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マシン・レコード  作者: 平田公義
第十一章
82/152

~親と子~ 純血

 騒がしい音が彩子(あやこ)の耳に入るたび、冷静さが遠ざかっていく。


 緊張。焦燥。畏怖。そして、憤怒。


 彼女の感情が混ざり合い、絶妙なバランスを持って、理性的に目の前の人物を捉えることができている。


「そうカッカするな。もったいないぞぉ」


 男、童祇(どうぎ)和豊(かずとよ)はテーブルを挟んで睨み付ける彩子(あやこ)に言った。


 その視線は、成長した彼女の露出した肌や怒りに燃える瞳、ふっくらとした頬を舐めるように流れて、短く活発的な髪、滑らかな肩のラインをじっくりと観察していた。何年ぶり、いや、正確には二か月ぶりくらいだろうか、と和豊(かずとよ)は一人納得していた。


 町はずれのファミリーレストランは午後五時を回って、お客はまばらなものだった。洋風内装に、目に優しい照明がつき始める。窓ガラスには店のデジタル広告が流れていた。


 外は朱色の空。いわし雲がまだ明るい太陽を遮り、マグマのような朱色を噴き出している。


「どういうつもり? 殺すなら、今のうちだけど?」


 彩子(あやこ)は面と向かって、言った。


彩子(あやこ)――――っ」


 隣の(おと)が周囲に目を配りながら咎める。


皆守(みなもち)ちゃん。落ち着いて――」


 窓際の席、和豊(かずとよ)に退路を断たれた位置に座る結喜(ゆき)が不安そうに言う。


 それを和豊(かずとよ)は軽く手を上げて、制するとにこやかに笑う。その仮面の笑みは、営業的で不信感を持たせない説得力のような力があった。


 人畜無害ですよ、と。


「久々に会って、それは物騒だ。ほら、せっかくだから何か食べたらどうだい? 大丈夫。ここは僕たちと無関係なお店さ。それに、一人を残してほかの連中には退席してもらってるから、安心しなよ」

「安心? あんたが? どの口で言うのよ」

「まぁまぁ……。ああ、お二人もどうぞ」


 和豊(かずとよ)がテーブルを軽く叩くと、ラミネート加工された表面にメニュー表が出力された。彼の前だけに、デジタル化された項目が並び、ビジュアル写真付きの商品が種類ごとに分けられていた。簡単な検索機能だ。後は、指先でスライドさせてめぼしいものを探すだけだった。


 彩子(あやこ)はその様子、その言動があくまでこちらの油断を誘っているものだと判断する。


 部下が一人残っている。この言葉には、部下一人|しか残っていないと彩子(あやこ)たちに解釈させたいのだ。その実、それで十分だと彼は彩子(あやこ)を連行する間に悟り、女三人相手に、そこまで人員は必要ないと決断を下した。


 (おと)結喜(ゆき)は多少の気の緩みを見せて、とりあえずといった感じでメニュー表を呼び出した。


「どうして、ここにいるわけ?」


 彩子(あやこ)は厳しい口調で、問い詰める。


 和豊(かずとよ)はというと、適当に食べたいものを選んだのか『決定』ボタンを押して、満足そうな顔を上げて見せる。


「ちょっとした仕事さ。興味があるのかい?」

「あんたのすることは、ろくでもないことだから。聞き出して、警察に言ってやるんだからっ」


 その言葉には、さすがの和豊(かずとよ)も笑いをこらえるので必死だった。


「それは怖いなぁ。だけど、娘にもちゃんと僕の仕事の素晴らしさを理解してもらいたいな。だから、教えてあげてもいいよ」

「…………」


 (おと)はむっと険しい顔つきになる。


 適当にメニューから軽食を選んで決定しつつ、和豊(かずとよ)の余裕の態度にはどこか引っ掛かるものがあった。そもそも、連行した割にただ話をとんとんとしているだけで、目的が分からなかった。


