~Σ/シグマ~ 海と少女たち
あお、青、蒼…………。
目に映るものはまっさらな午前の蒼穹。雲一つない。それでいて、日差しの眩しさだけが瞳に焼け付いて、白んだ色を残す。
「…………」
彩子は耳の奥に鳴る水の音と海鳥の声を聞きながら、両手を広げて海にたゆたっている。波に身を任せ、素肌にまとわりつく海水の冷たさ、焼けるような日差しの暑さを全身に受けていた。スカイブルーのセパレート水着は、海に溶け込むかのように爽やかな色合いをしている。額にかけているゴーグルが、太陽の光を反射する。
「もうすぐ、宇宙に戻るってのに……」
彩子は誰ともなくぼやいた。
あと、数時間もしないうちに宇宙に上がる準備が整う。それまで英気を養っておけよう、藍崎敏信に言われたのはいい。彩子の精神状態を配慮しての計らいだと彩子を含め、樹と音もわかった。
そのことが情けなく感じる反面、甘えている自分がいる。
「何もないのよね。未練とか、やり残したことって」
まるで、仰向けに見ている空のように何もなく、ただ広い空間だけが心にある感じがしてならない。
母親が身籠っていながら、逮捕されたこと。それが童祇和豊の彩子に対する最後の攻撃にして、最大の恥辱だ。母親を待っているだけの少女に対する決定的な精神爆撃に違いはなかった。
それでも、皆守彩子はどこか納得している。感情論というより、論理的に母親が求める幸せを自分が持ち合わせていなかったのだろう、と。
数日前の船の追撃の時、童祇和豊に無線で制止したときから、彼女の心は決まっていた。でなければ、自分の声をわざわざ憎い相手に聞かせるはずはない。
ぼんやりとたゆたう彩子を海はただ揺り籠のように波を立てて、彼女の体を揺する。なんの力も入れない彼女を守るかのように、抱きかかえるかのように、ゆらゆら、ゆらゆら……。
そのうち、彩子は眠気に誘われて、目をとろんと微睡ませる。
「このまま、海とか空とか、そういうのになれたらいいけど……」
悲観でも、達観でもない、子供のころに感じたなんにでもなれるという無邪気な観測だ。
海は優しい。空は気高い。どこまでも、どこまでも、広い青。
そんなイメージが頭の中に膨らんでいくと、彼女の中で波の音や風の匂いが強くなっていた。妙な感覚。自分が海の一部になったような気もしたし、空を飛んでいるかのような気もする。
だが、次の瞬間、彩子は現実に、自身の肉体の感触を思い出した。
つぅっと海面下から背筋からお尻のあたりを撫でられた感触がした。
「ひゃ――――っ!」
彩子はバランスを崩して、海に沈んでいった。目を固く瞑り、鼻から入ってきた海水と潮の味にツンとした痛みが鼻の奥でした。
それから、全身に水と泡の感触を感じ取って、海面に顔を上げた。
「ぷはぁっ! ゴホッ、ゲホッ」
呼吸をする前に、口から海水を吐き出した。呼吸を整えつつ、立ち泳ぎの状態になり周囲へとしゃっきりとした瞳を向けた。
そこは〔アル〕と〔甲殻・十式〕が戦った浜辺だ。飛び散った空薬莢は撤去されているが、砕けた岩礁や飛び散ったその破片は残っていた。
「ずいぶん、沖に流されちゃってたの?」
彩子は軽く頭を振って、水を払うとそういった。
海に視線を落としてみれば、白い砂と岩礁の鮮やかな海底ではなく、深淵の黒に染まった水の色しか見えない。光が届かない場所が自分の足元に広がっていると想像して、急に寒気を覚えた。
「…………?」
ふと彩子の視界に海の中を高速で泳ぐものが入った。水かきのようなものと羽衣のような黒が目について、まるで人魚のようだ。
すぐにも、彼女にはその正体がわかり、感心した。
