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決着の六章


「ぶわはははは、出来た! 出来たぞおおお!」

 マッドサイエンティストの歓声が工場中に響き、猫たちが一斉に顔を上げる。また、それとまったく同じタイミングで、キャットウォークの窓からは二台の車が確認できた。砂埃を立てながらこちらへ向かってくるそのトラックとワゴンの車体にははっきりと九鬼建設株式会社の文字が見える。

「こっちも来たぞ! 九鬼がトラック引き連れて砂利道に入って来た!」

 あずき、桜はともに配置についている。これで準備は全て整った。

「和三、始めてくれ!」

「よしきたあああっ!」

 理科の実験で使うような三角フラスコを片手に和三は工場の裏手へと走ってゆく。こちらも合わせてキャットウォークから駆け下り、シャッターの制御パネルへと駆け寄る。

 すでに工場内の窓や隙間は全て塞いであり、残るはこの正面シャッターのみが開いている状況。作戦の効果を高めるためにはここを半分まで閉ざす必要がある。

 開閉スイッチを押すと重たいシャッターはゆっくりと降下を開始し、その高さが百五十センチ程度になったところでパネルから手を離す。工場内には全体の八割近い猫たちが何事かと右往左往しているが、これで問題ない。

「シャッター、OKだ!」

 工場の反対側から聞こえる和三の返事を確認してから建物の外へと出る。同時に門の前に二台の車が停車し、中からスーツの男が姿を現した。

 九鬼建設株式会社社長、九鬼洋一は無言で門の外からこちらを一瞥し、不愉快そうに顔を歪める。

「……ここは我が社の土地なのだから立ち入るな、と注意したはずだが?」

「はは、えっと、子供のイタズラだと思って許してください」

「私は子供だからと言って許してやるような性質ではないのだが、まぁそれはいい。しかしだ。昨晩我が社に何者かが侵入したようなのだが、こちらに関してはそうそう看過できる問題ではないぞ。いくつの違法行為があるのか、考えてみるといい」

 閉ざされた門越しに伝わってくる威圧感に思わず怯みそうになるが、なんとか平常心を取り繕ってシラを切る。ここであっさりと認めてしまっては退学の危機だ。

「泥棒ですか? それはそれは。でも、オレたちがやったなんて決め付けないでくださいよ」

「ふん、被害は百匹の猫だというのに、お前ら以外に誰を疑えというのだ。しかもその猫たちはこの場所へと戻ってきているようだしな」

「じゃあきっと、猫たちが勝手に脱走したんでしょう。昨日まで住んでいたところを追い出されたんだから、縄張り意識の強い猫なら戻ってきてもべつにおかしくはないですよ」

「減らず口を……」

 九鬼社長はトラックを指差して声を荒らげる。

「いいか、我が社のトラックは我が社の財産だ! これを勝手に持ち出した挙句こちらの手間を増やすような真似をしたのだぞ、貴様らは。ガソリンなどの実質的経費だけではない、時間や労働力という貴重な資産をも浪費するというのはれっきとした損害だ。この責任はどう取ってくれるというのだ!?」

 その怒りはごもっとも。オレだってそちらの立場なら頭にくるだろう。無断で敷地に侵入されてトラックを使用され、せっかく捕まえた猫たちを再び捕まえなければならないという二度手間まで負わされて、だから怒るのは至極当然。悪いのはどう考えたってオレたちのほうだ。

 と言っても、だからと言って謝る気はさらさらないのだが。

「……その損害と猫百匹の命、どっちが重いか言ってみてください」

「なんだと?」

「べつにオレたちがやったとかそう言うわけではないですけど、そちらが損害を被ったのは理解できます。だとしてその損害と、ここで今日も生きている猫の命とどちらが重いか言ってみてください」

 九鬼はふん、と鼻で笑い当然のように答える。

「こちらの損害だ。いいか、我が社が猫を始末できないことで生じる損害は昨日今日の問題に収まらない。たかだか高校生がこの土地の買収にいくら掛かっていると思っているのかは知らないが、その額すべてが負債としてこちらの負担となりかねんのだぞ。それは猫百匹よりはるかに重い」

