~戦場の声~ 空回りする力
リーン・セルムットは、出撃して間もなく機体の我がままに振り回されていた。
整備部が開発した〔バーカム〕の追加装甲が、彼の今までの感覚を鈍らせる結果となっているのだ。細い機体に装着された反応装甲。それに付属した追加武装の数々が総重量を上がり、それと釣り合うように大幅改良された大型メイン・スラスターのバックパックの力の加減がうまくできない。
「何をしている、曹長。狙われるぞっ」
「わかってる」
〔バーカム〕の前にはフォース・ロックが操る〔クーリア〕電子戦装備が、シールドとレールガンを構えて、向かってくる敵に牽制をしていた。
彼らのいる宙域は資源惑星から近く、ちょうどフォースが出てきた北側を守っている形だ。他の部隊の動きも活発で、敵の〔ミリシュミット〕、〔ミリィフロップ〕に果敢に挑んでいる。コロニー落とし阻止作戦の成功が、彼らに自信を与えるたのだ。
リーンはそんな彼らとは対照的に急に扱いづらくなった機体と新しい上司、攻め込んでくる敵に対して緊張の感触が大きかった。
〔バーカム〕がよろよろとした姿勢でサブマシンガンを構えても、敵はすぐに察知して回避、攻撃を加えてくる。いくつもの光りが横間を駆け抜ける。
「もう、敵がこんなところにまで来てんのかよっ」
「落着け。まったく、若いな」
フォースの呆れた声とともに、〔クーリア〕電子戦装備が〔バーカム〕の横につき、殺到するマイクロミサイル群をEMPで狂わせる。
軌道が乱れて、四方八方に跳んだマイクロミサイル群の中を、さらに〔ミリシュミット〕部隊が勇猛に攻め込んでくる。
マイクロミサイルが自爆し、その光芒を背に敵は一気に形を露わにする。しかし、シルエットは捉えられても、その機動力をもって回避して見せるのが〔ミリシュミット〕の真骨頂だ。
「来るっ。隊長は、後方で援護を————」
リーンは何条ものレールガンの光を避けながら、横でそれらの弾丸を弾いて見せる〔クーリア〕電子戦装備に向かって言う。〔クーリア〕と〔ミリシュミット〕では、性能が違う。コンセプトを同じとしながら、技術力の差が外観からも出ている。
だから、リーン・セルムットはまだ二、三言葉を交わしただけのフォース・ロックを心配した。
「おいおい……」
ノイズの中で聞こえたのは、フォースの嘆息交じりの声。心底失望したように、心底敵を憐れむようにつぶやく。
リーンが力任せに〔バーカム〕に回避運動を取らせている間にも、〔クーリア〕電子戦装備の動きは実に早かった。
「こっちに、ハンドサインが見えてるぞ」
フォースは操縦席でつぶやいて、操縦桿のトリガーを引いた。
彼らの手の内を通りに動く、〔ミリシュミット〕一機を撃破する。彼らは露骨に腕部を動かして、バディ、もしくは小隊規模に指令を伝達している。味方にしかわからないハンドサインならつゆ知らず、そのハンドサインを作った先駆者たちを前にしては、ネタバレもいいところだ。
「あの機体、なぜ、こちらの動きがわかった?」
「調査船団の人間か」
「各機、〔クーリア〕タイプに気をつけろ」
『新人類軍』の兵士たちは、フォースの〔クーリア〕電子戦装備に注意して、さらに攻撃を仕掛ける。射撃による遠距離攻撃に乗って、数機の〔ミリィフロップ〕通常装備が接近する。もっとも、オーソドックスな陣形だ。
フォースも、リーンも射撃を避けつつ、さらに接近戦を持ち込む〔ミリィフロップ〕通常装備の呼吸にのまれてしまう。
素早い連撃。赤い〔ミリシュミット〕を相手にしているような感覚がリーンの中でふっと湧き出る。それだけ、接近戦の技能は上がっていた。
「前よりも白兵戦が————、うまくなってやがる」
〔バーカム〕はサブマシンガンと肩部に保持されているヒートナイフを使って、迫る〔ミリィフロップ〕通常装備と一対一の勝負に持ち込まれる。リーンの腕と敵のパイロットの腕はほぼ互角。一進一退の剣劇が繰り広げられる。