 結喜(ゆき)はそんな彼の娘というフレーズに、違和感と嫌悪感があった。


「誰があんたの娘なもんですかっ! お母さんが付き合ってたからってそういう風に――――、そんな風に呼んでいい権利はないでしょう?」


 彩子(あやこ)は喉の奥が詰まりかけながら、告げた。


 童祇(どうぎ)和豊(かずとよ)が彼女の母親と付き合っているのは知っていた。彩子(あやこ)の実父は幼いころに病気で死んで、それからはほとんど母親は娘を可愛がることはなくなった。


 それが夫を亡くした妻としての悲しみから来るもので、癒してくれるのが自分ではなく、他の男だということもわかっていたから、彩子(あやこ)は祖母のもとで寂しく母の帰りを待っていた。

 

 そうするしか、幼い子にはできない。


 和豊(かずとよ)はそんな彩子(あやこ)の幼少期を知ってか知らずか、ああと手を叩いて言った。


「君のお母さん、理子(りこ)さんね。相当悲しんでたよ。人殺しをするような子じゃなかったはずだって――――」

「――――っ!?」


 彩子(あやこ)の頭に思い切り殴られたかのような衝撃が走った。

 

 自分を人殺しだと思っている。戦争で人を殺めた事実はあるも、それを地球にいる母親が知るはずがない。


 それ以上に、娘よりも目の前の男を信用してしまった事実の方が衝撃だった。


 だから、彩子(あやこ)は頭を振って、まっすぐ和豊(かずとよ)を睨み付るしか、自分の動揺を隠せずにいる。


「しかし、彩子(あやこ)がここにいるのは本当に予想外だったよ。いつから、ここに? それとも、逃亡先かな?」

「どっちだっていいでしょう。それより、何しにここに来たか言いなさいよ」

「ふぅん。まぁいいよ」


 和豊(かずとよ)は頬杖をついて、少し結喜(ゆき)に寄り添う姿勢を取る。


 彩子(あやこ)(おと)が身構える中、結喜(ゆき)は顔を強張らせながら、メニュー表の決定ボタンを押した。


「あ、あの。飲み物、取ってきてもいいかな? ここドリンクバーがあるみたいで……」

 

 そのあっけらかんとした言葉に(おと)は、肩を竦めた。


 こんな時に、何を言っているのだろうと。


 しかし、彩子(あやこ)は険しい表情を浮かべて、小さく首を横に振った。


「そうだね。僕も頼んでたし、喉も乾いた。そこの君、取ってきてくれないか?」

「あい? (おと)?」


 (おと)は急に和豊(かずとよ)に指名されて、自分を指差した。


「ううん。あたしが取ってくる。この子、こういうとこあまり来たことないから」

「…………そう。それじゃぁ、僕はブレンドコーヒーにしよう。あなたは?」

「あ、え……」

 

 結喜(ゆき)は席を立つ彩子(あやこ)に困惑の眼差しを向けるが、彼女は冷静にオーダーを待っていた。


 仕方なしに、同じものと、というと彩子(あやこ)はきびきびとドリンクバーの方へ歩いて行った。


 その後ろ姿がとても凛々しい反面、どこか無理をしているように感じられた。


「あの子ね。あなたの意図をすぐにくみ取ったんだよ」

「え—―――っ」

「ドリンクを取りに行くついでに、外部に連絡入れようとか考えたでしょう?」


 結喜(ゆき)はずいっと顔を寄せる和豊(かずとよ)から身を引いて、目を丸くした。


 彼の言った通り、可能なら隙をついて連絡を取るなり、店の従業員に助けを乞うつもりだった。浅はかな考えではあったが、緊張で念入りな計画を立てることができない。


 和豊(かずとよ)はいかり肩の(おと)に気付いて、すっと姿勢を正した。そして、満足そうに親指を軽くくわえて見せた。


「図星。図星だね? 刺し違えてでも、とか考えたかもしれないけど、無理だね」

「…………」

「言っただろう? 仲間はもう一人いる。そいつが監視している。不穏な動きを見せたら、対処してくれる手はずになっているんだよ。それを、彩子(あやこ)はよく理解していたんだ。まったく、人を疑うことに関しては彼女は余念がない」