 それに、と九鬼は敷地内を闊歩する猫たちを睨みつける。

「この猫たちがあとどれだけここで生きてゆける? いつ食料が尽きるとも分からず、いつ病気で全滅するとも分からない。そうなれば猫がどうこうというレベルの話ではなく、この一帯の衛生管理上の問題となるのだ。保健所は悪の機関などではない、必要だからこそ存在しているのだということが分からないのか」

 この環境が良くないことは重々承知しているし、このままにしてはおけないと思ったからこそ、あずきはオレ達を連れてきた。

「でも、違いますよ。重いのはここにいる猫百匹の命です」

「現実を見ずに綺麗事だけを追っているからそう言えるのだ。もういい、もとより子供に理解されようなどとは思っていない。いいからさっさとこの敷地から出て行け」

 そして中へ入ろうと門に手をかけた九鬼はぴたりと動きを止めた。門が開かないのだ。鍵が閉まっていないことを確認してからもう一度手に力を込めてみるが、それでも門は一ミリたりとも動こうとしない。

「……これは、どういうことだ」

「開かないんですか? 錆び付いてしまってるのかもしれないですよ?」

「ふざけるな!」

 年季が入ってところどころ錆びた門ではあるが、開かないのはそれが原因というわけではもちろんない。こちらの準備が整う前に九鬼が到着してしまった場合の足止めとして、昨晩コンビニで購入した瞬間接着剤が使われていたりするわけだ。『たった一滴で超強力』という触れ込みの接着剤を三本まるまる使って門と塀とが接着されているのだから、そうそう開くはずもない。なお、立案者のあずきが作戦終了後にこれをどうやってはがす気でいるのかは謎である。たぶんノープランだと思われる。

 がたがたと鉄の門を揺さぶる九鬼は、次に工場内から聞こえてきたモーターの音に気が着いた。

「な、なんの音だ」

「これですか? 聞いたままですよ、今日も暑くなるみたいですから」

 低く唸るような駆動音。それは工場に設置された空調設備の室外機から発せられている。

「エアコンか!? 勝手に中のものを触るんじゃない、その電気代を負担するのは誰だと思っているんだ!」

「けち臭いこと言わないでくださいよ。その電気代くらいならオレだって払えますから」

 と言っても、和三はおそらく空調を『送風』に設定しているだろうから電気代はそう嵩むこともないだろう。なにしろ工場内の空気を循環させることができればそれで十分なのだ。

 オレの後方、さっき百五十センチだけ開けておいたシャッターの隙間からふわりと風がそよぎ、辺りにはある香りが漂い始めた。

「この匂いは……、柑橘、か?」

「これはですね、ウチの自称マッドサイエンティストが一晩かけて抽出・増強させたみかんの皮成分です。あいつバカなんで、きっと空調のダクトにでもフラスコを落としちゃったんじゃないですかね、あいつバカなんで」

「……?」

「あなたの言い分は正しいですよ、半分ね。先のない猫たちとあなたたちの利益とを比べたら、残念ですけど未来のあるそちらのほうが大切です。あなたたちにとっても、近隣住民にとっても、もしかしたら猫たちにとっても、処分というのが正しい選択なのかもしれません」

「なら、なぜ……」

 こちらの意図を量りきれずにいぶかしげな表情を浮かべる九鬼はふと耳をそばだてた。

 普段から猫の声は途切れないこの場所だが、いま工場内から聞こえてくるそれは徐々に大きくなってきている。中にいる猫たちが明らかに騒ぎ始めている。

「でもあなたは勘違いしてるんです。楽な方法を選びたいから見て見ぬフリをしていると言ってもいい。猫と利益、比べて重いのは利益のほう。けどそれは先のない猫たちだった場合の話。いいですか、よく覚えておいてください」

