~怪物の腹~ 優しい気持ちで
目を覚ましたアリスはぼんやりとする視界に、誰かがいるのに気付いた。
誰、と乾いた唇を動かす。それから、四肢に力を込めて起き上がろうした。彼女の体は鉛のように重く、内側から炙られているような熱でさらに動きにくくなっていた。まだ夢の途中なのかと半信半疑に目を細める。
「せんせ――――」
日本語で呼ぶ声がした。先生。アリスが知る限り、そう呼ぶ人物は三人しかいない。そして、言うことを聞かない手にぎゅっと握られる感触を覚えて、はっきりとここが現実だと認識する。
「あー……」
擦れた呻き声を吐き出す。
アリスは少しずつ晴れていく視界に、まず音の嬉しそうな顔が映り込んだ。その後ろで、同じくほっと胸をなでおろす樹と彩子の姿があった。
何か気の利いたことを言うべきかと悩んで、しかし何も言葉が浮かばなかった。なぜ、彼女たちが自分を囲んでいるのか、アリスには理解できなかった。加えて、一様に安堵の表情を浮かべているのも気がかりだ。
「せんせ、だいじょぶ?」
音がアリスの顔を覗き込む。
アリスはその潤んだ瞳の近くに自分の手があることを見取って、指先をぎこちなく動かす。涙を拭ってやろうとしたが、音の頬を軽くつついただけでまったく届かなかった。
頬をつつかれてくすぐったかったのか、音はにっこりと笑顔を見せる。
「まったく、心配させないでよねっ」
彩子がぶっきらぼうに言って、腕組みする。騒ぎ立てていた自分が馬鹿らしくなる反面、微笑んでいるアリスを見て安心した。
「そっか……。んっ」
アリスは彩子の様子をほほえましく思いながら、まだ気怠い体に鞭打って、上体を起こし始める。音が支えようとするのを断って、何とかベンチにもたれ掛る状態になる。
「隊長、調子はどうですか?」
「――――っ!? な、なんだ。コフィン准尉か」
アリスは突然横から声をかけられ、心臓が止まるかというほど驚いた。ベンチからずり落ちそうになるのを、床についた足が何とか持ちこたえる。
横に座っていたコフィンはきょとんとしながら、小首をかしげる。
「准尉。驚かせてどうするんです?」
樹が淡々と全体の様子を観察しながら言う。正直、驚くアリスは新鮮で思わず吹き出しそうにもなった。が、そこは雰囲気を考えて自重。
そして、なんとなく周囲の情報を理解したアリスが座りなおして、この場にいる全員を見渡した。
「なんというか。かしましい光景……」
アリスの日本語のぼやきに、樹たちは疑問符を浮かべる。特に騒ぎ立てた覚えもなく、まだアリスが寝ぼけているのかと思った。コフィンに至っては、言葉の意味を理解してもいない。
アリスはこういうのをハーレムとか言う、と心中思いながら、深く息を吐いた。
「まぁ、何かな? 君たちは、あたしの寝顔を拝みに来たの?」
今度は英語で冗談交じりに質問すると、樹たちが息を飲んだ。驚愕と悲哀の視線がアリスに向けられた。
どういうことなのか、アリスには皆目見当がつかず、誰かが答えてくれるのを辛抱強くまった。
そして、彼女の隣に座るコフィンがパイロットスーツについているポーチから何を取り出して、それを見せた。
「ジェフナム少尉、これはどういうことですか?」
「……? 何って、睡眠薬。最近、よく寝てなくて……。衛生班から拝借してきたんだけど」
アリスは差し出された睡眠薬のパッケージを手に取って、そんなに珍しいのかと眺めた。だが、睡眠薬をもってしても、安眠につけなかった。そのことは、今の気怠さを思えば、すぐにもわかることだ。体中汗だくで気持ち悪いのもそうだ。
リラクゼーション区画の空調の風が、ちょうど火照った体を覚ましてくれいる。観葉植物たちがささめき、花の香りを運んでくる。
「先生。寝ている時、すごく苦しそうだった」
「そうなの? まぁ……、そんなものか」
樹が躊躇いがちにアリスの寝ていた時の状況を言うと、本人は妙に納得した様子で頬を軽く触れた。
アリスは膝元で見上げてくる音と視線が合うと、茶目っ気を含んで首を傾けた。それでも、音の表情は晴れない。
彼女だけではない。ここにいる全員が、アリス・ジェフナムの容態が危ないことを察していた。苦しそうに、まるで死の瀬戸際のような姿は見るに堪えなかった。