一方で、〔クーリア〕電子戦装備は『幻覚』を使える間合いではなく、同じくヒートブレード同時のぶつかり合いになっていた。
〔クーリア〕電子戦装備を上回る動きで、敵は勢いづく。シールドが弾く、刃がプラズマ干渉を起こす。上段、切りあげ、袈裟切り、薙ぎ払いの技が繰り出されていく。
しかし、フォースはふっと厳しい顔つきでそれらの動きを読み取り、〔クーリア〕電子戦装備の好機を窺う。
瞬間、大きく〔ミリィフロップ〕通常装備の腕部が上がった。剣に振り回された結果だ。
その隙をついて、フォースは自機にシールドを突き上げる。シールドが敵機をさらに後転させる。
短く息を吐く彼に合わせて、〔クーリア〕電子戦装備がヒートブレードを横薙ぎに一閃。大根を切るようにすっぱりと両断してみせた。
「こんなところか。ブランクがあるにしては、十分にやれそうか」
フォースは凝り固まった肩を軽く回すと、〔クーリア〕電子戦装備にシールドを構えさせて、敵機の爆発から自分を守る。呼吸は幾分か上がっていたが、まだまだ体は動く。感覚も少しずつ蘇り、握る操縦桿が手に馴染むのを実感する。
その勢いに乗って、敵から距離を取ると素早くレールガンとヒートブレードを持ち帰る。そして、レールガンの弾倉を取り替えると、〔ミリィフロップ〕が作り出した突破口を攻め込んでくる〔ミリシュミット〕部隊に狙いを定める。
「曹長はまだ交戦中か……。まぁ、あれなら負けはしないだろ」
フォースはモニタの端に映る〔バーミリア〕のシルエットマーカーを一瞥して、〔クーリア〕電子戦装備をジグザグに動かして、狙撃を開始する。
攻撃を加えているのは、フォースだけではない。次々となけなしの改造を施した〔クーリア〕タイプが次々と〔ミリィフロップ〕を打倒し、後続を阻止し始めていた。
「なんだ、なんだ? これで、本気のつもりか?」
「機体がよくなっても、まだまだ俺たちの方が上だなぁ」
「昔の血が騒ぐなっ」
調査船団に参加している傭兵、軍人たちが、蜘蛛の子を散らすように回避運動に入る敵機を余裕綽々で追い払っていく。彼らは周囲の機体との位置関係などをすぐに把握し、陣形を構築、守りの布陣を敷いていた。
それでも、犠牲がないわけではない。『地球平和軍』の〔AW〕を打ち破り、〔ミリィフロップ〕が調査船団の陣形を崩しにかかる。
「敵も必死ということか……、しかしっ」
フォースは自機に追撃してくる〔ミリィフロップ〕一機に照準を定め、発砲。
〔ミリィフロップ〕通常装備はすぐにも身を翻し、マイクロミサイルの嵐をまき散らす。近くにいる〔クーリア〕や〔ファークス〕、〔ギリガ〕が寄ってきたのは、電子戦装備を頼ってのことだとすぐにわかった。
〔クーリア〕電子戦装備の二枚の発信翼からEMPが発動し、もう一度軌道を錯乱させる。
そして、フォース自身も操縦桿と倒し、フットペダルを軽快な足さばきで操作する。シールドを構える腕にヒートブレードを握らせる。
狙いを定めていた一機が爆炎の中から姿を見せると、保持しているロングバレル・レールガンを発射する。その前には、〔クーリア〕電子戦装備も移動し、横間合いへと軌道を取っていた。
ぐんとフォースに負荷がかかる。久々の急旋回に、骨の髄が軋む。
だが、彼の表情はどこまでも澄んでいた。諦めなど微塵もなく、軌道を追って射撃してくる敵機を睨む。
彼の呼吸に合わせて、〔クーリア〕電子戦装備がレールガンを断続的に連射し、一度距離を取らせる。
「曹長、いつまでも遊んでいるなっ」
「——っ! フォース・ロック!?」
彼の機体はすでに、押され気味の〔バーカム〕へと寄っていた。もちろん、敵もその動きを察知して、素早く身を翻す。だが、〔クーリア〕電子戦装備の速度は円熟していた。
〔クーリア〕電子戦装備がシールドで、〔ミリィフロップ〕通常装備を突き飛ばす。そして、ステレオで聞こえてくる警報が、後方から迫るもう一機の存在を知らせる。先ほど距離を取った機体だ。
