~親と子~ 沈んでいく……
童祇和豊の気分は少々荒れていた。
海に出てきて、手荒い潮が小さなモーターボートをもてあそんだからかもしれない。だが、仲間が待つRO‐RO船に合流してみれば、胃のムカムカは収まって、後部ハッチから黒煙を立ち上らせる島を見ることができた。
気分が荒んでいるのは物理的ではなく、精神的なものだ、と彼は思った。
すでに、彼の乗船した船は沖縄に向けて針路をとり、撤退を始めていた。デッキは閑散としており、和豊と部下を迎え入れた作業員が数人のこっている程度だ。
「一応は、マスドライバーの破壊はできたようだな」
「ええ。しかし、こちらのアームウェア部隊が壊滅させられようです」
「ようです?」
和豊はシャツの胸ポケットから潰れたタバコの箱を取り出すと、一本口にくわえた。
吹き込んでくる風と潮のにおいが鬱陶しかった。
一緒に戻ってきた部下がタブレット端末片手に、報告を続ける。
「はい。つい先ほどまで、妨害が張られていましたから。目標基地に、まだ動ける機体があったものと推測されます。それと、標的にも逃げられた可能性があります」
「なるほど、調べが甘かったな、それは」
調査部の強化が必要か、と和豊はタバコを咥えつつ愚痴った。
統合政府は宇宙での戦争に、過剰なまでの危機感を抱いている。どちらかと言えば、宇宙で戦っている『地球平和軍』がそれだけ切迫しているのやもしれない。でなければ、〔AW〕の各国配備数が極端に減少したり、各地のマスドライバーから『ガンメタル』移送の便や特別便が増えるはずがない。
その情報が正しければ、今回の目標たる種子島基地には何かしらのイレギュラーがあったことになる。
加えて、大企業の経営者、アーノルド・ジャンクロフォードがわざわざ日本の片隅に急遽来日したのにも、疑問があった。各国のエージェントが動きを察知できたところを鑑みるに、彼にとっても想定外の出来事だったのかもしれない。
「それに、あの女……」
和豊は閉じていく後部ハッチに背を向けて、ブリッジへと歩いていく。
アーノルドが出てきたのは、種子島基地に『何か』があったからだと予測できた。しかし、その妻の一人である結喜・ジャンクロフォードまでも出てくるのは、妙なことだ。彼女はただのお飾り程度の役割しかなく、企業方針や政治的力もない女性のはず。力のない女がわざわざ、男を追って出てきた理由は何か。
そう考えたとき、ひとつの事柄を思い出す。
「子供のためだけに、来たのか?」
「どうしました?」
「いや、何にも」
部下の質問を突っぱねて、和豊はズボンのポケットから百円ライターを取り出して、タバコに火をつけた。
一服して、落ち着いた深い息を吐き出す。無益な考え事が吐き出された紫煙のごとく、霧散していく。
「あっちの動きを見ていて正解だったが、よくもまぁ、飼いならされたようだ」
「ジャンクロフォード夫人のことですか?」
急な階段を上っていると、後ろから部下がついてくる。
「ん? そうだ。ほとほと女ってのはわからんと、俺は思ったんだよ。お前も気をつけろよ」
「……?」
部下はぶらぶらと振り向きもせず手を振る和豊を訝しんだ。まだ、結喜・ジャンクロフォードや彼の義理の娘である少女のことを引きずっているのではないか、と思うのだ。
和豊は階段を上り切ったところで、彼の脳裏に結喜・ジャンクロフォードが軽トラックに跳ね飛ばされる瞬間がよみがえった。
何の抵抗もなく、何の躊躇もなく、彼女の体がゴムまりのようにはじけ飛んだのを、あの時唖然として見ていた自分がこれまでにないくらい情けなく感じた。そのあとも、ピクリとも動かなくなった結喜の姿や、慌てて出てきた運転手の動揺が、彼の中で大きな恐怖心を煽った。
だから、即時撤退した。あの場にいても、何も得られるものはない。例え、アーノルドの妾で利用価値があったにしても、あの状態では使い物にはならない。
そういう言い訳を頭の中で浮かべているのも、気に食わなかった。
和豊はしばらく不機嫌顔でタバコをふかしていたが、残りわずかになるとポケットから携帯灰皿を出して、乱暴に突っ込んだ。
