須賀 飛(suga_takaki)<3部>
・「俺はな、瑛己、5月生まれなんや。春生まれなんや……暑いのはかなわん」
・「うげ、ブラックかいな」
「嫌いか?」
「ようこんな、苦水飲めるなぁお前」
「いらないならもらっとく」
「……ええわ、タダやし、一応飲む」
・「ギンギンに冷えたやつなー」
・「何やこれ! めっちゃギンギンに冷えとるやないか!!」
「そうか? この前まで冷えが悪かったから、適当に機械をいじってみたんだけど」
「お前の方が、やっぱり無茶するわ」
・「もう残暑だっつーのに……いつまでこの暑さが続くんザンショ」
夏も後半。ここ数日、日に何度も何度も聞くフレーズを軽く受け流した時。
・「大至急だって。ほら飛、早く立って! ちゃっちゃと動いて!」
「ヘェヘェ。わーった、わーったって。ホンマお前はうるさいなぁー」
「うるさいって何だよ。飛がちゃっちゃと動かないからだろ?」
・あの時、秀一が意識不明になってどれだけ飛が動揺していたか。それは秀一には「絶対禁句」という事になっている。
面倒臭そうに秀一を見ている飛の内心が、どれだけ喜んでいるか。
それを考えると、瑛己は笑い出しそうになるのをこらえるので必死になるのである。
今も、気だるそうに歩きながら、気遣うように秀一を横目で見ている彼は。
あの一件で少し変わったなと……瑛己は思った。
・「なんスか新さん、俺は心底真面目に『園原』と友好関係を結んで――『園原』の飛行技術を見学して、勉強して、あわよくば一戦交えたいと」
・「せやかてジンさん!! 『園原』空軍って言えば〝天空の騎士〟とまで呼ばれる凄腕連中だって話やないですか!! 戦らな損ちゃいますか??」
「どういう理論だ、まったくお前は」
・「あー、いいっすよ、俺」
と、飛が手を上げた。
「何なら、『葛雲』で出ても」
・「ねえ、飛」
「……あん?」
「だから、何であんな事言ったんだよ。『葛雲』なんて……」
「……ええやろ、何でも」
ハハハと小さく笑って、飛は明後日を見ながら言う。
「お前、まだ無理やろ。長時間飛ぶの」
「……」
「くるんやろ? ほんならええやないか」
「……でも」
「俺がいいっつってんやないか! 四の五の言うな」
・――結局、秀一は2日がかりの長旅には耐えられないだろうという判断で、2人乗りの『葛雲』に乗る事になった。
そのパイロットは交代制にしようという小暮の案に、
「俺1人で充分ですって」
なぜか飛がガンとして首を縦に振らなかった。
久しぶりのフライト、まして長距離飛行。普段あれだけ自由に空を飛ぶ事に対して執着している彼の意外な反応に、隊の者全員が不思議がっていた。
「どうしちゃったのん? 飛ー?」
「別に。何でもないですよ新さん」
「……何お前、この前の戦闘で頭でも打った? 墜落のショックで頭のネジが一本飛んだとか」
「それを言うなら新、飛んでたネジが衝撃でうまくはまったんじゃないのか?」
「あーナルホド。じゃあ飛、頭出せ。1本抜くから」
「そんなんやないですから!!」
追いかけっこしている飛と新の姿に、瑛己は「やれやれ」とため息を吐いたのだった。
中継で一泊した際、飛は2人乗りに平気な顔をしていたが。むしろ秀一の方が飛に気を使っている様子だった。
「ごめんね、飛」
「何がや」
そんな会話を何回か瑛己は聞いた気がする。
やはり飛は少し変わった。
瑛己の脳裏をよぎったのは、あの時……意識不明の秀一を前にして彼の名を叫んでいた飛。
そして、
『あいつが、俺より先に死ぬ、ワケがないんや』
『なぁ、瑛己……人の運命って、何やろう……? 生きるって何やろう? 死ぬって……何なんだろう?』
呟いていた、その横顔。
・飛は自分の荷物はもちろん、秀一の荷物も手に取った。
「大丈夫だから、飛」それに秀一が慌てた。「持てるから」
「……」
飛は何も言わず、スタスタ歩き始める。
秀一はその手から、自分のバックを取ろうともがいた。「ちょっと、ねえ、飛ってば」
「……」
その光景に。
瑛己は苦笑を越えて言葉を失った。