「ぼさっとするな! お前の相手を落とせっ」
ぼやっとして見える〔バーカム〕の操縦者を叱咤して、彼はリア・カメラの映像をサブ・モニタに表示すると〔クーリア〕電子戦装備に背面射撃の体勢を取らせる。
後部に回った腕部のレールガンの照準とサボ・モニタに捉えた敵機が重なる。すかさずトリガーを引いた。
吐き出された青白い一筋の弾丸が、的確に背後から近づいてきた〔ミリィフロップ〕電子戦装備を撃ち抜く。推進剤に引火、プラズマ推進機関が暴発し、爆発。
「…………」
リーンはその素早い動きに息を飲んで、唖然とする。耳には警報が届いていなかった。
棒立ちになる〔バーカム〕に、〔ミリィフロップ〕通常装備がロングバレル・レールガンを構える。
「もらった——」
「————遅いっ」
フォースは声を荒げて、落とした敵などに目もくれず、接近する敵機に突進する。対応の遅いリーンに対しても、敵に対しても彼は怒りを覚えていた。
どんなに場数をこなしても、慣れない部分はある。リーンは慣れ以前に、戦意を感じられない。亡失した感触が強い。敵には、ただ機械的にこなす行動が目立つ。
それが、〔バーカム〕と〔ミリィフロップ〕通常装備の間に入った〔クーリア〕電子戦装備に効果的な動作をさせる。
放たれた高速の敵機の弾丸。速度、威力ともに〔クーリア〕電子戦装備が持つもの以上だ。しかし、シールドで跳弾されて、見当違いの方向へ。
そして、〔クーリア〕電子戦装備はドンッとメイン・スラスターを噴射して、崩れた態勢を立て直し、ヒートブレードを逆手にする。
「こいつは————」
敵のパイロットも腕部に装着されている小手でそのヒートブレードを弾こうとガードする。横間へすり抜ける軌道と呼んだ。
フォースはぐっと顎を引いて、素早く操縦桿を切り替えし、自機にレールガンの銃口を上げる。迅速に、システムが射角を修正。疑いを持つより早く撃ち出した。
〔クーリア〕電子戦装備が撃ち出した弾丸が、敵機のガードを弾き飛ばす。入射角が鋭く、ちょうどアッパーを決められて、ガードを崩されたような形だ。
「————強い」
敵のパイロットは目を見開いて、メイン・モニタに映る灼熱の刃に意識が断裂する。
〔ミリィフロップ〕通常装備が〔クーリア〕電子戦装備のヒートブレードで切り裂かれ、真っ二つになる。
「前衛の力は、こんなものか……?」
フォースは愚痴って、自機を敵機の爆発に巻き込まれないように旋回。攻撃の中に晒されながらも、ぎこちない動きをする〔バーカム〕に接近させる。
「どうした? 機体の不調か?」
フォースは軽快な口調で、リーンに無線を入れる。その間でも、〔クーリア〕電子戦装備は流れ込んできた〔ミリィフロップ〕部隊へ牽制し、攻撃の手を和らげる。もちろん、飛来してくる弾丸はシールドで防ぎ、〔バーカム〕を守った。
「いいえ、そういうわけじゃ——」
「だったら、自身の問題か? それじゃぁ、死ぬな」
フォースはあっさり言って見せて、レールガンの残弾を一瞥する。まだ、余裕はあるが防戦一方だといたずらに浪費するだけだ。
リーンもはっきりと言われて、ますます自分の中で迷いが膨らんでいく。この場所が怖い。機体のせいにして逃げたいと思っていると、操縦席に衝撃が走る。
「————ぐおっ」
ダメージコントロールが行われ、姿勢こそ機体が立て直してくれる。
そこで、彼は吹っ切れる。撃たれるのは当たり前だ。この場にいる限り、命は狙われる。
ならば、そんな命などくれてやれ。
リーンは沸き立つ臆病を歯を食いしばって抑え込む。全身に力を込めて、闘志を無理やり燃やす。敵を討つことを考える。傍でサポートする〔クーリア〕電子戦装備を信用する。
そして、操縦桿を握り、一気に〔バーカム〕の出力を上げる。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」
