聖 晴高(hijiri_harutalka)
・「彼の好きだった曲が聞こえてきたから」
「……」
「彼もよく、ここでその曲を弾いていた」
「……」
瑛己はそっと瞼を閉じた。「〝約束の場所〟……」
・「空を、命で翔けてた人」
「空を愛し、飛ぶ事に生きる事のすべてを懸けた……飛空艇乗り」
・その空を命で翔け、いつもまっすぐに飛んでいた。
そしてその果てに、忽然と消えて行った、一人の飛空艇乗りと。
・原田 兵庫の口から「ハル」という言葉が出た時。それは、たった1人の人物の事を指す。
・「ハルに憧れる女は結構いたけどな……結局、あいつは咲ちゃんだけだった。んで、お前の事を、何より愛していた」
・「それに、万が一奴らが……ハルが、あの穴の向こうで生きてたとしても。あいつが、もがかなかったわけがない」
それでもあいつは帰ってこなかった。
・その日の空が、あまりにも澄んでいて。
雲一つない、まっさらな蒼空で。
それは、どこまでも高く。高く高く続いていて。
無限に。世界のすべてを包み込むように。彼方へと導くように。
僕は初めて、空が美しいと思った。
そして、その日。
父は、その空へと還った……。
・「あんたの父さんは、もっとしっかりしてたわよ」
その言葉に、瑛己はビクリと海月を見た。
「父さん……」
「あんたの父さん、聖 晴高は」
スッと短く息を吸い込み。
「いつも、自分は何の迷いもないぞって顔してた」
「いつも凛と胸張ってさ、毅然としててさ。―――兵庫が酔っ払ってつぶれる所は何度も見たけれども、あの人がぶっ倒れる所は見た事なかった」
・「だってさ、超カッコよくって優しくて、紳士的で。その上軽々とピアノまで弾いちゃってさ。憧れないわけがないよ、あんな素敵な人」
・凛としていた。
毅然としていた。
いつもまっすぐ前を向いていた。
何の迷いもないみたいだった。
たった一つの不安さえ。
たった一つの悲しみさえ。
どんな小さな弱さでもいい。
どんな小さな悩みでもいい。
そんな些細な顔さえも。
「私には見せてくれなかったよ」
完璧じゃないあなたの姿を。
・生きる事のすべてを、飛ぶ事に懸けた人。
・「あの人が、上官の指示に文句言ってボコボコにされたとか、命令違反して地下に監禁されたとか。悩んで悩んで飛んだ事も、その時にどれほど悲しい事があったのかも。自責の念に死のうとした事なんか」
知らないけどさ。
「出たトコ勝負で真冬の夜中、仲間を助けに草原を突っ走ったって話もあるから……あの人もやっぱ、あんたと同じ、本当はかなりバカっぽかったのかもね」
・瑛己の脳裏に浮かぶのは、写真の中の父の姿。セピア色に身を染めて、飛空艇の前で微笑む父の姿だけだ。
母がそれを時折、とても淋しそうに眺めていた事を瑛己は知っている。
そしてそんな母が言っていた。父が残したというたった一つの、瑛己への言葉。
―――自分の空を行け。
・『俺は、瑛己に、憎まれているのかもしれないな』
『当然と言えば当然か。親父らしい事の何一つ、してやらなかったからな』
・『いつか……僕の父さんは兵庫おじさんだって、言われそうな気がするよ』
『何言ってんだよ、馬鹿ヤロ』
『……兵庫』
『お前がそんな事で、どーすんだよ』
『……』
『そんな事思うんなら、もっと顔出してやれよ。瑛己のためにも、それに、咲ちゃんのためにも』
『……』
・『俺は……ひょっとしたら、2人に会うのが怖いのかもしれない』
・『俺も変わってしまった……色々な事を見すぎたよ』
・『2人に会うたびに思うんだ。2人の目に映る俺は、一体どんな姿なんだろう? って。瑛己は俺の事をちゃんと覚えていてくれているのだろうか。咲は……俺に、幻滅してやしないかってな』
『ハル』
『自分の知る聖 晴高は、こんな人間じゃなかった。こんなの、自分の愛した男じゃないって……そんなふうに思われやしないかって』
『……だからって、俺が行ってどーするんだよ』
『……』
『どう思われようとも、お前はお前だろうが。瑛己の父親は、お前一人なんだ。そして、咲ちゃんを抱きしめてやれるのは……お前だけだろうが』
