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マシン・レコード  作者: 平田公義
第十二章
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~Σ/シグマ~ 幼い母子

 (いつき)は病室の前に立っていた。その手には、なけなしの花束。着ている服は、結局洒落っ気のない白衣姿。病院という空間では、少しばかりややこしい格好だが、彼女の小さな背中を患者や見舞いに来た人たちは医者だとは思わない。


「…………」


 視線をもう一度、病室の表札に向けて再確認する。


 結喜(ゆき)・ジャンクロフォードの名前だけが広いスペースの一角をぽつんと収めていた。共同病室にも関わらず、彼女一人なのだ。


 そのことが、余計(いつき)の気疲れを彷彿とさせ、ドアを開くのを鈍らせる。


「今さら話すこともない、か……」


 言い訳がましくつぶやいて、(いつき)は手に持っている花束に目を向ける。


 花束、と言っても小さなバスケットに入った造花だ。小ぶりのひまわり、オレンジ色のルドベキア、花弁が綺麗なあさがおなど、夏らしい花々が溢れているが、どうにもバランスにかけている感が否めない。それもそのはず、この造花は(いつき)がなんとなく目についたものを選んで、花屋の店員が仕上げてくれたもの。店員の腕の良さゆえで、どうにか体裁ができている。


「けど、これ買っちゃったし……」


 (いつき)はため息交じりに言って、内心ほっと胸をなでおろした。


 これを使えば、適当な理由ができる。たとえば、彩子(あやこ)(おと)に頼まれたとか、自分の意志とは関係なくこの場に来たといえばいい。


 そんな逃避思考を並べて、彼女はドアの取っ手を掴んだ。


 それだけの行為で、頭の中でまた不安がよぎる。


 この病室にいる人は本当に会いたいのだろうか。また、あの人を母親だと認められるのだろうか。もう一度、一緒に暮らせるだけの距離を持てるだろうか。


 逡巡を振り切るように、しかし、恐れを随伴させながらゆっくりとドアをスライドさせる。


 つんと鼻を突く薄荷の香り。清潔な石鹸の匂いも交じって、体の中を駆け巡った。


「あ――――」


 (いつき)は共同病室の窓際、その一角が真っ白なカーテンで遮られているのを見つけて、思わず声を漏らした。


 そこに、上体を起こした女性の影が浮かんでおり、すぐに結喜(ゆき)だとわかった。相部屋する人がいないのだから当然だが、もっと心と体の内側に訴えかける衝撃があった。


 清潔な香りが脳を揺さぶる、という感覚的なもの。


 あの影を覚えている、という記憶的なもの。


 十年、正確には二年ぶりに見る姿は、いつも以上に(いつき)の母親に対する認識が希薄になっていた。


「…………」


 (いつき)はきゅっと口を結って、ゆったりとした足運びでカーテンに近づいていく。


 背後の方で、ドアが閉まる音が病室に響いた。


 すると、カーテンのシルエットがバッと(いつき)の方を向いた。結喜(ゆき)からは白いカーテンしか見えず、我が子が来たとは気付かない。


「検診ですか?」


 柔らかい、優しい声が(いつき)の耳に届く。


 (いつき)は、バケットの取っ手を握り締めて、残り一メートル手前で硬直してしまう。緊張が体を縛り付け、背中に悪寒が走る。


 しかし、心は今にも崩れてしまいそうなほど、うれしさでいっぱいだった。


「ああ……」


 震える小さな吐息。


 その息遣いで、カーテンの向こうの結喜(ゆき)は自分がとんでもない勘違いをしていることに思い至った。同時に、胸の内にこみ上げてくる熱さが体全体に染みわたる。


 小さかった娘がカーテンの向こうにいる。成長した、十六歳の(いつき)が立っている。


(いつき)?」

「―—――っ」


 (いつき)は名前を呼ばれて、驚きに肩をすぼめる。どうしてバレたのか、などと考察する逃げ道も考えられないくらい、その一言は衝撃的だった。


 しばらく、沈黙が続いた。離れていた時間を再現するような、重く、長い体感が二人を襲う。


 廊下の方からからからと台車と診療器具だろうか、の耳をくすぐった。


 それにまぎれるように、(いつき)は止めていた足を進めて、ゆっくりとカーテンに手を触れた。すべすべした感触が鋭敏に脳に伝わり、隻眼が結喜(ゆき)の影がこちらを見上げているのを捉えて、さらに気持ちが砕けそうだった。