「まったく……。言いたいことがあるなら、言ってごらんなさい。答えられる範囲で、答えてあげる」
アリスは面倒臭そうに言って、顔を上げて肩を竦める。部下に余計な心配ごとを持たせたくはない。そうした余計な気遣いをしてしまう彼女たちだからこそ、とくに取り除いておく必要があった。
まだ目元のくまが色濃く残り、もはや癖に近いあくびがアリスの口から洩れる。
コフィンが少しムッとした表情をして、アリスに問うた。
「ご自分のことなんですよ。どうして、平然としていられるんですか?」
「平然、てわけじゃない。これでも苦労はしているし、だからちゃんと睡眠をとっておこうと思った。それじゃダメ?」
「せんせ、嘘、ダメ」
「嘘なんてついてない。それに、これまで通りやっていけるし、少しは気分もすっきりしたかな」
アリスは両手の指をからめて、ぐっと上に伸ばす。肩や首の関節が、鈍い音を立てて程よく凝り固まった筋肉をほぐす。
その様子に、いかり肩になる彩子。アリスは、やはり自分たちを信用していないのではないか。苦しんでいるのに、救いを求めようともしない。助けを求められないほど不甲斐ないのか、と彩子は思った。
そんな彩子をアリスの濁った半目が捉える。泥のような、清らかさを忘れた瞳の色。樹たちとは違う何かを取り入れようとする魔的な引力を有していた。
「ところで、先生――――」
アリスは視線を彩子の隣に立つ樹に向ける。彼女の無表情もある種の我慢強さを持って、その隻眼がアリスに視線を射ていた。
だが、急にその表情、瞳に陰りが生じると樹は軽く頭を振った。
「――。どんな夢を見ていたの?」
「? それは単なる興味?」
「たぶん、そんなところ……」
自信なく言う樹は、脹脛のほうに手を伸ばそうとしてその手を引っ込めた。いつも金平糖を入れているポケットの位置。が、最近口にすることもなくなって部屋に置きっぱなしになっていることを思い出したのだ。
そのさび付いたクセが蘇ったのは、樹に余裕がなくなっている証拠だ。胸を焦がす焦燥感が彼女を蝕んで、アリスに対する不信感を募らせる。
すると、アリスは自嘲気味に口の端を吊り上げる。それが精一杯の強がりだと、樹たちはわかってしまった。
「昔の、あたしが民族浄化に手を貸していたころだよ」
「民族浄化……」
彩子は英語ながらも、その単語を聞き取り背筋が凍りついた。
樹と音、コフィンもその言葉に胸を鷲掴みにされたような息苦しさを感じた。
「もう十年近くも前になるのに、どうしても忘れられなくてね。ここ最近の夢はそんな感じよ。戦争が始まってから、ずっとそう……」
アリスはガラスの向こうに広がる暗い宇宙を眺めて、眉をひそめる。
樹はぐっと生唾を飲みこんで、さらに言葉を重ねた。
「なら、先生はどうしてまだ軍人をしているの? そんなつらい思いをしてまで、続ける必要があったの?」
愚問だと樹はアリスが答えるよりも早く、頭の中で言い下していた。これはアリスの私的な問題でもあり、樹が踏み込んでいいような安易な問題でもない。
だが、アリスがこうして、『地球平和軍』に所属して『新人類軍』と戦うからには何か理由があると思った。敵を見定めろ、といった彼女は戦いに対する覚悟が違うと予想していた。
アリスはしかし、曇った半目を宇宙から外すことなく言った。
「ないわ、そんなの。それしか能がないから、なんとなくいついちゃっただけよ」
「なんとなく?」
「家族も、国もなくして、もう銃やアームウェアに乗ることしかできなかった。それしか知らなかった。そしたら、駐留していたNATO即応部隊に拾われて、人並みの生活を送れるようになったわ。要は食い扶持を得るためよ」
「それって、先生がそう選んだんでしょう?」
樹に初めてアリスと出会った時に感じた、不快感が蘇る。まるで論拠の成り立っていない子供の言い訳を聞かされている気分だ。
それしか知らなかった、とアリスは言うが、〔AW〕に乗れるところで免許取得者だったろう。それならば、もっと別の職業にも就けたはずだ。