「まさか、たった数分でここまで泳げるなんて」
人魚らしいものは、はしゃぐように彩子を中心に円を描いて泳ぐ。やがて、呼吸をするために、そして彩子に会うために海面へと頭を出した。
「ぷはぁっ!」
可愛らしい声とともに、勢い余って上半身を海面に突き出す音。
のびやかに出た体は、太陽の光を浴びて輝いて見えた。黒いビキニは彼女の豊満な胸を強調し、漆黒の髪とあいまって、見た目怪しげな雰囲気を醸し出している。
それをぶちこわすように、前髪だけを小さく結った音はシュノーケル用のマスクを外して無邪気に笑った。
「彩子、驚いたっ。驚いた?」
「もうっ! あんたって、さぁ」
彩子は背中をふれたのが音だと確信を得ると、バッと彼女に引っ付いてぽっこりとしたお腹をつまんでやった。
「きゃぅっ。や、やめる!」
水面下でフィンを装備した足をばたつかせて、どうにか沈まないようにする。
「何よぉ。お腹のお肉が掴めるじゃないのよ」
「うきゃーっ!」
彩子ははしゃぐ音を面白がって、さらにつまんだ肉を上下に揺すった。互いの体が絡み合うといよいよおぼれているようにしか見えない。
少なくとも、浜辺で海を眺めている少女にはそう見えた。
「何やってるのっ!! おぼれてるのっ!?」
拡声器特有のくぐもった声が、彩子と音の元に届く。
すかさず、彩子は音から離れて、波打ち際まで頑張ってきている少女、樹に大手を振る。
「だーいじょーぶー! 別に、おぼれたいなわよー」
「なら……、いい」
それだけ言って、樹は拡声器を下ろして、彩子たちが岸に向かって泳ぎだすのを見守った。薄手のパーカーを羽織り、その下にはシックな桃色のワンピース水着を着ている。日焼けするでもなく、泳ぐわけでもない。彩子たちの監督のような雰囲気を作っていた。
しばらく波打ち際で潮風にパーカーをなびかせ、足に当たる波と砂の流れる感触を楽しんだ。はたから見れば、ぼんやりと立ち尽くしているようにも見えるだろう。
そこに、彩子と音が海から上がってきた。
「泳げないのに、何やってんだろ?」
「さぁ? 泳ぐ、できる、したい?」
「まさか……」
二人はゴーグルを外しながら、突っ立っている樹のことを言った。
彩子たちが泳いでいる間、ずっと荷物番ですといった感じでパラソルから出ず海とタブレット端末を眺めていたのだ。彩子には、それがカナヅチである樹の防衛策だと思うのだ。
樹はまっすぐに彩子を見て、拡声器で言った。
「何か言わなかった?」
「わざわざ、拡声器使わないの。少しは泳いだらって」
「後ろのペンギンはどうなの?」
「は? ペンギン」
彩子は確認を込めて振り返ると、まだ腰まで海に使っている音がのっそのっそと左右に揺れて歩いている。原因は足につけたフィンが邪魔で、うまく歩けないのだ。
音も困った顔を浮かべて、必死に足を上げては足元を八の字にして海底を蹴った。
「何やってんの? 取ればいいじゃない」
「おお! そだった」
彩子の助言に、音は笑顔をにじませるとサンダルを脱ぐようなしぐさで、踵の留め具を外そうとするが、
「ありゃぁっ!?」
波に押されて、海面に正面から体を突っ込んで沈んだ。
ドポンッと鈍い音が耳を打つ。何とも情けない姿だと、彩子は顔に手を当てる。海に入るのは人生初だと言っていたが、改めて納得する。
音は素早く、身を起こすと鼻から入った海水と塩辛さにむせた。その手には、外したフィンが握られている。
「大丈夫? はしゃぎすぎちゃったのね」
彩子の呆れ気味の口調に口元を尖らせる音。優しい諭すような声ではなく、見下したような声音が気に食わない。
「~~~~っ!!」
