聖 瑛己(hijiri_eiki)<第3部>
・ずっと言い続けているその姿に、さすがの瑛己もウンザリ顔で飛を見た。「暑い暑いと言うな」
「余計暑くなる」
「……ほな、寒い言えば涼しくなるんか」
「なる」
・あの時体に火傷を負っていた瑛己も、もう動く事には支障はない。跡は残ったが痛みはもうない。
・「うげ、ブラックかいな」
「嫌いか?」
「ようこんな、苦水飲めるなぁお前」
「いらないならもらっとく」
「……ええわ、タダやし、一応飲む」
・「何やこれ! めっちゃギンギンに冷えとるやないか!!」
「そうか? この前まで冷えが悪かったから、適当に機械をいじってみたんだけど」
「お前の方が、やっぱり無茶するわ」
・あの時、秀一が意識不明になってどれだけ飛が動揺していたか。それは秀一には「絶対禁句」という事になっている。
面倒臭そうに秀一を見ている飛の内心が、どれだけ喜んでいるか。
それを考えると、瑛己は笑い出しそうになるのをこらえるので必死になるのである。
今も、気だるそうに歩きながら、気遣うように秀一を横目で見ている彼は。
あの一件で少し変わったなと……瑛己は思った。
・「珈琲、ブラックで」
・(日嵩基地の)直接上空を通りはしなかったものの、その付近の地理には何となく見覚えが出来てしまっている。複雑な気持ちになった。
・やはり飛は少し変わった。
瑛己の脳裏をよぎったのは、あの時……意識不明の秀一を前にして彼の名を叫んでいた飛。
そして、
『あいつが、俺より先に死ぬ、ワケがないんや』
『なぁ、瑛己……人の運命って、何やろう……? 生きるって何やろう? 死ぬって……何なんだろう?』
呟いていた、その横顔。
・滞在は1週間に及ぶ。替えの服は幾らかボストンに詰め込んできたが、洗濯はできるだろうか? 瑛己にとっては白河の小遣いが幾らかよりそちらの方が重要だった。
・何かが変わった。
飛の中で何かが。
その原因の一端を瑛己は知っている。
「……」
飛にとっての秀一……。
・瑛己は寝起きが悪くはない。
そんな彼をもってしても、秀一には勝てなかった。
「ああ……」
「珈琲入れますか? ブラック」
「ん……ちょっとミルク入れてほしい」
・缶とは違う、上質な香りがする。
部屋に備え付けてあったインスタントの物を使ったんだろうが、調度品同様、これもまた上質の物のようだった。瑛己にはわかった。
・瑛己は自分が履いていたスリッパを手に取ると。
無表情のまま、それで飛の頭を思いっきり叩いた。
スパーンといういい音が鳴り響いた。
「ってー! 何すんねんお前!?」
「……別に」
そのまままた履きなおし、「俺、シャワー浴びる」
・―――フリーライターの、田中 義一。
(いや、【竜狩り士】山岡 篤……)
「聖?」
「……おじさんの知り合いの人です」
「原田副長か」
磐木はまだ、兵庫の事を〝原田副長〟と呼ぶ癖が直っていない。
「ええ……昔からよくしてもらってる人で」
「そうか」
「……」
ウソを、ついた。
何となく。
直感的に。
・気持ちは乗らない。
だが。
(……)
命の恩がある。心情的に無視は、できなかった。
だがこれはあくまで自分の中だけの事で納めておきたかった。
だから結局誰にも真相を話さず、指定の場所へとやってきた。
・瑛己はとりあえず頭を下げた。
「この前は」
「? 何?」
「……助けてもらって」
ありがとうございます。
何となく苦虫を噛み潰すような気持ちで呟いた。
「……ああ、あの時か」
山岡はハハハと笑った。「忘れてた」
「確かに、あの時は凄かったな……無凱も、あの局面でまさか逃げられるとは思ってなかっただろうに」
「……」
「フン、俺の方が一枚上って事で」
「……」
「そこ、笑うトコだろ。そんな苦い顔しなくても」
「……」
「何にせよ、あれは来への借りを返しただけだから。気にする事はない」
・気乗りはしないが……確かに腹が減ったので、手を伸ばしてみる。
美味しい。
昨日の店も美味しかったが、ここも美味しい。
だが値段は、ここの方が高そうな気がした。
おごりだろうか? 瑛己は一瞬自分の財布の中身を脳裏にめぐらせた。
・「君にはもっと早くに会いに行きたかったんだけどね……こっちもバタバタしてて」
「……俺じゃなくて、海月さんじゃ」