『……』
『それに。咲ちゃんだって、わかってるよ。お前の強さも弱さも、馬鹿な気持ちも全部ひっくるめて。お前の事、愛してるんだよ。正直、こっちが妬けるくらいにな』
『兵庫……』
『瑛己だって。わかってくれてるさ』
『……』
『あいつも、気丈に振舞ってるけどさ。一応、俺の前ではちゃんと笑ってくれるけど』
『……』
『俺はお前の代わりに2人に会うたびに、いつも思うよ。何で俺は、聖 晴高じゃないんだろうって』
『……』
『どんなにあがいても、俺は、お前にはなれない』
『……』
『週末、顔出してこいよ。雑務は俺が引き受けるから』
『……悪い』
『今更』
笑い声が聞こえた。
それに少し安心して、息を吐いた。
・始めて飛空艇に乗ったのは、瑛己がまだ、3歳の時だった。
瑛己はその時の事をよく覚えていない。だが時折母が、とても懐かしそうに語って聞かせてくれた。
作戦の帰り偶然立ち寄った晴高は、咲子に内緒で瑛己を胸に抱き、飛んだ。
町の上をグルリと回り、山を空から臨み、飛ぶ鳥を追いかけて。
陸に戻ると咲子はカンカンで。晴高は苦笑しながら何度も頭を下げた。
だが瑛己は、とてもとても嬉しそうだった。
お父さん、お父さん、ねぇ、乗せて。連れてって……基地に戻る直前まで、晴高の手を掴んで離さなかった。
――今度、また、お母さんに内緒でな。
出立前、晴高は瑛己の頭をクシャクシャにして、いっぱいに抱きしめた。
・父が好きだった、〝約束の場所〟。
・隊長・聖 晴高。口数は少ないが、いつも凛としていて。どれだけ情に厚いか知っている。そんな彼を支えるように、いつも笑い話や馬鹿な話をして、隊を盛り立てていた副長・原田 兵庫。
磐木にとって、晴高と兵庫は憧れであり、目標であった。
眩しかった。
そして、その2人をいつも静かな視線で……どこか、淋しげに見つめていたのが。当時、第304飛空隊、隊長・白河 元康。
そしてそんな白河にいつも苛々しながら厳しい視線を送っていたのが、副長・上島 昌兵だった。
・なぜそれほどまでに、上島は白河を憎むのだろうか?
(あの日も……)
『すまん。すぐに行く』
困ったように言う白河と。
その後ろで、何とも言いがたい目で晴高を見た上島。
あの時の顔が、磐木は忘れられない。
『心配するな』
そう言って白河の肩を叩いた晴高は。数時間後〝空の果て〟へと飲み込まれた。
・「今から20年前の『園原』航空祭、10回目の記念大会。その時、模擬空戦の相手として招待したのが、聖 晴高君率いる隊だったのよ」
「父さんの……」
瑛己は写真を見た。
「そしてその時相手をしたのが、橋爪君率いる隊だった」
「え」
「そこで2人は出会ったのよ」
20年前の航空祭で―――。
「その頃はまだ聖君は部隊を任されたばかりで。『湊』でも駆け出しの部隊。でも当時『湊』の総監をしていた高藤が凄く推しててね。『湊』の1番はこいつらが取る。いやこいつらはこの国で1番の隊になる!って。だったら勝負しましょうよって話になったのよ。うちで1番の隊と高藤の1番の隊」
雨峰はクスクスと笑った。
「私も高藤も若くて。お互い、総監になって基地を持ったばかりだったから。同期だし、いつも彼とは競い合ってきたわ」
「……試合の、結果は……?」
瑛己は恐る恐る聞いた。それに雨峰が嬉しそうに笑った。「勝ったのはうちの斉藤君の隊」
「……と言いたい所だけれどもね。勝敗は結局つかなかったの」
「?」
「被弾数も同じくらい。どっちがって判別はつけられなかった。しかもどちらも、誰も落ちそうにない被弾跡ばかり」
「……」
「悔しいけれどもね。同点って事になったのよ。本当にあの時は悔しかったわ。でも同時に、仕方ないかとも思った。それだけ凄い空戦だった」
「……」
「長年色々な飛空艇と空戦を見てきたけれども。いまだ私にとっての1番は、あの時の模擬空戦よ。命を懸けた実戦よりも……ね」
実戦に勝る、模擬空戦。
そんなものが存在するのか?