すると、怒りをぶつけるかのように彩子の顔面にフィンを投擲した。
綺麗にはじけた音が青い空に溶けていき、太陽の光をきらびやかに纏った海面で豪快な音が轟いた。
そして、
「人に物を投げるんじゃないわよっ!!」
海面から勢いよく復帰した彩子は顔を真っ赤にして、怒鳴りつけた。
その様子に樹は肩を落とし、音は悪戯な笑みを浮かべて追い縋る彼女からの逃走し出す。
潮風に当たっていると少しばかりは暑さを忘れることができた。パラソルの下だとさらに、肌を焼く日差しもなく涼しいものだ。
樹はビニールシートに座り込んで、タブレット端末を操作している。その中で、暇つぶしにニュース記事を読んでいた。
「もう……。少しは、音の相手しなさいよぉ」
「最近、仲いいでしょう? 適任だよ」
水を滴らせて、白い砂浜を歩いてくる彩子に言った。音との海辺の追いかけっこを終えて、呼吸は乱されいた。胸や肩が滑らかに上下する。
「あんたがカナヅチじゃなかったら、よかったのよ。そもそも、浮き輪なりビーチボールなりあるのに、一人でそれやってるのがおかしいのよ」
彩子はパラソルの根元にあるカバンから、タオルを取り出すと濡れた髪や体を軽く拭いた。それから、樹の隣に腰を下ろす。
樹は彩子が死角に入ったのでその方に顔を向ける。少し頬を赤らめて、ムッとしているようにも見えた。
「女々しい……」
「何よ。音だって、三十分ほどですいすい泳いでるのよ」
「あの子は運動神経がいいの。それに、あのヒレは卑怯だ」
何が卑怯なのか、彩子には理解できない。加えて、フィンをヒレと呼ぶあたり、マリンスポーツに興味がないのだろう。
いや、単純に音の上達ぶりに嫉妬してのかもしれないが。
彩子はタオルを首にかけて、海の方を見やった。
海の深い青と空の明るい青。岩礁と白い砂浜。こうして捉えると綺麗な場所だと思う。すると、海面にひょっこり黒い影のようなものが出た。音だ。息継ぎのために顔を出したらしく、すぐに海へと潜っていった。
「ほら、運動神経がいい」
樹が言った。
「外に出てもインドア趣味を持ち出してるから、そういうひねくれが出てくるの。泳ぎ方、教えるけど?」
「最初にも言ったけど、いらない。遊泳技術はわたしには必要ない」
「ただの食わず嫌いじゃない。だったら、ふて腐れないで」
「…………」
樹はいつになく意地らしくなって、タブレット端末に視線を落とす。ニュース記事を閉じると、今度は何度も何度も読み返したメールを開いた。しかし、その内容に彼女はどうしたらよいのか迷っていた。
何度も読み返しているのに、内容を把握しつつ、反応に困るのだ。
それから、彩子も黙って海を眺めつづける。
沈黙がしばらく続いて、樹が観念したようにタブレット端末を隣の彩子の前に出した。
「ん? 何よ?」
「…………」
卑怯だとは思ったが、樹自身どう対処してよいのかわからない。とにかく、胸の内に渦巻くどろどろした感情を洗い流したかった。
彩子は黙り込む彼女の横顔を見て、肩を竦めるとタブレット端末を受け取った。
最近はロケットの打ち上げのことで奔走していたために、少し鬱屈しているのかもしれない。彩子も〔アル〕のメイン・システムの最終調整もあって、なかなかしゃべるきかいもなかった。
一瞬、樹の横顔を盗み見て、画面に視線を移した。
「…………ふぅん」
「どう思う?」
彩子はメールの内容を読んで、口の中で苦いものが転がった。
それは、結喜・ジャンクロフォードがこの島の病院で入院しているというもの。入院期間や病院名が記載されている。だが、それだけ。至極簡潔な文面だ。