「わかる? 当たり」
「……」
「だから睨むなって。ほんと、そういう時だけ顔に出るよな」
・来にはあの時、『白雀』から『湊』まで送ってもらって以来、会ってはいない。
昴も同様だ。あの襲撃から数日はいたが、ふらっと姿を消した。
・「それと、彼女には最近会った?」
「?」
「空(ku_u)だよ」
「いや……」
と、答えてから。
次の瞬間、瑛己は自分が犯した失敗に気がついた。
慌てて山岡を見たが、もう遅かった。
「やっぱりな」
山岡から笑みが消えていた。「空(ku_u)は女か……」
・どう取り繕ってももう遅い。
瑛己は自分の軽率さに切り裂かれる思いだった。
こいつは空(ku_u)の事を探っていたじゃないか。
助けてもらった恩はある。
けれども。
もっと慎重になるべきだった。
こんな、食事にほだされて。
(…………)
最悪だ。
ガタン、と無言で席を立った。
「待て」
「……ご馳走様でした」
そう言って、自分の財布からありったけの札を取り出すのでもう精一杯だった。
これ以上ここにいて、また余計な事を言いたくない。
「待てって。座れ。わかってたから」
「……」
「俺は、空(ku_u)の正体に薄々気づいていた。ただ確認が取りたかった。それだけだ
・「2ヶ月前に起きた『ビスタチオ』での事件は知ってるか?」
「……?」
「産業の中枢都市『ム・ル』が一晩で壊滅した事件だ」
「……」
記憶の海をひっくり返す。だがその事件の事は、おぼろげにも浮かんでこなかった。
「知らなくても無理はない……国内ではそれほど大きく取り上げられていなかった。それに2ヶ月前だ。君たちが丁度『日嵩』に襲撃された時分の事だ」
「……それが、一体……」
「単刀直入に言おう。やったのは、空(ku_u)だ」
「―――!?」
「俺も現地で調べてきた。間違いない。生き残った連中の話を聞いたら皆一様に言ってたよ。夜中に突然爆弾が降ってきた。驚いて空を仰いだら、白い鳥がいた。あれは神の化身だ。我々の業を諌めるために現れたんだと」
「……」
「だから仕方がない。罰が当たったんだと。元々宗教色の濃い国でもある。皆がそう言ってたよ。面白いくらい口を揃えてな」
「……バカな……」
「本当にそうだ」
瑛己は顔を上げた。「空(ku_u)は……彼女は、そんな事しない」
「どうして言い切れる? 何を根拠に?」
「……白い鳥って言ったって……空(ku_u)とは限らない……」
実際に鳥だったのかもしれない。それが飛空艇だったという確証もないはずだ。
夜ならなお更の事。
「確かにそうだな」
でもな。と言葉を切り、山岡はマティーニを頼んだ。
「……俺もあの日、たまたまその付近にいてな」
「……」
「……見たよ。あれは空(ku_u)だ」
「……」
深いため息をつきながら、山岡は話す。
「嫌な予感がした。だから、飛んできた方向へ慌てて行ったら案の定だ。街は壊滅。人が逃げ惑ってる。どうしようもできない状況さ」
「……」
バカな……。
彼女が、街を、消した……?
何の罪もない人たちを……??
(……)
いや、罪のあるなしは別としよう。何もわからないんだから。
だがなぜ、あの子が……?
先ほどの後悔よりももっともっと深い闇が、瑛己の心にズシリと圧し掛かった。
「聖君。君は考えた事があるか?」
「……?」
「彼女が、誰の命令を受けて飛んでいるのかを」
「……??」
命令?
彼女が??
「誰かの……???」
考えてみれば。
おかしい。
瑛己が見た空(ku_u)の正体は、自分とそう歳の変わらない少女だった。
だが世間で言われている空(ku_u)は違う。
伝説的なパイロット。
その姿に、誰もが魅入られれる。
誰もかなわない。
瑛己は見た。あの無凱でさえ貫くほどの実力を。【海蛇】何十機に絡まれても平然と渡り合っていた姿を。
まして自分たち7人が総がかりでもかなわなかった。
圧巻のパイロット。
倒した者は歴史に名を残すとまで言われるほどに―――。
(けれど)
彼女が名を知らしめる――ほどに。
彼女の名前が知れる――ワケは。
その腕を、空で、振るっているから。
圧倒的なその腕前を。
何かに立ち向かい。
何かを倒している、だから。
語られる、彼女の伝説。
(何のために?)
彼女は飛んでいる?
彼女は立ち向かっている?