やはりネジが1本、正確にピッタリとうまい具合にはまってしまったようだった。
・うふふと笑うその姿に、飛が肘で瑛己を小突いた。何や、印象違うな。上島総監や高藤総監とえらい違うやないか。「……飛?」
・「……ん? あ?」
全員の視線を受けて。
飛はたった今気づいたかのように、ビクっと体を揺らした。そして「ああ? ああ、えっと、何でしたっけ??」ヘラっと笑って見せた。
「お前、搭乗機どうするよって」
「あ? ああ……模擬戦っすか。いいっすよ、『葛雲』で」
その言葉に一同、唖然とした。
「は??? 『葛雲』ってあれだぞ? お前が乗ってきた2人乗りのやつ。わかってるか?」
「はぁ」
『翼竜』より少し大きい『葛雲』は、大きい分スピードと小回りが前者に劣る。
その両者を重んじ、まして空戦に対して人並み以上の思い入れがあるはずの飛からすれば、戦闘においてその2点が欠ける『葛雲』は論外のはずなのである。
なのに彼は平然と、「……いいっすよ、俺は。どうせ遊びだし」
その発言に瑛己は特に唖然とした。
瑛己が赴任してきたその時。最初のドッグファイト。
〝腕試し〟と称して対戦した時も……あれは言わば〝遊び〟だった。
しかし飛は撃墜記録を狙わんがばかりの勢いだったし、その飛行も本気そのものだった。
そう言えば彼はあの時、ペイント弾だと言う磐木の発言に「ぬるっ!!」と拒絶を見せた。
だが先ほどは何も言わなかった。
それだけじゃない。そう言えばさっきから……『飛天』戦の会話に何一つ言葉を挟んでいない。
「お前、どうしたのん?? どっか調子悪いのん??」
いつもは茶化す新が珍しくその相貌に心底心配した色を浮かべて、飛の顔を覗き込んだ。
「いや、別に」
「飛? どうかしたの? さっきから何か……元気ないよ」
「何でもないって言うてるやろ」
そっと手を出した秀一を振り払い、飛はそっぽを向いた。
「……せやかて。俺が回してきたのは『葛雲』ですやん。ええです。それで」
「『園原』で借りるか?」
小暮の提案に、飛は首を振った。「ええですって」
「……なら飛、お前、俺のに乗れ」
そう言ったのは、隊長の磐木だった。「多少操縦桿にクセがあるかもしれんが。お前なら何とかするだろう」
「隊長はどうするんスか? まさか辞退するとか?」
「バカ言うな。お前らみたいな無法者をこんな宴席で野放しにできるか。俺が『葛雲』に乗る」
「は? 隊長が!? 乗るんすか? 『葛』に??」
「……なら聞くが、この中で『葛雲』での戦闘経験があるものは? ……俺しかいまい」
「隊長は『葛雲』で……?」
恐る恐る聞く小暮に、ムッとした様子で磐木が答えた。「俺を誰だと思ってる」
「数え切れん」
『葛雲』は主に偵察用に使われる。戦闘用として用いられる事はまずない。
「とにかく。俺が『葛雲』に乗る。飛は俺のを使え。いいな」
「……へい」
飛は気乗りしなさそうに、小さくそう呟いた。
・「眠気と秀一は別腹ー」
「何じゃそりゃ」
アハハと大笑いして、秀一の肩を抱く新を。
あっと思った時にはもう、遅かった。
「アホ抜かせ―――ッッッ!!!!!」
・拳を握り締めたまま、自分でも唖然とした……いや、愕然とした……そんな顔だった。
・「お前、手、どうした」
「え」
言われて秀一も気づいた。
慌ててサッと隠したが。
「ちょっと!! 見せて!! 何やってんだよ!!」
秀一に無理矢理掴まれて現れた右手は。
「……何だよ、これ」
不器用に白い包帯がグルグルに巻かれていた。
そこにはうっすらと血がにじんだ跡があった。
「ああ……コケた」
・「新さん」
「んあ?」
「昨日は、すんませんでした」
「……」
「俺……」
「……なーにが?」
「え?」
「ごめん、飛。俺、昨日久しぶりにハメ外してしこたま飲んじゃったから。正直、あんまよく覚えてない」
「……」
「俺こそ、何かやらかしてたらごめん。ホント、悪い」
「……いえ、そんな、俺が……」
「えへへ、何か、らしくねー」
照れ臭そうに新は頭を掻いた。「あ、風呂入ってくんの忘れた」
「新さん……俺にとって新さんは、アニキ同然ですから」