樹が膝を抱えて、顔を向けてくるのを横目に見て言った。
「会いに行けばいいじゃない。もうすぐ、退院しちゃうわよ。てか、あたしらの方が先に宇宙に出るわよ、これだと」
直球の意見に、樹はぐっと膝をさらに寄せた。
「そうだけど、わたし、あの男からのメールだと思うとなんだか信じられなくて」
「あの男……?」
彩子は素っ頓狂に言って、メールの差出人を確認する。
そこには、アーノルド・ジャンクロフォードの名前があった。樹の父、結喜の夫だ。彼に家庭的な意識があるか否かはわからないが、繋がりと言えばこんなところだろう。
しかし、樹とアーノルドが仲が良かったかなど彼女の反応を見れば、一目瞭然だ。
「絶縁したつもりでいたのは、わたしだけだったのかな……」
そんな独り言が聞こえてしまっては、彩子も認めるしかなかった。口をすぼめて、メールに視線を戻した。
「親との縁って、なかなか切れないものよ?」
「でも、彩子は縁を切ったんでしょう?」
「…………」
いつになく樹が鋭い角度で言葉を放ってくる。
彩子も若干たじたじだったが、それだけ余裕がないのだろう。
童祇和豊に関しては親子でも義理の父親でもないのだが、樹が言っているのは母親の方だろうと推測する。
踏み入った話を彼女から、それも親子関係についてだと佐奈原樹の高い自立心が虚勢であったことを知らしめるのと同じだ。
だからこそ、樹にももやもやした悩みを抱えてるんだな、と彩子はすっきりした気持ちになれた。
「どうだろう? もうとっくに、あたしの家族は空中分解してたようなものだし、あたしはお母さんに娘てして見てもらえなかったと思う」
「どういうこと?」
樹が膝を解いて、パラソルの外に足を投げ出した。太陽と砂が彼女の白い足を熱する。
彩子は気恥ずかしそうに、タブレット端末を返して滔々と語る。
「あたしのお父さん、小っちゃい時に病気で死んじゃってね。それから、あたしはおばあちゃんの家で仕事に出たお母さんの帰りをずっと待ってた。だけど、全然顔を見せなくて、仕事が忙しいんだって考えるようとした」
幼いころの記憶。セピア色の光景が脳裏に蘇る。
「そしたら、童祇と付き合ってるとか言われちゃって、新しいお父さんになるかもとか言われてもピンとこなかったしね。ずっと、お父さんはあたしには一人だから。そうそう。あたしがプログラミング始めたのも、お父さんがきっかけだったな」
「お父さんが?」
「うん。お父さん、ゲームのプログラムデバックとかする仕事してて、時々家でしてるのを眺めてたわ。当時のあたしには魔法のような羅列が絵を作ったって思ってたから、憧れたのよ」
はにかむ彩子は、死んだ父の膝元の感触を思い浮かべて、懐かしんだ。
「だから、プログラミングの勉強したくて工業高校に進学して、仲のいい友達もできた。そのころになると、お母さんはあたしやお父さんのことなんか忘れて、童祇の方に入りびたりだったかも」「そういえば、彩子が英語できなかったのって、その人が原因?」
「そうなのよ」
心底呆れた声を上げて、彩子はビニールシートに手をついて上体をそらす。滑らかな体のラインが強調され、それでいて自然的だった。
樹は彼女のそういう仕草に、自分にはない女の子らしさがあると感じた。
「英語の教科書とか捨てられちゃったりして、小学校も英語授業のないところに行かされたのよ。童祇の指示で、お母さんが勝手に。今どき、信じられないことよ」
「古風な家柄なら、そうするでしょう」
「だからって、英語が話せないのはマズイわ。宇宙に出て、実感したわよ」
その口調は軽快で、自然と彩子は笑っていた。過ぎたことを思い返すと、意外と笑えるものだ。