 そして、ゆっくりとカーテンの合間を開けて、(いつき)結喜(ゆき)の領域に踏み入れた。


「まぁ……、まぁっ! 大きくなって……」


 結喜(ゆき)の弾んだ声。


 だけど、(いつき)はベッドに起きている彼女の姿に、胸が張り裂けそうだった。


 白いベッドで患者服の結喜(ゆき)は点滴を打って、右腕は石膏で固められている。なのに、不自然くらい元気な表情を浮かべている。


「…………」


 (いつき)は口どもって、久しぶりに会った母親に何を話していいのか迷った。


 と、結喜(ゆき)の優しい眼差しが造花の入ったバスケットに向けられた。


「それ、お見舞いのお花?」

「え? あ、うん……。造花、だけど」

「ありがとう。そこに、飾ってくれる?」


 結喜(ゆき)は窓の方に台座を視線で示して、また(いつき)に満面の笑みを浮かべる。


 (いつき)は緊張で顔を強張らせながら、固い動きで台座の方へ移動し、そっとバスケットを置いた。それからは、ただ目のやり場に困って、天井やら床やら、カーテンの冊子を見たりして立ち尽くす。


 こうして実際に会ってみるとどうしていいか、わからなくなるものだ。ずっとため込んでいたものが、怖気づいたように引っ込んで、うまく態度と言葉に表せない。


 ふと背後の窓を見れば、青い空が一面に広がっている。今日は、真夏日になるそうだ。(いつき)が最後に結喜(ゆき)と過ごした季節が夏の始まりだったことを思い出す。


 比べて、結喜(ゆき)は快活な様子で話しかける。


「ほら、立っててもつかれるでしょう? この椅子でも、つかって」


 と、点滴を打っている左腕で脇にある小さな椅子を持ち上げて見せた。


「ああっ!」


 それには、(いつき)も慌ててベッドを超えるように持ち上げられた椅子を手に取った。すぐに結喜(ゆき)は手を離して、笑顔を我が子に向ける。


「…………」


 (いつき)はその視線に落ち着けず、椅子に座りながら伏せ目がちな視線を送る。


 結喜(ゆき)は他人行儀な彼女の態度に腹を立てるどころか、寂しさでいっぱいだった。やはり、母親として認めてもらえないのだろうか、と。


「今日はありがとう。お見舞いに来てくれて、とっても嬉しい」

「……うん。怪我の具合はどう?」


 (いつき)が顔を上げながら、おずおずと尋ねる。


 視界に入った彼女の姿は、窓から差し込む夏の日差しに今にも溶けてしまいそうなほど儚げに見えた。白昼夢を見ているような、浮ついた感覚が頭の中に残る。


「う~ん。内蔵の方がちょっとね。でも、骨の方は綺麗に折れたらしいから、心配いらないかな、うん」

「そう――っ。そういうもの、なの?」


 (いつき)は怪我のことも笑って話す結喜(ゆき)を怒鳴りつけたかったが、そこは病院でのマナー違反だと思って静かに問うた。


 どうにも、幼いころに見ていた結喜(ゆき)の印象と今の結喜(ゆき)は別人のようで、対応に困った。変化を認められないことに、(いつき)は戸惑う。もし幼い日に見た泣いてばかりの彼女だったら、きっと虚勢を張って色々と励ましてあげられただろう。


