~親と子~ 純血
騒がしい音が彩子の耳に入るたび、冷静さが遠ざかっていく。
緊張。焦燥。畏怖。そして、憤怒。
彼女の感情が混ざり合い、絶妙なバランスを持って、理性的に目の前の人物を捉えることができている。
「そうカッカするな。もったいないぞぉ」
男、童祇和豊はテーブルを挟んで睨み付ける彩子に言った。
その視線は、成長した彼女の露出した肌や怒りに燃える瞳、ふっくらとした頬を舐めるように流れて、短く活発的な髪、滑らかな肩のラインをじっくりと観察していた。何年ぶり、いや、正確には二か月ぶりくらいだろうか、と和豊は一人納得していた。
町はずれのファミリーレストランは午後五時を回って、お客はまばらなものだった。洋風内装に、目に優しい照明がつき始める。窓ガラスには店のデジタル広告が流れていた。
外は朱色の空。いわし雲がまだ明るい太陽を遮り、マグマのような朱色を噴き出している。
「どういうつもり? 殺すなら、今のうちだけど?」
彩子は面と向かって、言った。
「彩子――――っ」
隣の音が周囲に目を配りながら咎める。
「皆守ちゃん。落ち着いて――」
窓際の席、和豊に退路を断たれた位置に座る結喜が不安そうに言う。
それを和豊は軽く手を上げて、制するとにこやかに笑う。その仮面の笑みは、営業的で不信感を持たせない説得力のような力があった。
人畜無害ですよ、と。
「久々に会って、それは物騒だ。ほら、せっかくだから何か食べたらどうだい? 大丈夫。ここは僕たちと無関係なお店さ。それに、一人を残してほかの連中には退席してもらってるから、安心しなよ」
「安心? あんたが? どの口で言うのよ」
「まぁまぁ……。ああ、お二人もどうぞ」
和豊がテーブルを軽く叩くと、ラミネート加工された表面にメニュー表が出力された。彼の前だけに、デジタル化された項目が並び、ビジュアル写真付きの商品が種類ごとに分けられていた。簡単な検索機能だ。後は、指先でスライドさせてめぼしいものを探すだけだった。
彩子はその様子、その言動があくまでこちらの油断を誘っているものだと判断する。
部下が一人残っている。この言葉には、部下一人|しか残っていないと彩子たちに解釈させたいのだ。その実、それで十分だと彼は彩子を連行する間に悟り、女三人相手に、そこまで人員は必要ないと決断を下した。
音と結喜は多少の気の緩みを見せて、とりあえずといった感じでメニュー表を呼び出した。
「どうして、ここにいるわけ?」
彩子は厳しい口調で、問い詰める。
和豊はというと、適当に食べたいものを選んだのか『決定』ボタンを押して、満足そうな顔を上げて見せる。
「ちょっとした仕事さ。興味があるのかい?」
「あんたのすることは、ろくでもないことだから。聞き出して、警察に言ってやるんだからっ」
その言葉には、さすがの和豊も笑いをこらえるので必死だった。
「それは怖いなぁ。だけど、娘にもちゃんと僕の仕事の素晴らしさを理解してもらいたいな。だから、教えてあげてもいいよ」
「…………」
音はむっと険しい顔つきになる。
適当にメニューから軽食を選んで決定しつつ、和豊の余裕の態度にはどこか引っ掛かるものがあった。そもそも、連行した割にただ話をとんとんとしているだけで、目的が分からなかった。
結喜はそんな彼の娘というフレーズに、違和感と嫌悪感があった。
「誰があんたの娘なもんですかっ! お母さんが付き合ってたからってそういう風に――――、そんな風に呼んでいい権利はないでしょう?」
彩子は喉の奥が詰まりかけながら、告げた。
童祇和豊が彼女の母親と付き合っているのは知っていた。彩子の実父は幼いころに病気で死んで、それからはほとんど母親は娘を可愛がることはなくなった。
それが夫を亡くした妻としての悲しみから来るもので、癒してくれるのが自分ではなく、他の男だということもわかっていたから、彩子は祖母のもとで寂しく母の帰りを待っていた。