「お、おい、中で何が起きてるんだ……!?」

 工場の中はすでに限界。溜まりに溜まった圧力はあと数秒で解き放たれるというギリギリのライン。

「この猫たちはまだ、――死んでなんかいないんだ」

 そして男は次の瞬間、驚きに目を見開いた。

「――なっ!?」

 関を切ったようにシャッターの隙間から溢れ出してきたのは猫猫猫。

 工場の中にいた八十を超える数の猫が我先にと百五十センチの隙間から雪崩のごとく飛び出してきたのだ。その光景はまさに圧巻。土埃は舞い上がり、建物全体ががたがたと震え始めたほどである。

「さすがはマッドサイエンティストだ! やるな和三!」

「な、なにが起こった!?」

 白黒茶色が入り乱れた群れはあっという間に周囲を埋め尽くし、建物と塀との間は足の踏み場もないくらいに猫だらけとなる。

「にゃあー!」

「うにゃう!」

 猫たちは口々に何事かを叫んで敷地内を右往左往しているが、その言葉は桜に聞かなくてもよく分かる。

「猫にみかんの皮の匂いを嗅がせると嫌がるって話、聞いたことあるでしょう? あれは猫のしつけ様スプレーとかに使われるくらい効果覿面で、例えばこの匂いが充満した空間があったりしたら、そこには、もう近づかなくなるんですよ」

 昨晩コンビニで和三が思いついた作戦、それがこれだ。大量のみかんを買い込んだ和三はその皮を怪しげな薬品で一晩中煮込んで匂い成分を抽出し、さらに怪しげな方法でその匂いを数倍にも増幅させて特製エキスを作り上げた。丸伍のアルバイトお姉さんの発言を元に、マッドサイエンティストの名に恥じない作戦の結果はこの通り、おそらく工場の中にいた猫は全て外へと逃げ出しただろう。

 さらに、猫たちが方々へ散らばってしまわないように設置したのが先ほどのダンボールだ。猫なら軽々と上れるような高さだった塀も今はその役割しっかりと果たし、猫たちは外へ逃げることなく敷地の中に留まっている。

 突然のことに唖然とする九鬼だったが、すぐに冷静さを取り戻して馬鹿馬鹿しいと切り捨てる。

「た、確かに猫を追い出すには効果的だろうが、それでなんの解決になったというのだ。こんなものは一時的でしかないし、匂いが消えればすぐにでも戻ってくるに決まっているだろうが。それともなにか、我々の捕獲作業をやり易くしてくれたとでも言うのか? ならば感謝の一つでもしてやるところだが」

「なにを言ってるんですか。これはただの陽動で、作戦が決まってから後付けされただけ。本命はあっちです」

 指差すのは工場の隣に面する空き地の方角。すると数匹の猫たちが何かに気づいたように顔を上げてそちらを向いた。

「うにゃあ?」

 空き地側の塀にダンボールは貼られておらず、それどころか上り易いように工場内のガラクタを運んで階段まで作ってある。その方面だけに限って、猫たちが造作もなく移動できるようになっているのだ。

 そして一匹の猫がその段差を利用して軽やかにブロック塀へと駆け上がり、一度嬉しそうな声を上げてから空き地側へと飛び降りた。それを見た他の猫も次から次へと後に続いていく。

「あっち側はまだ柏さんの土地ですから、どれだけ猫がいたところであなたがたには関係のないことですよね」

 工場とほぼ同等の敷地面積を持つその空き地のど真ん中にはあずきがおり、そして今朝がた柏さんから再び借り受けた七輪と炭を使ってアジの干物を焼いている。片や嫌いなみかんの匂い、片や魚を焼くうまそうな匂い。猫がどちらに集まるかは火を見るより明らかだ。

 しかし九鬼は腹立たしげに門を殴りつける。

「なにをワケの分からないことを……! せっかく集めた猫をまた広げるな、回収しづらくなる! 何を聞いていたのだ、どれだけ猫を移動させたところでそれは一時的だと言っているだろうが。今まで猫たちは工場内でエサを与えられ続けていたのだから、当然エサ場は工場内と認識してしまっている。今さら上手いエサで別の場所に誘き寄せたところで、それがなくなればすぐに戻ってくるのだ。お前たちのやっていることは所詮浅知恵でしかない!」