何を倒して。
何を置き去りにして。
(それは)
―――たった一人、彼女自身の意志で?
「……」
少女がたった1人で、たった1人の意志で、飛んでいるとは……思えない。
大して話した事があるわけじゃない。瑛己と空は、すれ違った程度の仲だ。
けれども。
「……気づいたか」
誰かに命じられて。
それならば、合点が行く。
誰かの意志を背負って、飛んでいるというのなら―――。
けれどもそうなれば。
「一体、誰に……」
「俺はそれを調べている」
「……」
運ばれてきたマティーニには目もくれず、山岡は胸元からタバコを取り出した。
そしてピンとジッポーを跳ねて。火を点した。
「……大体の推測はついてるがね」
「一体誰が」
瑛己にしては珍しく、掴みかからんばかりの勢いで聞いた。
山岡はここで初めて苦笑を浮かべた。
「推測だから。まだ言えないよ」
「……」
「ただな、瑛己君」
これだけは言っておこう。
「変わらなきゃならないんだよ」
「……?」
「何か大事なものができたなら。それをどうしてもどうしても守りたいと思った時」
人は。
「変わらなきゃならないんだ」
「……」
「君は変われるか?」
「……」
「彼女を守るために」
変われるか?
・なぜその都市が破壊されたのか。
なぜそれを空が撃ったのか。
誰がそれを仕向けたのか。
そしてどうすれば、彼女を守る事ができるのか。
自分はただの空軍のパイロットに過ぎない。
彼女の正体、性別を言う言わない、そんな事で守った事にはならない。
本当に守るという事が何なのか。
(変わる……)
そしてもう一つ。
なぜ山岡は、それを自分に、話したのか―――。
・瑛己の記憶の中にある橋爪 誠と、今そこにいる橋爪 誠。
少し歳をとった、だがそれだけでは埋められない何かがあった。別人のように見えた。
……もう、手の届かない人なのだと瑛己は思った。
あの日、頭を撫でてくれたあの男は。
(もう、どこにもいないのかもしれない……)
・橋爪に駆け寄る者がいた。
細身の、黒いスーツ姿の者。女性だ。後ろに縛った髪が揺れている。
秘書だろうか? それ以上何も思わず、瑛己はほとんど無意識にその姿を見ていた。
彼女は腰を落とし、橋爪の耳元に何かささやいている様子だった。
橋爪は一瞬険しい顔をしたが、身動き一つせず彼女の言葉を聞いていた。
やがて勤めを終えると、彼女は素早い動きでその場を去り、人の中へと消えて行った。
一瞬だけ振り返ったその顔は。
(時島さん……?)
・あの人に……似ていたような気がした。
「……」
気のせいかもしれない。
確証が持てるほど、瑛己は時島と見知った中ではない。
そしてその時。
瑛己は、自分の周りに自分と同じ事を思った人間がいた事を。もちろん知るよしもなかった。
・ここからではその飛行はよく見えない。どんなふうに飛ぶのか見てみたいと瑛己は思う。
アクロバット飛行……戦闘ではなく、人を魅了するための飛行技術。
それも単独ではなく編隊での飛行だ。おそらく、たくさん練習を積んだのであろう。
この施設からでは離着陸しか見えないが……3日間のうちに是非見てみたいと瑛己は願った。
・その様子に気がついた磐木が、瑛己に声を掛けた。
「飛はどうした」
「まだ少し飛空艇が気になるようで」
「うむ」
磐木にしては珍しく、飛の背中をじっと見つめていた。「聖」
「はい」
「よく気をつけてやってくれ」
「……え」
「明日、遅れるなよ」
それだけ言って、磐木も背中を向けた。
「……」
・瑛己は何となく不思議な面持ちで、去り行く磐木の背中を見つめた。
額に浮いた汗を手の甲でぬぐい。瑛己はふと胸元のポケットを探った。
飛やジンならタバコが入っているその場所。瑛己のそこからは、1枚の写真が出てきた。
