~地球~ 夏の旅
地球は回っている。
それが、音が初めて降り立った星への感慨だった。地続きの足元、振り仰いだ空の高さ。残月の存在。流れていく人波。肌にまとわりつく空気。
樹たちがアメリカのケネディ宇宙センターに降り立った時、時分は昼間。そこから国内線を使い、アトランタ空港まで出ると続いて、国際線で日本の成田空港への直行便に乗り、日付変更線を越えて次の日の深夜に到着した。
空の旅は、『地球平和軍』が特別に発行したパスポートがあったため、大きな問題は起きなかった。
でなければ、まず詩野音は国籍不明で空港から出られなかっただろう。
音にしてみれば、迷路のような空港のターミナルを歩かされて、疲れがたまっていた。
些細なことと言えば、彩子の方は、樹を監査官として搭乗することが許可されている。日本での冤罪はまだ晴れておらず、空の旅は肩身の狭いものだった。
時差に頭が混乱気味の三人だが、その足取りはきびきびとしたものだった。
「にしても、どうするのよ?」
成田空港のターミナルを歩きながら、彩子が問う。
三人ともタイトなスーツを着て、馬子にも衣装といった雰囲気だ。その姿とスポーツバックを担ぐ彼女たちを周りは軍人だとは思わないだろう。代わりに、夜の十一時にターミナルを闊歩する小さな子たちに対する不信の目が否応なく飛んでくる。いや、社会人だろうかと警備員も三人の動きに注意を払っていた。
「ええっと。夜行バスに乗って、電車に乗って――」
「どこまで行くってのよぉ……」
「ごめん、彩子」
彩子の不満が、自分のせいだと音はすぐにわかった。
樹にも疲れの色が見えていたが、彼女は黙々と先導している。
「んあ? 何で、あんたが謝んのよ? それにしてもこのスーツ、ちょっと動きにくい」
「仕方ないでしょう。向こうの空港で間に合わせで買ったんだから。私服は先方に悪いし、軍服ってのもコスプレっぽくなるでしょう? 私たちの場合」
「これも十分変じゃない……」
そんな他愛のない話をしながら、三人はコンビ二でおにぎりやお菓子、飲み物を買ってから、空港を出る。そのすぐ近くで、東京行き夜行バスが静かにモーターを回して、温めていた。ほとんどの自動車が電気で駆動するものになり、ガソリン車はそれこそトラックくらいのものとなっている。
樹たち急いで夜行バスまで行くと、荷物の積み込みをしているおじさんにスポーツバックを渡して、空港のターミナルで買った乗車券で乗車。幸い、乗客少なく、苦も無く樹たちは一番後ろの席を陣取った。
すぐに、夜行バスは出発する。
「こういうの、月じゃなかったでしょ?」
音が窓際の外の夜景を眺めていると隣の樹が質問する。
「のー。バス、あた」
「そうじゃない。夜景」
「あ~ん……。たぶん」
音は言って、コンビニの袋からおにぎりを一つ取り出し、ラップを取って齧り付く。
まばらな夜景の光は、今までに見たことのない異質さを音にもたらす。宇宙でみる星の光もこんなに明るくない。コロニーの明かりはもっと小さい。月にはまず、こんな景色はない。
妙な居心地の悪さに目が覚めてしまう。へとへとだというのに、意識は一向に眠りにつくことはない。空腹に任せて、おにぎりを平らげて、お菓子をつまみ続ける。
そんな風に、ただぼんやりとしていると東京へと入り、明かりの強さを増していった。頭上を渡り、迷路のように入り組んだ首都高から見る町は、今の彼女のように眠ることを忘れていた。
気が付けば、隣の樹とそのまた隣の彩子は眠っている。疲れが出たのだろう。
「…………」
音はトンネルに入って、オレンジ色に染まった二人の顔に申し訳なくなる。
本来なら、成田空港から国内線に乗り継いで、目的地の種子島に向かうはずだった。しかし、こうして夜行バスに乗っているのも、音の祖父母に当たる人物に会うためだ。