瑛己は目を見張った
「その写真はその時の物よ。あの時聖君には生まれたばかりの子供がいるって言ってたけれども……あの時の子がこんなに大きくなったのねぇ」
・『飛空艇大破。総監激怒』
『臨時部隊、編成は明日までに』
『増員の手続き、兵庫は不可。しかしとても無理。明日相談』
『鈴木墜落。海に飛び込む。溺れかけた。水泳の訓練必要』
『昼飯うまかった』
父は筆まめではなかったのではなかろうか? 瑛己はそう思った。
1日、1文。しかもとても簡単な文章が綴られていた。
『咲子に手紙。返事、夕焼け、コロッケ』
本人にしか意味がわからないような文章も多かった。
その中でふと、目に留まったのは。
『橋爪、結婚式。来週。白雀。休暇届け早めに出す』
橋爪……というと、橋爪 誠総司令の事であろうか?
20年前、2人は『園原』の航空祭で知り合ったのだと、『園原』総監・雨峰 かんろは言っていた。
そこから交友が始まったのだろう。
・瑛己はもう一度、父の手帳を見た。
そこには一言。
『もう一度、瑛己と飛びたい』
・「そこいくとハルは全然つぶれないのよねー。つまんないくらい」
・(上島さんとの出会いは)
14年前。
初めて赴任した『湊』空軍基地で。
彼が所属した301飛空隊と共に、当時基地に並び立っていたもう1つの飛空隊、304。
その副隊長をしていたのが、上島 昌平という男だった。
当時から磐木は、上島にいい感情を抱いてはいなかった。
いや、今よりもっと。
磐木は上島を、憎んでもいた。
いつも、何かと自分たちに絡んでくる男。
任務内容、撃墜記録、隊員の技量如何。
事ある事に晴高に難癖をつけ、挑みかかってくる。
晴高も兵庫も、笑って受け流していたけれども。歯牙にもかけていないという様子であったけれども。
磐木は上島の嫌味な笑いを見るたびに、いい気分をしていなかった。
『隊長は、あの人の事を何とも思ってないんですか?』
意を決し、晴高に聞いた事がある。
彼が何と答えたのかは覚えてないけれども。
記憶にある晴高は、笑っていた。
上島のあの、小馬鹿にしたような目、そして皮肉な口調。
でも晴高は最後まで。
磐木の記憶の中で、上島を悪く言った事はなかった。
「……」
晴高が気にしないのなら、自分が気にする事ではない。
磐木にとって晴高は絶対的存在。
そんな彼が相手にしないのならば、自分も相手にするべきではない。
そう思ってきたけれども。
・ああ、そう言えば。晴高と兵庫も高藤総監には殴られてた。あれは何でだったんだろう?
理由は忘れたけれども、その後皆で打ち上げだって言って町に繰り出したんだ。確か焼肉屋。晴高と兵庫は何事もなかった様子で大笑いしてたな。
・晴高とこの人は到底違う。
(もしも隊長が生きていたら)
今頃あの人も総監なのか……? ふと思う。
でも、どう考えてもあの人が権力を望むとは思えない。生涯現役を貫きそうだ。
(けれど、あの人が総監になったら)
迷わず皆がついていくんだろう。それこそその基地は、国内最強の基地になるかもしれない
・(聖隊長だったら)
何事かと、追いかけるんだろうか? そう思って自嘲気味に笑った時。