「あの女はアーノルドの居場所を知っている風ではあったが、まぁ仕方ない。アーノルドの安否はいずれわかる。死んでいれば、中東の工業区計画はしばらく黙っているだろうしな」
中東の工業計画は、宇宙開発事業の推進目的、加えて、現地人の職能開発も兼ねている。表向きはそうでだが得をするのは結局、それに出資している重工業社だ。工業区の開発で土地を手放す原住民も出てくるし、その保証もおざなりなら誰だって職を得られることよりも、生活の維持を望むはずだ。
保証の中には、宇宙移民の先駆者にされるものだってある。
そのことを時代の浪漫だと受け入れている昨今の考え方は、とても盲目的だと童祇和豊は思うわけだ。
もろもろの気持ちをいったんリセットして、彼は部下ともに艦橋に堂々と入った。
艦橋クルーが一斉に視線を向けて、敬礼した。ボスの帰還だ、と誰もが文字通り敬意を払って。
「おう、ごくろう。状況はどうなってる?」
和豊は軽く手を上げて答えると、一八〇度見渡せるパノラマに視線を走らせる。自然と、その足もガラスの近くへと進む。
「ハッ。海保からは現海域を速やかに撤退せよ、です。受け入れ先の沖縄米海軍基地からも督促が来てます」
「みんなして、せっかちと来た。ま、貸しはまだまだあるし、こちらも余裕の態度を見せないとな」
和豊は言いながらも、自分の用心深さに内心感心していた。
純血派もまた、人とのネットワークを大切にする。肉体的ではなくプラトニックに訴えかけ、理性的な構築をしてきた。混血派のような内助の功を頼りにしているのではない。社会的なつながりだと、彼は確信していた。
ついてきた部下が和豊の隣に立つと、日本語で言った。
「娘さんのこと、考えているので?」
部下の試すような声に、和豊は鼻で笑って、日本語で返す。まず、この艦橋のクルーたちは内密な話をしているのだと思うことだろう。
「彩子はどちらにしても、俺を頼らなきゃならない。あいつの母親は俺が保護してるも同然だからな」
「いつまでも、親にしがみつきますか?」
その言葉には、部下が親離れこそ大人への階段だと思う節が窺えた。
だから、和豊は言った。
「親にとって、子供が永遠子供なら、子供のにしてってそうさ。特に、寂しい思いをしただろうあの子は母親に飢えてる。そういう繊細な部分を振り切れるはず、ないな」
「ボスが言っても、説得力ないんですが?」
部下の言及に、和豊も肩を揺らして笑った。
そうだ。童祇和豊は彩子の母親、皆守理子の男であっても、旦那ではない。彼女が求めている家庭を、彼は毛嫌いしているのだから。
それでも、健気に隠れ家を提供してくれたり、純血派の興信所的働きを見せるのは、彼女は偽りの夫婦生活が送れるから。それだけ、彩子の母親の精神は疲弊している。その精神の弱さに付け込んでいる和豊は空虚な家庭劇を演じてみせても、何も満たされるものはなかった。
だからこそ、和豊は男の視点で彩子の滑らかな肌を見たのだ。
「そういうな。これから、まだまだやることはある――――」
その途上で、彩子を抱き込めばいいと思った。
「ドウギさん。こちらに接近してくる物体がありやす」
急に、艦橋の索敵主が鉛の強い英語で呼びかる。
「数は?」
和豊もボスらしい口調で振り向いて、索敵主の元へ。
彼の傍についていた部下はすぐに船の外へと続くドアを開けて、出て行った。
艦橋に緊張が走る。
「数は――――、一? いえ、三機?」
「どっちだ?」
「そんなこといわれても……」
和豊はレーダー画面を見て、急速に接近してくる影を見た。二次元的な画面では、船の後方から〔AW〕と表示されたマーカーだけ。
「水中機か? 〔甲殻・十式〕のスクリューとウォータージェットの併用ならこれくらい――――」
「ボスっ! 外をっ」
外に出ていた部下が先ほど出たドアから顔を出すなり、叫んだ。
和豊は顔を顰めて、艦橋を横切りながら言った。
「第二次警戒態勢。こっちの武装はないんだ。民間船らしくしてろっ」