とても恐ろしい試練だ、と音は覚悟していた。なにしろ、面識がない。アポは樹が事前に取ってくれているとはいえ、向こうも半信半疑のことだろう。
やがて、バスは渋滞に巻き込まれて、数珠つなぎの自動車の中をのろのろと進んでいく。空が白んで、高層ビルの並ぶ区画を過ぎると、人工の明かりはひっそりと消えて行った。夏の日の出は、ビルの影を色濃く残して、熱気を呼び覚ましていく。
音は夜行バスが新宿駅なる場所についたのを聞いて、樹と彩子を起こす。それでも、早朝三時。人の姿など見受けられなかった。
「樹、彩子、ついた」
「ん……。そう」
「あと、五分……」
樹は眠気まなこをこすって、隣の彩子に軽く小突く。
そして、三人は荷物を受け取って、次の高速バスまでの時間を潰す。とは言っても、しんと静まり返っている駅はもちろん、周辺の店が目を覚ます様子はない。まばらに走る自動車を見送りながら、浮浪者のように散策する。
「ねぇ。ラーメン食べてく?」
「賛成。お腹すいたわ」
「らーめん?」
樹がネオンのない街並みの一角、店じまい寸前のラーメン屋を見つけて、三人は気の早い朝食をとった。営業時間ぎりぎりともあって、店主はとても不機嫌そうに三人を店に迎え入れた。
「なんだい? 地方からの就活かい?」
店主はふっと樹たちをそう見取って、なぜか餃子のサービスをしてくれた。
「俺が上京したときは、ホテルの一つも空いてたんだがねぇ……」
と、昔話をこぼし始める。どうやら店主も、地方から過密の東京へと店を出したらしい。
樹たちは感謝すると同時にスーツは正解だったと心にとどめた。それから、はぐらかすように話を合わせる。未成年であることがばれたら、たたき出されると思ったからだ。
音の中に地球にいる人々の生き方は、こういう温かみを持っているものだと思った。月ではあまり対人関係というのは良好ではなく、仕事仲間としては協力的だが、プライベートはそれこそ劣悪。
「ありがと。おじちゃん」
音はそんな店主の心意気に、深く感謝した。
店を後にしてからは、時間がゆっくりと流れ、日差しの強まっていくと同時に、人の活気が町にあふれてくる。
「ん? そろそろ時間かな」
樹がそう言ったのは、午前六時ごろ。
三人は駅に引き返して、乗り込みの始まっている指定の高速バスに乗った。
「到着したらタクシー捕まえて、詩野さんのところに直行だから」
走り出した高速バスの中で、樹がほっとつぶやいた。
「なんか、あたしたち、十七歳にあるまじき行動してない?」
「いいんじゃない。誰も怪しんでないし、ちょっと大人っぽく見えるんだよ」
「傷心旅行してるみたいじゃない」
「そういうイメージなんだ」
「…………」
音はそんな会話を耳にしながら、都会の無機質から山間の緑を見つけて、ほっと胸を撫で下ろしていた。目に映るものが単調な色合いになっても、コンクリートで囲まれた町よりはずっと良い。自然の色相は、彼女の緊張をほぐしてくれる。
しかし、宇宙とは違った不自由さが疲れとなって積もっていく。障害物を避けるように作られた道、収容率上げるための建物の高層化、交通機関の面倒な手続き。
これが、母の望んだ地球の姿なのか。
樹も彩子もこの地球のありようを受け入れている。それはいい。生まれ故郷に愛着を持っていてもおかしくないことだ。
だが、音はどうだ。月に愛着があったのは、母である詩野琴葉がいたからだ。そして、母が望んだのは生まれ故郷の地球。だから、うまくやっていけると思っていた。
暗雲が立ち込める心を抱えて、音はバスを降りていく樹たちの背中を追う。
蝉しぐれが耳に届き、舗装されたずっと先に目る道路が揺らめいて見える。さらに、夏の眩しい日差しと乾いた熱気に、ほんの数分で汗が噴き出てくる。