そうするしか、幼い子にはできない。
和豊はそんな彩子の幼少期を知ってか知らずか、ああと手を叩いて言った。
「君のお母さん、理子さんね。相当悲しんでたよ。人殺しをするような子じゃなかったはずだって――――」
「――――っ!?」
彩子の頭に思い切り殴られたかのような衝撃が走った。
自分を人殺しだと思っている。戦争で人を殺めた事実はあるも、それを地球にいる母親が知るはずがない。
それ以上に、娘よりも目の前の男を信用してしまった事実の方が衝撃だった。
だから、彩子は頭を振って、まっすぐ和豊を睨み付るしか、自分の動揺を隠せずにいる。
「しかし、彩子がここにいるのは本当に予想外だったよ。いつから、ここに? それとも、逃亡先かな?」
「どっちだっていいでしょう。それより、何しにここに来たか言いなさいよ」
「ふぅん。まぁいいよ」
和豊は頬杖をついて、少し結喜に寄り添う姿勢を取る。
彩子と音が身構える中、結喜は顔を強張らせながら、メニュー表の決定ボタンを押した。
「あ、あの。飲み物、取ってきてもいいかな? ここドリンクバーがあるみたいで……」
そのあっけらかんとした言葉に音は、肩を竦めた。
こんな時に、何を言っているのだろうと。
しかし、彩子は険しい表情を浮かべて、小さく首を横に振った。
「そうだね。僕も頼んでたし、喉も乾いた。そこの君、取ってきてくれないか?」
「あい? 音?」
音は急に和豊に指名されて、自分を指差した。
「ううん。あたしが取ってくる。この子、こういうとこあまり来たことないから」
「…………そう。それじゃぁ、僕はブレンドコーヒーにしよう。あなたは?」
「あ、え……」
結喜は席を立つ彩子に困惑の眼差しを向けるが、彼女は冷静にオーダーを待っていた。
仕方なしに、同じものと、というと彩子はきびきびとドリンクバーの方へ歩いて行った。
その後ろ姿がとても凛々しい反面、どこか無理をしているように感じられた。
「あの子ね。あなたの意図をすぐにくみ取ったんだよ」
「え—―――っ」
「ドリンクを取りに行くついでに、外部に連絡入れようとか考えたでしょう?」
結喜はずいっと顔を寄せる和豊から身を引いて、目を丸くした。
彼の言った通り、可能なら隙をついて連絡を取るなり、店の従業員に助けを乞うつもりだった。浅はかな考えではあったが、緊張で念入りな計画を立てることができない。
和豊はいかり肩の音に気付いて、すっと姿勢を正した。そして、満足そうに親指を軽くくわえて見せた。
「図星。図星だね? 刺し違えてでも、とか考えたかもしれないけど、無理だね」
「…………」
「言っただろう? 仲間はもう一人いる。そいつが監視している。不穏な動きを見せたら、対処してくれる手はずになっているんだよ。それを、彩子はよく理解していたんだ。まったく、人を疑うことに関しては彼女は余念がない」
「彩子、頭いい。あなた、違う」
「そう。頭がいい。それって、物事を冷静に分析する力だ。そういう素質が、僕には必要なんだ」
結喜はその流暢に出てくる彩子の評価に、妙な違和感を覚える。まるで、彩子のすべてを知っているかのような口ぶりだった。
和豊が音に微笑むと、彩子がコーヒーカップを二つ持って、席に戻ってきた。丁寧に、ソーサーとスティックシュガー、ミルクカップ付きで。
彩子は素早く目の動きだけで、状況を確認するとコーヒーカップを結喜よ和豊の前に差し出した。
そして、特に殴りかかることもせず、音の隣に忌々しげに腰を下ろした。
「ほら。自分のことだって、わかってる」
「どういう意味よ?」
「何、彩子がどういう子か、彼女たちに教えていたのさ」
彩子は険しい目つきはそのままに、和豊に視線を固定する。
「さぁ、教えてもらおうかしら? 何しにここに来たのか?」
ガチャガチャと周りから食器の鳴る音が響く。談笑の声。