了解、という言葉が彼の耳に届いて、無視して外に出た。
吹き荒れる潮風と揺れる甲板に、一瞬足がもつれた。すぐ目の前にはもう一席のRO‐RO船が暗い海を滑っている。
ざざっと波をかき分ける音。そして、ずっと後ろの方からもっと豪快なしぶきの音が迫りくる。
「水面を出ているのか?」
「これを」
すぐさま、部下が双眼鏡を和豊に渡した。
彼は礼を言って、後方四時方向を見た。レーダー観測だとその方位だ。
「なんだ? 人が海を滑っている!?」
彼が目にしたのは、とても信じられないものだった。
揺れる双眼鏡の向こうで、さながらジェットスキーのように海を滑走する人型〔AW〕の姿があった。高々と水のカーテンを沸き立たせて、高速でRO‐RO船に接近してくる。
「いたわっ! あれだけデータにない」
そういって、彩子は電子戦モニタに映る〔甲殻・十式〕一番、二番機の調子を確かめる。
両肩部のマルチ・ハープーンにつながれた二機の〔甲殻・十式〕は海面下で、潜水形態で〔アル〕を引っ張っている。
海上を滑る〔アル〕はワイヤーをしっかりとつかみ、バランスを取るので精一杯の様子。
「バランスが難しい。初体験で、機体のバックアップもなしなんだから、すぐに決着つけないとっ」
樹が足裏をくすぐるラダーペダルのフィードバックと繊細な足さばきを要求され、緊張の面持ちだった。
彩子はしかし、正面のRO‐RO船の影をじっと見つめた。
「音は照準をお願い。樹も大変だけど、お願い。説得は――、あたしがやってみる」
「ここまで来たら、お互い様でしょう」
「彩子、がんば。きと、だいじょぶ」
「ありがとうっ」
〔甲殻・十式〕一番、二番ともにメイン推進のスクリューとオプション推進のウォータージェット最大出力のまま、針路をRO‐RO戦に向ける。
遠心力で〔アル〕は弧を描いて海を横滑り。
強力な負荷に三人は歯を食いしばる。
「あれが、アームウェア部隊を潰した機体か……」
「ボス。敵から通信が来てます」
和豊は報告を受けて、艦橋へと舞い戻る。
入ってすぐに、通信士がヘッドセットを明け渡した。その潔い受け渡しの様子に、和豊が首をかしげながらも、受話器を耳当てた。
「聞いてんでしょうねっ、童祇!! 終わりにしようじゃないのっ」
彩子の怒鳴り声に、和豊は息を飲んだ。
「ご使命ですよ、これって?」
通信士が飽きて口調で言った。
「馬鹿なっ!! なぜ、彩子が……」
「やっと出たわね。さぁ、船を止めなさいっ!! 止めないなら、止めるんだからね!! わかってる?」
彩子がまくし立て、和豊はますます頭が混乱する。
せまりくる〔AW〕を中継して、通信に割り込んでいるのか。だとしても、どうやって通信回線に入り込んだというのだ。
目に見えて、動揺する童祇和豊の姿に艦橋クルーたちは異様な緊迫感を覚える。
「敵、急速接近! 本船の真横に――」
瞬間、和豊たちが乗る|RO‐RO船の真横を、〔アル〕が高速で滑走していった。
艦橋にくぐもった声が上がる。
揺れる船に、艦橋クルーたちは近くのものにしがみつく。艦橋のガラスを打ち付ける海水に、足元をすく上げるかのような振動に、誰もが恐怖した。
「今のは警告よ。さっさと止まらないなら、次は本気でいくわっ」
彩子は電子戦用モニタに映る〔甲殻・十式〕の蓄電量が大幅に減っていく様子を見て、内心ひやひやものだった。
「時間がないわ……」
「彩子、僕を掴まても、何の解決にもならんぞ」
「――っ! そういうことがいる立場じゃないでしょうっ!」
彩子が言い返す。
〔アル〕は大きく軌道を変えて、もう一度二隻の|RO‐RO船の間を抜けようとする。その瞬間、ボード代わりにつけていたあの〔ブレードランナー〕を運んでいたプレートがはじけ飛んだ。もともと、無理やり脚部にはめ込んでいただけあって、遠心力と水の抵抗には耐えられなかったのだ。
がくんと機体が沈みかけるが、加速でどうにか水面を滑る。
「彩子、限界かも……」
音は加速の負荷に耐えながら警告する。
「わかってる―――――、聞いてるでしょう、童祇和豊! 返答がなければ、こっちの都合を押し付けてやるんだからねっ!」
