本上 来(honjyo_rai)
・歳は20後半ぐらいだろうか。細身の、色白の青年であった。薄い色の髪を後ろで一つに束ね、それが長く、背中に流れている。
・光の加減で碧にも見える、薄い色の瞳に苦笑をにじませ。男は、山岡のサングラスに隠された双眸を覗き込むようにして言った。
・「風の噂でお前が、〝白い竜〟を墜り損ねたと聞いたが?」
・「お前、空(ku_u)と戦った事あるのか?」
「……なくもない」
「ほぉ? 初耳だな」
「人に聞かせるような話じゃないさ」
カランと、男のグラスの氷が音を立てた。
「ただ、風が吹きぬけた……俺はそれに呆然と立ちすくみ、気がつくと、広大な海の上で果てない空を見上げていた。それだけの事だ」
「詩人だな」山岡は小さく笑い、足を組んだ。
・「……俺は、少し生き方を間違えているのかしれん」
・「……お前は。羨ましいな」
「そうか? 俺は、来、お前の空も結構好きだがな」
・「聖という奴だ」
「―――」
途端、男の動きがピタリと止まった。
「ヒジリ……」
「聖 瑛己。聖 晴高の息子だ」
「……」
「ひよっ子のクセに、野暮に翔ける。どこぞの誰かにそっくりだな」
「……」
「ひょっとしたら、お前のトコのお嬢、近いうちに会う事になるかもしれんよ?」
・「……聖 晴高……」
かすれるように呟いたその名前と共に彼の脳裏を掠めたのは、一枚の、空だった。
・―――まるでそれは、雷雲の中を飛んでいるようだった。
『……ッッ』
舵がきかない。
飛空艇はもう、もっていかれている。
『……クソッ』
視界を、闇と光が交差する。
何かの残骸が、激しく機体の腹にぶち当たる。
だが、音はない。
機体が大きくバウンドする。叫んだはずだった。だがその声が掻き消えてしまう。
何かの大きな力によって。
抗う事のできない、絶対の、力によって。
『……ッ』
闇と光が交差する。
行く先はわかっている。
―――男の目から、涙がこぼれた。
だがそれも、荒れ狂う風によって吹き飛ばされた。
・―――命の借りを返せるのは、命だけなんだよ。
・彼を止めたのは、静かな瞳。
それは、深い深い海のような碧。
・「そうだな……もしもそれに理由があるとしたら。君の父さんに借りがある、そんな所かな」
「……?」
「12年前、聖 晴高に助けられなかったら、俺はもうあそこから……、二度と、戻る事はできなかっただろう」
・「12年前―――俗に言う〝空の果て〟で」
・「現在地はここだ。〝弓月海〟の端にある小さな島。『日嵩』基地からほぼ南南東に位置する」
・「『蒼』の軍上層部が内々に使う電波だ。かなり複雑に暗号化されたものだ、ジャックできても、解読できる者はそうはいないだろう」
・「心配するな。空を飛ぶだけが、俺達の仕事じゃない」
・昴の愛機・『アルデバラン』。そして向こうに停まるのは、来が乗ってきた飛空艇、『フェルカド』。
・『アルデバラン』は最高2人乗りに対し、『フェルカド』は多人数型飛空艇、大きさが一回り違う。
小型の旅客機のような外観で、操縦席の他に数名が乗員できるようになっていた。
・「もしもの時は、わかってるな?」
「……」
昴は一瞬、眉間にしわを寄せた。そして「わかってるよ」
「俺の事は捨てて」
「わかってるって。聞きたくないよ、そんな話」
・「だがまさかお前が出張るとは……この我にも予想ができなかった」
来が、瑛己を無凱から隠すように、スッと立ち位置を変えた。
「久方ぶりだな、ライ」
「……」
瑛己は、表情の見えない来の後ろを見た。
背中に流れる長い髪が、風に揺れなかった。
「俺の事を、まだ覚えておいででしたか」
その声には、苦笑ともつかない笑みが含まれていた。
「忘れようにも、忘れまいて」
あにじゃ……昴の口元が揺れる。
「妹を、放してもらえませんか?」
来の首筋を、汗が伝って流れた。
「これが、お前が我を裏切り、かつ、守り抜こうとするものか?」
「であるとしたら、あなたはどうなさいますか?」
・「お前はいつから、生きる事を望むようになった?」
「……」
「変わったな、ライ」
「……」
「我の知るお前は―――死こそ唯一の神とうたった男。もっと暗く、強い眼をした男だった」
「……」
「あの頃のお前……我の右腕として、【天賦】に黒き翼を広げし頃のお前、何がそれほどお前を変えたのだ?」
来の肩が、少し揺れた。
瑛己も昴も、来を見ていた。
