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マシン・レコード  作者: 平田公義
第六章
41/152

~賭けるもの~ 少女の感性

「やるよー」

「いつでもどうぞ」


 (いつき)は〔アル+1(プラスワン)〕の頭部操縦席のシート裏に走る配電が伸びるユニットの端子にクリップを挟んで、インカムに向けていう。シートも無理やり前に倒しているので、彼女は寝そべった態勢だ。


 彩子(あやこ)の方は『ガーデン1』ドッグの控室で、〔アル+1(プラスワン)〕の巨体を前にしながら、ガラスに映るHUDヘッドアップディスプレイに更新されるプログラミング言語の羅列を目で追った。専門家でもないかぎり、ただの文字化けの駄文にしか見えない。だが、それらにはアルゴリズム、問題に対する手順方法がびっしりと書かれている。高水準言語、つまり人語で論理演算機能は、改変する事が出来なかったために、わざわざハードウェアに近いプログラミング言語を使って直接的に改変を試みているのだ。


「えーっと、ロックプログラムは…………」


 彩子(あやこ)は固定椅子にちょこんと座って、プログラミング語の教本片手に次々と新しいウィンドーを開く。どうにも独特の構造をしており、ところどころ古いのか、自作なのか判別つかない部分が見受けられ、そのたびに古びた教本を開いて探す苦労の絶えない作業。彼女が手にしている本にしたって、電子書籍化されていない出版物。コロニーにあったことが奇跡的だった。


「…………これ?」


 ようやく見つけたアルゴリズムでスクロールを止めて、じっくりと解読していく。数分後、彩子(あやこ)はこれだと目星をつけて、タイピングをする。プログラムの改変ロックを解除するなら、書き換えるより消し去ったほうがいい。


(いつき)、それっぽいの見つけたわ。削除してみるよー」

「わかった。じゃぁ、電子戦の――――?」


 (いつき)が操縦席を出ようとしたところで、煙くさいことに気が付いた。何かが焼き切れる臭い。鉄の焼ける臭いだ。


「ああっ! 嘘でしょう!」


 操縦席に視線を戻すと、クリップをつけた端子から煙が立っていた。


 (いつき)は慌てて、配線を手繰り寄せてクリップと端子を強制的に離す。バチィッと電気が走り、シート裏からさらに小さな爆発が起きた。黒煙が綿あめのように舞い上がり、(いつき)に直撃する。


 煙が目に染みる。鼻がツンと痺れる。肺に入り込んだ煙でむせかえった。


「ちょ。何なのよー」


 ウィンドー表示していたプログラミング言語が一気に消失し、彩子(あやこ)は歯がゆさを抱いてタイピングの手を止める。作業を水の泡とされたが、収穫はあった。アセンブリ言語では難しいようだが、機械語、十六進数の入力変更は可能のようだった。もはや言語ではなく数字とアルファベットの羅列で、改変にも手間がかかる。


 だが、プログラムの改竄(かいざん)のロックはここまで指定されていないようにも思えた。


(いつき)、何したの?」


 彩子(あやこ)はインカムのマイクを口元に近づける。


〔アル+1(プラスワン)〕の頭部から上半身を出して、煙を払う(いつき)からは咳きしか聞こえない。オレンジ色の作業服が少し煤けて見えるのは気のせいではないだろう。


「げほっ、ごほっ……。何って、煙が出てから外したの」

「この手段もダメとなると、機体から打ち込むしかないわ。てか、大丈夫?」

「くしゅんっ。大丈夫」


 (いつき)は鼻を摩って、まだ煙が残る操縦席に身を引っ込める。


「どうするの? ぱっとみ十六進数でなら改竄(かいざん)できそうよ」

「アセンブリはダメなの?」

「無理。逆アセで少しは内容がわかったけど、ひどい構造してる。手順が枝分かれしすぎて、根幹が見えてないし、独自の演算が施されてる。あたし以外に詳しい人いるでしょう、ここには?」

「いないから、彩子(あやこ)に頼んでるの」


 (いつき)は焼き切れた配線を見て、作業服のポケットから絶縁テープを取り出す。損傷の激しいところは取り替えるしかないが、少し切れ目が入った程度のはテープで十分だろう。


