本上 昴(honjyo_subaru)
・「お前のトコの、お嬢さまもか?」(山岡)
すると、男は「まさか」と笑った。「あいつはまだ〝彼〟に会った事はない……焦がれてはいるがな」
・「いい加減にしろよ」
凛と響く精悍な声だった。その声には、我を忘れて暴れる者の手さえも、一瞬止める力があった。
瑛己は麦酒を片手にしたまま、声の主を振り返った。
少し離れたテーブルに1人、足を組んでこちらを見ている者がいた。
まっすぐに輝く、挑戦的な目をした―――それは紛れもなく女性だった。
黒いジーンズに、革製の、赤の短いジャケット。髪は後ろで高く一つに結い上げ、それが店の灯りによって照々と光っていた。
「お前……!」
飛の胸倉を掴んでいた男が、目を見開いて彼女を見た。彼女はニヤリと男のように笑い、スッと立ち上がった。
・「ハン」
女は飛の啖呵を鼻で笑うと、ジーパンのポケットに手を突っ込み、鋭い眼でこう言った。
「あんたら、鳥なら鳥らしく、空でケリをつけろっつってんだよ、あたしは」
喧嘩なら、空で買うよ」
・―――本上 昴
この空を翔ける様々な飛空艇乗りの中で、その名を持つ者は、別にこう呼ばれる事がある。
〝傭兵・スバル。
「あれは、3年前の冬や」
飛は目を細め、険しい顔つきのまま夜空を睨んでいた。
「何とかっつーお偉いさんが、空賊に狙われた事があった」
「……国鉄の、渡来会長襲撃事件か……」
明後日を見ながら言う小暮に、飛は片眉を上げて頷いた。「ああ」
「俺は、政治のゴタゴタに興味はないし、ようわからん。だが、その何とかっつー会長が【サミダレ】に狙われたっつーのは、よう覚えてる」
襲撃は、空。
「どこぞである、会議だか飲み会だか知らんが……ともかく、その移動での襲撃が予告された。だからそのワタライ会長は、護衛としてかなりの数の鳥を雇った」
「……」
オレンジジュースを飲むのを止めて、真剣に聞いている秀一の横で。瑛己は大して関心なさそうに麦酒を飲んだ。
「そして、約束の日。だが会長は予定の時間も航路も大幅に変えて、空に上がった。案の定、行程の半分まで襲撃はなかった。これはイケるとワタライ会長は、悪人顔でほくそ笑んだ」
ジンがヴァージニアスリムに火を点けた。新が甲高い声で酒場の店員に酒を頼んだ。
「だが、甘かったのはワタライ会長の方だった。出し抜かれたのは、会長の方やったんやな。雇った護衛の中に、【サミダレ】がいたんや。襲撃は〝六弧湾〟のど真ん中。それも、月が半分欠けた真夜中だ。ワタライ会長の命は、そこでジ・エンドのはずやった」
「……」
「だが、結果として会長は逃げ切り、【サミダレ】は会長襲撃に失敗。その後、捜査の手が入り、ジ・エンドしたのは【サミダレ】の方やった。そしてその時、ワタライ会長が逃げきれたワケが、〝昴〟やった」
瑛己も空を見た。窓越しに見る初夏の夜空には、細長い月が薄っすらと輝いていた。
「真っ暗な海の上、視界の利かん中、入り乱れる飛空艇。だがそいつは……まるで昼間の空を飛んでいるみたいに、【サミダレ】を相手にしてたっちゅー話や」
「……」
「結局、事実上昴一人に翻弄され、手をこまねいているうちに、本命のカレは夜陰に紛れて逃亡。舌を打っているうちに、昴の姿もなかったっつー……大間抜けな話や」
店の女性がジョッキを持って現れた。新がそれに手を叩いて喜んだ。喜びのあまり、店員の女性に抱きつこうとしたが、代わりに、その顔に強烈な平手が叩き込まれた。
「それからやな。昴っつー名前をよう聞くようになったんは。初手のそれでえらい有名になりよって、以来、護衛だの迎撃だの、色んなトコから仕事が入りおった。それがまるで、転々と戦場を渡る兵士みたいだと―――それが、傭兵と呼ばれるようになった所以や」
・「ええなぁ、自分勝手に空が飛べて。見たで、『飛空新聞』。【天賦】の無凱に挑戦状やって? でかい風呂敷、広げるのはさぞかし簡単なんやろな」
「ハン」
店の女性が言葉少なく、グラスを昴の前に置いていった。
「あたしは、そんな事言った覚えはないね」
「活字にちゃんと残っとるやないか」
