風迫 ジン(kasako_jin)<4部>
・何となく気楽に飛空艇に向かう。それは他の面々も同じようで。いつもは出立前に必ず3本煙草を潰すジンが、今日は1本だけでやめている。
・吹きすさぶ風の中。
雲の間を雷光が轟く。
さながらそれは、竜のごとく。
牙を向き、襲い掛かってくる。
荒れ狂う空に、操縦など一杯一杯。
翼を水平に維持する事など、不可能。
敵と戦り合うのとどちらが楽なのか?
そんな事を思いながら、ふっと笑ったのをよく覚えている。
――しかし、それが、運命の分かれ道だった。
もしあの時決断しなかったら。自分は今どこにいるのだろうか?
無茶苦茶に飛ぶ一機の青い機体。
その後を追う事なく。
翼を翻していたならば。
・「……この時期はそれほどでも」
「そうか」
「一番きついのは、夏至の頃ですよ」
「……そうか」
そう言って磐木はふっと微笑んだ。
ジンも少しだけ口の端を緩めて、また、窓の外に目を移す。
――今を生きる、すべての命が。
どれだけ思って生きているのだろう?
今した行動が、やがての自分運命を分けるなど。
今選んだ小さな選択が、やがて生死を分かつほどの物になろうとは。
もしあの日、あの機体を追いかけなかったら。
磐木 徹志という人物に会う事はなかった。
そしてそれは同時に。
ジンの命はあの日あそこで、終わっていた事を意味する。
極寒のあの雪の中。
今この場に立つ事などなく。
ジンは思う。まるでさながら俺は幽霊だ。
だが奇しくもまだ足はある。そして生きている。
そして本当のピリオドの時間まで。
まだ、選ぶべき選択は、残されている。
・そんな視線に気づいたキシワギは磐木を見「やあ」
「磐木君。久しぶりだね。元気そうだね」
「……大佐殿も」
低く呟く磐木を見て。
キシワギはチラとだけジンを見た。そして口の端に笑みを浮かべた。
・新が出、飛が行き、秀一、瑛己、小暮と続く中で。
ジンは一人動かず。
「風迫」
そんな彼を磐木が促した。
だがジンは真っ向、キシワギを見据え。
やがて、小さく頭を垂れた。
そしてようやく一歩踏み出しかけた彼に。キシワギが足早に彼に寄った。
そして彼の耳元に口を寄せ、
「ジン」
「……」
「元気そうで。何よりだ」
「……おかげさまで」
「またお前がこの地に訪れるとはな。嬉しい限りだ」
「……」
「くれぐれも、素行には気をつけたまえ。あれから何年経ったか知らんが」
「……」
「お前を向く銃口に、変わりはない。いいな」
「……どうも」
・前方にある渡り廊下になった場所に、よく知る男が立っていた。
風迫 ジンである。
夜中の2時にこんな場所で、彼は煙草を吹かしていた。
・その時不意に「聖」。
振り返るとそこに、パッと何かを放られた。
慌てて掴むと。
カイロだった。
そのままジンは煙草を消し、瑛己に背を向けた。
その背中に瑛己は「ありがとうございます」と頭を下げた。
ジンはそれに特に返事をするわけでもなく、自分の部屋へと帰っていった。
朝まで、そのぬくもりは消えなかった。
・同じくジンも無表情で煙草を吹かしている。
・「飛びたいのか」
不意に声を掛けられ、ジンが珍しく肩を揺らした。
背後に、磐木が立っていた。
「……」
珍しく動揺を浮かべたジンに、磐木が苦笑する。
「お前の背中が取れるとはな」
「……はは」
ジンがこういうふうに笑う事は滅多にない。
彼は煙草に口付け、もう一度空を見た。
そんな彼を見、磐木はその背中をポンと1つ叩いた。
「上には掛け合っておく。夕方までには戻れよ」
「……」
雪はしばらく降らないだろう。
髪を一つ、掻きあげた。
「……お人よしが」
一つ呟き。歩き出す。
――滑走路へ。
・2度と。
生きてこの地に戻る事はないのだと。ジンは思っていた。
・出立前、ジンは磐木に何度も聞いた。
