表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空-ku_u-【用語集】  作者: 葵れい
登場人物 【湊】
4/89

    聖 瑛己(hijiri_eiki)<第4部>

 ・そう言ってテーブルに料理を乗せて行く。

  さりげなくそれに手を貸したのは出入り口付近に座っていた青年。聖 瑛己であった。

 「ありがと」

 「いえ」

  海月が微笑むと、瑛己は目は合わせず少し頷いた。

  手早くテーブルに料理を置くと、それを秀一がうまく均等に広げる。そして空いた皿をサッと回収する。こちらも手早い。

  この場にいる人数は多いが、こういう気遣いができるのはこの2人だけである。

 ・「必要な時は……そうだなぁ、秀君を借ります。それと瑛己君」

  「えー、僕料理できないですよ」

  「注文の方手伝って欲しいな。秀君ならパッパとこなしてくれそう」

  「……あの、俺もですか?」

  「瑛己君はね、えっとねー、あたしのボディーガードに。あと珈琲専門で」

 ・そして瑛己たちは、助けられた海軍の基地で、様々な取調べを受けた。事情聴取である。

  軍のお偉いさんが代わる代わるやってきては、同じ事を聞く。

  特に秀一への聴取は厳しかった。

  質問攻めは瑛己でさえウンザリするほどだったのに、倍ほどの時間を割かれた秀一は一体どれほどだったのか。

  飛が終いには切れて、取調べ官とケンカになりそうになったくらいだった。

  「秀一は被害者やッ!! 犯罪者やないぞッ!! どんだけ尋問したら気がすむんやッ!!」

  丸4日に及ぶ説明。

  そこを出る事ができたのは、事件から5日後の事だった。

  そういうわけで、2週間の休暇の半分ほどが取調室でのバカンスとなる……出立時には思っても見なかった結果となった。

 ・しかし……瑛己は内心、あれ以来常に警戒して時間を過ごしている。

  何と言っても、彼らは『黒』の飛空艇を撃ち落した。いかに秀一がさらわれたとはいえだ。

  今日明日にでも戦争―――そんな事になっても何らおかしくないような気がする。

  発端は瑛己たちだ。だがその原因に非はない。その思いがあるからだろうか。逆に瑛己は少し、腹をくくってもいる。

 ・「……まぁまぁ小暮さん。硬い事いいっこナシです。それに、そりゃいいんです。問題はその後ですよ! 秀一も取り戻してハッピーエンド! と思いきや、こいつの凄い所はここから!! 何たってあの場面で、無凱を呼び寄せる凄さ!! 通りで『黒』との空戦最中はボヘーっとしとったわけや!! 後に出てくる無凱戦のために余力取っといたんやなぁ」

  「……」

  「凄いな瑛己! お前やっぱりただ者じゃないな!! 無凱つったら、滅多にウロウロしないのよん? しかも単機で?? あり得ない、それ絶対にあり得ない話。あいつは絶対にいつも回りを【天賦】の取り巻きが固めてる。【天賦】の総統よ? 瑛己……こりゃもう、お前、本気で何かの才能があるとしか思えないよ、おじさん」

  「……」

  「でしょー? やっぱりそう思うっしょー? しかもこいつ、どうやって追い払ったと思いますー? 自分の機体を突っ込ませてっすよ!!」

  「うわぁ……それ無茶苦茶」

  「瑛己、ちゃれんじゃぁ」

  「……聖、その件だが。『燕蔵つばくら』基地から抗議がきた。白河総監が相当文句を言われたぞ。今すぐここで謝れ」

  「まぁまぁ磐木、こんな席で。しかも相手は無凱だろう? 仕方ないだろ。むしろ聖君に怪我がなかったのが何よりの」

  「いいえ総監! こいつは無茶をしすぎます!! きつく言わねば、そのうち本当に」

  「まぁまぁ、だから、その件はまた今度でも」

  「聖! ここで謝れ!! 今すぐだ!!」

  「……はぁ」

 ・「いやぁ、瑛己はいい仲間を持ったねぇー。素敵な上司と、素敵な仲間!! 親代わりとして嬉しいよ!」

  「……」

  「こんな仲間ができて、本当に『湊』にきてよかったなぁ。皆さん、瑛己の事よろしくお願いします! ふつつかな娘ですが、何卒なにとぞ

  「いえいえこちらこそ」

  「……はぁ」

  『笹川』にいた時にもいい仲間はいたし、むしろここより平和に過ごせた。

 ・「瑛己さん」

  「ん?」

  「遅くなっちゃったけど……助けてくれて、本当に、ありがとう」

  「……」

  瑛己は苦笑した。「何を今更」

  ポンと、その肩を叩いた。

  すると秀一は嬉しそうに顔を上げた。

  月に照らされたその顔に、瑛己は苦笑した。

  ……童顔だ童顔だと思っていたが、ああ、確かにその顔は少女のそれだ。なぜこれまで気づかなかったんだろう?