「だから、ライターなんて言う連中は嫌いだっていうんだ。ある事ない事書きやがる。それを鵜呑みにする馬鹿が、世界には五万と溢れているっていうのに」
「今なんつった、お前」
「あん? 聞こえなかったか、この馬鹿が」
・―――ケリは、空で。
・《スバル、テメ、裏切ったのかッ!!?》
怒声というよりノイズに近い飛の声に、昴は「ハン」と笑った。
「あたしは、ただ仕事をしてるだけだよ」
《仕事、やと……?》
「趣味で飛んでるわけじゃないからね」
しかし―――。
「……ハン、そういう事か」
天から現れた翡翠の一団に、昴は舌を打った。
「気に入らないね」
・「ハンっ、冗談じゃないよ」
「昴」
「【天賦】が出張るなんて聞いてたら、あたしはあんな仕事受けなかった。誰が好んで無凱なんかに手を貸すか!! あんのクソ親父……!」
・「兄者、こいつ馬鹿だ。さっさと海に捨ててしまおう」
・「昴、『アルデバラン』は出せるか?」
・「こいつはこう言っているが、銃の扱いは俺より慣れている。そこらの軍人よりはよほど使うだろう」
「って、仕込んだのは兄者じゃないか!」
・「勘違いするな。あんたのために飛ぶんじゃない。あたしのプライドのためだ」
・人の飛空艇に乗るというのは、こういうものだっただろうか。高度を下げる夕陽色の機体は、まるで、風の海を斬り込んでいくかのようだった。
・このスピードで着陸するというのか。多少はスピードを落としたものの、まだ、速度は生きている。
だが昴は慣れたものだった。無理な着陸にギアが悲鳴を上げたが、それでも、曲線を描くようにピタリと陸地に飛空艇をつけた。
「昴、足が吹っ飛ぶぞ」後から着陸した来は、操縦席から呆れ顔で昴に言った。
「この間も言っただろ、ギアに負担を掛けすぎだと」
「キュッて言うあの音がいいんよ。何か、走ってきたぞって感じがして」
「いつか命を落としても、俺は知らないからな」
・昴の愛機・『アルデバラン』。そして向こうに停まるのは、来が乗ってきた飛空艇、『フェルカド』。
『アルデバラン』は最高2人乗りに対し、『フェルカド』は多人数型飛空艇、大きさが一回り違う。
小型の旅客機のような外観で、操縦席の他に数名が乗員できるようになっていた。
・「もしもの時は、わかってるな?」
「……」
昴は一瞬、眉間にしわを寄せた。そして「わかってるよ」
「俺の事は捨てて」
「わかってるって。聞きたくないよ、そんな話」
・来はスッと昴の前に出た。
昴はその背中を見て思った。
兄者の背中は、ほんのすぐ、そこにあるというのに。
(なぜか、遠く感じる)
来の背中には、翼がある。そう思う事がある。
それが昴にとって、時折、不安でたまらなくなる事だった
・「ゲロ弱。つまんない」
・昴は飛の、殺気を帯びた視線に気付いていた。だからこそ苛つく現状でかろうじて、嘲笑が浮べられるのである。
・手を抑え、起き上がるのに苦労している昴を、瑛己は助け起した。
「……」
昴はそんな瑛己を、不思議そうに見つめていた。
「……りがと」
しかし次の瞬間、昴は瑛己の手を払い、来の元に向かっていた。
・「カシス」
・だがなぜだろう……恨む気持ちも憎しみも、湧いてこなかった。
ただ、その横顔が。哀しいと思った。
伏せた目に落ちた影が。なぜだか瑛己には、泣いているように見えた。
・けれど昴はそれに気を悪くした様子になかった。ふっと明後日を見ると、「あたしと兄者は」と呟いた。
「まぁ、世間で言うとこの、孤児院で育ってさ」
「……」
「あたしが物心ついた時、兄者はもうそこにいなかった。シスターとかは、兄者は偉い学者さんになるためによその国に行ったんだって言いまくってたし。あたしもそれを信じてた。定期的に手紙もくれるしさ、いつかそのうち、迎えにきてくれるかなって」
「……」
「兄者がきてくれたのは……あたしが8つか9つくらいの時だった。それで、本当の事を知ったんだけど」
「……【天賦】にいたって?」
「【天賦】が【天賦】になる前の話だよ」
「……」