音はアメリカで感じた暑さを思い出して、蒸れるうなじを摩った。
「ほら、行くよー」
樹がロータリーで待機するタクシーの前で、スポーツバックを下ろして彩子と音に手を振る。
「暑いわね……。宇宙とは大違いよ」
「そだね……」
げんなりしながら進んでいく彩子の横について、音は乾いた喉を鳴らす。重い体を引きずるように、二人は荷物を荷台に乗せて、タクシーに乗り込んだ。
「お客さん、大学生かね?」
タクシーを走らせる中年の運転手は手持無沙汰といった感じで、質問を投げかける。
「そう見えます?」
「お若い感じがしてね。んが、あれだ。三人とも、べっぴんさんだね」
「あはは……、ご冗談」
樹が社交的に応対する。
音の耳にはあたりさわりのない会話が、車内のラジオに交じって聞こえる。最近はやりの曲やら、珍客との遭遇話、投降はがきのコメント、運転手の政治に対する意見、パーソナリティの笑い声――。
頭がどうにも働かないまま音は外に流れる畑の緑に目を向けていた。
「ちょっと、大丈夫?」
そういうのは、彩子だ。
「どうしました? 具合でも悪いんで?」
運転手がバックミラーで音の顔色を確認する。その目には、心配の色があった。
だから、音は無理やり笑顔つくって首を横に振った。優しさが胸を締め付ける。
しばらくして、タクシーは目的地に着いた。
そこは、住宅地から離れた道路わきの一軒家。立派なつくりで、植込みの塀に囲まれている。すぐ目の前に田んぼがあり、そのための水路が静しげな音を奏でている。
「田舎ね……」
タクシーから降りた彩子の第一印象だ。
音は周りを見渡しながら、引かない汗に不快感を覚える。その手には、母の形見をいれた純白の紙袋が握られている。このために、長い時間を使ってきたのだ。
「それじゃ、三十分くらいで戻りますから」
「わかりました。じゃぁ、あそこの休憩所にいますので」
タクシーの運転手がさす方を見て、樹は古びた立て看板を視界に捉えて頷く。それから、タクシーを降りて、どうしようかと迷っている音と彩子を追い越して、家の玄関へと進んでいく。
音と彩子が緊張の面持ちで、続く。
ピンポーン……。
樹が門柱にあるインターホンを押して、反応を待つ。
『はい。どちら様ですか?』
「あ、先日お電話した佐奈原です」
『ああ…………。ちょっとまってくださいね』
インターホンからは女性の枯れた声がした。そして、望まぬものを迎える落胆の声音だった。
「わたしのできることは、ここまで。あとは音のすることでしょ?」
「あい……。樹、ありがと」
「…………」
音は心配そうな瞳を向ける樹に笑って、彼女の隣に立った。
同時に、すぐ前の玄関の引き戸が開かれ、一人の初老の女性が顔を出した。音の祖母に当たる人だ。どっしりとした体形と少し折れ曲がった腰。化粧の濃い顔は、何か気合らしいものが見受けられる。
その気合はしかし、門前に立つ音見た瞬間、驚愕の色を浮き彫りにした。
「ああ……、ああ……」
戦慄く祖母から、感嘆とも絶望とも取れる息遣いが聞こえる。
音はなにか言わなければ、と口を開こうとした。しかし、なんと言うべきか咄嗟には出てこない。なぜなら、音には玄関先でたたずむ祖母がどう自分を捉えているか、わかっていまったから。
「どうした?」
すると、玄関先からはっきりとした男性の声が聞こえた。その人物は祖母の横に立って、門前に視線を投げかける。
こちらもどっしりとした体形で、薄くなった頭をしていた。しかし、持っている迫力が老いを感じさせない。男のらしいものだ。
そして、初老の男性、音の祖父は目を丸くしたが、すぐにサンダルを履いて音たちの元へ歩いてくる。
「あ……」