セピアに汚れた写真。それほど鮮明な物ではない。
けれども瑛己には、そこに映っている人物が誰かすぐにわかった。
父・聖 晴高と、橋爪 誠。
2ヶ月ほど前、『白雀』で偶然見つけた写真だ。
地図から消され、瓦礫と廃墟しかなかったあの街に、なぜかそれだけポツンと置かれていた物。
あの日以来瑛己は、ずっとこの写真を、胸のポケットに入れ続けている。
・橋爪は……今朝見た姿よりも少し若く、けれどもずっと穏やかな顔をしているように見えた。
原田 兵庫と、橋爪 誠。
2人は瑛己にとって、父・晴高の友人……そう思っていた。
交友の深さは知らない。
もちろん出会いのいきさつなどわかるはずもない。
ただ、瑛己が小さい頃家を訪ねてくれ、一緒に遊んでくれたのがこの2人であった。
(いや)
橋爪に遊んでもらった記憶はない。
橋爪とどういう時間を過ごしたのかはよく覚えていないけれども。
頭を撫でてくれた。それは良く覚えている。
大きな手だった。
そして温かかった。
その手に撫でられただけで、物凄く安心した覚えが瑛己にはある。
だから、瑛己にとって橋爪は「手の大きいおじさん」「手の温かいおじさん」だった。
軍の事も性格も、何もわからないけれども。
ただそれだけ。それだけで充分。
瑛己にとって橋爪は、「いいおじさん」「大好きなおじさん」だった。
「……」
12年前、父・晴高の葬儀のあの日まで。
瑛己の中でそれは揺るがず、絶対であった。
けれどもあの日。
橋爪は彼に言った。
『俺を恨め。瑛己』
あの日は雨が降っていた。
周りの人たちは涙雨だと連呼した。幼い瑛己はその日、その単語を初めて聞いて、初めて知った。
自宅に入りきらないほどの弔問客の中で。
橋爪は、少し離れた木陰にポツンと1人立っていた。
瑛己はそんな彼を見つけ、側に寄った。
何と声をかけたかは覚えてない。
ただ、しっかりと耳に焼き付いているのは。
『お前の親父を殺したのは、この俺だ』
俺を恨め。瑛己。
そして彼はそのまま、咲子に会う事もなく去って行った。
・震える飛の肩に。
瑛己には、かける言葉が見つからない。
初めて、口下手な自分を呪った瞬間だった。
・瑛己は橋爪を見た。
瓦礫の中で立ちすくむその背中が。ふっとこちらを振り返った。
「……」
瑛己は声を上げようとした。
だがそれより先に、橋爪は周りの人間に促されて。足早に去って行く。
彼はそれを目で追った。
・(橋爪のおじさん……)
目が合った。
そんな気がした。
だとしたら、12年ぶりだ。
あの日以来の。
・「お前は? ……大丈夫か?」
問われ、瑛己は顔を上げた。
磐木がじっと彼を見ていた。
すぐに視線を外し、「……わかりません」と告げた。
「……」
この時瑛己は、磐木に話すべきだろうかと思った。
磐木も空(ku_u)の正体を見ている。
山岡と会った事、そして言われた事。空が異国の町を壊滅したという話……彼女のその背後にいるのが誰なのか。
そしてかつて基地に時島という女性が現れ、銃を向けられた事。
彼女を開会式で見た事。
その彼女がそばにいたのが。軍部最高の地位にいる人物であった事。
「……」
その人物と瑛己は、知らない仲ではない事。
磐木に話すべきだろうか?
瑛己は今まで何が起こっても、1人で考え、1人で処理してきた。
父も母も他界した今、頼るべき身寄りがないというのも理由の1つである。
しかし、瑛己は感じる。
事が大きすぎる。
(自分1人では)
抱えきれない。そう思う。そう思った。
自分の未熟さを痛感する。
飛の事もそうだ。
彼の異変に気づいていたのに。
(何もできなかった)
昨晩の事を思い出す。
項垂れた飛に、瑛己はかける言葉を失った。
(あの時に何かできれいれば)
今ここに至る結果が、違うものになっていたんじゃないのか?