だが、次に聞いた来の声は。とても涼しく、穏やかだった。
「それが知りたければ、あなたも、〝空の果て〟に飲み込まれてみればいい」
「……」
「〝空の果て〟に飲み込まれ、地獄の空を彷徨い、そして、二度と生きては帰れないと思ったこの空の下に、もう一度降り立つ事ができた時……あなたも、嫌でも変わる」
「……」
「俺には、守りたいものがある」
「……」
「時間は不変だと信じていた。あの頃俺はすべてを後回しにして、ただ自分の思うがままだけに走っていた……一番大事なものを放り出して、絶対というあやふやな神に託し、見向きもしなかった」
「……」
「俺はもう、後悔をしたくない」
簡単に死を語りながら、本当は、死ぬ事がどういう事かも知らなかった。考えてもいなかった。
それを思い知らされたあの時。
来は、心に決めた。
「いつかもう一度迎える最期の瞬間に。俺は笑顔でありたい」
・「古い知り合いがまた1人、俺に許可なく死のうとしてやがるんで、頭にきただけだ」
「山岡……」
「これで、お前への貸し借りはなしだな」
「……悪い」
・「月の初め頃、妹に仕事の依頼がありました。それは……今回の一件、あなた方と共に飛び、その足を砕く事」
来の隣で、昴が明後日を睨みつけていた。
「そしてその依頼を受け、妹は飛んだ。そしてあなた方を撃った」
「……」
申し訳ない。そう言って、来は深く頭を下げた。それにその場は静まり返った。
・「『日嵩』総監・上島 昌兵(ueshima_syouhei)」
静かだが、強い眼差しで彼はそう言った。
「本来、依頼主の事を語るのはタブーです。ですが今回は、私たちも少々相手を甘く見すぎていた」
「……」
「昴は、あなた方を撃った。そしてそこに【天賦】は現れた。そして彼らはあなた方を墜とすと……最後に昴を囲み、攻撃を仕掛けてきたのです」
・「狙いはあなた方と昴、両方だったと考えられます」
・「君たちが受けた依頼の事は、もう何も言わない。だが……磐木達を救ってくれた事、心から感謝する。本当にありがとう」
そして、手を出したのである。
来は何と言っていいかわからなかった。白河を見つめた。
そんな来に、彼は穏やかに微笑みを浮べた。
その顔は、あまりにも強く、優しくて。
「ありがとう」
そのまま肩を抱いた白河に。来は、自分がまだまだ小さいのだという事を知った。
・「兄者は、さっき飛んだ。調べたい事があるってさ」
・「兄者が無凱の脇にいたって話。驚いただろ」
・「【天賦】が【天賦】になる前の話だよ」
「……」
「兄者は〝空の果て〟から帰ってきた。そしてあたしの所に帰ってきてくれた。兄者は決して、その時何があったか語らない。ただ……あんたの親父に助けられたって事以外」
・来にはあの時、『白雀』から『湊』まで送ってもらって以来、会ってはいない。
・「そうか……妙な事に首を突っ込んでなきゃいいけど。俺も最近、あいつを見かけてない」
「……」
「あいつああ見えて、結構頑固っていうか……図太い信念があるっていうか」
「……」
「いつか、身を滅ぼしそうで危うい」
・彼女の兄、本上 来。
(最近兄者はおかしい)
前以上に家を留守にする事が多くなった。
調べたい事がある。そう言って出て行くけれども。
それが一体何なのか、昴にはわからない。
(ただ、)
発端だけはわかってる。
―――聖 瑛己。
彼に会ってから。そして、あの時無凱と再会してから。
(兄者は変わった)
それがいい事なのか、悪い事なのか。
ただ昴は感じる。
(……胸騒ぎがする)
来が調べている事。
それがいつか……来の身に危険を及ぼす事のような気がして。
背中を見送る昴はいつも、不安に駆られる。
(私の知らない兄者)
昴が知らない来の顔。それは彼女が思うよりもずっとすっと多いのかもしれない。
かつて【天賦】総統・無凱の片腕と言われた男。
(兄者……)
けれども昴の知る来はいつも優しく微笑んでいる。
仕事に対しては冷静で、叱られる事もあるけれども。
でも、正直昴は、とてもその頃の姿を想像する事ができない
「……」
昴にとってたった1人の肉親。唯一無二の存在である。
その来を『黒』周辺で見かけた。そういう噂を聞いたから。
今日ははここまで出てきた。
・かつて来は空(ku_u)と戦った事があると言っていた。敵う相手ではなかったと苦笑していたけれども。
(いける)
昴は思った。