  先入観とは凄いな。そう思い、知らない振りをして目をそらした。

 ・瑛己の朝は大体、トーストとサラダに決まっている。

 ・「……おまん、今、何思った?」

  「……愛の告白じゃないのか?」

  「ド阿呆」

 ・「だから……できるのか? 今まで通り??」

   瑛己は不思議そうに飛を見た。

  「今まで通りもなにも、あいつはあいつだろ」

  「……」

  「人が変わったわけでもないし。お前と秀一が中身入れ替わったっていう話ならば、ちょっとできないかもしれんが……」

  「いや、そういう展開は今の所ない」

  「なら別に」

 ・「だから、あいつが……そういう事で、意識せんか?」

  「変わらないって言ってるだろ」

  「せやけど」

   ―――女として、意識してしまわないのか? 

   下手すれば、よこしまな目で見ないのか?

   誰かに聞かれる恐れもある。はっきり言えないのもわかる。

   けれども瑛己は少しウンザリした思いで繰り返した。「何度も言うが、変わらない」

  「あいつはあいつだ」

  「……」

  「何も変わらない。それ以外に何がある?」

 ・「顔は大事にしろよ、お―――」

  と、言いかけて。ハッと口をつぐもうとした瞬間。

  飛に思いっきり、肘鉄を食らった。

  「ぐはッ」

  無防備に腹に入った。

 ・あとで必ず、と瑛己は思った。飛、こいつ、ぶん殴る。

 ・瑛己は拳を固めた。やはり今すぐここでぶっ飛ばそう。

 ・痛む腹をさすり、とりあえず瑛己は、傍らに立つ男の靴を思いっきり踏みつけた。

 ・―――上島 昌平。

  しかし瑛己たちとて、その人物をよく知っているわけではない。しっかり顔を合わせたのは数回だ。

 (けれど)