「瑛己?」
「……」結局瑛己は、「……何でも、ないです」
何から話していいのかわからず、そう言った。
それでもしばらく磐木は、瑛己の言葉を待つようにじっと黙って彼を見ていたが。
「……、……そうか。何かあったら、すぐに言え」
「……はい」
「いつでも構わん」
・この時初めて瑛己は、磐木がいつになく多弁な事に気がついた。
(心配されている)
そう思った。
瑛己は頭を垂れた。
嬉しかった。
そして、さっきすべて話してしまえばよかったと後悔をした。
・「聞いた」
「何を」
「お前が助けてくれたって」
「……」
「……悪かった」
「……ああ」
「せやけどお前も無茶するなぁ。飛行中の機体に飛び乗って? 俺を引っ張り出した? 無茶苦茶やわ。アカン、それ、俺にはようマネできへん」
「……」
「顔に似合わずお前はなぁ。ホンマに。先に言うとく。お前がそういう状況になっても俺はできんからな。期待すんな?」
・磐木は缶を持ったまま、低くうなった。「聖のもだ」
「らしくない被弾があった。実弾なら持って行かれていただろう」
・「あなたは晴高君に似てる」
雨峰は優しく微笑みそう言った。
「きれいな瞳。お父さんにそっくりだわね」
「……」
「まっすぐ生きなさい。聖 瑛己君」
己の信じる道を。
・出立はいつ? 明日です。
それから少しの間、診察室から呼ばれるまでの間、何気ない会話をした。
先に呼ばれたのは雨峰だった。
「また会いましょうね」
微笑む彼女に、瑛己は大きく頷いて見せた。
診察室に消えて行くまで、瑛己はその姿を見送った。
その笑顔は夏の匂いと共に彼の記憶に鮮明に残った。
未来永劫に。
・(星井と空戦)これまた小声で、瑛己は答えた。「二度とごめんだ」
あんな、視界の死角死角を縫うように飛ぶ飛行など。
しかしあれこそが、斉藤が星井を引き抜いた所以なのだろうとも思う。
・瑛己は基地内にある図書館へときていた。
『湊』へ戻って10日ほどが経つ。
最近は、時間があればここにきている。
とりあえず『飛空新聞』に目を通し、それから置いていあるすべての新聞に目を通す。
その作業を終えた後は書棚を舐めるように見て行く。
それがほぼ日課となりつつあった。
・「あいつの気持ちも、少し、わかる」
「……?」
「俺たちにできる事は、飛ぶ事だけ。それを失ったら、何も残らない」
「そんな事は……」
「ある」
「……」
「飛ぶ事は生きる事。命そのもの」
「……」
「飛は特に、その思いが強かっただろ。……きついだろうな」
「……」
「でも飛は、」と区切って。瑛己はまっすぐ前を見た。「飛ぶ事よりもっと大事な事を……見つけたんだろうな」
「え……」
「お前の命だよ」
「……」
秀一は言葉を失った。「何それ……」
「飛が一番心を痛めたのは、意識が戻らないお前の姿……だった」
「……」
「多忙と過酷な作戦も、負担の1つかもしれないが……お前が倒れなければ、何でもなかったんだろうさ」
「……」
「お前が倒れて初めて、気づいたんだろう、あいつは」
自分の思いがいかに軽率であったか。
そして自分が、何のために飛んできたのか。
飛ぶとは何なのか。
ただ面白い、それだけで飛んできた。そこに生まれる責任とか、結果とか、そういうものは全部無視して。
だけども。
「飛ぶ事は、命そのもの」
命を矢面にして、自分たちは飛んでいる。
命を矢面にしているからこそ、こんなにも自分たちはここで、燃える事ができる。全力を尽くす事ができる。
その一瞬の緊張感がたまらなく心地よく。
だからこその、満足感。
それゆえの、陶酔感。
自分が求めていたものは、そういう物。
だけどそれは一歩間違えれば。
―――死ぬ事。
生きる事と死ぬ事は、延長線上。
「飛びたい戦いたい……その果てに、お前が死にそうになった。面白半分に突っ走ってきたあいつにとってそれは、かなりの痛手だったんだろう」
「……飛は、僕の事なんか」お荷物程度にしか……と言いそうになった秀一を。
瑛己は苦笑して制した。
「飛の心配ぶりは、お前だってわかってるだろ」
「……」
『園原』での彼の異常なまでの気遣い。秀一が気がつかないわけがなかった。
「僕のせい……」
「いや」
瑛己は首を振った。「それだけあいつは、お前を大事に思ってるって事だ」
「……」
「それに気づいたんだろう。そしてその瞬間にできた心の隙間にヒビが入った。そういう事だろう」
「……」
「大事な物ができると、人はもろくなる」
瑛己は空を見上げた。「でも、それは、弱さとは同義じゃない」
「飛は、弱い奴じゃない。弱いから心を病んだわけじゃない。……世にいるすべての者、俺もお前も、いつだってその可能性がある」
ちょっとした、精神のズレ。
ただそれだけ。
心に生まれた葛藤が起こした、少しの隙間。
「元に戻るには、少しの時間と……あいつの意志が、必要だろう」
「……」
「俺たちにできる事は、それを見守ってやる事」
「瑛己さん」
「理解して、傍にいてやる事。……俺はそう考える」
「……」
もう一度、瑛己はブランコを漕ぎ出した。
秀一は地面を見て、やがて自分もブランコに乗った。
「できるかな」
「何が」
「僕に、飛を守るって」
「もうやってるだろ」
「……そうかな」
「そうだろ」
「うん……」
「秀一、」
「え?」
「逃げるな」
「……」
「あいつから、目をそらしてやるな」
・笑う秀一と、頭を掻く飛。
瑛己はその両方を見て。
ふと、履いていた靴を片方脱いだ。
そしてそれで飛の頭を。
「ちょっと待て瑛己。何する気や」
「別に」
「お前それで殴る気やろ? そうやろ」
「この前、いい音がしたから」
「そ、それだけの理由か! ちょっと待て、待て、待て―――」
ボコンッ!!