「あ?」
「……すんません」
「バーカ」
気にすんな、と言って、新は飛の頬の部分を軽く叩いた。
そこは今朝秀一に手当てされて、白いガーゼがついている場所だった。
「おそろいにしやがって」
・「職業、間違ってる気がせんか? あのおばはん」
・「秀一はどないしてるんやろ」
秀一はまだ1度も湖の方には顔を出していない。
「祭りを見てきます」と、1人街に残った。
「明日もどないすんのやろ」
「……少なくとも、空戦は見るだろ」
どこにても。側にいなくても。
「せやな」
らしくなく、飛は自嘲気味に笑った。
・秀一だけじゃない。
磐木も……おそらく隊の全員が気にしてる。
飛の変化。
最近の飛の様子が、少しおかしい事を。
さすがにそこまでは言わなかったが。瑛己には、飛なら気づくと思った。
・「俺……何や、わからへんのやわ……」
「何が」
「遊びの空戦って、何や……?」
思いもかけなかった言葉に、瑛己は「?」と飛を見た。
「明日の模擬戦の事やわ」
「ああ」
「祭りの余興やから、遊びやからって。皆言うてたやろ。俺も……言うたかもしれんけど」
「……」
「何や……どんどん俺、わからへんようになってくる……空戦って、遊びやない。俺たちがしてるのは、お遊びやない……命掛けや。色んな作戦を切り抜けてきた。誰も欠けずにここまできた。当たり前やと思ってきた。けど」
「……」
「本当は違う……運が良かっただけや」
「……」
「空戦は……死ぬんや。どの作戦もどんな危機も乗り越えてきた。けど、失敗すれば……1歩間違えたら俺ら、誰でも、死んでたかもしれんのや」
「……」
「遊びやない。飛ぶ事は遊びやない……見世物でもない……。俺らはそういう空を飛んできたんや……」
「……」
「俺は……そんな事も知らんと、のうのうとあの日も……『日嵩』に行く事を喜んで……。【無双】相手に戦える事だけを喜んで……」
「……」
「それで、秀一は」
「飛」
「俺は阿呆や」
飛はその場に頭を抱え込んだ。
瑛己はそんな飛を初めて見た。
そして、彼が胸に抱いている物をこの日、初めて垣間見た。
「お前のせいじゃない」
「……」
言葉が見つからなくて苦し紛れに選んだ言葉は、何だか安っぽく聞こえた。
「……」
「……」
それ以上に、言える言葉も見つからなかった。
「飛」
「……こんなん言うたらおかしいって」飛は頭を抱えたまま、消え入るような声で。「お前は思うかもしれんけど」
「怖い……」
「飛」
飛ぶ事が。
「何や、おかしいんや、俺」
なぜだか無性に。
「飛ぶのが、怖くて、たまらんのや………」
・「いってらっしゃい」
「おう」
「楽しみにしてる」
「おう」
「ここから見てるから」
「ああ」
「飛」
「ん?」
「……ううん、何でもない」
「何や」
「何でもない。本当に。……頑張って!」
「……任せとけ」
・(秀)
飛の目の前を一瞬、その顔が過ぎり。
同時に。
炎を上げて墜ちていく機体が映った。
あの、【無双】壊滅作戦の折、崖のド真ん中。閉鎖された谷の中で。
『秀――――ッッッッ!!!!!』
まっすぐに、海へと墜ちて行った機体。
そして。
ベットに、管だらけで横たわった秀一の姿。
耳に聞こえたのは、聞こえるはずのない、あの日の、自分の叫び声。
・飛の目が、顔が、これほどの苦痛に歪んだ事は。
かつて空で、ない。
・「あ」
手が。
震えてる。
(何だ)
両手が。小刻みに。
・「飛―――ッッ!!!!!!!!!!!!!」
エンジン全開でその後を追う。
その操縦席には、彼の姿が。
(いや)
顔を、埋めている。
「顔を上げろ!!!!!! 立て直せ!!!!!」
飛――――――ッッッ!!!!
・「原因は、精神的なものだそうだ」
「精神……」
「度重なる作戦……大きな事故にこそならなかったが、どれもギリギリの物ばかりだった。それにくわえてのあの、【無双】壊滅作戦……あの撃墜、そして人質……挙句に起こった『日嵩』による襲撃」
「……」
「中でも飛に一番影響を与えたのは、秀一なんだろう」
―――生きるって何やろう?