  瑛己の耳にも残ってる。『湊』を襲った彼の、叫び声


 ・『日嵩』元総監、上島 昌平。

  ……海に墜としたのは自分たちだ。

  あれから数ヶ月。瑛己は、正直もう見つからないと思っていた。

  あの時死んだのだと……瑛己は内心思っていた。

 ・「瑛己」

  「ん?」

  「もしも本当に、上島にまた会う事ができたなら。……伝えてくれないか?」

  「え?」

   言っておきながら、兵庫はパタパタと手を振って笑った。「万が一機会があったら、でいいよ」

  「正直あいつに近づかない方がいいとも思う」

  「……」

  「でももしそんな機会があったなら―――お前の女神が微笑んで、そんな状況に立たされたら」

  「……何?」

   ガタガタと、隣の席に客が座る。

   今日も店内は賑わしい。

   その中で兵庫はボソリとその言葉を口にした。

  「……わかった。覚えておく」

  「ん」

   兵庫は2本目に火を点けた。

   瞼を伏せたその顔には笑みが浮かんでいた。

   瑛己は空が眺めたくなった。

   眩しいほどの蒼空を、無性に、眺めたくなった。

 ・「瑛己の部屋でもいいんだけど」と、今にも宿舎にきそうだったが、海月がそれを止めた。

  「迷惑になるから、やめなさい」

  「瑛己が俺の事、迷惑なわけがないだろ? なあ?」

  「迷惑だよ」

  「(T△T)」

 ・おじさんももっと、素直になればいいのに。

 ・瑛己の部屋は5階にある。階段を上がっていく。

 ・2人の部屋を訪ねるのは初めてではない。何度かきた事はある。

  作りはほとんど同じだが、こちらは3人用なだけあって、少しだけ広い。

  バス・トイレの間取りも大きさ一緒だ。『湊』の宿舎はその2つが別々なのが嬉しい。

 ・「瑛己さん強い! 僕じゃとても敵わない! 小暮さん並!」

 ・「いや、お前に重い物を持たせ」

  その瞬間。飛の蹴りが見事に瑛己の腹に決まった。

  「ごはッ」

  「? どうしたの? 瑛己さん?」

  「まーた風邪か? 薬ちゃんと飲んだんか? あかん、大丈夫か?」

  「ぐほッ、ごほっ……」

  「秀、はよ飲み物買ってきたって。こいつ死にそうや」

  「うん。ちょっと待ってて」

 ・そこへ、瑛己はすかさず殴り返した。

  「どほっ」

  「……誰がっ、風邪だっ……」

  「せやかてっ、お前」

 ・殴られた頬を抑えつつ、飛は瑛己の胸倉を掴んだ。

  「おまん、今何言おうとしたっ」

  「何が」

  「秀一に重いもん持たせるのがアレやから、自分が代わりに行くとか言おうとしたやろ」

  「……した」

  「馬鹿かお前はッ! 男が男をかばうか、普通!!」

  「……」

  「昼間もや、お前、デコぶったあいつに、顔を大事にしろとか言おうとしたやろ!」

  「……した」

  「阿呆ッ!! お前、しっかり女やて意識しとるやないかぁぁ!!」

  「……」

   瑛己はムッと眉を寄せた。

  「……そんな事言われたって、やっぱり、気を使うだろ」

  「ド阿呆ッ!! 今朝と言うとる事が違うやないかぁぁぁ!!!」

  「……っ、仕方ないだろ! やっぱり知った以上は気を使う!!」

  「何だとボケ、ジェントルマン気取りやがってぇぇ!!」

   バシっと瑛己を投げ放ち、飛はバンと壁を叩いた。「いいか瑛己!!」

  「あいつを女や思うなッ!! あいつは男や!! 男だと思え!!」

  「しかし」

  「あいつは男同然や!! 胸もぺったんこや!! 板や板、何にもあらへん!! ××××はついてへんが、それだけや!!」

  「……」

  「よもやお前、あいつの裸なんぞ想像しとらへんやろうな!!」

  「んなっ!?」

  「何度も言うぞ、胸なんぞあらへんからなっ!! このドスケベが!!」

  「お前が言うなっ!!!!!!」

   瑛己が今度は赤面して掴みかかる番だった。

   ……こうなるともう、ただの醜い争いである。

  「あーもう、今朝お前を欠片でも凄い奴や思った自分が情けないわっ!! 俺のカンドーを返せボケ!!」

  「知るかそんなもん!! お前に好かれたって気持ち悪いだけだッ!!」

  「言うてへん人の地の文、読むなアホンダラ!!」

 ・「……正直に言ってください瑛己さん。こいつに聞いたんですか? いつ?」

   殴られた場所に、買ってきてもらったばかりのジュースを当てながら。瑛己は素直に頷いた。

  「……この前の、お前がさらわれた時……」

  「待て秀。これには深い深いワケがあるんや」

  「……」

  「大体秀、お前が悪いんや! あの時、お前時計をブラブラさせとったやろ!! それが落ちとったもんで、あれをこいつが見たんや!! だから話すしか仕方がなくなって。こいつも根掘り葉掘り聞いてくるし」

  「……そんなに聞いてない」

  「聞いたやないか、秀は女か、胸はあるんか、デカイんかって!」

  「――ッ! そこまでは誰も聞いてないだろうがっ」

 ・それに時間が遅い。人の気配はないが、女性が1人でウロウロする時間ではない―――とまた、余計な事を思った。知る前には考えた事もなかった事だ。

  (やっぱり無理か)