 隻眼に染みる煙のせいで、涙が止まらない。それでも、損傷個所は補修しておく必要がある。


 彩子(あやこ)のほうはどっと疲れて、椅子の背もたれにぐっと体重を押し付けた。無重力状態にも慣れてきたが、やはり数字やアルファベットの羅列とにらめっこするのは目と頭に負担がかかる。


「嘘。女子高生がわかるのに、専門家がわからないはずないじゃない」

「え? 女子高生?」

「…………。『元』女子高生でした、ごめんなさいっ」


 彩子(あやこ)(いつき)のあっけらかんとした反応に苛立って、当てつけで言った。今年で十六歳になる彼女は、一応工業高校に通う女子高生だった。今では専門家顔負けのプログラミング技術を見せているが、高校生活ではそうした技能はほとんど発揮されなかった。そこまでの技術を必要としなかったからだ。


 今にして思えば、皆守(みなもり)彩子(あやこ)の高校生活はかなり浮いていた。女子の人数も少なかったし、プログラミングだけ秀でていたために、他の教科、分野はからきし。スポーツ下手でも体を動かすことが好きだったのもあって、女の子として見られなかったのも事実だ。


 (いつき)はインカムから聞こえた声に、眉をひそめる。操縦席で寝そべった態勢をして、配線をかき分け、切れ目の箇所を補修していく。


「別に、ハイスクールの学生だったことが変ってことじゃない。あなたの技量を見ると、とてもそうは思えないだけ」

「今どき、中学生だってプログラミングができる時代なのに? あたしは別段、特別じゃないわ。一昔前には、銀行の厳重なセキュリティを破った小学生だっていたのよ」

「特別じゃない方がいいの?」

「当たり前でしょう」


 彩子(あやこ)は言って、うんと伸びをする。すると体が少し椅子から離れ、浮かび始めた。浮遊感が妙に心地いい。昔ダイビングしたときの感覚がよみがえり、彼女は少し泳ぎたい気分になった。だが、体を内へ押し付ける水圧と違って、ここはフワフワしている。


「特別なんかより、今の解放感くらいがいい…………」


 ぼそりとつぶやいて、彩子(あやこ)は瞳を閉じた。地球とは違う。初めは不自由こそしたが、慣れ始めると肩にのしかかる力がなく、不思議な感触を覚える。


 人が宇宙に出たがったのは、この感覚を知りたかったからだろうか。夢や希望を実現するよりも、地球という楔から脱したかったのかもしれない。地球を人が狭く感じてしまったのは、嘆かわしいことだが。


「? どうしたの、彩子(あやこ)


 (いつき)は一度操縦席から出て、なんとなしにすぐ近くの機体を見やった。


 リーンの駆る〔バーカム〕だ。潰れた左マニピュレータの修復作業が進む中、腹部のハッチが開いた。そこから、操縦者であるリーン・セルムットが姿を現すと、忌々しそうに機体を蹴りつける。それから、苛立った雰囲気をばら撒きながら、控室に引っ込んでいった。


 (いつき)たちよりも早く、このドッグに来て機体のシュミレーション訓練をしていたらしい。〔AW〕はこのドッグのコンピューターと接続することで、|コンピューターグラフィックス《CG》による疑似戦闘を行うことができる。〔AW〕のメイン・モニタも緻密なCG画像であるため、雰囲気は損なわれていない。ショックアブソーバーの機能を使えば、振動も再現できる。


 彼がなぜそこまで戦闘にのめり込むのか、(いつき)にはわからなかった。


「野蛮人って呼ばれても、言い訳つかないよ……」


 (いつき)はインカムのマイクを押さえて言って、機体から降りる。途中には整備員がセットした配電線からかすかな煙を上げている。


 対処に当たっている整備員たちも煙に困惑しながらも、機体に被害がないか勤勉に調べている。


「電圧間違えたんじゃねーの」

「交換できないんのだぞ。わかってんのか?」


 (いつき)が控室に向かう中、整備員たちの不満は彼女に集中した。ただでさえ整備が困難な〔アル+1(プラスワン)〕に、これ以上負担をかけられては手も出せなくなる。


 (いつき)もその面倒さを知っている。だからと言って、傷だらけのまま戦うのは危険な上、〔アル+1(プラスワン)〕に申し訳ない気がする。


「わかってる。だから、追加装甲外そうと頑張ってるの」

「できないんだろ、ガキが。やめちまえっ」


 一人の整備員がスパナを振りかざして、罵倒する。


 (いつき)はその人を視界の端に捉えると、胸がつかえたような息苦しさを感じた。子供だからと差別して、何一つ満足にできない人に言われるのは悔しかった。人の何倍の努力を経て、小さな体躯で頑張ってきた。敵側になってしまったが、〔ミリシュミット〕の骨格の設計だって彼女がしたものだ。