意識を失った秀一。管だらけになって横たわる彼の姿。
それを見た時の、飛。
そして昨晩。
―――飛ぶのが、怖い。
飛はそう言った。瑛己はそれを見ている。
「心の、傷……」
ゴクリと唾を飲み込んだ。
「飛は精神に傷を負った。そこに飛行の緊張感、戦闘の緊張感、操縦席という閉鎖された場所、模擬とは言え銃口を向けられた。それが引き金に起こったパニック症状からの過呼吸、だそうだ」
・「聞いた」
「何を」
「お前が助けてくれたって」
「……」
「……悪かった」
「……ああ」
「せやけどお前も無茶するなぁ。飛行中の機体に飛び乗って? 俺を引っ張り出した? 無茶苦茶やわ。アカン、それ、俺にはようマネできへん」
「……」
「顔に似合わずお前はなぁ。ホンマに。先に言うとく。お前がそういう状況になっても俺はできんからな。期待すんな?」
・「炭酸系がいい。味は好まん。ギンギンに冷えたやつ」
・「見ましたか? 飛の」
缶珈琲を片手に、ジンは磐木のそばの壁にもたれた。
「引き上げられた飛の飛空艇の残痕」
「ああ」
「……実弾だったら、何回爆破したやら」
・もう片方の手を目の前に持ってきた。そして空に向かって突き出した。
逆光に、手は黒く。
その空に輪郭だけがはっきりと浮かぶ。
もっと前へ。もっと高く。
もがくように突き出すけれども。
不意に飛はその手を引っ込めた。
「……笑ってまう」
・「飛」
磐木が声を掛けた。
「気負うな、今日は。いいな。ついてくるだけでいい」
「……はい」
大きな手で、頭をクシャリとされた。
・滑走路に下りて、瑛己が最初に見た物は。
担架で運ばれていく、飛の姿だった―――。
・(白河)「須賀君なら越えるだろう。どんな高みでも、壁でも、ぶち壊して突破する。そういう奴だろう? そしてお前も」
・1歩。秀一が踏み出そうとしたその時。
飛は突然その拳を振り上げ。
自分の飛空艇を、殴りつけた。
「―――ッ!! 飛ッ!!」
「アァアアアアアア!!!!!」
その右で、機体を何度も何度も。
殴られたバックミラーの鏡が砕けた。
破片が飛ぶ。拳が切れる。けれども飛は殴るのをやめなかった。
「やめてッ!!!! 飛!!!!」
その体に飛びついた秀一を、なりふり構わずふっ飛ばす。
「アアアアアアァァァァアアァァアアアアァァア!!!!」
秀一は尻餅をついたが、すぐさま立ち上がり、またその腕にしがみついた。
「やめて飛!! お願いだから!!!」
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」
飛の息が上がってる。けれどもそれは、尋常な様子じゃない。
体当たりに近い方法で飛を地面に押さえ込む。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「飛」
秀一は必死にその肩を抑えた。
「退けッ……!!」
「退かない!!」
「……くそったれッ」
秀一は飛の胸に顔を埋め、必死に、飛の心が静まるのを待った。
そして。
ようやく飛の腕が弱まり、呼吸も少し落ち着いてきたのを感じた。
肩を掴む手を、少し緩めて。
その顔を見上げようとしたが。
「……何でや」
飛が呟いた。
それは、涙声だった。
「何で、こんなふうに、なってまったんや」
「……」
「飛べんかなったら、俺は……」
「飛」
秀一は、飛の胸に顔を埋めたまま、上げなかった。
飛が泣いている。
「飛べんくなったら俺に、何が残るっちゅーんや」
涙が。出てきた。
「飛べんくなったら、俺は、どないすればいいっちゅーんや」
秀一は、飛の肩をぎゅっと掴んだ。
その腕が不意に動いた。
飛は泣きながら、手を伸ばしていた。空へ向かって。
もがくように。
その手は血まみれだった。
そしてそのまま、ダンと地面を殴った。
・「飛ぶ事は生きる事。命そのもの」
「……」
「飛は特に、その思いが強かっただろ。……きついだろうな」
「……」