飛の悲鳴が響いた。
が、スリッパよりもいい音がしなかったので、瑛己はいまいち満足できなかった。
でも秀一が大笑いしたので、まぁいいかと、思いなおした。
・「瑛己さんの実家ってどこだっけ?」
「北の山奥だ」
地名を言ってもわからないだろうから、そう言って流した。
「北なら、岐北線で?」
「終点からバス」
・実家か……瑛己は虚空を見つめた。
(ずっと行ってないからな)
「瑛己さんが戻れば、家族の人も喜びますよ」
秀一は笑った。
そうかな、と瑛己は苦笑した。
確かにうちの両親は、自分のこの現状を知っていれば、墓参りに来ない事をなじったりはしないだろう。
・そして一瞬考えたが。「……あの」
「何だ」
「……」
「何かあったか」
「……山岡 篤に会いました」
・「俺も少し調べてみよう。お前も気になるだろうが、無茶はするな」
「はい」
「また何かあったら言ってくれ」
今日はここまで。
磐木は背中を向けた。
だが不意に瑛己を振り返り、「瑛己」
「話してくれて、ありがとう」
風に消えるほど小さな声でそう言ったように聞こえたのは、気のせいだったかもしれない。
・航空学校に入学する15歳まで過ごした故郷。
父と母が生まれて育った故郷。
山間に夕日が消えて行く。
それを見ながら。
瑛己は、実家の傍にある小さな墓所へと向かった。
その一角に、その石碑は建てられていた。
聖 晴高と、聖 咲子。2人の名前が刻まれた1つの石。
背負ってきた荷物をその辺りに置き。
「帰りました」
瑛己は手を合わせた。
・埃っぽいのは否めないけれど。
実家だ。
安心する。(水は出る。コンロも使える。電気は調理場だけ。居間は×、ランプ)
・「……母さん」
ふと、呟いた。
母が亡くなって2年。
あれからここに戻ってきたのは今日で……何回目だろうか?
帰宅しても誰もいない、出迎えてくれる者のいない家。
少し慣れた……そう思う自分と。
それでもやはり、寂しいと思う自分と。
「……」
親戚はいる。いつでも頼っておいでとは言われている。
けれども何となく瑛己には踏み出せない壁がある。
カビ臭い。けれどもその匂いの中に確かに混ざっている、懐かしい匂い。
それを感じながら瑛己は目を閉じた。
・夢を見た。
母の夢だった。
おかえり、といつもの笑顔で迎えてくれた。
いい匂いがする。今日はカレーかな。
靴も鞄も全部玄関に放り出すと、後できちんと片付けなさいと怒られる。
でも何よりも先に。
母さんの顔が見たかった。
今日、テストでね。
今日、友達とね。
あふれ出す、たくさんの思い。言葉。
それを全部母は笑顔で聞いてくれた。
瑛己は父さんに似てきたね。
そう言われるたびに、瑛己はちょっと複雑な気持ちになったけれども。
母が嬉しそうに笑うから。
その笑顔を見れば、それでもいいかと思った。
・日差しが眩しくて。目を開けると。
泣いてた自分に気づいた。
苦笑した。
やっぱりここは、瑛己の実家で。
心落ち着く、安らぐ、そういう場所だけれども。同時に。
思い出が胸をくすぐる場所。
・母の同級生で、小さい頃からよく知るおばさんだった。
夏の休暇で帰ってきた事を伝えると、おばさんも掃除を手伝ってくれた。
その晩は、おばさんの家でご馳走になった。
・水道や電気も近所のおじさんが直してくれた。
瑛己が帰ってきている事を聞きつけた近所の人たちが次々に差し入れをしてくれて、食料にも困らなかった。
ひとえに、母親・咲子の人望なのだろう。
壊れかけていた戸板も直し、屋根も修理した。
咲子がとてもきれい好きだった事が、瑛己を動かした。
直しても彼は数日後にはまたここを去る。
それでもきれいにしておきたいと思った。
