聖 瑛己(hijiri_eiki)<第2部>
・「確かに、飛は空軍よりも、空賊や渡り鳥の方が似合ってそうだな」
・「……俺にも、暴れ出した飛を抑える気力はない」
・「橋爪総司令……」
瑛己はふっと、視線を伏せた。
・(橋爪総司令、か……)
その人を、瑛己は知らないわけではなかった。
・「『〝空の果て〟についての研究書』……?」
「……何やこの、教科書みたいなド・分厚い本は……」
・そして、知っているんだなと思った。
父である、聖 晴高の事。そして彼が最後、どこを飛んだのか―――。
(知ってたんだな……)
秀一も、きっと、飛も。
知っていて、何も聞かないでくれた。
知っていて、何も変わらず接してくれた。
後ろからトボトボと着いてくる2人の気配に、ふっと、瑛己は苦笑を浮べた。
「……ありがと」
ボソっと、呟いた。
それに秀一は、ハッと顔を上げた。
・こいつに期待なんかかけてしまって、大丈夫なのだろうか……? 瑛己は、飛にも白河にも、一抹の不安を覚えた。
・「コラ、瑛己!! なーに1人で和んでるんや!!」
戦闘参加要請がきても、瑛己は嫌そうな顔をしているだけ、他人の顔を貫き通した。
・皮肉ったように笑うこの男が、瑛己は好きになれそうにないと思った。
態度もそうだが、何よりその目。
明らかに、見下している。
・早くこんな谷間、抜けてしまいたいと、瑛己は苛々と思った。
速度を上げてしまいたい、高い空を舞い上がりたい―――。
瑛己でさえも操縦桿を握る手がもどかしく、焦れていた。飛などは一体、どんな気持ちで飛んでいるのだろうか。
・「思いやられるな……」
「あれ? 瑛己さんがそんな事言うなんて」
「……俺も、ああいうのはどうも苦手だ……」
そう言ってらしくなくベットに倒れ込む瑛己を見て、秀一はふっと笑った。
「……何が可笑しい」
「いえ。だって、瑛己さんが『苦手だ』だって」
「……悪いか」
「いえいえ。ちょっと、嬉しくて」
「……何が」
「何でもないですって。ちょっとかわいいなって思っただけですよ」
「…………お前に言われたら、俺も終わりだな」
「何ですかそれー! どーゆー意味ですかー!」
・《―――聖、》
撃ったのは、磐木だった。
その声に、瑛己はらしくなく安堵を覚えた。
瑛己は岩肌のギリギリを抜け、そして声の主を探す。
《逃げろ》
そしてようやく、その機体を見つけた時。
その機体からは、黒い煙が立ち昇っていた。
「隊長」
そしてその背後にいる者を。瑛己は呆然と眺めた。
雨に濡れて光るそれは。まさに。
銀色の、獅子。
「……無凱……」
刹那、瑛己は誰かの笑顔を見た。そして光を。
―――後の事は、覚えていない。
・自分はその父の背中を、追いかけている。
ずっと、そんな事認めたくなかった。
空軍に入った理由もただ漠然と、母が望んでいるような気がしたから……そして、〝空の果て〟について知りたいから……それだけでその道を選んだ。
父の事など、関係ないと思っていた。
自分は父の顔もよく知らない。基地に行ったきりで、あまり家に戻らなかった。遊んでもらった記憶もなければ、話した記憶も曖昧だ。
そういう記憶はむしろ、兵庫の方が深い。
だから、瑛己はどこかで、父の事を憎んでいた。……憎もうとしてきた。
(けれど)
瑛己は気付いた。
自分は父の背中を追いかけていると。
父を求めて、飛んでいるのだと。
自分が飛ぶそのワケは。
(―――会いたいのか……?)
その空に、その面影を、探しているのかもしれない。
・【天賦】に、磐木達が捕らえられている。
それを聞いて、瑛己は、心が、よくわからなくなった。
ただ、じっとしていられないと思った。
動かなければいけないと思った。
何をするとかしたいとか、そんな問題よりも。
動かなければいけない。
走り出さなければいけない。
それだけが無意識に、瑛己の心を占めていた。
そこには正義感も使命感もなかった。
ただ動きたい―――。
・〝空の果て〟。
その原因が。父が消えた、その空を。
〝空の欠片〟、そんな物が……?
