海月(miduki)
<1部>
・『海雲亭』看板娘
・もう何年も、そういう連中を相手にしている。それこそ、生まれた時からだ。
・そして彼女も、何だかんだと言いながら、そういう彼らが嫌いじゃなかった。
・「空を命で翔けてる……か」
・『海雲亭』
・そしてその向こうに見えるのは、空を渡る風の棲家。『湊』空軍基地がある。
・「常連。ハルと2人、毎日のように行ったからなぁ……今時、あいつの事を知ってるなんて言う女ときたら、海月くらいしかいないって」(兵庫談)
・『海雲亭』にもよく顔を出した。店の看板娘・海月に今回の事を話すと、彼女は心配そうな顔と面白そうな顔を両方覗かせた。
「そりゃ一番悪いのは、兵庫だわね」
・「私に一度も顔を見せず、そのまま行くつもり」
「……」
「あんたのやる事と言ったら、わかってるんだから」
「……」
すまない。兵庫は目をそらした。
「いい……けどあんたも、私が何を言いたいか、わかってるでしょう?」
・基地に背を向けて去っていくその姿を見ながら、海月は思った。
―――これ以上、自分を責めないで。
・海月は持っていた手提げから小瓶を取り出すと、「お父さんの好きだったお酒」とふんわり笑って、石塔にかけた。
瓶からこぼれ流れて行く様を、瑛己はじっと見つめていた。
カラになったそれをしまい込み、海月は小さく息を吐いた。
「……時々。こういう星のきれいな夜には、ね」
・「あんたの父さんは、もっとしっかりしてたわよ」
その言葉に、瑛己はビクリと海月を見た。
「父さん……」
「あんたの父さん、聖 晴高は」
スッと短く息を吸い込み。
「いつも、自分は何の迷いもないぞって顔してた」
「……」
「いつも凛と胸張ってさ、毅然としててさ。―――兵庫が酔っ払ってつぶれる所は何度も見たけれども、あの人がぶっ倒れる所は見た事なかった」
「……」
「私はあんたの父さんに、憧れてた」
瑛己が息を飲んだのがわかった。海月はそれに小さく笑い、続けた。
「だってさ、超カッコよくって優しくて、紳士的で。その上軽々とピアノまで弾いちゃってさ。憧れないわけがないよ、あんな素敵な人」
―――恋していた。
「だからぶっちゃけ、奥さんがいて、子供までいるって聞いた時は。……ごめん、ちょっと妬いちゃった。えへへ」
「……」
―――こんな告白話を。
「さらにぶっちゃけて言ってしまえば……何とか振り向いてくれないかなーとか。10代後半の海月さんは、思った事もあったわけよ」
「……」
―――きっと、ずっと私は。
「けど、結局晴高はいつも優しく笑うだけで。それ以上の顔しなかった」
凛としていた。
毅然としていた。
いつもまっすぐ前を向いていた。
何の迷いもないみたいだった。
たった一つの不安さえ。
たった一つの悲しみさえ。
どんな小さな弱さでもいい。
どんな小さな悩みでもいい。
そんな些細な顔さえも。
「私には見せてくれなかったよ」
完璧じゃないあなたの姿を。
「だから、私にとってあの人の思い出は、きれいなままだよ」
―――笑い話と一緒に。空へ―――。
「だから……晴高がその空で何を思って。何を求めて飛んでいたのか、私にはわからないけれども」
生きる事のすべてを、飛ぶ事に懸けた人。
「あの人が、上官の指示に文句言ってボコボコにされたとか、命令違反して地下に監禁されたとか。悩んで悩んで飛んだ事も、その時にどれほど悲しい事があったのかも。自責の念に死のうとした事なんか」
知らないけどさ。
「出たトコ勝負で真冬の夜中、仲間を助けに草原を突っ走ったって話もあるから……あの人もやっぱ、あんたと同じ、本当はかなりバカっぽかったのかもね」
「……バカですか」
瑛己が小さく苦笑した。それにニヤリと笑って「うん」と即答した。