「だから、これからはあっちがエサ場だって分からせるんだって――」

「最中君!」

 突然後ろから声を掛けられ、振り向くとそこには息を切らせた桜の姿。猫が大移動をしたせいでアレルギーが悪化してしまっているようだ。

「どうした?」

「ご、ごめんなさい! なるとちゃんが、いなくなっちゃったの!」

「なるとが……?」

 作戦通りならばなるとは今ごろ塀の向こう側、つまり空き地の真ん中であずきとともにいなければならない。それがいなくなったということは、現在むこうにいるのはあずきだけということ。それではこの作戦が意味を成さなくなってしまう。

「……!」

 見ると猫たちの移動が止まってしまっていた。空き地側に近かった猫はすでに塀を飛び越えて行ったのだが、その逆の柏家側に近かった猫たちは相変わらずうろうろと鳴いているだけ。みかんの匂いのせいでアジに気が付いていないのだろう。

「……まずいな、なるとはいつ消えたんだ」

「えと、最初は工場の裏にいたんだけど、みかんの匂いがしてきたら急に興奮しちゃって……、こっちに走って行ったんだけど見失っちゃったの」

 そこで携帯に着信があり、出ると和三の慌しい声。

『最中クンか! 今なるとを見かけたのだが、大丈夫なのか!? もしや逃げてしまったのではないかと――』

「……! それ、どこだ!?」

『門のほうへと行ったのだ! かなり興奮していたようで、猫の群れを掻き分けながら突き進んでいたぞ!』

「こっちに!?」

 周囲を見渡すが、特に柏家側は猫だらけだ。そこからなるとを見つけ出すとなると難しいが……、と思った矢先、一匹の猫がその群れから飛び出してきた。

「なると!」

 三角形に耳の切れたトラ猫は興奮状態でこちらへと突進してくる。捕まえようと手を伸ばすが簡単にすり抜けられ、そのままそばの木へと駆け上ってしまう。

「お、おい! 降りて来い!」

「なるとちゃん!」

 勢いに任せて十メートルもある幹を上っていってしまったなるとは細い枝の上で一度止まり、全身の毛を逆立てたまま荒い呼吸を繰り返す。

「ふーっ! ふーっ!」

 揺れる木の枝は不安定で、いつ落ちてしまっても不思議ではない。

「さ、桜、なんて言ってるかわかるか?」

「ううん、興奮しちゃってぜんぜん分からない。でもたぶん、みかんの匂いだけじゃなくて九鬼さんとかトラックの匂いにも反応しちゃったんだと思う」

「そうか……」

 猫たちがトラックへと積み込まれていくのに対して最後まで抵抗したなるとにとって、おそらく九鬼は仲間の敵、憎い相手。そいつがまたすぐそばまで来ていたのだから、この興奮も仕方のないことだ。

「いずれにしても早く下ろしてやらないと危ないな。それに、なるとがいなきゃ意味がない」

「ねぇ、あの位置だったら屋上からのほうが近いんじゃないかな」

 桜の言う通りなるとの上ってしまった枝は工場側へと伸びており、屋上から手を伸ばせばなんとか届きそうな位置。すぐさま通話状態だった携帯電話へと声を掛ける。

「和三、聞こえるか?」

『うむ、今門のほうへ向かっているところだ』

「なるとが木に上っちまったんだ。オレと桜は屋上から行ってみるから、和三はもしなるとが落ちたときのために下にクッションかなにかを用意しておいて貰えるか」

『まかせておけ! たとえどんなに繊細なガラス細工を落とそうとも百%割れないようなクッションを設置して見せよう!』

「頼んだ!」

 携帯を仕舞い、桜を連れて工場の屋上へと走る。


 柏制作工場の最上部、そこは屋上と呼べるほど立派なものではない。

 安っぽい階段の先には上へ開けるタイプの扉が付いており、その先はただの屋根。まっさらなセメントの上には落下防止の柵などなく、朽ちた物干し台が寂しく転がっているだけ。