「まさか」
―――〝空の欠片〟。
それを守って。
「飛んでいた……」
「君は……その目で、見なければならないのかもしれない」
それはひとえに。
聖 晴高の息子がゆえに。
そしてその背中を追いかけて。
この空を、翔けんとするがゆえに。
・始めて飛空艇に乗ったのは、瑛己がまだ、3歳の時だった。
瑛己はその時の事をよく覚えていない。だが時折母が、とても懐かしそうに語って聞かせてくれた。
作戦の帰り偶然立ち寄った晴高は、咲子に内緒で瑛己を胸に抱き、飛んだ。
町の上をグルリと回り、山を空から臨み、飛ぶ鳥を追いかけて。
陸に戻ると咲子はカンカンで。晴高は苦笑しながら何度も頭を下げた。
だが瑛己は、とてもとても嬉しそうだった。
お父さん、お父さん、ねぇ、乗せて。連れてって……基地に戻る直前まで、晴高の手を掴んで離さなかった。
――今度、また、お母さんに内緒でな。
出立前、晴高は瑛己の頭をクシャクシャにして、いっぱいに抱きしめた。
瑛己はその時の事を、よく知らない。
記憶があるのは、いつだったか、兵庫と一緒に上がった空。
やはり咲子にはこっそり、古びた複葉機の後ろに乗せてもらった。
『お前のとーちゃんは、空が好きでたまらないんだよ』
その時はただ、凄いと思った。
『んで、お前のかーちゃんは、そんなとーちゃんが好きでたまらないんだよ。ハルも、咲ちゃんが好きでたまんねーのにな。んで、お前が愛しくて仕方がないっつーのに』
空がきれいとか、景色とか、風とか。そんなものを感じる余裕もないくらい。
『お前のとーちゃんは、しこたま、不器用なんだよ。何で人ってのは、好きになればなるほど、不安になるんだろう? 言葉なんかなくたって、全部伝わってるし、わかってんのにな』
必死に歯を食い縛って、振り落とされないように、置いていかれないように、前を見据えていた。
『だけど瑛己、お前は……どんな時も、とーちゃんの事を、信じてやってくれ。じゃなきゃあいつは、帰る場所をなくしちまう。おじちゃんとの約束だ。な?』
・『空軍に、行こうと思う』
あれは、飛空学校へ行くと決めた時だった。
瑛己は母の顔を見なかった。見るのが怖かったのかもしれない。
『そう』
咲子は短くそれだけ言って、洗い物を始めた。
そんな母の背中を、瑛己は黙って見ていた。
『母さん』
『自分の空を、行け』
『……』
『父さんの言葉』
『……』
『あんたの好きにしなさい。私が止める理由はない』
『……悪い』
――あれから4年後だった。
どうにか学校を卒業し、『笹川』空軍基地への配属が決まった……そんなある日。
咲子は、空に還った。
「……」
どうやって家に戻ったのか、覚えていない。
瑛己が見たのは、静かに横たわる母の姿。
元々、心臓に病を持っていた。それがここ数年悪化していた……それは後になって知った事だった。
母の口元は、なぜか、笑っているように見えた。それは、瑛己がそう思いたかっただけなのかもしれないが。
「……」
母の事を考えると、瑛己の胸は哀しく痛む。時折、叫び出したい衝動に駆られる。
(父さん……)
父の事を思うようになったのは、母が亡くなってから。
胸の中に渦巻く様々な想いを、すべて、〝父〟という名前に向けようとした。
哀しみと痛み、不安と絶望。
どうして父はいなくなってしまったのだろうかと。
父がいてくれたら母は、……そして自分は。
そんな事考えた所で、何も変わらない事を知っている。
だからこそ―――瑛己は、辛かったのかもしれない。
今目の前にある現実をすべて〝父〟のせいにしてしまえるほど、瑛己はもう、子供ではなかった。
むしろそれができていたら。どれほど楽だっただろうか。
「……」
父は、母と共に生きていた。
そして。
「……」
瑛己は瞼を伏せ、スッと立ち上がった。
――瑛己は父と共に、生きている。
・瑛己の耳に、微かに、リン……という鈴のような音が届いた。
鮮明な音ではない。サビに濁った、聞こえるか聞こえないか、そんな程度の音だった。
だが、瑛己にはそれが聞こえた。そして音を振り返った。
・――微かに微笑む、その顔は。
瑛己はその人を知っている。
いや、知っていた。父が消えてしまう、その前までは。
家にもよく遊びにきていた。
冷たいとか、怖いとか、仏頂面だとか、そういう印象よりも。
瑛己はその人を、こう思っていた。
手の大きなおじさんだと。
いつも、瑛己の頭を撫ぜてくれた。
あまり言葉を交わした記憶はない。だけど……。
瑛己はその人が、嫌いではなかった。
世間で流れるどんな噂よりも。