潮風がまた強く吹いて、彼女の短い髪を撫でた。
「それで話は戻るけど、高校通ってた時に友達がいたんだけど、その子、ハーフだったの。日本だとまだ珍しかったから、よく覚えてる。よく、覚えているわ……」
「…………」
彩子のはかなげな表情が、樹の心を締め付ける。寂しげな視線でありながら、明るい瞳をしていた。
「そばかすを気にして利してて、優しかったよ。けど……」
一息ついて、微笑んだ。
「あたしのせいで、死なせちゃったわ」
「――――っ!」
息を飲む樹。
すると、彩子ははっと目を見開くと、慌てて樹の方を向いた。
「ごめん。もう過ぎたことだし、てか、あたし、勝手にしゃべっちゃって本当にごめんなさい!」
「あ、う、うん」
樹は必死に謝る彩子におずおずと頷いた。しかし、彼女の抱えるものが想像以上に苦しいものだと知った。
二か月近く一緒に生活しているというのに、彩子のことを、ましてや音のことも知らないでいる。それがもどかしくも、互いの距離感を難しいと感じた。
「えっと……、ああ……」
彩子は樹が引いている様子に、何も弁明できなかった。
死んでいった親友のことが、脳裏に過る。高校に通い始めて間もなく、彩子はその人とともにお気に入りのアーティストライブに参加した。ライブが始まる寸前、少し彩子が荷物を友人に任せて、席を立ったのが最後の彼女の姿だった。
会場のいたるところで爆発が起き、ライブは阿鼻叫喚に包まれた。彩子は親友の無事を信じて会場から脱出した。内部からは黒煙が外へと吐き出されて、現場は騒然。
しかし、親友は爆発の中心でバラバラになってしまった。自分の預けた荷物に爆破物が隠れていたらしくい。検問にかからないよう、プラスチック性の爆弾だとのちに判明した。
童祇和豊が彩子のカバンに仕掛けたのだ。その事実を、彩子は捕まる寸前で知り、しばらく逃亡生活を余儀なくされた。自らの手で、童祇に復讐してやろうという思考だけで、行動していた。
それがいけなかった。警察は栄養失調で倒れた彩子を取り押さえて、容疑確定へと運んで行った。誰も、逃亡者の言うことなど信じようとしなかった。親友の両親からも、高校の友人からも、罪人の烙印を押された。
絶望と憎悪、後悔、悲哀が、当時の皆守彩子の中にあった。
「どうしたの?」
「んあ? ごめん、ちょっと考え事」
彩子は現実に引き戻されて、目の前で困ったように首をかしげる樹を見た。
「…………うんっ」
その存在を感じて、今の彩子の心中は穏やかになる。
寂しさは忘れない。簡単に消し去っていいものではない。だからこそ、樹と音の出会いを喜んだ。
穏やかな微笑みを浮かべる彩子に樹はさらに首をかしげる。なぜ、自分の顔を見て優しい表情をするのか。
「……惚れたの?」
「ど、どういう理屈っ?」
なんとなしに言った樹の一言に、彩子は顔を真っ赤にして、視線逸らした。
白い砂浜に視線を移しても落ち着かず、肌がピリピリする感触が強くなっていく。
「と、とにかくよっ! ちゃんとジャンクロフォードさんに会いに行きなさいよっ! 少しは元気な顔見せなって」
ドキドキと高鳴る鼓動に彩子は冷静さを失い、そうまくし立てる。
樹は彩子のストレートな気性が羨ましくて、つい海の方へと視線を逸らした。
「あの人、わたしのこと、どう思ってるかな?」
「本気で心配してたわよ。子供に苦しい思いはさせたくないって」
その言葉は、彩子の胸の内に深く残っていた。
本当に子どものことを思う母親の芯の強さを見た気がした。あの時、ファミレスでの一軒で結喜は素性も定かではない彩子と音を信じた。そして、娘である|樹にも信頼を寄せていた。もし、ただの学生だったら何もできず、結喜を裏切ることになっていただろう。
