聖 咲子(hijiri_sakiko)
・―――考えても答えが出ない事は考えない。
母の口癖だった。
・瑛己の脳裏に浮かぶのは、写真の中の父の姿。セピア色に身を染めて、飛空艇の前で微笑む父の姿だけだ。
母がそれを時折、とても淋しそうに眺めていた事を瑛己は知っている。
そしてそんな母が言っていた。父が残したというたった一つの、瑛己への言葉。
―――自分の空を行け。
・バラードが、流れている。
大分客の減った『海雲亭』は、穏やかな空気に包まれていた。
その歌は、母が好きだった映画ので流れていたものだと、瑛己は思った。
台所で口ずさんでいたその背中が、脳裏に蘇る。
・瑛己が帰ってきている事を聞きつけた近所の人たちが次々に差し入れをしてくれて、食料にも困らなかった。
ひとえに、母親・咲子の人望なのだろう。
壊れかけていた戸板も直し、屋根も修理した。
咲子がとてもきれい好きだった事が、瑛己を動かした。
直しても彼は数日後にはまたここを去る。
それでもきれいにしておきたいと思った。
・ここに母が好きだった曲のレコードがあったはず。かけてみようと思った。
探しているうちに、ふと、母の戸棚にある木箱に目が止まった。
花と蝶が彫られ、赤と黄、緑で色づけされた物だ。見るからに母が好きそうなデザインだった。
一瞬ためらったが、何となく瑛己はそれを開けてみた。
中には封書……宛名を見て瑛己は「あ」と思った。父から母に宛てた物だった。
そして一番奥には小さな手帳が。ペラっとめくってみるとそれは、どうやら父の日記のようだった。
・墓前に、海月から聞いて預かってきた父が好きだったお酒と。その横に、母が好きだった白いコスモスを添えた。
・『どこに行っても、ここがあんたの帰る場所だからね』
いつだったか、母がそう言っていたのを思い出す。
『私がいる、この場所があんたの故郷よ』
「行ってきます」