音は逃げ出したい気持ちを押し殺して、じっと初老の男性に視線を固定する。
祖父は何かを我慢するように顔を真っ赤にして、小さな門を開けた。
「入れ。話を聞いてやる」
そういって、引き返していく。
「何さ。偉そうに……」
「彩子っ」
樹は不満そうな彩子に小声で言った。
そして、音は祖父の背中を追うように、詩野家の敷居に入る。
三人は綺麗な応接間に通されて、祖父とちゃぶ台を挟んで向い合せに座る。まだ真新しい畳のにおいと微かな風が涼を運んでくる。
「それで、お前が琴葉の娘か?」
「あい……」
音はちょうど目の前にいる祖父の顔見て、ぐっと喉に這い上がってくるものを飲み込んだ。緊張が体を固めて、いつもの笑顔を作らせない。いつになく固い顔をしていると自分でもわかった。
祖父は音の言葉遣いに奥歯をかみしめて、音の左右に座る樹と彩子に目をやる。音と同い年だというのは一目でわかった。
そんな小娘を寄こされて、彼は屈辱的だとはらわたが煮えくり返る。
「佐奈原、とかいうのどっちだ?」
「わたしです」
樹は毅然として答えた。
「娘の遺髪があると聞いたが――」
「あ――――」
音が慌てて、脇に置いていた紙袋をちゃぶ台の上に置いて、差し出した。
祖父はその動きに厳しい視線を射て、厚い皮に覆われた手で自分の膝元に引き寄せる。中身を確かめて、書簡を取り出して、その内容を確かめる。それには、髪のDNAが詩野琴葉のものであるという証明と、その娘である音の血縁を証明する二枚だった。
音たちはその様子をじっと観察して、反応を待つ。
そこに、お茶を乗せたお盆を持って音の祖母が応接間に入ってきた。彼女は音たちに麦茶の入った客人用のグラスを音たちの前に出して、自分の旦那の横に座った。
「これを伝えるために、わざわざ宇宙から来たのか……」
祖父は怒気を含んだ声で言い、書簡を隣の祖母に渡した。
「あい。母、死んで――――」
「母親などとよくも言うっ!」
祖父はつばを飛ばして、怒鳴りつける。
音は身を縮こまらせて、思わずうつむく。怖かった。この恐怖は戦いのときの激情とは違う。、もっと恐ろしいもの宿って、彼女の心を締め付ける。
「あなた、こんなのって……」
それは祖母の震える声だった。娘の不当な扱い。目の前に座る孫の存在。それらのことがあまりにも現実離れしていて、彼女の思考が追い付かない。
「男に孕まされて、こんなになって……。そいつはどうしたっ! なぜ、ここにいないっ!」
祖父の目には音など映っていなかった。あるのは、憎い男の欲望の塊だ。そんなものが来たところで、孫だとは思わない。思いたくもない。
俯く音を一瞥して、樹はここは踏み込んでいい話だと判断した。
「その人は火星の方に遠征しています」
その発言に、竦んでいた彩子は目を見開いた。なぜ、樹は答えるのかと。
「勝手なことを」
「あの子がこんな風になって帰ってきて、その人は生きてるっていうの!?」
祖父母の嘆きに、音はますます自分の存在を醜く思って、肩を震わせる。
「……はい」
樹は姿勢正しく、淡々と言う。
その態度が祖父の怒りをさらに燃え上がらせた。
「何が『地球平和軍』だ。やってることはクズ以下じゃないか!」
「娘は確かに悪いことをしましたが、こんな死に方をする子じゃなかったっ」
祖母が弱々しく首を横に振る。
「それに何だ!? これを養えって言うのか? ふざけるな!」
「これって――――っ。あんたね――――」
彩子は目の前の男の物言いに怒りが一気に吹き出しそうなった。
しかし、音がちゃぶ台の影から強く手を握って彼女を抑える。言わなくていい、と。怒らないで、と。
彩子は爪が食い込んでくるほど強く握ってくる音を見て、ぐっと怒りを飲み込んだ。
「…………あ、あのっ」