「フンッ。君にそんなことができるものか? 僕がいなくなれば、母親がどうなるか?」
和豊は彩子たちの焦りを聞き取って、不敵に笑った。
母親のこととなれば、その手を緩めてしまうのが、皆守彩子という少女だ。友人が殺されても、ファミレスで彼を殺せるチャンスがあっても、その背後にいる母親という存在が判断を鈍らせるのだ。
彩子は和豊の読み通り、その葛藤があった。
しかし、
「このっ――――、このぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! うあぁあああああああああああああああああああああああああ!!」
怒りと、悲しみと、何もかもを投げ出す慟哭がヘッドセットからこだました。
和豊が思わずヘッドセットを離した時、〔アル〕が二隻の|RO‐RO船の間で転がるようにして転覆した。
盛大な水柱が上がり、二隻の船を踊らされる。
「自滅か……」
和豊は身近なものにつかまりながら勝利を確信して、つぶやいた。やはり、親とのつながりを立てないか弱い少女だと思った。
だが、その確信は見事に次の衝撃によって打ち砕かれた。
二隻のRO‐RO船の後部が急に爆発を起こしたのだ。
唖然とする和豊から通信士がヘッドセットを奪い取ると、もう一隻と連絡を取った。騒然となる艦橋。誰もが事態の把握を急いだ。
「何っ? スクリューを潰された!? え? 〔甲殻・十式〕が船に取り付いたっ!? こっちもだよ!!」
通信士の叫びが、和豊には悪魔のささやき声にしか聞こえなかった。
推進装置を失ってはどこにも逃げ場はない。救命ボートで脱出しても、結局は海上保安庁につかまり書類送検される。そうなったら最後、統合政府や『地球平和軍』が黙ってはいない。
海上保安庁も、犯罪者を捕まえておきながら庇う理由もないはずだ。
「く、くくく…………」
和豊は最後の最後で、抗った彩子に負けた。彼の築き上げた自尊心も功績も音を立てて崩れていく。
だから、もう笑うしかなかった。すべてを奪った少女に対して。
沈んでいく〔アル〕。
その操縦席で、通常モニタに映る淡い光を放つ水面がとても悲しく見えた。蜘蛛の糸のように伸びたワイヤーはまさに、最後の綱だった。
命ではない。もっと大切なつながりだ。
「…………」
彩子は電子戦モニタにまだ二機の〔甲殻・十式〕のステータスが表示されているのに気付いて、やはりどこか踏ん切りがつかない自分がいることを知った。
ここでワイヤーを切れば、確実に童祇和豊は捕まる。だが、彼は部下を何とも思わない男だ。その冷血さはおそらく、彼女の母親も巻き込むだろう。
すでに一線は超えた。ならば、縋りつく理由はないはずなのに、彩子の心は揺らぐ。
「彩子、迎えが来た。もう、終わりにしよう?」
樹が言った。
ぎりぎりと軋んだ音を立てる〔アル〕の下から巨大な影が浮かび上がる。
潜水艦〔ヴァール・マイスター〕だ。贅沢にも帰るための迎えに来てもらったのだ。
「…………そうね」
「彩子、がばた。だから、泣く必要、ない。たぶん……」
音がフォローで言う。その心底心配する声は、彩子の心境を気遣って、無理をしている色があった。それをうまく言葉にできないのは、単純に適した言葉が思い浮かばなかっただけだ。
彩子は息を吸って、通常モニタを見据えた。
オーロラのように揺らめく光と揺らめく二本のワイヤー、そして、二隻の船の影。その船底には、平べったいカニが引っ付いていた。
「生きて罪を償ってよ……。さようなら……」
声を振り絞って、固く握りしめたスロットルレバーのボタンを押した。
〔アル〕は肩口の発射装置でワイヤーを切り離して、あとは一方的に沈んでいく。その背中を、〔ヴァール・マイスター〕が受け止めて、ゆっくりと種子島への針路を取り始める。
ゴウンと重低音が操縦席に響いた。背中を押し上げる小さな振動が伝わった。
彩子は静かに、力なく項垂れる。涙はなかった。嗚咽もわいてこなかった。
「これで、一人ぼっち、か……」