瑛己はその人が、時折見せたはにかみ笑いを……信じていた。
ずっと。
いつかの、あの日まで。
――橋爪 誠。
あの人の事を。
信じていた。
・「聖 瑛己君」
ゆっくりと、サングラスを半分だけ外し、
「相変わらず、運命の女神は、君を愛しているのかい?」
ハハハと軽く笑った、その顔は。
「お前っ……!!」
「んじゃ、そろそろ行くかなー。またそのうち、」
空で――。
そういうと、男は再び空へと飛び上がった。
――俺はただ、真実が知りたいだけだよ。かつて瑛己にそう言ったその男は。
「山岡 篤……」
・だがなぜだろう……恨む気持ちも憎しみも、湧いてこなかった。
ただ、その横顔が。哀しいと思った。
伏せた目に落ちた影が。なぜだか瑛己には、泣いているように見えた。
そう言った昴の肩を、瑛己はグイと掴んだ。
・「なっ……」
そしてその双眸を、じっと見つめた。
昴は目を見開いた。そして瑛己の腕を振り解こうともがいたが、瑛己は離さなかった。
じっと。
まっすぐなその瞳で。
瑛己は昴を見つめた。
昴も。それに、魅入られたように……目が離せなかった。
「……」
「男の面子だ」
―――女を戦場に送るような事。
「わかってくれ」
できるわけがない。
「……」
瑛己はスッと手を離した。が、昴は動かなかった。
・「行かないと行っているだろうッ!!」
白河のこんな怒声を。
瑛己はギリと歯噛みをした。そして、
「あんたがそんなふうに命を捨ててて、誰が、あんたのために命を懸けるっていうんだッ!!」
「―――」
ダンッと、瑛己は扉を殴るように部屋を飛び出した。
「聖―――!!!」
待て。
白河は手を伸ばした。
待ってくれ。
その背中は、いつかの映像と。
まるで。
「晴、高……ッ!」
・代わりに、歌を口ずさんだ。
父が好きだった、〝約束の場所〟。
母に教えてもらい、瑛己が弾ける、たった一つの曲。
・(慣れてしまった)
瑛己は苦笑した。
だがそれも仕方がない事かもしれない。
『湊』へきてから2ケ月……わずかそれだけの間に、一体どれだけの空をくぐり抜けてきたのだろうか。
そしてどれだけの飛空艇乗り達と、翼を交えてきたのか……。
握るその指が、不意に、鍵盤を叩くかのように振られる。
・彼女は今頃、どうしているのだろうか?
この空を、この空のどこかで、その真っ白な翼を羽ばたかせて。
瑛己は苦笑した。そして目を閉じた。
きっとこの空で、つながっている。
・あの体で……、気丈な男である。だが、立っているのがやっとだという事は、瑛己にもよくわかっていた。
新ではないが、瑛己も磐木に、どれだけ殴られたかわからない。
見つけて、一発殴る。そんなつもりがあったわけではなかったが。
(放っておけない)
・「無理するな? お前も須賀も、どうも無茶したがる嫌いがある。心配してもらえるってのは、怪我人の唯一の特権だかんな。ありがたくもらっとけ」
・(あの襲撃は)
一体なんだったんだろう……瑛己は思う。
『日嵩』の空襲……。上島総監……。
彼は『湊』と白河を……憎んでいたのか?
(そんな事のために)
どれだけの犠牲が、生まれたのか……。
瑛己は自分の手を見た。
自分は『日嵩』の者達を撃った。
仲間たる者達だ。
(あの時は)
必死だった……そうしなければ、今ここに自分はいないとも思う。
(だけど……)
その選択は正しかったのか? 否―――それは、今ここに残る事ができたからこそできる迷い。
(白河総監……)
白河の右腕が動かない事を、瑛己は今日初めて知った。
(父さんとの約束を守るために)
上島を殴り。
そして、撃った…………。
・いつもは苦すぎるほどのお茶を好む磐木が、チビチビとココアを飲んでいる。その姿に瑛己は少しだけ苦笑の念を抱いたが、表情に浮かぶほどではなかった。
・思えば、瑛己は磐木の事をよく知らない。
厳しい隊長、悪さをすれば拳骨が飛んでくる。
兵庫は「問答無用なやつ」と言っていた。
だが、厳しいだけの人ではない。それはこの隊に入って数ヶ月、痛いほど身に感じている。
あの奇跡の海で、何度も何度も呼ばれた名前。あの声は、まだ耳について離れない。
・「俺が飛び出しては、お前らが来んわけにはいかんな」
「……隊長が飛んでなくても、自分は出てました」
「……だろうな」
・誰かを支える光であれ。
その光を守る、翼となれ。
それが〝七ツ〟の誇り。
(……)
瑛己は空を見上げた。
星はさっきと変わらず輝いている。
(……彼女も今頃)
同じ星を、見ているのだろうか……?)
絶対たる翼の名を持つ少女。
(俺が守りたいものは…………)