樹は海面で何度目かの息継ぎをする音を視界に捉える。
「でもそれって、あなたたちを信じたからでしょう? 何の根拠もなく、人に期待しちゃうのが、あの人の悪いところだから」
だから、その期待に応えようと樹は若輩ながら最先端研究施設『サテライト』の研究員にまで上り詰めたのだ。結喜を安心させるためにも、自分自身がアーノルドと対等、それ以上になるためにも。
すると、彩子も短い髪を撫でながら、柔らかい口調で言う。
「知ってるなら、期待に応えなくちゃじゃない? 会いたがってるんだからさ」
「そういうの、ずるいと思う」
樹は足で砂を弄りながら言う。
結局、最後に別れたときから変わっていない。惨めに願いを口にして、何もなさない。ずっと結喜は自分から会いに来たことはない。
だが、そんな彼女がここ、種子島に足を運んだ事実は確かめる必要があった。
すると、彩子はすっきりとした遠い目を海に向けて肌を撫でた。
「ずるいって思うなら、それを正してやれば、解決じゃない」
「簡単に言うけど……」
「お母さんだって、思いたいんでしょう?」
「それは――――」
口どもる樹。
彩子は樹が決して結喜の名を口にしないこと、お母さんと呼ばないことを考えたら、なんとなく共感できるところがあった。
距離や時間は人に疑念を植え付ける。絶対の保証などない。だけど、確かめる手段があるのならば、行動を起こすしかないのだ。
だから、彩子は樹の背中を叩いた。
「時間ないわよっ。いつもの行動力はどうしたのよっ!」
樹はその激励の一撃に、顔を顰めた。
しかし、彩子の眩しいまでの笑顔を見たとたん、何も言い返せなかった。きっと、今一番親という存在を確かめたいのは、彼女のはずだから。それが叶わないと知っているから、せめてもの後押しをしてくれる。
樹は頬を緩めて、優しい笑みを浮かべた。
「それもそう、か。ちょっと、行ってくる」
「ええ。音や藍崎さんの方には、あたしから言っておく。さっさと行きなさい」
彩子の明るい声に押されて、樹はタブレット端末を持って立ち上がる。
海の音が耳の奥に響く。
ごぽごぽという息を吐き出す音と水の流れが作る低い音。
音は日差しが差し込む浅瀬の海底を散策していた。シュノーケル用のマスクとフィンのおかげで、人生初の海水浴はとても心地よかった。
「――――っ」
ひときわ大きな空気の泡を吐き出すと同時に、音は海面に向かって急浮上した。自分で吐き出した泡が体にまとわりつき、くすぐったかった。キーンと耳が痛む。
「――ぷへぇっ」
音は大きく息を吸い込んで、足を緩やかに動かす。大分、立ち泳ぎが様になってきて、うれしくなった。
「ん? 樹? 彩子?」
ふと浜辺の方へ目を向けると目印のパラソルの下に、樹たちの姿を見つける。何の話をしているのか、当然聞き取れなかった。潮風が吹くと、急に温度差を感じて身震いする。
浸かっている海が暖かく、顔を出している海面が冷たく感じるのだ。
音は呼吸を整え、マスクに入り込んだ海水を取り除くと、もう一度海へ潜った。
ごぽごぽ……。
自分の影が海底に張り付いて、揺らめく光が神秘的な雰囲気を醸し出す。
力いっぱい足を動かして、すぐに海底にたどり着く。中性浮遊し、海底を見渡した。澄んだ色と光のカーテン。底にたまった白い砂とどっしりと構えた岩礁。そして、海藻が波にさらわれて、ふらふらとしている。
ごぽんっと小さく息を吐き出すとその泡はゆらゆらと上へと昇って行った。