・探しているうちに、ふと、母の戸棚にある木箱に目が止まった。
花と蝶が彫られ、赤と黄、緑で色づけされた物だ。見るからに母が好きそうなデザインだった。
一瞬ためらったが、何となく瑛己はそれを開けてみた。
中には封書……宛名を見て瑛己は「あ」と思った。父から母に宛てた物だった。
そして一番奥には小さな手帳が。ペラっとめくってみるとそれは、どうやら父の日記のようだった。
「……」
何となく瑛己は、胸がざわついた。何かとんでもない物を探り当ててしまった、そんな心境になった。
父から母への手紙……何て書いてあるんだろう? とは思ったが、何となく、中を見るまでの勇気は出なかった。
代わりに、父の日記を見てみた。一応心の中で詫びておく。
・瑛己はもう一度、父の手帳を見た。
そこには一言。
『もう一度、瑛己と飛びたい』
・「いや~、それにしてもさすが咲ちゃんだねー。いつも家の中ピカピカ!! 主婦の鑑だね!!」
一歩家に入るなりそう叫んだ兵庫に、瑛己は苦笑した。
「掃除したの、俺なんだけど」
「何だと!? 瑛己が!!? いやぁー、凄いね。お前、いいお嫁さんになれるよ!!」
・「インスタントでごめん」
「いや充分。ほんと、手際いいよなぁ。海月ん所でバイトできるんじゃないか?」
「空軍を首になったらそうするよ」
・最初は兵庫が作ると言ってくれたが、料理が得意でない兵庫の慣れない手つきに、結局瑛己も手伝う事になった。
その包丁さばきを見た兵庫はまた、「瑛己ー、いい嫁さんになれるぞ」
「俺の嫁さんになるか?」
「そういう趣味じゃないから」
キスを迫ってくる兵庫をかわし、笑った。
瑛己は思った。こんなに笑うのはいつぶりだろう。
ここに戻ってきて瑛己は、基地にいたら感じなかった物を感じ続けていた。
孤独、そう言い換えてもいい。
けれども兵庫と過ごし、初めてそれを忘れられた。
(おじさんは、)
迷惑かもしれないけれども。瑛己は思う。
瑛己にとって、〝家族〟と呼べる人……この世でもう唯一、そう思えるのは。
(おじさんだけ、なのかもしれない……)
小さい頃からずっと、瑛己はひそかにこの男が父であったらよかったと思っていた。
だが今は、父の代わりではなく……兵庫として、瑛己にとってこの世でたった一人の肉親のような、親戚のような。唯一無二の存在であった。
・昔の話、あの時ああだった、こうだった。おじさんがあんな事するから俺は……いや、だけど瑛己、あれは俺のせいじゃない。あいつがあんな事したから……大体お前だってあの時……そんなの覚えてないよ。ウソつけ。この前だってお前……。
2人の話は尽きなかった。
夜は更けて行く。けれども時間を越えて、瑛己と兵庫は笑い合った。
「そういや今、何してんの? この前も急に基地からいなくなっちゃってさ」
「あー。仕事入って。悪い悪い」
「おじさんいつもそうだし」
「俺がいなくなると寂しい?」
「別に。平和になっていいけど」
「そんな事言うなよー、俺が寂しくなるじゃんか」
・この前の、あれ。高藤の親父さんが言ってた事……気にすんな」
「……おじさん」
「〝空の欠片〟とか、〝空の果て〟とか、お前には関係ないよ」
だから。
「あんまり深く、考えるな」
「……」
一個人、ただのパイロットとして。そんな物に関わる機会はない。
確かに1度は、瑛己はその石を運んだとされる。
けれどもそれは、業務の一環であって直接関わったわけではない。
きっとこれからも。
そう、……きっとこれからも。
「……」
だけど。晴高は飲み込まれた。
ただのパイロットだった。なのに彼は飲み込まれた。
聖石を解き放ち、空を開け放つ?