 結果を誰も認めてくれない。一人前として、見てもらえない。


「…………」

「あ、どちら様?」


 ふとインカムから彩子(あやこ)の素っ頓狂な声が聞こえた。それから、彼女には珍しく英語で言い直していた。

 

 (いつき)は首をかしげながら、控室に入る。そこには、天井に手をついて降りてくる彩子(あやこ)の背中と、スーツ姿の男がエレベーターにつながる通路のドア近くに立っている。


 大食漢を連想させる丸い腹、蒸し暑そうに流れる汗をハンカチで拭きながら、彩子(あやこ)と入ってきた(いつき)に目を配らせる。(いつき)と目があった瞬間、軽く会釈をした。


 (いつき)もそれにならって会釈して、男に近づく。


彩子(あやこ)、この人は?」

「ん? わからないわ。入ってきたばかりだし、あたし英語できないし……」

「じゃ、わたしが話をつけるの?」

「そうゆうことになるわ。先生さんの名前言ってたから、先生さんに用事なんじゃないかしら」


 彩子(あやこ)が床に足をついて、(いつき)の横に立つ。


 (いつき)は一度彩子(あやこ)の顔を見てから、タヌキの置物がごとく立つスーツの男に視線を向ける。彼は笑顔を浮かべて、軽く床を蹴って二人の前に立った。


「初めまして、お嬢さん。わたくし、エポッへ社のものなのですが……」

「エポッヘ? 重工業社の?」


 (いつき)は男と握手を交わして、英語で質問する。重工業社が訪問してくるのは、試験小隊なら別段珍しくないだろう。それよりも、〔ギリガ〕シリーズを手掛けるエポッヘ社がセールスしに来たのには、少なからず疑問があった。〔ギリガ〕タイプの乗る操縦者のいないアリス試験小隊に、いったい何を宣伝したがっているのだろうか。


 隣で彩子(あやこ)は『エポッヘ社って何?』といった表情を浮かべている。


 すると、男が持っているカバンから分厚い紙片の束を取り出すと、恭しくそれを差し出した。


「わが社の製品をどうか、扱ってもらえないでしょうか?」

「一体、いくつあるのよ…………」


 彩子(あやこ)が紙片の束を目の前にして、愚痴った。




 部屋に通された(おと)は軍服のジャケットを脱いで、簡素なベッドに腰掛けていた。部屋の主たるアリスがシャワーを浴びている間、彼女はきょろきょろと部屋を物色する視線を巡らせていた。閑散とした内装で、タンスやベッド、小さなテーブルと必要最低限の家具が適当に置かれている。だが、洗濯物だろうか。ベランダの近くに下着のたまった籠を見つけて、アリスの生活感を察知できた。


「飲み物、ミネラルウォーターでいい?」

「あ、あいっ」


 (おと)が少し体を弾ませると、ベッドが軋んだ音を立てる。


 まだ濡れた髪の毛を掻き毟って、アリスは台所の小さな冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを一つ取り出した。今は新品のTシャツにカーゴパンツの姿で、いくぶんか整頓された雰囲気だ。


「それで、悩み事って?」


 アリスは食器棚から新品のグラス二つを取り出して、ミネラルウォーターをそれらに注いだ。しゅわしゅわと炭酸が弾ける。


 (おと)はどきりと胸を弾ませる。


「えと、せんせのこと…………」

「あたしのこと?」


 アリスはグラス一杯のミネラルウォーターを一気飲みして、そこに新しく注ぎ足す。口の中で炭酸が弾け、舌を麻痺させる感触が走る。それから、ボトルを冷蔵庫にしまって、グラス二つを持って部屋に移動する。


「せんせ、遠くいちゃいそうで……」

「何、それ?」


 (おと)の目の前に、グラスが差し出される。おずおずとグラスを両手で包むように持って、注がれたミネラルウォーターに視線を落とす。彼女の知っているミネラルウォーターと違っていて、困惑してしまう。