 その意識が独善的なものだと知りつつ、そうすることで母親を守れると(いつき)は信じていた。


 しかし、泣いてばかりだった結喜(ゆき)は柔らかい笑みを浮かべて、石膏で固められた腕を膝元に置いた。


「お医者様の話ではね。複雑骨折とかじゃないから、変な癖とか付きにくいらしいの。逆に、ヒビだったら大変だったって」

「うん。そうなんだ……」

(いつき)の方はどう? お友達と仲良くしてる?」

「友達は……、うん、仲いいよ」


 (いつき)は気恥ずかしそうに言った。


 その初心な反応が、結喜(ゆき)には(いつき)は変わってないなと思う。自然、懐かしさと愛くるしさから頬が緩みっぱなしだ。


「そう。皆守(みなもり)ちゃんと詩野(うたの)ちゃん、だよね? 素敵な子たちで、安心したよ。二人とは、やっぱり宇宙で?」

「…………うん。ごたごたしてるとき、会ったの」


 言葉に窮した(いつき)の声音に、結喜(ゆき)は失言したと瞬時に判断する。


 緩んでいた頬が引き締まり、気持ちも落ち着きを取り戻す。そして、(いつき)が宇宙での戦争に何かしらの関わりがあることを思い出すのだ。


「ごめんなさい。失言だったね。だけど、わたしに教えてくれない?」

「え? 何を?」

「最近のこと。話はあの人から少し聞いてるから、宇宙で何があったかは知ってるよ」

「…………」

「戦争に、関わってるんでしょう?」


 結喜(ゆき)の必死な、絞り出した言葉に(いつき)は心が締め付けられる。


 知っているからこそ、中途半端に終わらせたくないのだ。


 その彼女の性格は昔と変わっていない。だから、別れの時まで育児放棄をしなかった。そういう思考が働いてると(いつき)は思った。


「…………一応、親子だものね」


 結喜(ゆき)は我が子の信頼を得られていないとはっきりと自覚して、膝元に視線を落とした。


 (いつき)は彼女の寂しげな顔がこぼれる髪の合間から見えて、思わず視線を逸らした。覚えている顔だったから、余計に視界に入れたくなかった。そんな顔をしてほしくなくて、これまで頑張ってきたのに。


「聞かせてくれる?」

「……うん」


 (いつき)はぽつぽつとこれまでの経緯を話す。


『新人類軍』を名乗る存在。宇宙での戦闘。彩子(あやこ)(おと)との出会い。出会った人たち、リーン、コフィン、ヤッシュ、そして、アリス。悩み、迷ってばかりの戦いの中で散っていった命。


 うまく構成ができているわけはないが、それでも結喜(ゆき)は一生懸命な彼女の話を聞いた。


 聞き入るほどに、その悲痛、苦痛、狂気の感触が(いつき)を蝕んでいると強く感じる。同時に、見逃せないという彼女の優しさ、勇気が輝いている。


 そして、彩子(あやこ)(おと)がどんなに掛け替えのない友人であることかも、時折見せる優しいまなざしを盗み見てわかった。


「そう。大変だったのね……」


 すべてを話しを聞き終えた結喜(ゆき)から、出てきた言葉は本当に味気ないものだった。


 (いつき)は自分が、母親から離れ過ぎていると話しながら思っていた。当然だ。宇宙で〔AW〕に乗り、敵を討ちたおす日々を送っていた娘を、どう受け止めろというのだろうか。


「今日にはまた、ロケットで宇宙に戻るから。その、お別れも言いたくて」

「――――っ!」


 結喜(ゆき)は顔を上げて、まっすぐに見つめてくる(いつき)を捉える。


 外に映る青い空を背景に、彼女の暗鬱な表情を浮かべている。空の向こうに連れ去られてしまいそうな、危うげな顔。それは、ただ泣き叫んで遠ざかって行く幼い(いつき)を連想させた。


 お母さん、お母さんと何度も何度も叫んでいたのに、その時の結喜(ゆき)は同じように泣き叫んで、迎えに来たという男たちに暴力を振るわれるのが怖くて、へたり込んでしまっていた。