だが、小魚などの姿はなく、閑散とした海域だった。
音はもの寂しさを覚えて、もう一度息継ぎのために浮上。呼吸を整え、鼻をつまんで耳抜き。
「うちゅ、と違う。けど、似てる」
音はぽつりとつぶやいて、潜水。
ここはもともとサンゴ礁が綺麗な場所だった、と樹が話していた。しかし、マスドライバーの建設に伴って環境は激変し、サンゴは死滅していったそうだ。
音は海底に手をついて、一握りの砂をすくい上げた。さらさらと零れ落ちる砂の中に、軽石のようになったサンゴの残骸も一緒に落ちていく。
サンゴ礁を見たことのない音には、この白い残骸からどんな姿をしていたのか想像できなかった。色合いや海の持つ表情を、連想することなどできない。だが、ここが宇宙に近い虚無感や息苦しさを持っているのを体で実感する。
フィンの付いた足を動かすと、砂が巻き上げられた。進んでいく音は近くの岩礁に向かった。
自身の数倍はある大きさの岩を見上げて、そっと手を突く。ごつごつとした感触が直接手のひらに伝わる。流れが急激に変わり、体が左右にあおられる。
不思議な場所、と音は心の中でつぶやいた。
初めて訪れた海だというのに、どこか懐かしい感覚は体を包み込んでくれている気がするのだ。
息が苦しくなり、今度は岩礁を伝って浮上。
「…………ふぅ」
音はため込んでいた息を吐き出すと、岩礁に腰かけた。今度はお尻や太ももに固い感触が伝わる。そればかりは、不快感が否めなかった。
「そか。お腹の中、だたかな? この感覚」
ふといつだかにならったことを思い出して、つぶやいた。
赤ん坊が母親のおなかの中にいるとき、羊水という液体に包まれている、と。それが暖かく、優しいものだと聞いた気がする。
岩礁に打ち付けられる海水が弾けて、音は頭からそれを浴びた。
「ひゃぅっ!」
音はその暖かい飛沫に心地よさを感じつつ、そよそよと吹く潮風に肌寒さを敏感に感じ取った。
ぐっと自分の体を抱きしめて、寒さに耐える。と、自分の指先がふやけていることに気付いた。
「おおっ。へなの」
音はマスク越しに見えるふやけた指先を眺めて言った。
宇宙では蒸れることはあっても、ふやけることなどなかった。こうしてみると、宇宙と地球では環境が大きく異なっているのだな、と思い知らされる。
そして、音は地球の自然が好きになっていた。
「―――—んっ」
音は軽く手足を解すと息を整えて、海へと潜った。
無数の泡が視界を取り巻く。音もまた、上手に髪を纏うように回転して、水の流れを体いっぱいに感じ取る。
この感覚。この水の感触を身に刻む。お風呂は嫌いだが、海水浴は好きだ、と。
しかし、こうして一人海に抱かれていると、自分だけのけ者にされている気が、ふっと湧いてきた。
すると、音はマスクの間から入った海水を鼻で吸ってしまい、つんと鼻孔に痛みが走った。
「~~~~っ!?」
慌てて、浮上してマスクを外して鼻をこすった。
「うぇぇ。気持ち、わういぃ」
そして、自然と浜辺の方へ視線を向けていた。
いまだに樹たちはパラソルの下。一向に、海に入る気配を示さない。
「…………」
考えてもみたら、樹も彩子も地球に帰ってきて、親子の問題があった。そのことで、通じ合えることがあるのだと思った。
二人にも親がいて、大切な存在なのだ。
彩子は母親のために覚悟を決めた。樹には心配してくれる母親がいる。
だが、音には心配してくれる母親も、覚悟を決められる母親もいない。
その無情さが急に胸を締め付ける。どうして、自分にはそういう『親』がいないのだろうと。
だから、音は母親の温かみを求めるように、マスクを再装着して海へと潜っていく。