……何だか絵空事だ。
そんな物に巻き込まれ。母は夫を亡くし、瑛己は父を亡くした。
おかしな話だ。
SF映画じゃあるまいし。
・空へと駆け上がっていく兵庫に、瑛己は手を振った。ずっとずっと、その姿が見えなくなるまで。
やがて空にその影は溶けてしまい。瑛己の心に少し空っ風が吹いたけれど。
(大丈夫)
この空がある限り。
道は続いている。
兵庫と自分の間の距離は、思うほど、遠いわけではない。
・赴任して半年あまり経つが、個人的に話した事はない。
瑛己は前を走る小暮の背中を見、少し身に緊張を覚えた。
・「ちと、きついわ」
「……ん」
「お前、休暇中筋トレしてた?」
「……」
掃除してた。そう言おうとしてやめた。代わりに「お前は」
「寝てた」
「……そうか」
・2人が聞いている事を忘れたように、小暮は呟いた。「人は空を目指した」
「そこに到達した今、次に目指すのは、〝神〟の域かな」
―――〝神〟の域。
もう一度瑛己は、小暮の言葉を頭の中で反復させた。
・無断で基地に侵入し、誰に会う事もなく飛空艇を奪って今、こうして空にいる。追ってくる者さえいない。
瑛己はふと、前を行く小暮の機体を見た。
ここに至るまですべて、彼の後を追いかけてきた。
もしあの時小暮が現れなかったら。瑛己たちは未だに診療所で頭を抱えていたのだろう。
『黒』が主犯だと……そんな事すら、彼らだけでは思い至る事はできない。ほんの小さなヒントでさえ、瑛己たちは持ち合わせていなかった。
小暮がいたから。
彼が情報通であるという事は、瑛己も充分よく知っている。
だが……何かひっかかる。
ここに至る経路。小暮は『燕蔵』が最初の赴任場所であると言っていたが―――。
あまりにもできすぎているような気もする。
「……」
これ以上なくうまく行ったのに、なぜこんなに胸が晴れないのだろう?
・今日の飛のあの集中力は、隊の誰が見ても目を見張るだろう。今現在を切り取れば、国内最強のパイロットかもしれない。
あれが本気の飛。
それはまるで、鬼神のごとき。
(今日の仕事は少なさそうだ)
そう思っているうちにも、瑛己の後ろについていた黒の機体が1機、飛によって撃墜された。
煙から逃げるように瑛己は上昇する。
そしてその間に、最後の1機を小暮が墜とした。
一瞬、こんな事なら診療所で帰りを待っていてもよかったなと本気で思ったほどであった。
・《小暮さんッ》
無線。珍しく声を荒げた瑛己の声がけたたましく鳴る。
《国際問題になります!》
《手をこまねいていたら全部持って行かれる》
《しかしッ!!》
瑛己がここまで声を張るのは珍しい。
・《決めろ、飛》
クソ、クソ……ッ!
墜らなきゃならんのか―――!?
ギュッと瞼を握り締めたその時。
《小暮さん! 機体側面!》
瑛己の叫びが耳に入った。
《秀一だ!!》
《何だと!?》
飛は顔を上げた。
「瑛己ッッ!!!」
《飛、左前方側面!!》
ブンッと回り込む。
「あ」
機体側面が開いている。
脱出用ハッチか? しかし問題はそこに背を向け立っている者。
なびくほどの髪はない。パーカーに短パン。背中だけ見たらそれは少年。
だがそれは。
「秀」
窓越しに見やれば、軍人に囲まれているのがわかった。
「秀――――ッッッ!!!!」
《聖ッ!!! 援護急げ!!》
《了解ッ!!》
・誰かを守っているようで、結局誰かに守られてきた。
背中をさらしているつもりが、逆に誰かの背中にかばわれてきた。
もっと強くならなければいけないと思った。
……けれどもそんな中で。
この手で……仲間を撃つなどと。
仲間の命と世界を天秤にかけ、この手で……そんな局面を共に乗り越えてきた仲間を撃つ……そんな選択を迫られる日がこようとは。
・小暮は撃ったのか?
そして自分は最終局面まで至った時。
「……」
撃ったのか? 撃てたのか?
撃つのか?
(俺は)
国と仲間の命、どちらを選択したのか?
「……」
瑛己は目を細めた。そして改めて思った。
・小暮も気づいた。
その瞬間、瑛己の飛行が変わった。
つい少し前までは、明らかに疲労の色が出ていた。
だが。
「―――」
変わった。
スピードが上がる。
それは機体が持てる実力以上の速度。
(風に乗っている)
空を渡る風のごとく。
まるでその飛行は、風の動きが見えているよう。
人が造りし空翔る馬、飛空艇。
それは言い換えれば空においては異物。元来あるべきものではない。
鳥は風を利用し翔る。それは自然の中で空にあるべきものとして。
だが飛空艇は違う。人が無理矢理押し上げている物。
最終的な所では、空と相容れる事はない。
―――だが今の瑛己の飛行は違う。
その翼、すべらかに。
風を読み、空気を渡り。
鳥のごとく。
まるでその姿は、空の女神に。
(愛されている)
小暮は目を見開いた。
こんな飛行、彼は、見た事がない。
何一つ反発する事なく。
その飛行は、翼の呪縛を越えた。
自由である。