音は握った手を離して、必死に言葉を絞り出しながら、顔を上げる。
その顔にはひきつった精一杯の笑みがあった。愛してくれとは願わない。受け入れてほしいとおこがましいことは思わない。ただ、悪意はないのだと知ってほしい。
祖父母はその表情に、言葉を詰まらせる。なぜ、笑うのか。そして、その顔が娘の琴葉と重なって見えてしまうのか。処理しきれない感情は、音と琴葉を混同させる。
「か……、母に、母にっ、お、お墓、を…………。この、ちきゅに、かえ、帰してぇ………」
ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、音は訴える。
「もうっ、こ、来ない、から……。もう、来ませんからっ。母、だけは――――」
その言葉に、祖父母は厳しい顔つきになって音を睨んだ。
「当たり前だっ! 二度と来るなっ」
「あなたは私たちの孫じゃない。認めるもんですか」
二人はその少女の口が、戦慄きながらもわかったと動くのが見て取れた。
そして、少女の本心がただ母の安らかな眠りを願う優しいものだとも。
どんなにせめても仕方ない。死んだ人間は帰ってこないのだから。そして、男の身勝手な理由とそれを受け入れる『地球平和軍』のあり方は、許せるものではない。その結果が、目の前にいる音だ。そんな罪の塊を養えるほど二人に余裕はなかったし、何より死んだ娘に似ているのが怖い。時間の無慈悲さを痛感させられる。
遅すぎたのだ。もっと早く、こんな悲惨な報告をされるより前に知っていたら、少しは琴葉の気持ちを理解できただろう。そして、目の前で大粒の涙を流す孫にあたる存在をはっきりとした輪郭で捉えられたかもしれない。
それが血の流れだというから、たちが悪い。
祖父母は怒りと悲しみから、音から視線を外した。
「…………おじゃま、しました」
音は最後にそう言って、重い体を立ち上がらせる。
樹と彩子がその様子を心配しながら、何も言ってこない老夫婦を一瞥する。そして、見送りのないまま家を出て、三人はタクシーの待つ休憩所へと歩いていく。
「ありがと、樹、彩子……」
音は顔を真っ赤にして、両隣で歩く樹と彩子に言った。
彩子はやりきれない切ない表情をして、彼女に視線を向ける。
「これで、よかったの?」
「…………あい。母、帰る、楽しみにしてた」
その願いは果たされたはず。
音は自分の存在が拒絶されても、母親が帰りたかったはずの場所に送ったのだ。それで十分、十分、幸せなはずだから。
それに、やることはこれからだ。音が、自分自身で選らんだものがある。
「そう…………。頑張ったじゃない」
「あいっ」
彩子のニカッとする笑顔に、音も元気よく答える。そして、今は樹と彩子が傍にいるから、それでいいという安心感が湧き上がってくる。
「頑張って早々だけど、すぐに空港にとんぼ返りするから」
「げっ。それはずるいわよぉ」
音は二人のいつものやり取りを聞いた。それがふっと体から力が抜けおちるきっかけになる。彼女は膝から崩れ落ちるようにして熱い舗装道路に倒れ込んだ。
「ちょっと!? 音!」
「どうしたの? しっかりしてっ」
樹がうつぶせに倒れた音を抱きかかえて、長い髪の毛を払って額に手を添える。
「熱がある」
「運転手さんを呼んでくるわっ」
「そうして」
彩子は血相を変えて、慣れないスーツで走り出す。踵の低いヒールで助かった、と変な思考が頭をよぎった。
「音、無茶をして」
「あうぅ……」
樹の怒った顔に、音はにっこりと笑う。
優しく握ってくる手のぬくもりが、とてもうれしかった。
蝉しぐれは喧しく、夏の入道雲が視界の端っこに見えた。山中の夏は、とても暑くて、とてもつらくて、好きになれそうにない、と音は思った。