「兄者は〝空の果て〟から帰ってきた。そしてあたしの所に帰ってきてくれた。兄者は決して、その時何があったか語らない。ただ……あんたの親父に助けられたって事以外」
「……」
「あたしは、あんただけには、助けられたくなかった」
・「何だあの猿顔!!」(新に)
・「いいよ。あたしが出る。お前も知ってんだろ? あたしは結構夜目が利くから。夜中だろうが関係ないし」
・そう言った昴の肩を、瑛己はグイと掴んだ。
「なっ……」
そしてその双眸を、じっと見つめた。
昴は目を見開いた。そして瑛己の腕を振り解こうともがいたが、瑛己は離さなかった。
じっと。
まっすぐなその瞳で。
瑛己は昴を見つめた。
昴も。それに、魅入られたように……目が離せなかった。
「……」
「男の面子だ」
―――女を戦場に送るような事。
「わかってくれ」
できるわけがない。
「……」
瑛己はスッと手を離した。が、昴は動かなかった。
「飛と秀一を頼む」
「……」
それだけ言って、瑛己は走り出した。
その背中を、昴は。見えなくなるまで見つめ続けていた。
・「……面子を、守ってやるだけだよ」
死んだらただじゃおかないから。
心の奥でそう呟き、昴は、唇を噛みしめた。
・「……皆は……?」
荒く息を吐き、そう呟いた。
「早く、空を」
「え?」
「止めなきゃ……早く……」
うわごとのように言ってまた、目を閉じた秀一に。
昴は「大丈夫」とその頭を撫ぜた。
なぜだかわからないが、そうしてやらなければいけないような気がしたからだった。
・昴も同様だ。あの襲撃から数日はいたが、ふらっと姿を消した。
・「昴は……」
「ああ、来の所のお嬢様か? あいつも見ないなぁ……あの兄妹、どっかでヘマしてなきゃいいけど」
・彼女の兄、本上 来。
(最近兄者はおかしい)
前以上に家を留守にする事が多くなった。
調べたい事がある。そう言って出て行くけれども。
それが一体何なのか、昴にはわからない。
(ただ、)
発端だけはわかってる。
―――聖 瑛己。
彼に会ってから。そして、あの時無凱と再会してから。
(兄者は変わった)
それがいい事なのか、悪い事なのか。
ただ昴は感じる。
(……胸騒ぎがする)
来が調べている事。
それがいつか……来の身に危険を及ぼす事のような気がして。
背中を見送る昴はいつも、不安に駆られる。
(私の知らない兄者)
昴が知らない来の顔。それは彼女が思うよりもずっとすっと多いのかもしれない。
かつて【天賦】総統・無凱の片腕と言われた男。
(兄者……)
けれども昴の知る来はいつも優しく微笑んでいる。
仕事に対しては冷静で、叱られる事もあるけれども。
でも、正直昴は、とてもその頃の姿を想像する事ができない
「……」
昴にとってたった1人の肉親。唯一無二の存在である。
その来を『黒』周辺で見かけた。そういう噂を聞いたから。
今日ははここまで出てきた。
・昴は西の空を見た。夕焼けが、きれいだった。
1日で一番昴はこの時間が好きだ。
真っ青だった空が赤く染まっていく。そして闇へと溶けていく。
その刹那的な空が好きで、どうしても心が惹かれてしまう。見入ってしまう。
帰りに『湊』に寄ろう、そう思った。久しぶりに聖の顔でも見に行こう。
そうだ、あの子に何かお土産でも持って行こう。相楽……もう体調は戻っただろうか
・「会いたかった」
・かつて来は空(ku_u)と戦った事があると言っていた。敵う相手ではなかったと苦笑していたけれども。
(いける)
昴は思った。
・昴は唖然と目を見開いた。
早いとか、もうそういうレベルではない。
昴はその時痛感した。兄の言葉を痛感した。
この速さは、この反応は、もはや。
―――神の領域。
・ここで今、この機体を壊すわけにはいかない。
何より、この機体は昴にとって大事な片腕。
相棒。
「……ッ!」
唇を噛み締め、昴はその場から全力で背走した。
空(ku_u)は追ってこなかった。
それがなお、昴にとって屈辱的だった。
(あれが―――)
初めて昴は、対した翼に恐怖した。
いや……恐怖を超えたこれは。
絶望。
冷や汗と共に、昴は自身の胸倉を掴んだ。
きつく、きつく。