   今朝飛に問われた時は簡単に即答した。秀一が女だろうと男だろうと、何も変わらないと。

   でも今気がついた。今日の事もそうだし、これまで数週間……やはりそれなりに意識してしまう自分がいる事に。

   怪我をすれば気を使うし、重い物を持たせるわけにもいかない。夜中にウロウロさせるのも然りだ。男なら思わない事を、確かに瑛己は思っている。

   男だと思っていた、その頃と同じようには無理なのかもしれない。そう思った。

   だが断じて秀一の胸がどうのとは思った事はない。それだけは自分自身に再確認して、心の中で飛を殴った。

 ・「これからも、」

  「……?」

  「これまで通りに接して……くれますか?」

  「……」

  「僕の事、これからも、今までみたいに仲間として……」

   友として―――。

   女と知っても、変わらず。

   気を使うとかそういう事以上に。

  「……」

   瑛己は少しの間、秀一を見ていたが。

   ふっと息を漏らした。

  「当たり前だ」

  「……」

  「寝る、おやすみ」

  「うん。おやすみなさい」

 ・女であるという事実は変えられない。

  それで気を使う事は必ずある。意識から閉め出す事は不可能かもしれない。

  ―――でもそれが。

  仲間であるという事実を捻じ曲げる理由にはならない。

  何かしらの距離を置く、そんな口実にはならない。

  秀一は秀一。変わらない。

  瑛己にとって、彼女は命を預ける仲間。その背中を託す仲間。

  共に空を共有し、翼を広げ、笑い合う、大切な。

  ―――友。


  ああ、俺が変わらないと思ったのはそれか。

  瑛己はそう思った。

  ふと振り返るとまだ階段の下に秀一がいて、こちらを見上げていた。

  目が合うと嬉しそうに笑ったので。

  瑛己も軽く笑って手を振った。


 ・(上島に会いたくない)新の言葉、瑛己も正直同感であった。

   ―――あの時の、上島の声が耳に蘇る。〝生きていた〟その事を知ってから。

  俺は神様になった、ザザつく無線の中、あの男はそう言っていた―――。

 ・『ビスタチオ』へ向かう前に……どうしても小暮と話しておきたいと思ったのは瑛己と飛、両方の意思である。

 ・「……国家のため、ですか」

   小暮はそれに答えなかった。だがあの時そう言っていた。

   今にも飛び掛らん勢いの飛を手で制して、瑛己は1歩前へ出た。

  「その選択は、間違いなかったと?」

  「……」

   小暮はじっと瑛己を見る。

  「俺に問うのか、聖」

  「……」

  「その前に、己の心に問え」

  「……それならば、小暮さんにはわかっているはず」

  「ならば言葉を返す。お前にも、俺の答えはわかっている」

   あれ以来、瑛己の中にわだかまった、小暮への感情。

 ・「俺は軍人だ。お前らもだ。その背が背負っているのは何だ?」

  「……」

  「何を一番にしなきゃならないか、聖、わかるだろう」

  「―――けれど」

   瑛己は瞳の色を強めた。

  「秀一を撃つ事が正しい事だったのか、俺にはわかりません」

  「……青いよ」

 ・駆け出してぶっ飛ばそうとする飛を、瑛己が止める。

  「なんで止める!」

  「……」

  去って行く小暮の背中。小暮の言葉は瑛己も納得行かない。

  ―――けれども。

  殴れ、そう言っているように見えた。

  「……飛、やめよう」

 ・ふと見ると飛が、前を歩く小暮の背中を睨みつけていた。瑛己は背後にいる秀一の気配を感じ、その腕に肘を軽く当てた。

  「秀一がいるぞ」

  「……おう」

   秀一の前では絶対に顔に出すな―――瑛己が飛と、そして自分自身に言った言葉である。

 ・もし自分がその場にいたら。

  〝空の果て〟と直面し、荒れ狂う風の中、この身1つ、機体1つで潜り抜けなければならないという現実に直面した時。

   ただ1つ、わかっている事があるとしたら。

  「全力で走るだろ」

   死に物狂いで。

   風に抗う。運命に抗う。

   死に抗って。

   生きる事を望む。

   生きて、生きて生きて生きて。

   晴天の下へ出る事に。

   この身は躊躇わず、懸けるだろう。

   持てる力、持てる命、すべてを。

   それが生きるという事。

   それが生命というもの。

  「迷ってる暇なんか、ないさ」

  「……」

  「死に物狂いで走る」

 ・空を飛んでいる夢だった。翼が生えたわけではない、飛空艇でである。

  目印もないような真っ白い空を一人で飛んで行く夢である。

  そのうちに、前方に何か見えた。

  それに向かって瑛己はアクセルを踏み込もうとしたが。すでに足はもう目一杯それを踏んでおり。

  スピードはそれ以上でない。

  瑛己は立ち上がり、前方のそれに向かって叫ぶ。

  だがそれは次第に遠のき。

  やがて白い空に、飲み込まれるように消えて行った。

  自分が、父さん、と叫んでいた事に気がつくのは。

  目が覚めて後の事である。


 ・『蒼』も雪は降る。まして瑛己の故郷は山の麓である。雪は慣れている。

  それでも目の当たりにした物は、今まで見た事もないほどのものだった。

  大きさがまず違う。瑛己が実家で見た雪が、これほど大きいと思った事はない。塊である。それが音なく無限に落ちて、空気、そして世界を斑に染める様は、ある種恐ろしい物がある。