本当にいいのかと。
自分は基地に残っているべきではないのかと。
そのたびに磐木は言った。
「何を言ってる。胸を張っていればいい」
空母艇『雄大雲』、それに乗り込む直前、白河にも聞いた。
だが彼もまたいつもの優しい笑みを浮かべ、
「もう君は、『七ツ』副隊長・風迫 ジンだろう?」
そう言われるたびに、ジンは心の奥底で戸惑いを覚えた。
そして、この地に立ち、思う事は。
・この地方では特有だ。冬場は北から流れ込む冷気があって、地表の空気とぶつかって揺らぐ隙間が生まれる。
そこを飛ぶのがジンは好きだった。
――昔から。
風の感覚は、ある種、においを感じるのと同じだ。
この風の吹き加減、そして感じるにおい。
ツンと鼻を刺すような、それでいて最後には独特の甘みがあるこの感触。
『湊』のどこを何度飛んでも決して、感じる事はできなかった。
ああ、戻ったんだここに……そう思った。
・切り立った崖の向こうに見えるのは湖。
それをぼんやり見て、胸元から煙草を一本取り出す。
そのままくわえたが、火はつけなかった。
そこは海のように広く、ここからでは向こう岸は見えない。
そしてそここそが……と、ジンの脳裏を色々な思い出が過ぎり。そして吹く冷たい風にすべてそれは奪い去られていく。
・この土地の寒さには慣れてると思っていた。
しかし肌を刺す冷気に、明らかに体は拒否反応を起こしている。
そう思ってジンはようやく思い至る。
……自分はいつの間にか慣れていたんだ。あの土地と、あの空気、あの世界。
・彼は知っている。己の中にある氷解を。
(あの日から俺の時間は)
結局で、止まったままなのかもしれない。
・空を離れたくない。戻りたくない。
――鳥に生まれられたらよかったのに。
だがその哀愁も、機体が完全に止まれば楽になる。
そして機体から降り、地面に足をつければ。その瞬間から。
彼の心は地を走る定めを持つ、陸の生き物へと変わる。
それでも名残惜しくて空を見上げるのは、そこに残したものを思ってか。
手を伸ばしても空は遠く遠く彼方で。また、掴む事などできようにもない――まるで、置いてきた過去のように
・周りを取り囲む一団。
それぞれが思い思いにジンに笑いかけ、肩を叩いている。
飛の質問に答えながらジンは思った。
――これが、俺の。
今の居場所。
・生きている限り。
足跡は残り続ける。
これからも。
――この先も。
過去を全部連れて。今を生きて行く。
・《お前ら》
ポツリと、声しか聞こえぬはずの無線から、不意に黒い何かが飛び出した。
《ここで塵になるか?》
・ただわかっている事は。これ以上飛と新が勝手をしたら、本気でジンは撃ち墜としにかかるだろう。
それがわかるからこそ、2人は戻り、磐木は安心して吐き気と1人戦っていられるのである。
・「……クラさんってさー、美人だよな」
声を張り上げるアガツを前に、新が小声で呟いた。
「雪乃ちゃんに言うぞ」
間髪入れず小暮に言われ、苦い顔をしたその刹那。
最後に地面に降りた磐木が、無言で新と飛の背後へ歩み寄り。
そのまま思い切り、2人をぶん殴った。
派手にぶっ倒れた2人の姿を一瞥するや、磐木自身も口元を抑え。
「大丈夫か磐木!?」
……白河に付き添われ、1番に休憩所へと歩いていった。
顛末を見ていたジンは無言で煙草を取り出し火を点ける。
「チッ、先を越されたか」
と言いながらも歩きがてら2人を蹴飛ばしていくのは忘れない。
「隊長も副長も、こいつら潰して基地まで運転できなくなったらどうするんですか」
苦笑しながら言う小暮に、ジンは事も無げに言った。
「埋めて帰る」
・磐木とジン。
2人には、それだけで通じるものがある。
・(〝ルー〟か……)
その名は、この国の古い言葉で〝原点〟を現す。
それを教えてくれたのは。
――ジン、生きてッ……!!
