誰も落ちそうにない被弾跡ばかり」
「……」
「悔しいけれどもね。同点って事になったのよ。本当にあの時は悔しかったわ。でも同時に、仕方ないかとも思った。それだけ凄い空戦だった」
「……」
「長年色々な飛空艇と空戦を見てきたけれども。いまだ私にとっての1番は、あの時の模擬空戦よ。命を懸けた実戦よりも……ね」
実戦に勝る、模擬空戦。
そんなものが存在するのか?
瑛己は目を見張った
「その写真はその時の物よ。あの時聖君には生まれたばかりの子供がいるって言ってたけれども……あの時の子がこんなに大きくなったのねぇ」