 ・瑛己は思う。327飛空隊に配属されて早8ヶ月あまり。

  事件だけなら色々起きた。怪我もたくさんしてきた。渡った空戦の数は知れず。

  だがそれを共に乗り越えてきた327飛空隊の面々。まだ知らない事は多い。

  磐木の事も小暮の事新の事も――そしてこの副隊長・風迫 ジンの事も。

  いや、瑛己は目を伏せる。

  普段よく一緒にいる秀一が女だったという事でさえ、ついこの前知ったばかりだ。

  飛だって、あの剣幕とは別の一端を心に持っている。

 「……」

  そう思って、瑛己は心の奥底で小さく苦笑をした。

  隊員の事をわからないと言う前に、自分こそ、誰に理解されているとも思えない。

  語らないのは自分も同じだ。

  いや、もっとなのかもしれない。

  昔友人に言われた言葉を思い出す。瑛己には見えない〝壁〟がある。確かだと、瑛己は口の端を歪ませた。

 ・彼もまた、夜中に自動販売機で同じ状況に直面したからである。

  この基地の自動販売機にはブラックの珈琲はなかった。

  あったのはにこやかに笑う牛のイラストが描かれている物で。

  しかも、缶ですらない、瓶タイプの物だったのだ――。



 ・瑛己は食堂でいれてもらった珈琲に口を付けた。

  普段缶に慣れている瑛己としては、カップで飲むのは何となくだが気後れする。

  しかもカップの細工が、空軍基地内の食堂にしてはできすぎたほどの、凝った銀と金で花をあしらったものときたので。何だか妙な感じがする。

  だがそういうのは一切顔に出さず、丁寧に飲む姿は、

 「瑛己……様になりすぎ」

 「……何が」

 「ほんとお前って、そうやって黙って珈琲飲んでると……見た目、いいとこのお坊ちゃんというか。無駄に紳士面というか」

 ・「瑛己さんて、ストイックに見えるのに」

  「……のに、何だ」

  「案外かわいいですよね」

  「………………」

  深々とため息を吐く。

  前にもいつか思ったな。そう思いながらも、今日も改めて思う。

  こいつに「かわいい」と言われたら終わりだ。

  「鏡見てから言え」

  「え?」

  「……何でもない」

  聞こえないくらいの声で呟いたのに、かなり恐ろしい顔で飛に睨まれた

 ・「気にするな」

  「だって」

  「……あいつの〝中〟の問題だ」

  「……」

  「心配しても、気遣っても、結果は同じだ」

  「……」

   心の問題は自分で乗り越えて行くしかない。

   そして飛はちゃんと乗り越えた。

   まだ不安はあるだろうが、それも、乗り越えていくのだろう。

   彼が飛ぶ事を選択した以上は。

  「瑛己さんって、大人」

  「……そうか」

  「見習わなきゃ」

   大人なんかじゃないさ。頭の片隅で瑛己は思った。

   一瞬瑛己は今思っている事を言おうかと思ったが、結局口を閉ざした。

   自分の感情は自分で解決するしかない。つい今しがた口にした言葉が、すべての答えだと思ったからだった。

 ・「お前、」

   言葉を切った上でもう一度瞬きをし、最終的にそれから30秒ほど間を置いた上で、その続きを口にした。

  「何を知ってる?」

  「……何の話ですか」

  「『ム・ル』だ」

 ・「言い換えよう。どこでそのネタ、掴んだ?」

  「……」

  瑛己は小暮を見据える。目はそらさない。瞬きもしない。

  ――知ってる。

  『ム・ル』壊滅の原因。それが本当は何だったのか。小暮は知っている。


 ・彼が磐木の姿を見てこれほど安堵の表情を浮かべた事は今までない。瑛己のその様子に、磐木もやや呆れ顔で2人の間に立った。

 ・「【空(ku_u)】が『ム・ル』を壊滅した、けれどもそれがなぜなのかはわからない……だから気になって、少し調べていただけです」

  胸倉を掴む飛を払い、改め瑛己は小暮に言った。

  「それを知ってどうする?」

   小暮も瑛己だけを見て言う。「お前に何かできるのか?」

  「……」

   瑛己は目をそらす。

   2人の間に再び流れた険悪な空気に、磐木が変わって答えようとした刹那。

  「それでも知りたい」

  「……」

  「俺は、知りたい。あの子が何のために飛んでいるのか」

   ――何を背負って飛んでいるのか。

   あの子の正体を見なければ、言葉を交わす事なければ、こんなふうに思う事はなかったかもしれない。ただの〝無類の飛空艇乗り〟としてもっと違った感情を抱いていたかもしれない。