「遠くってどこ? 日本語の抽象表現は苦手よ、あたし」


 アリスはまだ閉まり切っているカーテンに移動して、片手でバッと開け放つ。眩しい正午の日差しが部屋中に入り込み、一気に明るくなった。


 (おと)はその眩しさに一瞬目を細めて、グラスに口をつける。強い炭酸に舌がしびれ、おまけに無味。初めての味に、彼女は顔を顰めるしかなかった。


「~~~~っ! せんせ、これ、お水違う」


 (おと)が振り向いた先で、アリスはベランダを開けて、一口飲んでいるところだった。それから、グラスをベランダの段差に置いて、下着のたまった籠を引き寄せる。


「あれ? ドイツ圏ではミネラルウォーターってこれよ。炭酸水。NATO軍にいたときは違ったけど」

「どいつ?」


 (おと)の疑問の声を聞きながら、アリスは緩慢な動作でベランダに洗濯物を干し始める。コロニーの天井に青々とした空が移り、白く薄い雲が流れていく。ずっと先まで緑の大地が進み、壁のように競り上がっているのは、少々景観を損ねている感じがしてならない。


「そっか。君は地球に降りたことなかったか。まぁ、細かいことはいいや。で? あたしの質問の回答は?」

「あ、あう……」


 (おと)は痺れる舌を仰ぎながら、背後から熱気を帯びた風を感じる。月の〔サテライト〕にいたころには感じたことのない、暑さだった。


「遠くは……、遠く。会えない感じ」

「死に急いでるように見えるの、あたしが」

「…………」


 淡々と言うアリスに(おと)はますます不安になる。今は彼女の言っていることは正しいと思える。だが、あのブラックボックスを渡された時の、死神の息を耳元に受けた感触は確かだ。


「だて、(かか)と同じ……、同じ感じ…………」


 今にも泣きだしそうな(おと)の声に、アリスはふと洗濯物を干す手を止める。それから、グラスを取るついでに(おと)の様子を見た。小さな背中が小刻みに震え、何かに耐えている。その何かが恐怖であることは、アリスにも伝わった。


 だが、彼女はグラスのミネラルウォーターを口に含んで、また洗濯物を干す作業に戻る。


 (おと)が肉親を亡くしたことは知っていたし、その経験を思い出しただけなら、アリスは慰めていたかもしれない。だが、その既視感を自分と重ねられたことは侵害だった。ゆっくりとのど元を炭酸水が流れていくのを感じて、ゆっくりと口を開く。


「勝手に同じにしないで。君のカカとか言う人が死んだことを、あたしに置き換えないでよ」

「違うっ。せんせ、違うの」

 

 (おと)はばっと振り向いて、アリスを見据える。懇願するような、潤んだ瞳がまっすぐアリスの姿を映していた。


 そこで、アリスは洗濯物を終えると、網戸だけを閉める。グラスを片手に持って、ゆっくりと(おと)に背を向けるようにして、ベッドの反対側に座る。


「同じ人はこの世にいない。そういうのはわかるでしょ?」

「――――っ!!」


 (おと)は全身を戦慄かせて、思い切りグラスを持った手ごとベッドを叩いた。ミネラルウォーターがベッドに飛び散り、シーツを濡らした。


「違うっ! (おと)はせんせを心配して言ってるの! どうして、わからな――――っ」


 怒鳴り散らして、(おと)はしまったと口元を抑える。急に自分の口が暴れだし、子供っぽいぶつ切りの言葉をしっかりと整頓していた。いや、本来こういうしゃべり方なのだ。幼児退行とはいえ、彼女は少なからず回復している。呂律が回らないわけではない。つたない言葉遣いは、いつだってやめることができるはずなのだ。


 アリスは特に驚く様子もなく、グラスに残ったミネラルウォーターを飲み干しす。


「君のしゃべり方については、言及はしないよ。あたしの友人もそんな感じだったし」

「…………」

「甘えたいなら、あたしじゃなくて(いつき)たちにしなさい。友達としてね」

「で、でも……」


 (おと)は震える声を絞り出す。


 失いたくない。涙に滲んだ先に見えるその背中を守りたい。母親を失った虚無感と絶望を繰り返さないためにも、そして自分を理解してくれる大人がほしいのだ。ずっと、一生、自分が子供でいるために。