声を張る樹に、彩子と音はやりきれない気持ちで、彼女を見つめていた。先ほどまでのアリスの容態を思えば、当たり散らすのは大人げないと思うのだ。
「そうね……、選択の余地はあったのかもしれない。でも、そうすることでしか、自分を守れなかった。わからないよね? 何も残らない未来を迎えた人の気持ちなんて」
アリスは今にも泣きだしそうな声を必死に押さえて話す。
何も残らない未来。
そんなものはないと信じて、子供のころを駆けた。しかし、終わってみればアリスの手は、何一つ得ることなく、守ることもできなかった。染みついた殺しの能力だけが、唯一頼れるものになり、自分を支えてくれた。
樹は苦い顔をして、アリスの底知れない絶望に心を痛める。
何も残らない未来。
それはもう過去のことで、しかし、アリスにとってはこれからも変わらない『未来』なのかもしれない。今もまだ彼女は戦場に赴き、過去の苦しみを抱えて敵を討つ。そうしなければ、生きていけないというのは悲しいことだ。
だから、樹はアリスを見据える。
「わからないよ。先生の過去だもん」
「…………。そうか、そうだろうとも」
「でも、先生の未来が何も残らないとは、限らない」
力強く、樹は言い放つ。過去は変えられなくとも、心がけひとつで未来は変えられる。そうできると信じて、今を生きるのではないだろうか。アリスが今を懸命に生きるのも、そんな希望を抱いているからではないだろうか。
「そ、そうです。悲観的になる必要なんてありませんよ。ジェフナム少尉にどんな過去があっても、それを乗り越えられるはずです。でなければ、わたしたちを部下にするはずありませんもの」
コフィンも元気づけようと言葉を紡ぐ。
アリスは太ももをリズミカルに叩きながら、静かに返す。
「君たちほど、あたしは前を向いて生きていくことなんてできないよ。いつまでも、過去と決別できないまま……」
「せんせ、ダメ。つらい、ずと思う、しちゃダメ。楽しい、考える」
音が無理やり笑顔を作って、アリスを見つめる。過去に縛られる生き方をするなと教えてくれたアリスは、もうわかっているはずだ。それでも、過去を抱いているのは自分を肯定するため。
過去を否定することで、自己まで否定される。戦えない自分は無価値だと。
「そうできれば、苦労はしない。大丈夫、あたしはあたしでどうとでもなる」
「ずっと悪夢にうなされる日々が続いても、それでもいいって言うの?」
「…………そうだ」
今までもそうだったように、アリスは自分の過去と向き合わなければならない。宇宙に上がって、戦争が起き、その記憶が彼女の精神を蝕もうとも。この戦いが終わらない限り、悪夢の呪縛は解けないだろう。
すると、断片的にしか聞こえていない彩子がアリスを睨みつけて怒鳴った。
「何よっ! さっきから聞いてれば、自分でどうにかするみたいなこと言ってくれちゃって。先生さんの助けになりたいって思うのが、そんなに迷惑!?」
突然の日本語に、アリスは目を見開いて顔を真っ赤にする彩子を見る。
樹と音もその様子を見守る。今度はコフィンが内容が分からず、おどおどとする。
「辛いじゃない……、悲しいじゃない。苦しんでいる人がすぐそばにいるのに、それを見過ごすことなんて。先生さんにとってはあたしたちは単なる部下かもしれないけど……、あたしにとっては大切で尊敬できる先生さんなんだからっ。そうやって、ふさぎ込まないで……」
次第にしおらしくなる彩子の声。
言ってることがどんなに無茶苦茶なことか、彩子の頭は理解できず、熱を持ち始める。だが、アリスを大切に思う気持ちだけは伝えたかった。厳しくても、他人を見捨てない優しい人。彩子はそんな彼女だからこそ、この戦場に立っていられる。ほかの軍人だったら、テロリスト扱いしてひどい仕打ちを受けていたかもしれない。
アリスは肩を震わせる彩子をじっと見つめて、すっと立ち上がった。
「先生……」
「せんせ……」
樹と音、コフィンが心配そうに見つめる。
そして、アリスは肩を震わせ、鼻を啜って泣くのを我慢する彩子の前に立つ。じっと見つめ返してくる彩子の瞳は潤んでいながら、自分の意志をはっきりと持っている。
アリスにはない輝きを彩子はいや、ここにいる彼女の部下は持っているのだろう。