それらの中で、彩子たちの持つ剣呑な雰囲気は隠れてしまう。ファミレスという人目に付く場所で、危険な話をするのは彩子なりの静かな周囲への訴えであったが、童祇和豊は違う。
人の群れは、そこまで優しくない。今まさに、ここで爆破物があったとしても人々は無関心を貫くだろう。
なぜか。真偽のほどが定かではないからだ。
物理的な世界において、自分で知覚した情報こそ世界。判断材料もまたしかり。人の話は自己に磨きをかける因子であるが、冗談、脚色されたフィクションと思うことだってできる。
ファミレスには人がまばらだ。だが、その小さなコミュニティはすでに、小さな隔てりを持って他の情報から目を背けている。もし振り向くとしたら、それを打ち壊す大きな衝撃が必要なのだ。
それを、彩子にできないのを彼は見抜いていた。日本人らしい奥ゆかしさを、彼女は健気に持っているのだから。
和豊は胸ポケットから、たばこの箱を取り出し、とんとんと上を叩いた。
「たばこ、いいかな?」
そう言いつつ、出てきた一本を咥えて、ズボンから百円ライターを取り出すと火をつけた。
火のついたたばこの先から、紫煙が上る。そして、じっくりと燻らせたたばこの煙を彼は吐き出した。
「…………。音、灰皿とって」
静かに、いら立ちの含んだ声。
彩子は向けられた紫煙を挑発と受け取って、音に窓際にある灰皿を要求する。
鼻に残る濃く、痺れるようなにおいが漂い始める。
音も顔を顰めて、要求された灰皿を和豊の前に差し出した。
「おっと。すまないね」
和豊は言って、手に持っているたばこを灰皿に軽く叩いて、灰を落とす。我慢していたのか、満足げな笑みを見せた。
その様子を結喜は表情を曇らせて、見守るしかなかった。
「さて、ここに来た理由ね。簡単だよ? わからない?」
「質問を質問で返すっ」
彩子は目元を引くつかせる。
「冗談。僕は――、僕たちは彼女の旦那さんにようがあるんだよ」
和豊が煙草を咥えなおすと、隣の結喜に流し目を送った。
それには結喜もびくりと肩を揺らして、目の前に座る二人に申し訳ない気持ちになる。
「また混血派を狙ったテロをするつもり」
「よくわかっている。そんなとろこだ」
彩子が一層険しい目つきで睨んだ。
「どして、そなこと、する?」
音だ。結喜が目線を伏せたのを気にして、気持ちが揺らぐ。
「舌足らずな子だ。彩子、友達は選んだほうがいい」
「あんたの物差しでいう友達って、馬鹿ばかりじゃない」
「そういう……」
和豊は目を細めて、たばこを手に持ち替えるとすっと結喜の前にその先を流す。
彩子と音、結喜はそのあまりにも緩やかな動作に肝を冷やした。
紫煙を上げるたばこの先は驚きで口を戦慄かせる結喜の鼻先目前で止まっている。少しでも動いたら、熱せられた火が彼女を襲うことだろう。
和豊はため息交じりに、肺にたまった煙を吐き出した。
「僕はね。人の交わりは、いい意味で区分けさせるべきなんだよ」
「純血主義でしょう? そういうの偏見だって思うけど」
「いやいや、これは事実だよ。ねぇ? 奥さん?」
和豊はそこで、口元にたばこを持って行って結喜に言った。
結喜は緊張から解放されて、胸元を押さえて安堵の息を吸った。
「もともと、いいとこのお嬢さんだったんだ。それが何の因果か、混血派の巨大企業の力を借りることになって、彼女、十代で妊娠、出産してる。かわいそうだとは思わないか?」
「そういう問題を、主義主張のせいにするの?」
ああ、と和豊は貪欲な息を吐く。
「混血派というのは、自らのネットワークを世界中に作り、人々の、人種の隔てりをなくそうとしている。自らの欲望のためにね」
結喜は暗い顔をして、口を真一文字に閉じる。その事実に耐えるように、体を強張らせる。
音は和豊の言うものが真実をついていたから、思わずきょとんとしてしまう。それが正しいとも思えてしまう。
しかし、彩子は言った。
「それはあんたたちもよ。そのせいで、何人の人が死んだと思ってるのっ」