 その胸の苦しみを思い出して、左手で患者服の胸元をぐっとつかんだ。


 が、結喜(ゆき)は真剣な眼差しを娘に射た。


「そう……、そうなの。大丈夫?」


 その反応は(いつき)には予想外で、一瞬目を見開いてぽかんとする。


 心の整理がつくまで、少しの時間を要した。


「え? 大丈夫って言われても……」

「ごめんね。どういう言い方すればいいか、わたしにもわからないの。だけど、(いつき)。宇宙に戻るっていうのは、誰かに言われたから、戻るってことじゃないんでしょう?」

「それは、そうだけど……」

「少しでも迷うなら、やめなさい。その感情はきっと、お友達にもわかってしまうから」


 凛とした声音。


 (いつき)は、はっと肩を揺らす。この胸をざわめかせる感触を、知っている。いつも泣いてばかりだった結喜(ゆき)だが、悪いと思ったことにはしっかりと目を見て叱っていた時だ。


 その時はわからなかった彼女の強い瞳の色に、(いつき)は驚かされた。ずっと誰かの影におびえていた女性ではない、母親としての確かな距離感だった。


(いつき)と、そう、最初に宇宙に行く前にあったあの日。あなたが自分の意志を貫いていくことを、止めたりする権利はなかった。今だって同じなの。わたしには、何もしてあげられない。力のないわたしだから、こうしてお話しかできない」

「…………」


 (いつき)結喜(ゆき)の身勝手な言い分だと唾棄したかったが、顔がこわばるばかりで唇はちっとも動かない。


 二年前の再会は、お互いほとんど言葉を交わしていない。食事会というものであっても、アーノルド・ジャンクロフォードがいたせいで、さらに口数も減った。


 その時の顔色を窺うように話す結喜(ゆき)のことは覚えている。だから、アーノルドから離れて暮らせるように、自分が頑張らなければならないと思ったのだ。


 しかし、そうではなかった。


 ずっと、結喜(ゆき)は思い悩んでいたのかもしれない。自身の力のなさ、娘に対して何もできない罪悪感が言葉すら咎められて、互いの距離を開かせてしまった。


 その距離を近づけるように、結喜(ゆき)はしっかりとした意志を伝える。


(いつき)は優しい子だもの。きっと、知ってしまったことから背を向けるのが怖いのよね? 自分にもできることがったんじゃないかって」

「そういうのって偽善とか、独善で、誰もそこまで期待なんかしてない」

「それでいいの」

 

 結喜(ゆき)は微笑んだ。


 (いつき)はただ胸の中で広がる暖かな感触に、ぐっと白衣を握り締めた。きっぱりと言ってのける彼女の快活さが心地よかった。


「別に、期待されて戦争に行くんじゃないんでしょう?」

「……うん」

「だから、ね。お友達ができて、いろんな人と知り合って、ジェフナムさんのこともあって、できることを探しすんじゃなくて、できるようにしようって頑張ってる。それは、すごく偉いことだよ」


 優しい声に変って、褒めているのが嫌でもわかる。


 (いつき)結喜(ゆき)を疎外する心の壁が崩れていくのを感じた。確かに、彼女はこの十年で変わった。だけど、(いつき)に対する愛情は変わらず、深く、広く、そして暖かかった。