「…………」
「…………」
お互いに黙したまま、にらみを利かせているとアリスは太ももを叩いていた手をそっと上げた。そして、容赦なく彩子の脳天を思い切り引っ叩いた。
彩子は思わずその鋭い衝撃に首をすぼめて、足元がふらつかせる。
「――痛いって!」
彩子はくらくらする頭を抱えて、アリスに叫んだ。
「せんせ、ひどいっ」
「いくら恥ずかしいこと言ったからってやりすぎよ」
樹と音が日本語で抗議する。
「なんで叩くんですか!?」
次いでコフィンが英語で言い放つ。
アリスは二か国語を耳にして、思考が混線しそうになる。だが、しっかりと三者の意見を吟味してから、涼しげないつもの眠たげな表情を浮かべる。
「趣味じゃなかっただけ。いつまでも辛気臭いと面倒でしょう?」
「そっちがしんみりしてたくせにっ!! それにしても、ひどい打ち切り方じゃないっ!」
彩子がきっとアリスを睨みつける。心配してみれば、引っ叩かれる仕打ち。嫌がらせにもほどがある。
彩子の周りに樹と音が寄り添って、大丈夫と身を案じる言葉を掛け合っていた。互いを思いやり、助け合う少女たち。この状況を共有し、共感し、協調するあり方はなるほど〔アル+1〕の操縦には必要不可欠だ。
戦場に似つかわしくない優しさを前にして、アリスはふと思う。
こんな風にいつか自分も、誰かを支えられる人間になれるだろうかと。今は先生、上官という立場を借りて、三人の兵と優しすぎる准士官、とっつきにくい下士官を見ていられる。そうした役割がなくなったとき、彼女は果たしてこの五人と並んでいられるだろうか。
幼かったころの自分が果たせなかった未来を描けるだろうか。
「いつまでも、綺麗でいてほしいけど……」
誰に言うでもなく、アリスは口の中でつぶやいた。
いずれは人間が持つ野心が、戦場を混沌へと彩っていく。その中でいつまでも清らかでいられるのは、もはや聖者だ。そんなものに、誰もなれはしない。たとえ、モニタ越しに機体を破壊しても、その中には人がいる。殺生は重い呪いであり、ここでは正当化される行為だ。その渦中にいる彼女たちは、今は大義を足場に戦えるだろう。
その足場が崩れ去った時、残るのは呪怨と怨嗟による破壊衝動だけ。
だから、同じ過ちを繰り返さないためにもアリスは立ち向かわなければならない。過去に精神が蝕まれ、体が重くなろうと絶対に。
「それでも、未来に何かを残すべきよね……」
「ジェフナム少尉、何か言いました?」
いつの間にか隣にたたずんでいたコフィンに、アリスは一瞬目を見張った。彼女の妙なステルス能力は注意すべき項目だなと頭に叩き込む。
それから、今度は樹たちのかしましい抗議の乱打に、呆れ気味に対処する。言われもないことも当たり散らされ、対応する気も失せてくる。
この活力が自分にもあれば、とアリスは心中彼女たちをうらやましく思った。
リラクゼーション区画にある花々が空調の風で揺れる。楽しそうに、賑やかに。
「あたしたちの出番はまだかい?」
「あと、十時間はありません」
「…………」
『リヴァイアサン』を目指す『新人類軍』の〔イリアーデ〕の〔AW〕格納庫で、鈴燕華がイライラした様子で、機体を調整する相方に話しかけていた。
燕華の白兵特化の〔ミリシュミット〕と組む、彼の機体は遠距離支援を目的としたロングレンジ・レールガンを実装し、電子戦装備で援護する役割を持っている。役割に忠実で、優秀な操縦者だ。
が、これまでバディを組んでいて、燕華はこの男の堅実なやり口をあまり好意的には思っていない。堅実がゆえに、狙っていた敵を狙撃してしまう。すこしでも燕華の負担を軽減させるためだが、かえって彼女の高ぶった心が消化不良を起こしていた。
「今回はあたしの獲物に手出しすんじゃないよ。欲求不満で、久々に激しいのがほしいんだ」
「いけません。鈴隊長のお手を煩わせるわけには――」
「固いね、ほんと」
燕華はつばを吐きかけたいのを抑えて、男の丸まった背中を蹴りつけて無重力の格納庫を移動する。他にも機体の調整を行っている整備士や操縦者の姿が見える。みな、落ち着き払って入念な作戦の確認と万全のコンディションを整えている。