彩子(あやこ)、頭いい。あなた、違う」

「そう。頭がいい。それって、物事を冷静に分析する力だ。そういう素質が、僕には必要なんだ」


 結喜(ゆき)はその流暢に出てくる彩子(あやこ)の評価に、妙な違和感を覚える。まるで、彩子(あやこ)のすべてを知っているかのような口ぶりだった。


 和豊(かずとよ)(おと)に微笑むと、彩子(あやこ)がコーヒーカップを二つ持って、席に戻ってきた。丁寧に、ソーサーとスティックシュガー、ミルクカップ付きで。


 彩子(あやこ)は素早く目の動きだけで、状況を確認するとコーヒーカップを結喜(ゆき)和豊(かずとよ)の前に差し出した。


 そして、特に殴りかかることもせず、(おと)の隣に忌々しげに腰を下ろした。


「ほら。自分のことだって、わかってる」

「どういう意味よ?」

「何、彩子(あやこ)がどういう子か、彼女たちに教えていたのさ」


 彩子(あやこ)は険しい目つきはそのままに、和豊(かずとよ)に視線を固定する。


「さぁ、教えてもらおうかしら? 何しにここに来たのか?」


 ガチャガチャと周りから食器の鳴る音が響く。談笑の声。


 それらの中で、彩子(あやこ)たちの持つ剣呑な雰囲気は隠れてしまう。ファミレスという人目に付く場所で、危険な話をするのは彩子(あやこ)なりの静かな周囲への訴えであったが、童祇(どうぎ)和豊(かずとよ)は違う。


 人の群れは、そこまで優しくない。今まさに、ここで爆破物があったとしても人々は無関心を貫くだろう。


 なぜか。真偽のほどが定かではないからだ。


 物理的な世界において、自分で知覚した情報こそ世界。判断材料もまたしかり。人の話は自己に磨きをかける因子であるが、冗談、脚色されたフィクションと思うことだってできる。


 ファミレスには人がまばらだ。だが、その小さなコミュニティはすでに、小さな隔てりを持って他の情報から目を背けている。もし振り向くとしたら、それを打ち壊す大きな衝撃が必要なのだ。


 それを、彩子(あやこ)にできないのを彼は見抜いていた。日本人らしい奥ゆかしさを、彼女は健気に持っているのだから。


 和豊(かずとよ)は胸ポケットから、たばこの箱を取り出し、とんとんと上を叩いた。


「たばこ、いいかな?」


 そう言いつつ、出てきた一本を咥えて、ズボンから百円ライターを取り出すと火をつけた。


 火のついたたばこの先から、紫煙が上る。そして、じっくりと燻らせたたばこの煙を彼は吐き出した。


「…………。(おと)、灰皿とって」

 

 静かに、いら立ちの含んだ声。


 彩子(あやこ)は向けられた紫煙を挑発と受け取って、(おと)に窓際にある灰皿を要求する。


 鼻に残る濃く、痺れるようなにおいが漂い始める。


 (おと)も顔を顰めて、要求された灰皿を和豊(かずとよ)の前に差し出した。


「おっと。すまないね」


 和豊(かずとよ)は言って、手に持っているたばこを灰皿に軽く叩いて、灰を落とす。我慢していたのか、満足げな笑みを見せた。


 その様子を結喜(ゆき)は表情を曇らせて、見守るしかなかった。


「さて、ここに来た理由ね。簡単だよ? わからない?」

「質問を質問で返すっ」


 彩子(あやこ)は目元を引くつかせる。


「冗談。僕は――、僕たちは彼女の旦那さんにようがあるんだよ」

 