「運命の女神様は、バカでまっすぐで、すっごく悩んでても顔に出せないような……そんな奴が好みなのかもね」
だけどもね、瑛己。答えは一つじゃない―――晴高が好きだった言葉よ」
「……」
「考えて考えて……悩んで悩んで。そうして答えを探す事もあるわ。あの聖 晴高でさえね。空を飛ぶ事、どれだけの想いを抱えて、不安を抱えて。彼だって飛んでいたかわからない。そしていっぱいいっぱい考えてこれが正しいと思って出した答えすら、信じられなくなる事もある」
それが絶対正しいと、神に誓う事ができた答えですらも。
「……」
「ただ、」
目を閉じた海月の瞼に、優しいあの笑顔が蘇った。
「例えどれほど万人に罵られ、後世に嘲られるような答えであっても。それを出すのは自分自身よ。そしてそれを信じる事ができるのも、その意志を誇る事ができるのも」
脳裏に浮かぶ、聖 晴高の瞳が。
「たった一人。あなたの人生は、あなただけのものよ」
<2部>
・クルクルとした大きな目でこっちを見て。
「兵庫」
小さくて、少し、甘えたような声。
・「怒鳴りたいのはこっちでしょう!?」
「……」
兵庫はギョッとして振り返った。
「ロクに連絡もくれない、『湊』にもこない。たまにきたと思っても、私のトコには顔も見せずに去っていく。この12年、あんた、私に対して随分いい態度取ってくれたわよね? 兵庫、私が、あんたが私の事避けまくってんの、気付かないとでも思ってんの?」
「海月……」
「それで挙句に、大怪我して動けない状況だって? 行き倒れた所を助けられて、手紙すら自分で届けられない状況だって? 誰を差し置いても自分で全部抱え込んで、人に物を頼む事を知らないあんたが、手紙届けてくれって? それも白河さん宛ての手紙を??」
「……」
「兵庫、」
私が、どんだけ心配して。
どんだけ、どんだけ……。
「海月……」
「あんたは、何も知らない」
「……」
「全部、何もかも知っているような顔して、何であんた、わかんないわけ? 何も知らないじゃないの、あんたなんか、あんたなんか」
・「…… 一緒にいたい」
・『海雲亭』はほとんど被害に遭わなかった様子で、「こんな時だからこそ」と親父は翌日から店の営業を再開した。
海月は被害に遭った所を回り、片付けを手伝ったり、炊きだしのグループに加わり配って周ったりと忙しそうだった。
だけど真っ黒になって走り回ってる海月を見て、瑛己は、なぜかきれいだと思った。もちろんそれを言うと、「瑛己、喧嘩売ってるのね?」と拳を固められそうだったので、黙っていた。
<3部>
・海月が何度何があったか聞いても、結局秀一は何も答えなかった。
海月はその姿にため息を吐き、とりあえず今夜はここに泊まって行くように勧めた。
秀一は断ったが、海月は頑として譲らなかった。
「こんな雨の中、そんな様子で、放り出せるわけがないでしょう?」
「ごめんなさい、海月さん……」
食堂の2階にある一室で。
泣き疲れたのか、すぐに秀一は寝息を立てた。
一晩、海月は母親のように彼の傍に付き添った。
<4部>
・軽く汗をぬぐい、お盆を持った。大きいのが2つ。両手が完全にふさがる。
それを持ったまま、お店の脇にある階段をタッタと上がっていった。まったく歩調がぶれない様子はさすがである。
・海月は困ったように笑ったが、「じゃぁ一杯だけ」と、コップを持った。
「んー、おいし」
「ハハハ、いいねー、その顔」
「だってもう、下は暑くて暑くて。喉カラカラだったもん」
「じゃ、俺っちからも一献」
「やーん、止まらなくなっちゃうじゃんかぁ」
新からの二杯目を、何だかんだと嬉しそうに海月は飲んだ。
その時麦酒をケースごと持ってきた兵庫がそれを見て、「おい、海月、飲みすぎんなよ」と半分笑いながら言った。