燕華は負けるはずがないというより、負けることを念頭に置いたネガティブな行動に見えて仕方なかった。
これも感情抑制によって生まれたことなのだろう。
「つまらない連中だ。もう少し楽しんだらどうだい……」
そう言いつつ、燕華はキャットウォークに立つ、不自然な青年の姿をとらえた。褐色肌と逆立った髪型よりも、腕をつるす三角巾の白さが目に付いたのだ。
内壁に近づくのを確認して、燕華はタイミングを計って内壁に手をついて方向転換。誰かの〔ミリシュミット〕の頭部アンテナを軸にさらに方向を変え、件の青年の前に流れた。
「ハロー、外人さん」
「…………?」
目の前に現れた黄色肌の女性に、青年、ハンス・ルゥは鋭い視線を射た。モデルのような美人だったが、纏う空気が他と違うことに警戒心を高める。
「そんな、おっかない顔しないでよ」
そう言いながら、通路の手すりを利用して体を移動させると燕華は床に足をついた。無重力ならではと言った軽い身のこなしだ。
それだけで、ハンスは同じ囚人だなと直感した。
「ふぅん…………。いい体、してるじゃない」
じろじろと舐めるように見つめる燕華は目を細める。
「何の用だ?」
ハンスはその視線に不愉快さを覚えながら、鋭く言い下す。まだそんな感覚があることに、彼は多少の驚きがあった。まだ完璧に感情をコントロールできていないのか、と。
しかし、燕華は彼の感情的な言い下しに俄然興味がわく。
「いや、怪我人が何でいるのかと思ってね」
「俺だって、まだ戦える」
「強がり言っちゃってまぁ。その腕じゃ、すぐに落とされるぞ」
燕華はハンスの吊るされた腕を顎で示す。それでも、戦えるというあたり何かしらの因縁があるように思えた。
ハンスはさらに険しい顔つきになって、格納庫のほうを見た。
「あの機体が出てくるなら、俺がやる」
「おや? ライバル意識かい。情熱的だぁね」
「――――っ!」
「そう怒らない。で? その機体ってのはどういうのだい?」
この感情的な男が一目置く機体に興味が持てた。強さ云々ではなく、感情抑制されているここの人間を怒らせるほどなのだから。
ハンスは横で妖艶にほほ笑む美女に、妙な居心地の良さを覚える。
「青い機体。たしか、〔バーカム〕とか言う機体だ」
「ああ、あの趣味丸出しの機体。あれかぁ……」
燕華は一度薦められた試作機のことを思い出して、指を鳴らした。それから、すっとハンスに近づいて、囁いた。
「強いのかい、そいつ?」
「いや、不覚を取らなければやれる奴だ」
ハンスは苦々しい思いを隠すように、強がって見せた。そうだ。不覚さえ取られなければ、こんな失態を晒すことにはならなかったのだ。
ぐっと自由の利く手で握り拳を作る。
燕華はそれを視界の端に見て、ハンスから離れた。
「そうか。なら、その機体は墜とさないでおこう。だから、まず坊やは怪我をなおしな」
「ん? どういうことだ?」
「言葉通りさ。そんな満足のいかない状態で負かすことはできないだろう? ま、その機体が姿を現すかどうかわからないし、この作戦で他の連中に墜とされるかもしれないが。その時は諦めてくれ」
「それではまるで、俺が作戦を失敗してほしいと思っているようではないか」
「いいじゃないか、そんな細かいこと。あたしは一途な男は応援したくなる性質でね」
その燕華の気分屋なところを、ハンスは理解できなかった。どう考えても、個人の私怨を果たすより、大局に影響する作戦の成功こそ望むべきことだ。
そう思いながらも、彼の中には喜びがあった。
「あなたの名前は?」
だから、ハンスは隣りにいる女性がどういう人物なのか知りたくなった。
燕華は鋭い目つきを向ける彼に口の端を吊り上げる。
「鈴燕華。元気になったら、あたしと組まないか、坊や?」
「…………」
まるで悪魔と密約を交そうとしている感じ。
底知れない燕華の腹に、ハンスは慎重にならざるを得なかった。
「検討しておく」
「そ。いい返事を待ってるよ」
燕華はそれだけ言って、ハンスから離れて行った。
彼女の腹の底では、うずうずと呻く欲求とこみ上げてくる高揚感が満ちていた。