 和豊(かずとよ)が煙草を咥えなおすと、隣の結喜(ゆき)に流し目を送った。


 それには結喜(ゆき)もびくりと肩を揺らして、目の前に座る二人に申し訳ない気持ちになる。


「また混血派を狙ったテロをするつもり」

「よくわかっている。そんなとろこだ」


 彩子(あやこ)が一層険しい目つきで睨んだ。


「どして、そなこと、する?」


 (おと)だ。結喜(ゆき)が目線を伏せたのを気にして、気持ちが揺らぐ。


「舌足らずな子だ。彩子(あやこ)、友達は選んだほうがいい」

「あんたの物差しでいう友達って、馬鹿ばかりじゃない」

「そういう……」


 和豊(かずとよ)は目を細めて、たばこを手に持ち替えるとすっと結喜(ゆき)の前にその先を流す。


 彩子(あやこ)(おと)結喜(ゆき)はそのあまりにも緩やかな動作に肝を冷やした。


 紫煙を上げるたばこの先は驚きで口を戦慄(わなな)かせる結喜(ゆき)の鼻先目前で止まっている。少しでも動いたら、熱せられた火が彼女を襲うことだろう。


 和豊(かずとよ)はため息交じりに、肺にたまった煙を吐き出した。


「僕はね。人の交わりは、いい意味で区分けさせるべきなんだよ」

「純血主義でしょう? そういうの偏見だって思うけど」

「いやいや、これは事実だよ。ねぇ? 奥さん?」


 和豊(かずとよ)はそこで、口元にたばこを持って行って結喜(ゆき)に言った。


 結喜(ゆき)は緊張から解放されて、胸元を押さえて安堵の息を吸った。


「もともと、いいとこのお嬢さんだったんだ。それが何の因果か、混血派の巨大企業の力を借りることになって、彼女、十代で妊娠、出産してる。かわいそうだとは思わないか?」

「そういう問題を、主義主張のせいにするの?」


 ああ、と和豊(かずとよ)は貪欲な息を吐く。


「混血派というのは、自らのネットワークを世界中に作り、人々の、人種の隔てりをなくそうとしている。自らの欲望のためにね」


 結喜(ゆき)は暗い顔をして、口を真一文字に閉じる。その事実に耐えるように、体を強張らせる。


 (おと)和豊(かずとよ)の言うものが真実をついていたから、思わずきょとんとしてしまう。それが正しいとも思えてしまう。


 しかし、彩子(あやこ)は言った。


「それはあんたたちもよ。そのせいで、何人の人が死んだと思ってるのっ」


 その声が響いたのか、数人のお客が四人を見たがすぐに食事なり、談笑を再開する。


「あまり大声を出さないほうがいい。そうだろう?」


 もう残りも少なってきたたばこの灰を灰皿に落とすと、和豊(かずとよ)はその先を灰皿にではなく、結喜(ゆき)の首筋に押し付けた。


「――――ぐむっ!」

「あんたっ!!」


 彩子(あやこ)が大声を上げて、席を立つ。


 結喜(ゆき)はテーブルにあったおしぼりを首筋に当てて、じりじりとする痛みに息を飲んだ。


「どうかなさいました?」

 

 一人の店員が小走りに寄ってきて彩子(あやこ)に言った。


 すると、和豊(かずとよ)が慌てた表情をして、店員前に立ち上がる。


「すみません。僕の不注意で、彼女、火傷してしまって。軟膏、もらえませんか?」

「ふざけないでっ! わざとやったんでしょう!?」

「お客様、他のお客様の迷惑になるので、どうか……」

「なんでそうなるのよっ」

「お客様っ!!」

「すみません。お母さんっ子なもので、ね?」


 店員は彩子(あやこ)の方に、過剰なものを感じて言った。それから、和豊(かずとよ)の要求に従って、その店員はフロアの奥に姿を消した。


 彩子(あやこ)はその対応に怒りを覚えると同時に、和豊(かずとよ)が勝ち誇ったように着席するのを見た。

 

 周囲の視線が集まり、いたたまれず、彩子(あやこ)も座る。


「この通り。次は、ナイフか、フォークになるよ。そこまですれば、容疑確定だけど――――、それだとどうなるか? 彩子(あやこ)はよく知ってるものな」

「…………人でなし」


 そういうのがやっとだった。

 

 (おと)結喜(ゆき)を心配して、身を乗り出している。それに対して、結喜(ゆき)は大丈夫と目に涙を溜めて、何度も言った。(おと)の辛い表情を見るのが、とても心苦しいから、安心させてあげたいと。