「でも飛は、」と区切って。瑛己はまっすぐ前を見た。「飛ぶ事よりもっと大事な事を……見つけたんだろうな」
「え……」
「お前の命だよ」
「……」
秀一は言葉を失った。「何それ……」
「飛が一番心を痛めたのは、意識が戻らないお前の姿……だった」
「……」
「多忙と過酷な作戦も、負担の1つかもしれないが……お前が倒れなければ、何でもなかったんだろうさ」
「……」
「お前が倒れて初めて、気づいたんだろう、あいつは」
自分の思いがいかに軽率であったか。
そして自分が、何のために飛んできたのか。
飛ぶとは何なのか。
ただ面白い、それだけで飛んできた。そこに生まれる責任とか、結果とか、そういうものは全部無視して。
だけども。
「飛ぶ事は、命そのもの」
命を矢面にして、自分たちは飛んでいる。
命を矢面にしているからこそ、こんなにも自分たちはここで、燃える事ができる。全力を尽くす事ができる。
その一瞬の緊張感がたまらなく心地よく。
だからこその、満足感。
それゆえの、陶酔感。
自分が求めていたものは、そういう物。
だけどそれは一歩間違えれば。
―――死ぬ事。
生きる事と死ぬ事は、延長線上。
「飛びたい戦いたい……その果てに、お前が死にそうになった。面白半分に突っ走ってきたあいつにとってそれは、かなりの痛手だったんだろう」
「……飛は、僕の事なんか」お荷物程度にしか……と言いそうになった秀一を。
瑛己は苦笑して制した。
「飛の心配ぶりは、お前だってわかってるだろ」
「……」
『園原』での彼の異常なまでの気遣い。秀一が気がつかないわけがなかった。
「僕のせい……」
「いや」
瑛己は首を振った。「それだけあいつは、お前を大事に思ってるって事だ」
「……」
「それに気づいたんだろう。そしてその瞬間にできた心の隙間にヒビが入った。そういう事だろう」
・「お前、右手。またなのか……」
「コケたんや」
「そうか」
・今頃瑛己はどないしとるんやろか、そう思った。
(あいつの両親は……)
秀一は知ってるんだろうか?
深く突っ込んで聞かなかったが―――。
今頃瑛己は一人なんだろうか? そう思い、飛は満月を眺めた。
・実家に戻って数日。
祖父・祖母共に喜んで迎えてくれた。
けれども飛にはここが、いつもよりくつろげるとか、安心できるとか。そういう感慨は今のところ湧いてこない。
むしろ心は空っぽで。
・『天晴』に戻って以来、秀一は飛の実家に居続けている。
それほど距離はないにも関わらず、飛の傍を離れない。
飛の祖父・祖母は大歓迎で秀一を置いているが。
「お前、」と飛は口を開いた。「実家、戻らんでいいんか」
「……明日考える」そう言い続けて4日経つ。
秀一の実家は診療所だ。両親共に医者。
秀一にも医療の道を……そう望まれていたのを押し切って、空軍に入った。
大喧嘩だった。
実家に戻りにくい気持ちもわかった。
ならなぜあの時、故郷に戻ろうと言い出したのか。
(俺のためか……)
飛はため息を吐いた。
「お前」
「何」
「……何でもね」
「ねぇ飛、後でさ、花火でもしない? 昼間に買ってきたからさ」
「んー」
「瑛己さんもいたらよかったよね」
「……」
「今頃、何してんのかなー」
飛は答えなかった。
ただ少し。ほんの少し。
胸がチクっとした。
ただそれがなぜなのか、飛にはまだわからない。
・「秀ちゃん、えらい別品さんになったやないか、なぁ、飛」
何を言い出すこのジジィ。飛は祖父を睨んだ。
「んな事言ったらあいつ、怒るぞ」
「けどそうやないか、なあ婆さん」
「ほんにほんに」
「はぁー……」
「まーたお前、ため息」
「あ?」
「秀ちゃんいなくなってから、お前、ため息ばっかりしとるやないか」
「……関係ないわ」
「ホンマかや」
「てめぇらが下らん事言うからやないか!」
秀一がいなくて寂しい?
阿呆じゃないか、と思った。
ド阿呆やないか。
あいつは俺の、弟分や。
何で弟がいなくて寂しがらなきゃならんのや?