その声が響いたのか、数人のお客が四人を見たがすぐに食事なり、談笑を再開する。
「あまり大声を出さないほうがいい。そうだろう?」
もう残りも少なってきたたばこの灰を灰皿に落とすと、和豊はその先を灰皿にではなく、結喜の首筋に押し付けた。
「――――ぐむっ!」
「あんたっ!!」
彩子が大声を上げて、席を立つ。
結喜はテーブルにあったおしぼりを首筋に当てて、じりじりとする痛みに息を飲んだ。
「どうかなさいました?」
一人の店員が小走りに寄ってきて彩子に言った。
すると、和豊が慌てた表情をして、店員前に立ち上がる。
「すみません。僕の不注意で、彼女、火傷してしまって。軟膏、もらえませんか?」
「ふざけないでっ! わざとやったんでしょう!?」
「お客様、他のお客様の迷惑になるので、どうか……」
「なんでそうなるのよっ」
「お客様っ!!」
「すみません。お母さんっ子なもので、ね?」
店員は彩子の方に、過剰なものを感じて言った。それから、和豊の要求に従って、その店員はフロアの奥に姿を消した。
彩子はその対応に怒りを覚えると同時に、和豊が勝ち誇ったように着席するのを見た。
周囲の視線が集まり、いたたまれず、彩子も座る。
「この通り。次は、ナイフか、フォークになるよ。そこまですれば、容疑確定だけど――――、それだとどうなるか? 彩子はよく知ってるものな」
「…………人でなし」
そういうのがやっとだった。
音が結喜を心配して、身を乗り出している。それに対して、結喜は大丈夫と目に涙を溜めて、何度も言った。音の辛い表情を見るのが、とても心苦しいから、安心させてあげたいと。
「話の続きだ」
和豊は新しいたばこをつけると、淡々とした声音で話だす。
「僕たちはただ、混血派を推進する連中が許せないんだ。彼ら、彼女らは淫乱で隣りの人のような存在を作ってしまう。それをなくすために、僕らは活動してる。君のかつての友人もまた、混血派の子供だ。一緒だろう?」
「一緒? 何が? 人を平気で傷つけるあんたらが正しいはずないでしょう」
彩子は奥歯をかみしめて、声を押し殺す。
「彩子、君が捕まったことについては本当に申し訳ないと思っている。だけど、君のお母さんを守るためにも、スケープゴートは必要だったんだ。彩子だって、お母さんのためらな協力したろう。したはずさ」
和豊の言葉に、ますます彩子は理解できなくなってきていた。
お母さんのためなら、協力した? 必要だった? 申し訳ない?
その二枚舌でよくも嘘を並べる。彼にはただ混血派という主義主張が嫌いなだけで、人のためなんか一つも考えていない。
「しないっ。絶対にね。例え、あんたの言うことが世間に受け入れられたって、あたしは誰かの命を奪うようなやり方を認めるもんかっ」
彩子はきっぱりと言う。
和豊が苦い表情を浮かべたところで、先の店員が軟膏と湿布を持ってきた。
「ありがとう」
彼は朗らかにそれを受け取る。
店員が立ち去ると、受け取ったそれを音の前において彩子に向き直る。
「そうか。では、こういうのはどうかな?」
音は急に声を弾ませる和豊に警戒しながら、軟膏を手に取って、結喜の首筋に残る火傷に優しく塗った。
「自分でできるから――――、んんっ」
結喜は言いつつ、塗られるとくぐもった声を漏らした。
彩子にはそれが気がかりで落ち着かず、お尻を少し浮かせて居直る。
「これから、彩子とそこの子を帰してあげよう」
「…………ん?」
「だけど、彼女は帰れない――」
和豊は湿布を張る結喜を見る。
「おまたせしました」
瞬間、別の店員が頼んだ料理を持って現れた。トレイに乗っているのは、アツアツの鉄板に乗ったステーキとライス。それから、トーストサンドだ。
その介入に、彩子は毒気を抜かれて、冷静さを取り戻す。
和豊が人のいい顔を作って、ステーキとライスを受け取り、トーストサンドを音の方へ流した。加えて、ナイフとフォークの入った容器を受け取った。それから、軟膏と湿布のごみを店員に渡した。