「話の続きだ」


 和豊(かずとよ)は新しいたばこをつけると、淡々とした声音で話だす。


「僕たちはただ、混血派を推進する連中が許せないんだ。彼ら、彼女らは淫乱で隣りの人のような存在を作ってしまう。それをなくすために、僕らは活動してる。君のかつての友人もまた、混血派の子供だ。一緒だろう?」

「一緒? 何が? 人を平気で傷つけるあんたらが正しいはずないでしょう」


 彩子(あやこ)は奥歯をかみしめて、声を押し殺す。


彩子(あやこ)、君が捕まったことについては本当に申し訳ないと思っている。だけど、君のお母さんを守るためにも、スケープゴートは必要だったんだ。彩子(あやこ)だって、お母さんのためらな協力したろう。したはずさ」


 和豊(かずとよ)の言葉に、ますます彩子(あやこ)は理解できなくなってきていた。


 お母さんのためなら、協力した? 必要だった? 申し訳ない?


 その二枚舌でよくも嘘を並べる。彼にはただ混血派という主義主張が嫌いなだけで、人のためなんか一つも考えていない。


「しないっ。絶対にね。例え、あんたの言うことが世間に受け入れられたって、あたしは誰かの命を奪うようなやり方を認めるもんかっ」


 彩子(あやこ)はきっぱりと言う。


 和豊(かずとよ)が苦い表情を浮かべたところで、先の店員が軟膏と湿布を持ってきた。

 

「ありがとう」


 彼は朗らかにそれを受け取る。


 店員が立ち去ると、受け取ったそれを(おと)の前において彩子(あやこ)に向き直る。


「そうか。では、こういうのはどうかな?」


 (おと)は急に声を弾ませる和豊(かずとよ)に警戒しながら、軟膏を手に取って、結喜(ゆき)の首筋に残る火傷に優しく塗った。


「自分でできるから――――、んんっ」


 結喜(ゆき)は言いつつ、塗られるとくぐもった声を漏らした。


 彩子(あやこ)にはそれが気がかりで落ち着かず、お尻を少し浮かせて居直る。


「これから、彩子(あやこ)とそこの子を帰してあげよう」

「…………ん?」

「だけど、彼女は帰れない――」


 和豊(かずとよ)は湿布を張る結喜(ゆき)を見る。


「おまたせしました」


 瞬間、別の店員が頼んだ料理を持って現れた。トレイに乗っているのは、アツアツの鉄板に乗ったステーキとライス。それから、トーストサンドだ。


 その介入に、彩子(あやこ)は毒気を抜かれて、冷静さを取り戻す。


 和豊(かずとよ)が人のいい顔を作って、ステーキとライスを受け取り、トーストサンドを(おと)の方へ流した。加えて、ナイフとフォークの入った容器を受け取った。それから、軟膏と湿布のごみを店員に渡した。


 店員からは面倒見のいいお父さん、という印象が残った。


「どういうつもり?」

「まぁ、待て。続きだ。二人が帰れる代わりに、彼女が残る。そして、彼女が帰る代わりに、二人が残る。このどちらかを彩子(あやこ)、君が選べるんだ」


 バチバチと鉄板の上で弾けるステーキの油。香ばしい肉のにおいが食欲をそそる。


 だが、彩子(あやこ)のお腹はきりきりと痛むばかりで、食欲などなかった。


 どちらかを選べ、とはつまり、(おと)結喜(ゆき)のどちらを助けるかを他ならない。そして、彩子(あやこ)自身のみの保証もだ。


「…………」

「僕はどちらでもいいよ? ま、ゆっくり考えなよ」


 和豊(かずとよ)はたばこを灰皿に押し付けてもみ消すと、容器からナイフとフォークを取って、食事の準備を始める。


彩子(あやこ)…………」


 (おと)が不安そうに彩子(あやこ)を見る。


「…………」

 

 彩子(あやこ)はぐっと口を噤んで、懇願するように(おと)を、結喜(ゆき)に視線を送った。どちらかを見捨てるなど、彼女にはできない。このまま時間だけがすぐても、三人がどうなるかわかったものではない。