「弟……」
自室に戻った飛は、ふと机を見た。
飛の机はグチャグチャだった。瑛己とは違い、こっちの部屋は机に限らず乱雑に散らかっている。
そのグチャグチャの中に、唯一きちんと立てられていたのは、1つの写真立て。
「……」
飛はそれを珍しく手に取り、目を細めた。
自分と写る、もう1人。
それは秀一。
けれどそれは、今とは違う、別の秀一。
「……」
あいつを今の秀一にしたのは、この俺だ。
馬鹿みたいに笑っている写真の中の自分。
「ド阿呆」
指ではじいた。
そしてそのまま写真立てを放り出し、その身もベットに放り出した。
・「俺、……空軍辞めようかと思う」
・「『天晴』戻って……仕事探す。探せばきっと、何かあるやろ」
・「……空軍におったらお前も危険な目に遭う」
「そんなのもうとっくにわかってるよ」
「それにお前の両親かて、」
「それは飛には関係ないでしょ」
「……」
「自分が調子悪いの、人に託けて逃げないでよ!」
・―――男は、拳を握り締め戦う日がくる。その日のために、あんな所で潰してる場合じゃなかったのに。
・「瑛己……?」
「ああ。どうした。誰にやられた」
「黒い奴ら……」
・瑛己の中で飛は、体術に多少心得があると思っている。ケンカ戦法の荒い動きではあるが、並みの人間ならばこれほど簡単に遅れを取る事はないだろう。
・「〝秀一〟っちゅーのは……俺が昔あいつにつけたあだ名や。あいつが昔苛められとったって話はしたやろ? 町から越してきた事、医者の一人娘っていうやっかみ。あいつ泣き虫で、いつもオドオドしてて。その上未来が予知できるっていう極悪なオマケ付」
ハハと乾いた笑いを浮かべた。だが瑛己は笑わなかった。
ただ、苦しそうに語る飛を、眉間にしわを寄せながらそれでもなぜか無理に笑おうとする飛を。黙ってじっと見つめていた。
「せやから俺は、あいつの事を〝秀一〟って呼ぶようにしたんや……俺はこの辺の仲間内じゃぁ、ちったぁ名が通ってたもんやから。俺の弟分や、手ぇ出すなってタンカ切って、俺はあいつの事をそう呼ぶようにしたんや。おかげであいつを苛める奴はいなくなった」
・「親父さん!! ありったけの薬を!! 毒でも薬でも何でもいいから!! 今動ければもうそれでいいから!! お願いします、お願いします―――ッッ!!」
・「ちと、きついわ」
「……ん」
「お前、休暇中筋トレしてた?」
「……」
掃除してた。そう言おうとしてやめた。代わりに「お前は」
「寝てた」
「……そうか」
・ジープは瑛己たちの横でピタリと止まった。運転席にいたのは、
「乗れ」
「小暮さん……どないしたんですか、これ」
「借りてきた」
「誰に……」
「わからない。そこらにあった。何でもいいから早くしろ」
・―――俺らも大概無茶やとは思うけど、小暮さんほどやないで。
・確かに1つでも落ちれば、スピードも劣化する。動きは甘くなる。ミリ単位の事だとしても。
普段の飛ならそういう事まで気にするだろうが、今の彼にはそこまでの余裕はなかった。
・顔をぶん殴りたい。その衝動に駆られる。右手をぶっ壊したい。何でもかんでも殴り飛ばしたい。
けれども。右手はもう傷ついている。
そしてそうやって傷つけた結果として。
(大事な時に、戦えんかった)
思い出せばまた、胸が張り裂ける。
この拳握り締め、あの時こそ本気で戦って、守りきらなきゃいけないものがあったのに。
「クソったれ」
前髪を掻き上げる。
『飛君』
不意に、脳裏に秀一の父親の姿が浮かんだ。
『秀子を、よろしく頼みます』
・その姿は一種、飛ですら憧れる物があった。
祖父と祖母に育てられた飛にとって、秀一の父親は彼にとっての父親の姿でもあったから。
ひそかに尊敬していたその男が……涙を流し、
『よろしく頼む……頼む……』
自分の手を握り締め頭を下げたのである。
託されたのである。彼の願いと―――その命よりも大事な宝を。
・『何やお前、ホンマにきたんか』
『えっへっへー。明日から正式に『湊』配属だよ』
『あー、うるさいのが来おったなー』
『見て見てこれ。さっき総監からもったんだぁ。いいなぁこれ、カッコいいなぁー。すっごい嬉し い』
『ブラブラ振り回してなくすなよ』
『やっと僕、飛に追いつけた』