(あれから5年)
ジンは遠く彼方を見つめる。
(二度とこの地には)
こないと思っていた。
(二度とあいつにも)
会えないと思ってる。
贖罪。
――あなたに感謝こそすれ恨むなど。私にはあり得ません
――裏切り者。殺してやる
・……なあ、ゼンコー。
お前はそう言ってくれたけどな。俺にはわかってるんだ。
俺は逃げた。
詭弁だ。お前らが助かった、そんなの詭弁だ。
あのまま散るべきだったんだ。
俺は死ぬのが怖かった。だから。
結果としてお前らを裏切って、まだ、のうのうと空に上がってる。
軍の狗に成り下がって。
フズの気持ちもわかるんだ。俺があいつだったら、あいつが俺だったら。
だから俺は。
あの日から……俺が生きてきたその本当の理由は。
誰でもいい。俺を狩ってくれ。
かつての仲間に。
殺される事を。
……なぁ、ゼンコー。
俺は本当はあの日、フズに再会したあの日。
心のどっかで……安心もしていたんだ。
逃れられないと。運命は逃してくれないのだと。
その絶対的事実に。
笑ってしまうほどに。
・――今を。
矛盾してるんだ。ジンは目を閉じた。
それが生きるという事か?
罪悪に苛まれながらも、それでも生きたいと。
こんな環境、あるはずないんだと否定しながらも。それでも時間と共にいつの間にかあの国に体も、そして心も……受け入れていた。
今は。今を。
守りたい。
1秒でもいいから。長く。
ただただ。そう願う俺は。
地獄の番犬を名乗っていたあの頃と。
――あなたは変わった。でも、今のあなたの方が殺しがいがありそうだ。
お前の言うとおりだよ、フズ。
でも俺は。弱くなったとは思わない。
・贖罪、懺悔、後悔、未練、そして裏切り
すべてを飲み込んで、いつかくるであろうその日まで
生きたいと願う、そんな俺は
醜い生き物かもしれない。けれど
恥じる気持ちは、ない
笑うなら笑え
・《戦いを終わらせる》
無線から。声がこぼれた。
《これ以上空を不穏に染める事は断じて許さん、のでしょ?》
それは深く低い声音。色で例えるなら黒。
磐木はこの声をよく知っている。
・そして現時点、この空を一番よく知っているのはこの男。
・磐木とジンが上島(ビスタ戦)を墜とした。
・――戦争になるかもしれない。
キシワギの言外に含まれた言葉を、その場にいた全員が感じている。
『黒国』と。
亡命という言葉が出ている以上、上島一人の行動とは思えない。
もっと大きな――それは国規模の。
となれば、出る答えはたった1つ。
・「【白虎】に潜入していた者が持ち帰った物です。その中の1枚」
そして彼は横になったまま、その腕を差し出した。
写真が握られたその手が向けられたのは、真横にいる白河でもなく、その一番傍にいた磐木でもなく。
――窓辺に、一団から少し距離を置いて立っていたジンへ向けて。
「この男に、覚えはあるか?」
かすれた声で彼はそう言った。
少しの間、視線を向けられたジンは動く事なくキシワギをじっと見ていたが。やや間を開けて、彼はその手の写真を取った。
そして一目だけ見て。
「……」
さっと磐木に渡した。
「……?」
磐木は眉を寄せ、白河へ。その肩越しに他の者たちはそれぞれ、何だろうかと覗きこんだ。
「この男は……!」
写真を見た白河の顔が変わった。「確か、」
「『黒国』黄泉騎士団・第一特別飛行隊隊長・フズ」
白河が言うより早く、ジンが淡々と答えた。白河はジンを振り返った。
「そして――元【ケルベロス】のフズ」
「やはりか」
「……」
沈黙が落ちる。ジンは明後日を見た。
――写真に写る、片眼鏡の男。
「【白虎】の基地内で偶然撮影した物だそうだが」
その顔はまるで、カメラに気づいていたかのように。しっかりとこちらに視線を合わせ。
笑っていた。
「奴は『黒』に下ったのか……」
ジンは目を伏せた。
そして彼もまた、少しだけおかしそうに、口の端を吊り上げた。
・「俺がその頭だったと言ったら、どうする?」
・「空(ku_u)撃墜命令……いや、それ以前にあいつは『零』での一件にも関わっている。あの時俺はあいつともう1人、かつての仲間を見た」
――仲間。
「上島総監による『湊』襲撃も、俺はあいつから聞いた。絶望の朝がくると。だから俺は慌てて基地に戻った」
――かつて、袂を別ったあの日から。
「あいつの目的は、俺を殺す事」
俺の失意。俺の絶望。
そして死。
――況や復讐。