 童祇(どうぎ)和豊(かずとよ)は殺しもいとわない男だ。その恐ろしさが今になって、身に染みる。


 和豊(かずとよ)はすっかり冷めきったコーヒーを一口飲んで、ステーキにソースをかけた。鉄板の上でさらに激しい音が鳴り響いた。


皆守(みなもり)ちゃん、詩野(うたの)ちゃん。迷うことなんてないでしょう? あなたたちが逃げて、助けを呼ぶの」

「で、でも…………」


 それじゃぁあなたは、と彩子(あやこ)は口にしようとした瞬間、和豊(かずとよ)が割って入る。


「ちなみに、僕は彼女の旦那さんがいる場所に行く予定だ。すでに、仲間が準備している。早くしないと、その人も危ないよ」

(おと)、あなた、嫌い」


 (おと)の発言に、ふんと鼻で笑って見せて、ステーキを切り出す。


「まぁ、三人が動いたところで、どうにもならない。それだけ、巨大な力を使うからね」


 その口ぶりには絶対的な自信があった。

 

 ますます彩子(あやこ)は迷って、頭がパンクしそうになる。


 しかし、結喜(ゆき)は脂汗を流しながら、ふと何か確信を得たような顔をした。


皆守(みなもり)ちゃん……、詩野(うたの)ちゃん……」

 

 優しい声音に、彩子(あやこ)(おと)がすぐさま視線を向ける。


 その先にある自身に満ち溢れた、優しい表情に万力で締め付けられるような胸の苦しみが和らいだ。


「あの子の、(いつき)の連絡先知ってる?」

「え、うん」

「だったら、わたしは大丈夫。二人で逃げなきゃ」

「でも、結喜(ゆき)さん、どなる?」


 和豊(かずとよ)の顔色を窺いながら、(おと)が尋ねると結喜(ゆき)はそっと彼女の頬に手を添えて、小さく唇を動かした。


「大丈夫。大丈夫だから」

「でも…………、でもっ」

「聞き分けのないこと言わないのっ」


 ぴしゃりと結喜(ゆき)(おと)に怒鳴った。


 それには(おと)彩子(あやこ)も、食事をしている和豊(かずとよ)も驚きだった。


 結喜ゆきはしゃんと座って、まっすぐに彩子(あやこ)(おと)を見た。


「わたしはね。もう子供に苦しい思いをしてほしくないの。申し訳ないだなんて思わなくていい。二人にしか――――、ううん。三人ならできることだってあるでしょう」

「そんなの、わかんないわよ」

「わからなくていいの。わからなくたって、やってみなきゃ。(いつき)のことを知ってるのは、二人だけだから、わたしにはもう皆守(みなもり)ちゃんと詩野(うたの)ちゃんに頼るしかないの」

「…………」

「大丈夫。大丈夫だから、ね? お願い」


 その言葉に、彩子(あやこ)(おと)も揺らいでいた気持ちを整える。


 大丈夫な訳がない。だけど、きっと結喜(ゆき)はなにか彩子(あやこ)たちにしかできない重要なことを知っている。でなければ、彼女が本気で頼み込むはずがない。


 三人なら、と言った。それが(いつき)を指すのか、彼女自身を指すのかわからなかったが、決定的な意味を持っている。


「そういえば、その(いつき)というのは、君の子か?」


 和豊(かずとよ)がライスを口にしてから、尋ねる。


 彼にもそうした情報があったが、あいにく結喜(ゆき)の子供がどんな風貌なのか知らない。知っておく必要があった。


 すると、結喜(ゆき)は自信たっぷりに笑って言ってのける。


「そう。わたしの大切な子。あの人も、その子に会いに来る予定だったんだから」


 その一言に、彩子(あやこ)(おと)は自信を受け取って言う。


「ジャンクロフォードさん。あたし、行ってきます。助けますから、待っててください」

「いてきます」

「大丈夫。わたしは自力でどうにかするから」


 三人の無根拠な会話に、和豊(かずとよ)は目を白黒させる。


 どういう会話だ。何で確信を得て、何で信用するのか。そもそも、このような選択に何の意味もない。彩子(あやこ)(おと)が店を出て、助けを呼ぼうと和豊(かずとよ)は部下を連れてそれよりも早く移動する。逆もまたしかりだ。