リーンは力の限り叫んで、一気に迫る敵へと突っ込んでいく。愚直な軌道を描く。〔ミリィフロップ〕のいい的だ。
「馬鹿。叫べばいいってもんじゃないだろう」
フォースは部下の扱いにくさに、軽く頭を振りつつそんな彼のサポートに回る。悪くない動きではある。粗削りな攻撃だが、力がある。
「もっと、射撃のうまい奴と組ませられれば、いいんだがな」
外では戦闘が起きていると、地鳴りのような音が知らせてくれる。
音はそれに危機感を募らせることなく、目の前に立つ妙齢の女性を睨んだ。閑散とした広い空間に立つ二人は、互いを憎む目を向けていた。
「あなたがジャンの子供だって?」
「…………」
音がぐっとこぶしを握り締めて、女性を睨む。自分の父を寝取った女だ。情けを駆ける余地などない。
と、女性の手が振り上げられ、音の頬を叩いた。乾いた音が空間に吸い込まれる。
一瞬のことに、音は頬の痛みを感じるよりも疑問を抱いた。叩かれた、ということを理解するのに数秒かかった。
無重力に流れそうになる音の体を女性が掴み。マグネットシューズで踏みとどまる。音の礼帽だけが流れていく。
「あなたのせいで、わたしは何年も待ちぼうけを喰らったのよ? どうしてくれるの?」
「何、いてる?」
音はひりひりとする頬を感じながら、胸倉をつかむ彼女を睨んだ。
女の顔には怒りが籠っていた。嫉妬と憎悪に塗れた醜い顔だ。向けられている事実に、内心恐怖が沸き立つ。理不尽な怒りをぶつけられているのに。
今度は反対の頬を引っぱたかれる。
「わたしはジャンを愛して、彼のために調査船団に入ったのよ。地球には子供がいて、結婚まで取り付けた。なのに、あなたの母親と寝たせいで、あなたが生まれて、滅茶苦茶になった!」
金切り声をあげる女性。戦闘状況もお構いなしだ。
また強い振動が空間を揺るがす。ぱらぱらと資源惑星の外壁から塵が舞った。
音は全身に力を込めて、声を張った。
「だから、何? あなたの幸せのために、母が不幸になれっていうの? ううん、母は死んじゃったから、そういうことじゃない。音に八つ当たりしてくるのが、ムカつく」
「あの女が死んだ?」
女性は一瞬顔を綻ばせると、つばを吐きかける勢いで言う。
「それはご愁傷様。いい気味じゃないっ。これで、あなたさえいなくなれば、わたしたちは幸せになれる。ジャンも変な気苦労をしなくて済む」
「殺すの?」
「そんな野蛮なことするわけないでしょう? どうせ、あなたは一人じゃ生きていけない」
女性の言葉が、音の胸に刺さる。
一人では生きていけない。周りからそうみられて、これまで行動してきた。それに甘んじていた。
音の表情が不安に歪みそうになる。自己嫌悪が襲い掛かってくるも、目の前の女性への怒りは収まらない。母を貶されたことが、音を支える。
女性が、音を乱暴に放り捨てようとする。だが、音はその腕にしがみつき、どうにか自分の足場を守ろうとする。
「放しなさいっ。阿婆擦れの子供がっ」
暴言が耳を打つ。それ以上の大きさを持って、振動が唸る。
戦闘の火が近づいている。危機感が音の中によみがえってくる。怯える気持ちと誰かを求める甘えた気持ちが彼女に去来した。
「誰もあなたなんて求めてない! 誰が、あなたを養うものか!」
それは、地球で祖父母に言われたことだ。
音は親族からも厄介者と扱われ、こうして宇宙にいる。戦争の渦中にいる。女性の腕にしがみつく力が強まる。放り出されてなるものか、と執念深く指に力を込める。
これには、女性の方も手荒に空いている手で、彼女の長い髪を引っ張り無理やり引きはがそうとする。戦争があろうがなんだろうが、関係ない。愛した男性の罪だというのならそれを取り除いて、決着をつける。そうすれば、ちゃんとした家族になれる。夫婦でいられるのだ。
「いつまで引っ付いているのよ。気持ちの悪い」
「————っ」