   だが、瑛己は知ってしまった。

   絶対の飛空艇乗り【空-ku_u-】。その正体が自分と同じ年頃の、穏やかで優しい目をしたそらという名の少女である事を。

   握った手は、暖かかった。

   それは畏怖か、憧れか。はたまた別の感情なのか。瑛己にはいまいちわからない。

   ただ、

  「知りたい」もう一度強く言葉にする。「……ただそれだけです」

 ・「……隊長」そして磐木を向いた。

  「よかったでしょうか……」

  らしくなくそう問う瑛己に、磐木はただ無言でその肩をポンと叩いた。「気にするな」

  「お前らしい」

 ・またここに戻るのか、そう思った自分に瑛己は苦笑した。

  戻るべき場所は、空である。

  そう思う事は、自分が飛空艇乗りの証であるという事。

  魂をここに燃やしているという事。

  飛ぶ事に、命を懸けているという事。

  吹く風は、陸とは確実に違う。

  独特のその感触、におい、温度は。

  精神をたかめて行く。

  だから瑛己は歌を口ずさむ。

  胸の昂りに気持ちを持っていかれないように。

  冷静に。

  一人の人間として空に、操縦桿に、飛ぶ事に。

  自分自身に。

  向き合いたいがために。

 ・吸い込む空気は、内臓を切り裂く。

  だがそれは妄想。

  《我らはこのまま、戦場へと突入する》

  実際には空気は、人を切り裂くような事はなく。

  切るとすればそれは。

  《この先戦いはさらに激化すると思われる。空賊と『ア・ジャスティ』空軍の見極めには充分注意を。ここが一つの山場になる》

  人が、人の手にて。

  何かしらの意志を、貫かんとするがために。

  それは立場は違うがゆえに異なる、それぞれが思い抱く絶対たる、

  ――正義。

  戦わねばならぬほど、命を張るにふさわしいほどの。

  絶対の信念。

 ・名誉などいらん。

  栄光などクソ食らえだ。

  ただ今、彼らが貫こうとする〝正義〟が何なのかと尋ねられたなら。

  彼らは迷わず言うだろう。

 ・《戦いを終わらせる。いいな。これ以上この空を、不穏に染める事は断じて許さん》

 ・――神がいるというのなら。

  今のこの空を、何と思って見ているのだろう?

  何が引き金となり、何が交差し、どんな思いの果てにこの結果が生まれたのか。

  だが単純明快なのは、結果の過程にあるのは必ずしも人の〝エゴ〟であるという事。

  その想いの量の強さゆえか。

  機体の動きが鈍い。空がとにかく重い。

  ギアを切り替える。

  いや違う。気持ちを切り替えよう。

 (『七ツ』の誇り)

  この空を守る。

  それが。

  瑛己がその胸に貫く思い。

  迷う暇があるなら走る。

 (空の女神)

  いるなら、仲間を守ってくれ。

  自分は、あんたに頼らずとも抜けられるくらいに。

 (強くなりたい)

  強くなるから。



 ・――その果てに。

  鼻腔をつく、匂い。

  それは、海のにおい。

  違う、ここは湖だ。

  ここは内陸、海は遠い。

  ――ならばどこから?

 「見えた」

  その瞬間瑛己の目に。

  まぎれもなく見えた。

  風の道。

 ・瑛己は。

  まず目の端にいた空賊機を撃った。そこから斜め上へと駆け上がる。

  ――空気に逆らわず。

  いける。

  ジンが言っていたのはここだ。

  風を味方とする。

 ・――空気に逆らわず。

 ・――その機体、まだ猶予あり。

  ゆえに。もう一度。

  今度は右からひねりながら。

  ――瑛己の瞳は静かである。

  撃った。


 ・瑛己にとって小暮は、あの一件以来距離ができた。飛はもっとなのだろう。だが。

 (あの飛行は)

  小暮の飛行技術。そこに瑛己は、学ばなければならない物があると思っている。いつも冷静に空を見るという事。

 ・誰かの命令を受けているとして、それは一体誰なんだろう? なぜそんな事を彼女にさせるのだろう?

  いや、もっと根底にあるのは。

 (なぜ、彼女を飛ばせるのか)

  なぜ、彼女は飛ぶのか。

  この世界に〝絶対〟とまで言われ。そんな物を背負って。

 ・(あれから、この半年で)

  自分は何を得ただろうかと、瑛己は思った。

 ・胸を過ぎる、想い。

  今、何が大事なのか。この手で何を守りたいのか。

 (守れるのか)

  生と死は紙一重なんやという、飛の声がまた蘇る。

  飛ぶ事と、生きる事。

  瑛己はギュッと手を握り締めた。そして同時にその両目も強く閉じる。

 (強く)

  ならなければいけない。

  何かを大事だと思うのならば、失いたくないと思うのものがあるのなら。

  それを守れるように強く。守りきれるように強く。

  強く。

 (もっと)

  ――二度と目の前で、友が。仲間が傷つく事がないように。

  すべてを守りきれるとは思えない。けれども望まなければいけない。

  最初から諦めてはいけない。

  人はいつからでも、どこからでも強くなれる。

  想いがある限り。

 (この半年で得たもの)

  抱いた想い、知ってしまった想い。

  瑛己はもう一度ゆっくりと空を見上げた。

 (……あの子はこの半年で)

  何を得たのだろう?