『アホぬかせ。お前なんかまだまだ俺の足元にも及ばんわ』
『うんうん。そうだね』
『空は甘ない。ええか秀、言っとく。ここにきたからにはハンパじゃ済まんぞ。覚悟はええんか?』
『もちろんだよ』
『……お前の顔には緊張感がない』
『えー、うるっさいなぁー。この顔は生まれつきなんだから、仕方ないでしょ?』
『……まぁええわ。お前は俺の弟分やからな。ここに来てまったんなら仕方がない。俺の目が黒いうちは、何があってもすぐ飛んでったる』
『えー?』
『俺がお前を守ったる』
『―――』
『あー、めんど。お前がおる限り、簡単に死ねんやないか。空で死ねたら本望やのに』
『……うん。アハハ、絶対だよ、飛』
『あぁ? 任せとけ』
『うん、うん、うん……えへへ』
『何や、ニヤニヤと。気色悪い』
『え、だって何か、嬉しくて』
『阿呆。早く俺に守ってもらわんでもいいように一人前になれ。ええな』
『うん。わかった』
・「俺は」
「こんな所で」
「立ち止まってる暇は」
「ないんじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!」
・今日の飛のあの集中力は、隊の誰が見ても目を見張るだろう。今現在を切り取れば、国内最強のパイロットかもしれない。
あれが本気の飛。
それはまるで、鬼神のごとき。
(今日の仕事は少なさそうだ)
そう思っているうちにも、瑛己の後ろについていた黒の機体が1機、飛によって撃墜された。
煙から逃げるように瑛己は上昇する。
そしてその間に、最後の1機を小暮が墜とした。
一瞬、こんな事なら診療所で帰りを待っていてもよかったなと本気で思ったほどであった。
・「……んな、アホな」
ハハハと飛は笑った。乾いた笑いだった。
「秀の親父に、無事に連れて帰るって約束したんですわ、小暮さん……」
《飛、これは国家存続の問題になりかねん》
「んな、馬鹿な」
ハハハ。
「小暮さん、考えすぎですって」
《どうしてそう言える》
「秀一の力を使って戦争に……? ハハ、そんな、アホな……」
《飛。覚悟を決めろ》
「そんな……ほんな」
ハハハと笑いながら。
飛の目を。
涙が伝った。
「冗談言わんといてくださいよ……」
・「できるわけが、あらへん……」
《『黒』に連れて行かれたらどの道あいつは、実験台として拷問を受けるぞ》
「―――ッ」
《その前に楽にしてやるのも》
「…………………ド」
《飛》
「ドチクショッ………ッ」
・《決めろ、飛》
クソ、クソ……ッ!
墜らなきゃならんのか―――!?
ギュッと瞼を握り締めたその時。
《小暮さん! 機体側面!》
瑛己の叫びが耳に入った。
《秀一だ!!》
《何だと!?》
飛は顔を上げた。
「瑛己ッッ!!!」
《飛、左前方側面!!》
ブンッと回り込む。
「あ」
機体側面が開いている。
脱出用ハッチか? しかし問題はそこに背を向け立っている者。
なびくほどの髪はない。パーカーに短パン。背中だけ見たらそれは少年。
だがそれは。
「秀」
窓越しに見やれば、軍人に囲まれているのがわかった。
「秀――――ッッッ!!!!」
《聖ッ!!! 援護急げ!!》
《了解ッ!!》
・―――俺がお前を守ったる。
「あ」
蘇るのはあの日の映像。
『湊』に赴任したその時、飛が言ってくれた言葉。
(僕はあの時)
嬉しかったんだ。
たまらなく。
嬉しかったんだ。
そしてあの時僕は誓ったんだ。
「飛」
自分を抱きしめる飛を。秀一もその身を抱くように、その背中を掴んだ。
「空軍を辞めるなんて、言わないで」
「……え?」
「飛、お願いだから。空軍を辞めるなんて、言わないで……」
「……」
「僕の夢は。飛に……お前、凄い飛空艇乗りになったなって。お前強いなって、飛に認められる事だから」
「……」
「辞めないで、飛」
初めて、秀一は泣き出した。
その様子に、飛は驚き、そして苦笑した。
たった今まで捕まってたのに。たった今、死にそうになったのに。
なのに今、言う事がそれか。
それを今言うのか。
「……阿呆」
飛はポリポリと頬を掻き、その頭を抱いた。「……辞めんに決まってるやろ」
「お前を置いて、辞められるか阿呆」
「飛……」
「お前はもう充分、いっちょ前の飛空艇乗りだ」