髪を引っ張られる痛みに耐える。打開案を考えても、うまくやれる自信がない。
「何もできもしないくせにっ」
女性の言葉が頭上から降りかかり、音は悔しさに歯噛みする。こんな無意味なことをしている場合じゃないのに、ここでまた一人でいるのは怖い。
『ふざけたこと言わないでっ!』
ふと、いつかの樹の言葉が脳裏に過った。あの時、母が殺されて一人でふさぎ込んでいた時、彼女は血塗れの自分を連れ出してくれた。母の琴葉の想いを遂げられたのも、彼女があの血の染みついた場所から歩き出す勇気をくれたからだ。
『ほらっ、ちゃんとしなさい』
彩子が地球のことを知らない自分を買い物に連れ行ってくれた時の声が脳に響く。
目に映るものに、目が回りそうだった地球で、彼女は毅然として手を引っ張ってくれた。
その二人に劣等感を感じていたのは、酷い裏切りだとここに来て気付かされる。
樹と彩子がいつ、音からその手を離しただろうか。どんなに辛い状況も、どんなに苦しい状況も二人が手を引いてくれた。
何よりの勇気で、何よりの自信をくれたのではないか。
「邪魔なのよっ。死んじまえっ」
汚い言葉が降りかかる。
音はその言葉が許しがたかった。ふっと湧き出た力は、一人のものではない。支えてくれた、そばにいてくれる二人がいたから振り絞れる勇気。
音は無重力の中で思い切り、女性の腹をけりつける。
女性は無防備だった腹に鋭いけりが入り、悶絶。音を掴む両手から力が抜ける。
「————っ」
続いて、音は力退けた女性さらに蹴りつけ、踏み台にした。
ドンッと両者の体が離れる。さすがに、マグネットシューズでも床を離れてしまう。だが、音が壁際に移動するのには十分な勢いがついた。
どうしてもっと早くにこうしなかったのか。音自身も呆れて、ふっと口元を緩める。
取り巻く環境がどれほど劣悪だとしても、そこにしがみついていた自分が憎らしい。立って、歩く力はもう持っている。母が死んで、その意思すら死んだものと思っていた。
違う。確かに、一度はその意思は死んだ。だが、樹と彩子と過ごした日々の中で、彼女たちについていこうと歩き出していた足は、もう肩を並べる歩幅になっていた。
音はそのことに、ようやく気付いた。皮肉にも、自分を恨み嫉む女性の手によって、気づかされた。
壁に手をつくと、戦闘の振動が如実にわかる。熾烈を極める揺れは、この場所が攻撃されている証拠だ。
「あなたは……」
苦悶の表情を浮かべる女性が、床に足をついて音を睨む。憎しみ以上にやっと自分の手から彼女が離れたことに安堵していた。
と、音は真剣な眼差しで女性を見据える。凛々しく長い黒髪を羽衣のように広げて、毅然とした顔で口を開いた。
「あなたのような大人にはならない! 父のような大人にも! 絶対、音は誰かを悲しませるような大人にはならないっ!!」
女性は目を見開いて、音の言葉に呆気にとられる。自分を蹴りつけた少女がそういうのだから、矛盾している。そういう思考が彼女には働いた。
音はそんな陳腐なことを言っているではない。無責任な大人、エゴを他人に押し付ける大人、そして、暴力で牛耳ろうとする大人を認めない。まだまだ子供の論理でも、そうなってはいけないと心が訴えかける。
だから、詩野音は急いで通路へと体を流した。呼び出し放送で、どこに行けばいいのか覚えている。戻るべき場所が、会うべき人の場所がわかっているから、迷い道の中でも手探りの場所でも力を持って突き進むことができる。
「ごめん、樹、彩子……」
音は口の中でつぶやいて、元来た道へと壁に手をついて体を押し出していく。まるで海中を泳ぐ人魚のように優雅な動きだ。
女性はその後ろ姿を見て清々した気分がようやっと心に落ちてきた。
戦闘の動きも気になり、すぐにその場を離れようと重たい腹を押さえて歩き出す。
と、彼女の行く先に音の被っていた礼帽が浮遊していた。
「…………」
広々とした空間が、鳴動する。