 朝の太陽光を受けて熱を持った屋上の端、門を見下ろすギリギリのポジションから身を乗り出してなるとへと手を伸ばす。

「だ、大丈夫!?」

 オレが落ちないように足を支えてくれている桜の声は上擦っている。どうやら高いところは苦手らしいが、頑張ってここまで付いてきてくれていた。

「大丈夫、だけど届かない!」

 伸ばした手のわずか三十センチ先、直径五センチもないような細い枝の上でなるとは身を硬くしている。その毛は緊張で全て逆立ち、よく見れば小さく震えているようだ。

 興奮状態で高いところに上り降りられなくなった猫というのはよく聞く話だが、今はその気持ちがよく分かる。ここは高い。現在しかたなく腰から上を乗り出して手を伸ばしているが、普段なら絶対にこんなことやりたいとは思わない。それくらいここから見下ろす地面は遠いのだ。いくら多少高いところからでも平気で着地できる猫とはいえ、この高さは怖いだろう。

「なら……っ、上るなよ……っ」

 さらに手を伸ばすとバランスを崩す。桜が支えてくれていなかったらとっくに落ちてしまっているだろうが、あと三十センチ進まなければならない。

 十メートル下を見れば和三が、それといつのまにこちらまで来たのかあずきも手伝って、即席のクッションを用意してくれている。もう用済みとなったダンボールを組み立てて積んでいるわけだが、たとえそのど真ん中に着地できたとしても絶対に危険だと分かる。なにしろ用意している本人たちが『絶対に落ちるな』とさっきから叫んでいるからだ。そしてなんとも悔しいことに、門の外の九鬼ですらこちらを心配そうに見ている始末で、ますます落ちたくなくなってくる。いや、ハナから落ちたくなどないのだが。

「なると、こっちに来い!」

 さらに手を伸ばしてあと二十センチ。しかしパニック状態のなるとは余計に怯えてしまい徐々に後ずさっていく。必死にバランスを保っているところで誰かに触られたくない気持ちはよく分かるが、今は耐えて欲しい。

「なるとちゃん、怖くないからおいで!」

「ふにゃぅ……」

「なんだって、桜?」

「近寄るなって……。耳もぺたっとなっちゃってるし完璧に怯えてる」

「くっそ、このまま後ろに下がられても埒があかないか……」

 ならもう限界まで身を乗り出すしかないが、そうするとなるとの重さを支えきれずにバランスを崩すのは目に見えている。細心の注意を払わなければなると地面に引きずり落とすだけという最悪の結果になってしまう。しかしもう悠長に考えている余裕などない。

「桜、捕まえる。全力で抑えててくれ!」

「うん!」

 お互いに頷き合い、上半身から一度力を抜く。べたっと壁へとくっつき、三回の深呼吸、そしてカウントダウン。

「三……、二……、一……、おらあああっ!!」

 背筋に全力を注いで海老のようにのけ反り手を伸ばす。せまる両手になるとは咄嗟に逃げようとするが、その前にしっかりと体を掴む。

 猫一匹ぶんの体重を抱えながらまっすぐな姿勢を保てるほどオレの背筋は強靭ではなく、頂点で勢いを失った上半身は重力に引かれるまま徐々に落下を始める。

「……くっ!」

 落ちる――。そんな考えが一瞬頭をよぎったが、桜が支えてくれている足はしっかりと屋上に残っており、まるで振り子のように上半身はもとあった場所、つまり壁へと戻っていった。

「ぶぇっ!」

 めき……っ! 両手が塞がっているせいで壁へと顔面をモロに強打する。しかし、落ちない。ぶら下がったまま下を見ると、あずきがほっとしたように手を振ってくれていた。

 桜になるとを預け、ずるずると這い上がる。

「……ふ、はぁ、落ちるかと思った……」

 白い床にへなへなと手を着くと、桜が驚いたような声を上げた。

「も、最中君、鼻! 血が出てる!」

「……へ?」

 触ってみると確かに鼻から出血していたが、壁面に思いっきり打ち付けたのだからしょうがない。落ちなかっただけマシというもので、むしろこれくらいで済んだと分かってほっとしたくらいだ。