店員からは面倒見のいいお父さん、という印象が残った。
「どういうつもり?」
「まぁ、待て。続きだ。二人が帰れる代わりに、彼女が残る。そして、彼女が帰る代わりに、二人が残る。このどちらかを彩子、君が選べるんだ」
バチバチと鉄板の上で弾けるステーキの油。香ばしい肉のにおいが食欲をそそる。
だが、彩子のお腹はきりきりと痛むばかりで、食欲などなかった。
どちらかを選べ、とはつまり、音か結喜のどちらを助けるかを他ならない。そして、彩子自身のみの保証もだ。
「…………」
「僕はどちらでもいいよ? ま、ゆっくり考えなよ」
和豊はたばこを灰皿に押し付けてもみ消すと、容器からナイフとフォークを取って、食事の準備を始める。
「彩子…………」
音が不安そうに彩子を見る。
「…………」
彩子はぐっと口を噤んで、懇願するように音を、結喜に視線を送った。どちらかを見捨てるなど、彼女にはできない。このまま時間だけがすぐても、三人がどうなるかわかったものではない。
童祇和豊は殺しもいとわない男だ。その恐ろしさが今になって、身に染みる。
和豊はすっかり冷めきったコーヒーを一口飲んで、ステーキにソースをかけた。鉄板の上でさらに激しい音が鳴り響いた。
「皆守ちゃん、詩野ちゃん。迷うことなんてないでしょう? あなたたちが逃げて、助けを呼ぶの」
「で、でも…………」
それじゃぁあなたは、と彩子は口にしようとした瞬間、和豊が割って入る。
「ちなみに、僕は彼女の旦那さんがいる場所に行く予定だ。すでに、仲間が準備している。早くしないと、その人も危ないよ」
「音、あなた、嫌い」
音の発言に、ふんと鼻で笑って見せて、ステーキを切り出す。
「まぁ、三人が動いたところで、どうにもならない。それだけ、巨大な力を使うからね」
その口ぶりには絶対的な自信があった。
ますます彩子は迷って、頭がパンクしそうになる。
しかし、結喜は脂汗を流しながら、ふと何か確信を得たような顔をした。
「皆守ちゃん……、詩野ちゃん……」
優しい声音に、彩子と音がすぐさま視線を向ける。
その先にある自身に満ち溢れた、優しい表情に万力で締め付けられるような胸の苦しみが和らいだ。
「あの子の、樹の連絡先知ってる?」
「え、うん」
「だったら、わたしは大丈夫。二人で逃げなきゃ」
「でも、結喜さん、どなる?」
和豊の顔色を窺いながら、音が尋ねると結喜はそっと彼女の頬に手を添えて、小さく唇を動かした。
「大丈夫。大丈夫だから」
「でも…………、でもっ」
「聞き分けのないこと言わないのっ」
ぴしゃりと結喜は音に怒鳴った。
それには音も彩子も、食事をしている和豊も驚きだった。
結喜はしゃんと座って、まっすぐに彩子と音を見た。
「わたしはね。もう子供に苦しい思いをしてほしくないの。申し訳ないだなんて思わなくていい。二人にしか――――、ううん。三人ならできることだってあるでしょう」
「そんなの、わかんないわよ」
「わからなくていいの。わからなくたって、やってみなきゃ。樹のことを知ってるのは、二人だけだから、わたしにはもう皆守ちゃんと詩野ちゃんに頼るしかないの」
「…………」
「大丈夫。大丈夫だから、ね? お願い」
その言葉に、彩子も音も揺らいでいた気持ちを整える。
大丈夫な訳がない。だけど、きっと結喜はなにか彩子たちにしかできない重要なことを知っている。でなければ、彼女が本気で頼み込むはずがない。
三人なら、と言った。それが樹を指すのか、彼女自身を指すのかわからなかったが、決定的な意味を持っている。
「そういえば、その樹というのは、君の子か?」
和豊がライスを口にしてから、尋ねる。
彼にもそうした情報があったが、あいにく結喜の子供がどんな風貌なのか知らない。知っておく必要があった。
すると、結喜は自信たっぷりに笑って言ってのける。
「そう。わたしの大切な子。あの人も、その子に会いに来る予定だったんだから」