  何を思い、どんな空を。

  その目に、心に映してきたのだろう?

 ・「『蒼』と豆違います?」

  「ああ。少し深い」

  「あは、瑛己さんて、〝空戦マニア〟ならぬ〝珈琲マニア〟ですもんね」

  「……飛と同列に扱うなよ」

 ・二度と目の前で、仲間や友が傷つかないように。

  強くなりたい。

  そしていつか。

  この空にある〝絶対〟すらも守れるくらい。

  強くなりたい。


  守りたい。

  それが想い。

  願い。


 ・まだ意識は朦朧としている、はっきりしない。

  夢なのか現実なのか。頭の中はグチャグチャになっている。

  ――それでも。

  今目の前に誰がいるのか。誰と目が合ったのか。

  それはわかった。

  何とか半身を起こし、立ち止まったその背中を見つめる。

  薄いトキ色の飛行服。

  幻ならば、消えて行くだろう。

  だがその背中は。

  徐々に視界が整っていく中、消える事なく、そこにあり続けた。

  彼女だった。

 ・また俺は助けられたのか?

  【白虎】150機にたった1人で立ち向かっていると聞いて、慌てて飛び出した。

  いつ砕けてもおかしくないような機体で。

  実際、瞬く間に墜とされた。

  機体を飛び出した所までは覚えているが。その後どうなったのか。よく覚えていない。

  でも、機体は入り乱れていた。群がる【虎】の数は尋常ではなく。

  いくらなんでも無傷で、パラシュートで着陸できたなんて。

  その間に狙われなかったはずがない。

 ・彼女に助けられた。

  守られたんだろう。【虎】の群れから。

 ・何かしら、自分は大きくなったような気がしてた。潜り抜けた危険の数から、少しは強くなれたのかと。

  無意識に思っていたのかもしれない……でも。

 (俺は変わらない)

  弱いまま。

 ・――会いたいと、思っていた。

  この数ヶ月、ずっと。

  その彼女が今目の前にいる。

  手を伸ばせば届きそうなのに。

  でもその距離は無限に思える。

  たった1、2mなのに。

 「俺は、君に、助けられてばかりだ」

  遠い。

 ・「空」

  その名を呼ぶ。と、彼女の背中がビクンと震えた。

  「あ、」瑛己は少し照れ臭くなり、視線を外した。「名前しか、知らないから……呼び捨てて、悪い」

  「……いえ」

  小さな声だったが、初めて、彼女が言葉を口にした。

  瑛己の中に、さっきまで感じていた自分への嫌悪のような感情とは別の感情が浮かび上がる。

  喉が渇く。その感情が、胸を締め付けるようで。

  圧迫を受けたように、心臓が、苦しそうに鼓動を強くそして早める。

  「構わない、です」

  「……ん」

 ・「ただ……放ってはおけないと」

  「……」

  「無謀はわかってたんだ。でも」

  「……」

  「君に、」

  会いたかったんだ。

  瑛己の脳裏に浮かんだ言葉。

  その言葉が口から出る寸前まで行って。

  だが瑛己は飲み込んだ。……飲み込んでしまった。

  気恥ずかしさが勝り。

 ・「君は……空みたいだな」

  瑛己は思う。「名前の通り……やっぱり、空だ」自分は何を言ってるんだろうかと。

 「天深くから、皆を守る」

  広く、果てしなく。

  大きな腕と懐で。

  守り、導く。

  それが空。

 ・「私はッ」瑛己はその声にハッとする。

  「そんなんじゃ、ない」

  「空」

  「私は壊すだけ」

  「……」

  「私は空じゃない」

  「……」

   背中が震えてた。

   手を伸ばしたその瞬間、ポツリと頬に冷たい物が落ちた。

   雨だ。

   彼女が歩き出した。瑛己は慌てて立ち上がろうとした。

   だが、着地の時に少しひねったのか、足にうまく力が入らなかった。

  「待て」

   彼女はもう、答えない。

   行ってしまう。

   その背中に向かって。

   瑛己は最後の問いを、口にする。

  「誰から命令されてる?」

  「――」

   一瞬彼女は足を止めた。

   だがその足はすぐにまた前へ、進み始める。

   瑛己は叫んだ。

  「橋爪 誠か?」

  「  」

   一瞬彼女が振り返った。

  「  、――」

   それもあっという間。

   歩き出した彼女はすぐにまた、白い翼で空へ飛び立って行く。

 ・「……そうか……」

  振り返った彼女のあの顔。

  あの驚愕の表情が、すべてを物語っていた。

 「そうなのか……」

  額を押さえた。そしてすぐ、天を仰いだ。

  それからはドカリ、大の字に寝転がる。

  雨が雪に変わっていく。

 「泣いてる」

  空が。

  彼女も今頃、泣いてる。

  瑛己は目を閉じた。

  泣かせたくなかった。

  自分の心も泣くから。

  でも、やはり。

 「……空だ」

  あの子は。

  少なくとも自分にとっては。

  いつも守ってくれ、導いてくれる、そして。

 (守りたいと思う、)