 そんなことよりも今はなるとだ。この作戦の鍵であるなると連れて早く空き地へ向かわなければならない。

「よし、じゃあなるとを――」

 が、ふとそのトラ猫に視線を移して驚いた。桜の腕に抱かれていたなるとは枝の上にいたときにも増して震えているのだ。爪はむき出しになり、目は虚ろで視点が定まっておらず、全身ががたがたと震えている。

「おい、どうした!?」

「な、なるとちゃん?」

 そして気づく。なるとにとっては木から降りられなかったことよりも、そこから無理やり引きずり出されたことのほうが恐怖だったのだと。つまりなるとからすれば、この人間二人は敵以外の何者でもなく――。

 なるとは容赦なく桜の腕に噛み付いた。

「きゃあ!?」

 怯んだ桜はとっさに手を放してしまう。そして自由になったなるとはしかしまだ混乱状態にあり、何を思ったかついさっき助け上げられた屋上の縁へと走り出す。

「――な!」

 オレたちから逃げるように、なるとは屋上から飛び降りた。

「――!」

 考えている暇などない。気がつけば屋上から飛び出して、その体を掴んでいた。こんどこそ放さないようになるとをしっかりと抱え込む。

 しかしそこはすでに空中。このままいけば十メートル下へと落下するのは明らかだ。

「最中君!」

 屋上へと伸ばすオレの左手、そこに伸ばされる桜の両手。

 間に合う。桜の手は確実にオレの手を掴んでくれる。そんな一瞬の安心感はしかしすぐに吹き飛んだ。

 自分の体勢はもう立て直せないほど傾いている。桜の細腕がこの体を支えようとすれば、確実に桜を引きずり込んで落ちることになる。

 それだけは――、ダメだ。

 左手を引く。桜の両手は空を掴む。そして、オレは下へと落ちて行った。


 

 落ちる。落ちる。わずかな時間が数十倍にも引き延ばされて、落ちる。

 十メートルでこんなに長く感じるなら高層ビルから落ちたら何世紀分の人生を振り返ることができるのだろうか、なんてくだらないことを考えながら落ちて、ついに地面。

 耳元で爆発でも起こったかのような轟音とともに、ダンボールの山へと突き刺さった。


「――も、最中君!」

 名前を呼ばれて目を開けるとなんということだろうか、ゾンビのようだったあのあずきがこちらに駆け寄ってきていた。そしてダンボールを掻き分けて埋もれたオレを引きずり出してくれた。

 覗き込むその目には涙が浮かんでいて、途端に申し訳ないような気分になる。

「……お前、……普通に動けるのか」

「ば、ばか! そんなことより怪我はないの!?」

「……お前、……普通にしゃべれるのか」

「なにを言ってるのよ、こんな時に!」

 驚いた。まるで普段とは別人のようなその姿に呆気にとられていると、胸元でなにかが動く。

「……ほら、なると」

「あ、うん……」

 右手にしっかりと掴んでいたトラ猫を差し出すと、あずきはそれを両手で受け取った。十メートルダイヴを体感したなるとはもう暴れることはなく、ぐったりと目を瞑って大人しくなっている。