その一言に、彩子と音は自信を受け取って言う。
「ジャンクロフォードさん。あたし、行ってきます。助けますから、待っててください」
「いてきます」
「大丈夫。わたしは自力でどうにかするから」
三人の無根拠な会話に、和豊は目を白黒させる。
どういう会話だ。何で確信を得て、何で信用するのか。そもそも、このような選択に何の意味もない。彩子と音が店を出て、助けを呼ぼうと和豊は部下を連れてそれよりも早く移動する。逆もまたしかりだ。
初めから、全員が助かる道などこの場にはない。
すると、彩子と音は素早く席を立つと全速力で店を出て行った。
「これで、どうなるというんだ?」
「あなたにはわからないよ」
和豊のぼやきに、結喜はそう言った。
信頼してもらえることの大きな力の意味を知らない、童祇和豊では絶対にわかならい。
彩子と音がファミレスを飛び出して間もなく、和豊とその部下の日本人男性、結喜も店を後にした。
外は日が沈み始め、夜の帳を下し始めていた。
「ボス。あと、三分で来ます」
日本人男性はポケット端末を切って、結喜を後ろ手に拘束する和豊に言った。仲間の迎えだ。時間はそれほど必要としない。
和豊はまるで夫婦のように結喜に寄り添って見せて、車道の手前立った。
気になるのは、彩子と音の姿が見受けられないこと。一緒に持ってきた自転車がないことから、二人はすぐにこの場を離れたらしい。
「どうやら、二人はあなたを見捨てたようだ」
結喜はたばこ臭い男にすり寄られて、顔をムッとさせたが、すぐに笑顔になる。
「二人がいないってことは、わたしはあの子たちを信じて正解だったってことだもの。きっと、二人はあなたたちの計画を阻止するために、頑張ってる」
「妄想だ。あなただって、今の旦那とは縁を切りたいでしょう?」
その言い分が、結喜にはないと言ったら嘘になる。できるなら、樹が家柄を気にした人生を送ってほしくないのだ。
だから、樹が科学者になって宇宙に行ったと聞いたとき、安心してしまった。あの子は自由になれたんだと。
しかし、そのこととは別に、彼女の中にはある思いがあった。
「そうね。あまりいい出会いじゃなかったけど、あの子が生まれて、なんていうのかな。憎めなくなっちゃって」
「…………」
「彼がいなかったら、あの子はこの世にはいなかったし。彼もきっと、あの子がいないと困っちゃうんじゃないかな。そういう関係なの、要するに」
「つまり?」
和豊には理解しがたく、思わず聞き返してしまう。
自分の元に寄り添う女性の存在はあっても、その娘は彼から離れる道を突き進んだ。この状況は結喜にも似通った点がある。
なだらかな坂の向こうから、一台の軽トラックが走ってくる。速度はせいぜい五十キロ前後。ヘッドライトがついてる。
結喜はそれを見て、後ろ手に持っていたカバンと帽子を落とした。
「ごめんなさい。取ってくれません?」
彼女の行動を和豊は話をそらしたいものだと思って、渋々腰を下ろす。その時も拘束は維持して、結喜の綺麗なお尻を拝むように地面に落ちたものを取ろうとする。
瞬間、結喜スカートを翻して、勢いよく膝を曲げる。それは和豊の顔面に高速で飛来する一蹴となる。
「がっ、ごぉおおっ!!」
「ぼ、ボスっ」
和豊は低いヒールが目に入って、思わず結喜の拘束を解いた。
その様子に、すぐにも部下が動くが、結喜の方が早かった。
「あの子たちの邪魔だけは、したくないの……」
結喜はヘッドライトの明るさに目を細めながら、体を車道に投げ出した。
恐怖心は一瞬。あとは、ただ彩子と音、そして樹に対する罪悪感と満ち足りた気持ちだけだった。
偉そうなこと言って、結局苦しませてしまうかも、と。だけど、二人が歩き出すためには自分は邪魔だとわかっていたから…………。
そして、夏の空に甲高いブレーキ音とガラスが砕ける音、何かがぶつかった生々しい音が響いた。