 胸がじんとして、急に目頭が熱くなるのを感じる。


「それを続けるということは、きっとこれからも苦しい経験をするってこと。それでも、もう一度宇宙へ行く?」


 結喜(ゆき)が問う。愚問なのかもしれないが、最後の最後でやはり娘の口からその返答を聞きたいのだ。


 しばらく、(いつき)は顎を引いて思い悩んだ表情を見せていたが、次に結喜(ゆき)に視線を戻したとき凛とした表情を浮かべた。


「もう決めたことだから――、ううん、違う」


 (いつき)は軽く頭を振って、言い直す。それは、自分の中にある戦う覚悟を思い出させた。


「誰かの意志で、誰かが怯えて暮らしている姿なんて見たくない。力で押さえつける人たちが、人を必ずしも平穏に導くとは思えないから……」


 幼い日の母親。誰かにおびえて、隠れ住むように生活していた日々。


 その中でも、幸せがあった。しかし、その幸せを壊した人がいる。そのことが、今の戦争でも言えるのではないだろうか。


「だから、戦争を止めてたい。そのために、わたしは彩子(あやこ)(おと)と、戦うの」


 結喜(ゆき)はふっと肩の力を抜いて、成長した(いつき)を見れてよかったと笑った。


「そう。これからも、三人一緒なの。安心したよ」

「……え?」

「ほら、あなた飛び級ばかりで友達、いなかったでしょう。それが一番、わたしにとってうれしいこと」

「そんなの、わたしだってそう」


 (いつき)は口元を尖らせて、結喜(ゆき)に反発する。事実であるところがさらに妙にいやらしい。


 すると、結喜(ゆき)はころころと笑って、台座にある時計を見た。


「時間は大丈夫?」

「ん? そう、だね。そろそろ、行かなきゃかな……」


 時間は正午になろうとしている。


 ここまで原チャリで来たが、最終確認や搭乗もある。早めに戻らなければならない。


 しかし、(いつき)結喜(ゆき)と時計を見比べて悩んだ。もう少し、あと少し、話がしたいと。戦争のことだけではなくて、彩子(あやこ)(おと)がどんな子とか、リーンとコフィンがもしかしたら恋仲になるかもとか、そんな他愛のない話をしたい。


「そっか。もしかして、今日のロケット打ち上げで宇宙に行くの?」

「う、うん……」

「だったら、急がないといけないでしょう、きっと。準備とかあるんでしょうし」


 そういって、結喜(ゆき)は台座の引き出しに左腕を伸ばして、その中からあるものを取り出した。


 (いつき)は目を丸くして、それを見た。


「金平糖……」


 小粒の金平糖が詰まった小さな袋。


 数日前、(おと)との取り合いになったものだ。


「小さいとき、大好物だったでしょう? あ、もしかして今はもう嫌い……?」

「ううん」

「そう。それじゃぁ、持って行って。皆守(みなもり)ちゃんと詩野(うたの)ちゃんにありがとうって伝えて」


 結喜(ゆき)はすっと金平糖の袋を(いつき)の前に差し出した。日差しを受けて、まるで宝石のように金平糖が輝いて見える。


 (いつき)は両手で金平糖と結喜(ゆき)の手に触れた。


 冷たい手。冷房のせいか、それても血の巡りが悪いのかわからない。だが、すべすべした肌の感触が手先に伝わって、思わず両手でその手を包み込んだ。


「うん。うん……っ」


 徐々に伝わってくるぬくもり。


 (いつき)結喜(ゆき)はしばらく、十年間触れあえなかったこの感触を喜んだ。


「いつの間にか、大きくなったね」

「それだけ、時間がたったんだ。だって、こんなに小さな手だって思わなかったもん」

「そうだよね」


 そして、名残惜しそうに互いの手が離れ、金平糖の包みが(いつき)の手に収まった。


 お互いどこかで壁を作って、親と子の関係になるのを恐れていた。だが、その先入観はやはり親子の持つ、運命的な絆を前にしては愚かしいものだった。


 (いつき)結喜(ゆき)は、最後の最後でそれに気づかされたのだ。


「それじゃぁ…………、行くね」


 (いつき)はこみ上げてくる切ない衝動を抑え込んで、椅子から立ち上がった。それから、きびきびと歩いて、カーテンに手をかけた。


 すると、背中から結喜(ゆき)の声が届く。


(いつき)っ」

「……っ」


 (いつき)は振り返らず、カーテンを握る手に力を込める。今振り返ったら、きっと甘えてしまうから。


「行ってらっしゃい。ちゃんと帰ってくるのよ? 今度はお友達も一緒に、ね」


 凛として優しい声が背中を押してくれる。


 (いつき)はカーテンを広げて、一度立ち止まるとしゃんと胸を張って言う。


「行ってきます。お母さん」


 結喜(ゆき)は震える吐息を漏らして、カーテンの向こうに歩き出す我が子を見送った。


 お互い涙は流さない。涙など必要ない。また会えた時に、きっとたくさん泣いてしまうだろうから、この時は取っておこう。


 そして、病室から威風堂々とした足音が消えて、ドアの閉まる音が響いた。

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