「最中君、本当に怪我はないのね!?」

 怪我? 今は全身が痛いのでよく分からないが、ひとつだけ自分でも驚いていることがある。

「……あー、あずき?」

「な、なに!? どこか痛むの!?」

「いや、……お前さ、オレのこと合気道部部長だからとか言って勧誘したろ」

「……したけれど、どうして?」

 最初から最後まで使うことはないだろうと思っていた合気道スキルだったが、まさかこんなところで役に立つとは。

「落ちるときオレ、とっさに受身とってたみたいだ。さすがの人選だな」

「……あ」

 あずきはしばらく唖然としていたが、ふいに心底ほっとしたようにため息を吐く。そしてもうそこにはいつもどおりの生徒会長殿がいた。

「……さて~、じゃあ私は最後の仕上げをするわ~」

「あ、戻った」

「うるさいわよ~」

 なるとを抱えてあずきは空き地へと戻っていく。最後に一度だけ振り返り、やっぱりいつも通りの口調で命令を下した。

「最中君、あとはそこでじっとしてなさい~」

「……了解」


 あずきとなるとが空き地へと移動し、大量のダンボールとともに残されたのはオレと九鬼社長。他の二人も空き地へと行ってしまった。

「……信じられん。なぜそこまでするのだ」

 馬鹿を見るような目つきで九鬼はこちらを睨んだ。

「いえ、とっさだったんで……。でもこれで、全部うまくいきますよ」

「……あの猫がいったいなんだというのだ? あれがボス猫なのは昨日の様子でなんとなく分かったが」

 そう、なるとはボス猫だ。そして一番初めの猫でもある。

 まだ柏制作工場が営業をしていたころ、猫好きのおじいさんがここで一匹のトラ猫を可愛がっていた。家から持ち出した七輪で魚を焼き、それをトラ猫にあげるのがおじいさんの楽しみでもあった。

 そこに別の猫が現れ、一匹、また一匹とその数が増えてもなお、おじいさんはその全ての猫に分け隔てなくエサを与えた。そしておじいさんが高齢になり工場をたたむことになった時には、百匹を超える猫が住み着いてしまっていたのだ。

 それでもおじいさんはエサを与え続ける。自分の命が長くないと知ると最後の力でベルトコンベアをエサやり機へと改造し、死んだ後でさえもエサを与え続けた。

 自分の許容量を超えてしまったそれはただの自己満足。最後まで面倒を見切れないのならそれはルール違反。

 しかし、そこに愛情は確かにあったのだ。おじいさんは猫を心から可愛がって、だからエサをあげ続けた。それを猫たちはきっと覚えている。ご主人様がたとえベルトコンベアに変わったって、昔のことをきっと忘れていない。だってあいつらは七輪の炭火に近寄ってきたのだから。

「柏のおじいさん、焼き魚、そしてなると。それが始まりなんだ。今はもうおじいさんはいないけど、七輪で魚を焼いて、なるとがその横にいれば、そこがきっと猫たちの集まる場所になる」

 そして聞こえてくる。塀の向こうからみんなを呼ぶ声が。

「うなーーーーーーっ! うなーーーーーーっ!」

 まだ工場の敷地に残っていた猫たちもなるとの呼び声を聞きつけて走り出す。次々と壁を越え、空き地の真ん中へと集まっていく。その顔はどれも嬉しそうで、きっとみんな口々に喜びの声を上げている。桜じゃないけどそんなふうに聞こえる。

「うなーーーーーーっ!」

「これは……」

 九鬼が驚きに目を見開いているのをよそに、猫たちはわき目も振らずに走っていく。そしてついに最後の一匹までが塀を乗り越えて、百余匹の猫は完全に工場内から姿を消した。

 代わりに塀の向こうから聞こえてくるのは、満足げな猫たちの鳴き声。これこそが、オレたち四人の望んだ解決方法だ。


「保健所なんてあいつらには必要ないんですよ。あの猫たちにはまだまだ未来があるんですから」

「……これで、もうこちらには戻ってこないと言うのか」

「来ませんよ」

「………………」

 しばらく工場と隣の空き地とを見比べていた九鬼だったが、なら文句はない、そう言うとワゴン車へと戻っていた。

 しかし気のせいだろうか。車に乗り込むとき、あの九鬼社長がこちらに向かって小さく頭を下げたように見えたのだが。もしや礼でもされてしまったのかと思うと急に照れくさくなってしまった。

「まぁ、いいか」

 塀の向こうから聞こえてくる猫の鳴き声、アジを焼くのに必死な和三の声、そんな和三を急かすあずきの声、そして猫に囲まれてくしゃみが止まらなくなった桜の声。そのすべてが楽しそうで、なんだかすべてがどうでもいいような気分になってくる。

「しかし、これは……」

 オレもいますぐにあちら側へ行きたいのだが、どうにも右足が痛くて立つことができない。這って行こうにも門は瞬間接着剤で固定されているから、どうしても塀へと続く即席の階段を使わなければならず、どうしようもない。

「……おーい」

 大量のダンボールに囲まれて、猫一匹いない工場でぽつんと大の字になる。

 なんともやるせない気分ではあるが、まぁいいか。

 ともかくハッピーエンドであることに間違いはないのだから。



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