その言葉に、樹と音は耳を塞ぎたい気分になった。
静けさを取り戻した種子島では、基地周辺に住む人たちが何事かと外に出ていた。
港町でも、老若男女が夜空に立ち上る黒煙を見物している。
「何かあったのかしらね?」
「すごい音がありましたよね? やだ、写真撮ろうかしら」
「なんかのお祭りかな? 夏祭り?」
「でも、すっごい大きな雲だよ? 花火じゃないもん。祭りなわけないよ」
「地震は収まったの……」
その人だかりの方へ、一台の軽トラックがゆっくりと進んでいく。
結喜とアーノルドが乗る自動車だ。やがて、路肩についた軽トラックの助手席から、アーノルドが降り立った。
そして、近くの人の肩を彼は叩いた。
「すまない」
「ん? どうしました?」
「人が怪我をしている。迅速な治療と救急車を呼んでくれないか?」
肩を叩かれた人は、アーノルドのあまりにも淡々とした口調に訝しんだ視線をいる。
「本当にそうかね?」
「見ればわかる」
アーノルドは軽トラックに戻って、助手席のドアを開けた。
肩を叩かれた人が顔をのぞかせると運転席で浅い呼吸を繰り返す結喜の姿があった。滝のように流れる汗で綺麗な髪が頬に張り付き、一呼吸ごとにくぐもった声が漏れている。ぐったりとドアに体を持たれかけて、しかし左腕はずっとハンドルを握ったままだった
「ちょっと――――、ああっと。救急車だよ、救急車」
呼び止められた人は気が動転して、自分に言い聞かせるように救急車と繰り返した。もはや、アーノルドへの文句も言ってられない。
アーノルドはその人物が携帯端末で電話をしているのを見て、結喜の方へ近づいた。
「すぐに、救急車が来る」
「そ、そう?」
結喜が無理やりな笑みを作る。
アーノルドは静かに頷くとそれっきり、何も言わなかった。彼自身、どう接していいのかわからないのだ。苦しんでいる女性を前に、自分にできることはないもない。手当てしようにも、どこから手を付けていいのかわからない。
結喜は熱を帯びた真っ赤な顔で、ただ沈黙する男に言葉を紡いだ。
「あり、がとう。うぅっ……。心配、して、くれて」
「…………」
ますます、アーノルドは言葉を見失った。
結喜に対してこれまで、何もしていなかった彼に感謝の言葉などおかしいことだ。ただ、日本への流通パイプのために利用しただけで、樹という才気を産んだ母胎に過ぎない、と唾棄していた。
結喜は痛む脇腹を押さえて、続ける。
「あの子、樹は、元気にしてました?」
「……ああ」
「……そう。そうなんだ……」
アーノルドの解に、結喜は何の疑問も持たず満足そうに微笑んだ。
その微笑みが、アーノルドには毒牙のようで、精神的に深々と刺さりじわじわと蝕んでいく。
「…………」
「あ、そうそう」
急に、結喜が思い出したように言って、アーノルドはむっと眉間に皺を寄せた。
「この車、持ち主に、帰さないと…………」
それを聞いて、アーノルドはどこまでのお人よしな彼女に、ほとほと呆れた。
先ほどまで心を痛めていたものが、急にどこかへ飛んで行ってしまった。同時に女性一人に一喜一憂させられた事実が、彼には衝撃的だった。
歳も一回りも違う。決定的な夫婦関係にあるわけでもない。だが、確かに結喜は母親として、アーノルドを対等に見ている。権力に恐れ、怯え、従うしかなった時とは違う柔軟さがあり、確かな意志を持っている。
その成長を促したのはなにか、アーノルドには理解できなかった。
「……おい?」
だから、アーノルドは呼びかけた。
なぜ、結喜は変わることができたのか、と。
しかし、結喜は瞳を閉じて、短い呼吸をしながら眠っていた。ここに来るまでの運転を変わろうとしなかったため、疲労が出たのだろう。その上、怪我のせいで体力の限界を迎えたとも推測できる。
「…………」
アーノルドはしばらく黙考して、軽トラックから出ると、電話を終えた人物が話しかけてきた。
「ああ、あんた。救急車は呼んだから、娘さんを出してやらなきゃ」
その発言に、彼は世間の目というのがどういうものかを、ひさびざに実感した。