 初めから、全員が助かる道などこの場にはない。


 すると、彩子(あやこ)(おと)は素早く席を立つと全速力で店を出て行った。


「これで、どうなるというんだ?」

「あなたにはわからないよ」


 和豊(かずとよ)のぼやきに、結喜(ゆき)はそう言った。


 信頼してもらえることの大きな力の意味を知らない、童祇(どうぎ)和豊(かずとよ)では絶対にわかならい。


 


 彩子(あやこ)(おと)がファミレスを飛び出して間もなく、和豊(かずとよ)とその部下の日本人男性、結喜(ゆき)も店を後にした。


 外は日が沈み始め、夜の帳を下し始めていた。


「ボス。あと、三分で来ます」

 

 日本人男性はポケット端末を切って、結喜(ゆき)を後ろ手に拘束する和豊(かずとよ)に言った。仲間の迎えだ。時間はそれほど必要としない。


 和豊(かずとよ)はまるで夫婦のように結喜(ゆき)に寄り添って見せて、車道の手前立った。


 気になるのは、彩子(あやこ)(おと)の姿が見受けられないこと。一緒に持ってきた自転車がないことから、二人はすぐにこの場を離れたらしい。


「どうやら、二人はあなたを見捨てたようだ」


 結喜(ゆき)はたばこ臭い男にすり寄られて、顔をムッとさせたが、すぐに笑顔になる。


「二人がいないってことは、わたしはあの子たちを信じて正解だったってことだもの。きっと、二人はあなたたちの計画を阻止するために、頑張ってる」

「妄想だ。あなただって、今の旦那とは縁を切りたいでしょう?」

 

 その言い分が、結喜(ゆき)にはないと言ったら嘘になる。できるなら、(いつき)が家柄を気にした人生を送ってほしくないのだ。


 だから、(いつき)が科学者になって宇宙に行ったと聞いたとき、安心してしまった。あの子は自由になれたんだと。


 しかし、そのこととは別に、彼女の中にはある思いがあった。


「そうね。あまりいい出会いじゃなかったけど、あの子が生まれて、なんていうのかな。憎めなくなっちゃって」

「…………」

「彼がいなかったら、あの子はこの世にはいなかったし。彼もきっと、あの子がいないと困っちゃうんじゃないかな。そういう関係なの、要するに」

「つまり?」


 和豊(かずとよ)には理解しがたく、思わず聞き返してしまう。


 自分の元に寄り添う女性の存在はあっても、その娘は彼から離れる道を突き進んだ。この状況は結喜(ゆき)にも似通った点がある。


 なだらかな坂の向こうから、一台の軽トラックが走ってくる。速度はせいぜい五十キロ前後。ヘッドライトがついてる。


 結喜(ゆき)はそれを見て、後ろ手に持っていたカバンと帽子を落とした。


「ごめんなさい。取ってくれません?」


 彼女の行動を和豊(かずとよ)は話をそらしたいものだと思って、渋々腰を下ろす。その時も拘束は維持して、結喜(ゆき)の綺麗なお尻を拝むように地面に落ちたものを取ろうとする。


 瞬間、結喜(ゆき)スカートを翻して、勢いよく膝を曲げる。それは和豊(かずとよ)の顔面に高速で飛来する一蹴となる。


「がっ、ごぉおおっ!!」

「ぼ、ボスっ」


 和豊(かずとよ)は低いヒールが目に入って、思わず結喜(ゆき)の拘束を解いた。


 その様子に、すぐにも部下が動くが、結喜(ゆき)の方が早かった。


「あの子たちの邪魔だけは、したくないの……」


 結喜(ゆき)はヘッドライトの明るさに目を細めながら、体を車道に投げ出した。


 恐怖心は一瞬。あとは、ただ彩子(あやこ)(おと)、そして(いつき)に対する罪悪感と満ち足りた気持ちだけだった。


 偉そうなこと言って、結局苦しませてしまうかも、と。だけど、二人が歩き出すためには自分は邪魔だとわかっていたから…………。


 そして、夏の空に甲高いブレーキ音とガラスが砕ける音、何かがぶつかった生々しい音が響いた。

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