  空だ。


 ・(なぜ)

  本当に、本当に橋爪 誠が彼女に命令しているのだとして。

  なぜ彼女にそんな事を?

  何のために?

  あの人は、『蒼国』軍部で最高の権力を持っている人。上層部の権力図を瑛己はよく知らない。だがその力が国をも掌握しているのは知っている。

 (そんな人が)

  あんな小さな少女に。

 (何のために)

  ――俺を憎め、瑛己。

  かつて彼は瑛己にそう言った。瑛己の父・晴高の葬儀の時である。

  だがそう言われても瑛己は、父の事で彼を恨んだ事はなかった。わからなかったとも言える。

  橋爪は晴高の友。そして瑛己にとって〝好きなおじさん〟の1人であった。

  あれから12年。あの言葉は覚えている、だが彼の胸にあったのは、なぜ橋爪がそんな事を言ったのだろうかという疑問だけだった。本当の意味で憎むような感情はわいてこなかった。

  ――だが、今は。

 「……」

  瑛己はピタリと足を止めた。そして自分の手を見た。それをぎゅっと握り締め、目を閉じる。そこにあるのは完全な闇ではない。だが閉ざされたその世界に。

  この感情は何だろうかと、瑛己は思う。

  熱い。そして……苦しい。

  あえてそれを言葉として表現するならば、それは。

  ――怒り。

 「……」

  12年。

 (おじさん……)

  今初めて瑛己は、その心の内で、橋爪 誠という人物に対して。疑念ではなく、怒りを抱いている。

  唇をかみ締めている事に、気づかないほどに。

  今すぐにでも会いたいと。橋爪に会って話しがしたいと。瑛己は思った。

 ・相手が異国の女性という事もある。身なりも髪も男のようだが、やはり整った顔立ちは女性の物。鈴のような声にもまた、妙に心が揺すられた。

  瑛己はばつ悪そうに頬を掻き、「では、失礼します」とその場を去ろうとした。女性と接するのはどちらかと言えば慣れていない瑛己である。

 ・「〝彼〟は神じゃない、命令されて」

  「え」

  「…橋爪ま―――――」

   言いかけ、瑛己はハッと口をつぐんだ。

 ・「その飛空艇乗りは……神ではないのですか?」

  そんなアガツの問いに。

  瑛己は深く瞬きをして、小さく笑った。「人です」

  「僕らと同じ、人です」

  この世界においては小さな小さな存在。

  何かに悩み抗えない力に翼を翻弄されながらも。

  懸命に飛ぶ、その姿は自分たちと何一つ変わりない。

  人。

  だからこそ。

  「俺は……守りたいんです」

  おこがましいとは、わかっているけれども。

  泣かせたあの背中が、脳裏を過ぎるから。

 ・――戦争になるかもしれない。

  キシワギの言外に含まれた言葉を、その場にいた全員が感じている。

  『黒国』と。

  亡命という言葉が出ている以上、上島一人の行動とは思えない。

  もっと大きな――それは国規模の。

  となれば、出る答えはたった1つ。

 ・「しかし……考えてみれば、今回の件は上島 昌平の存在がわからなければ何もわからなかった。我らは当初、写真に写った【白虎】賊長・テギ、副長・ハヤセと共にいるもう1人の正体はわからなかった。『蒼』からの連絡がなければその男を捕らえるために動く事もなかったし、今回の件に『黒』が絡んでいる事すら知れなかったかもしれない」

  発端はあの写真。だがそれがどこからどういう経緯で『蒼』に送られたかは未だわからない。

  「……」

  そこには誰かの、何らかの意志がある。だが誰が何のために?

  瑛己の脳裏には橋爪の顔が浮かぶ。

  最終的に、【白虎】を壊滅させたのは空(ku_u)だ。

  『黒』、そして橋爪。

 (運命は)

  自分たちをどこへ導くのだろうか?

 (父さん……)

  瑛己の胸のポケットには今日も、晴高の写真が入れてある。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