 すると、アリスは腰を捻って、(おと)の目元に浮かぶ涙を指先で掬う。優しい指先はためらいがちで、震えていた。


「あたしは君の親にはなれない。今後、甘やかしてやれる人間にも」


 その言葉が(おと)の心に突き刺さる。崖から突き落とされたような虚脱感が襲ってくる。それでも、彼女の目はアリスのやつれた顔を捉えている。


 それだけでなく、アリスの疲れ切った瞳も涙を流す少女の顔を切なそうに見ていた。


(おと)。ここで、人の生き死にを深く悩まないの。だから、いま生きてる時を大切にしなさい」

「でも、し、死ぬ、そこで、終わり……」


 自然とぶつ切りの言葉遣いに戻った(おと)は言った。


「人の死を感じるより、人の生きている時の暖かさを知りなさい。そうやって死人に引っ張られる人生は、不幸を呼ぶことになる」

「あ……」

「友達、いるでしょう? 休憩中くらい三人で楽しみなさい」


 瞬間、部屋の電話が鳴った。


 アリスはすぐに立ち上がって、受話器のほうへ歩いていく。また苦言を言われるのではないかと思ったが、(おと)との会話を切る理由ができて内心ほっとしていた。自身の惨めさを語っているようで、辛かったからだ。


 その様子を(おと)はじっと追って、受話器を手にして話し込むアリスを眺める。


「もしもし? ああ、(いつき)? 彩子(あやこ)もいるの」


 どうやら、電話の相手は(いつき)らしく、面倒そうな声音でアリスは淡々頷く。


『人の生きている時の暖かさを知りなさい――――』


 (おと)の頭の中で言葉が反芻される。その意味は、分かる気がした。生命の力を具現するような、それでいて矛盾しているような、煩雑さがあった。


「それで、資料に目を通して最終的な判断を下せばいいの? ええ、……わかった。ん? (おと)?」

「――――え?」


 (おと)は深遠な思考の海から急浮上すると、目を丸くしてアリスを見た。


 アリスはそんな(おと)に一瞥くれると、肩を竦めて見せた。


「一緒にいるけど。別に、やましいことなんてしてない。ちょっとした相談。――――悪いわね、今は電話に出られる状態じゃないのよ。――――だから、何もしてない」


 その会話から、(おと)(いつき)が自分のことを心配しているのがわかった。


 それだけで、(おと)は憑き物が落ちたようにぼろぼろと大粒の涙を流した。アリスの言ったことを実感できる。思い返せば、(いつき)彩子(あやこ)があの部屋から連れ出してくれなかったら、あのまま彼女も死んでいたことだろう。だが、こうして生きて、悩んで、苦しんで。それでも、彼女たちと過ごす時間が、大切だと思えたはずだ。


 もちろん、アリスのことだって大切だし、失いたくない。その信念は間違っていない。間違っていたのは、いつまでも甘えようとする自分の脆弱さだった。


 悲劇の子供でいれば、何もしなくて済むと思っていた。そのよりどころにしようとしていた。


 咽びながら、(おと)はごめんさいと繰り返す。


 その様子をアリスは困ったように見てから、受話器に向けて言う。


「あー、君たち、お昼まだ? ――――、そう。じゃぁ、食堂に資料をもって集合。早急にね。――――あたしは先生なんでしょ? だったら、いろいろと叩き込むことがあるの。以上」


 そういって、アリスは受話器を壁際の本体に戻した。


 (おと)はすんすんと鼻を鳴らしながら、アリスを見上げた。


「ま、あたしは先生みたいだから、踏み込めないところもある。友達同士のほうが言えることもあるでしょ?」

「…………。せんせ、(おと)、しゃべり方、このままでいい?」

「いいんじゃない? 個性っぽいし」


 アリスは内緒にしておくと、唇に人差し指を当てる。


 (おと)は赤く腫れた瞳をこすって、涙を拭きとる。幾分かすっきりしたが、やはりアリスから感じた死の予感は拭い去れない。

 

 だから、強くならなければと勢いよくベッドから立ち上がった。


「あ。そうそう。シーツ濡らしたんだから、変えときなさい」

「…………あい」


 アリスのマメさに、(おと)の頬が膨らんだ。

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