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制限時間明示の三章


 休憩後に再びの自由行動となったがこれといった進展はなく、日没と同時に工場から撤収。その後三人はなぜかオレの後ろをついて来ると思ったら『泊めて』の一言、そのまま押し切られるように全員を泊めることになってしまった。

「いい家に住んでるわね~」

「少しばかりメカが足りないがな」

 人ん家の居間で思う様くつろぐあずきと和三。桜のようにちょこんと座っていれば可愛げがあるというものを、和三はうろうろと電化製品を査定して回り、あずきにいたっては床にどーんと寝転んでいる始末。

「……なんでだ」

 テーブルに頬杖ついて一人ごちると、我が物顔でせんべいをかじっていたあずきはちっちっち、と指を振る。

「同じ学校だからといって家が近いとは限らないのよ~。桜ちゃんなんてここから一時間はかかるんだから、男なら泊めてあげなさいよね~」

「ううん、ごめんね最中君。迷惑ならすぐに帰るよ?」

「なに言ってるの~、お家に帰っても誰もいないんでしょう~? そんな桜ちゃんを一人帰せるわけがないじゃないの~、ねぇ最中君?」

「それはあずきちゃんが『お泊りするわよ~』って言ったから……」

「結局お前のせいじゃねーかこら」

「いいじゃないの、どうせ最中君も一人で寂しかったくせに~」

 まぁ確かに現在、両親と妹は里帰りの真っ最中で家にはオレ一人。しかし、部活があるからと田舎行きを断ったのは一人暮らし気分を味わいたかったからというのが本音であって、決して寂しい思いなんかしていないのである。

「……そもそもいくら同級生だったとはいえ、今日知り合ったばかりの男の家に泊まるか普通?」

「あら~?」

 するとオレの言葉をどう解釈したのか、あずきはにやりと笑って桜のほうへとごろごろ転がっていった。

「ちょっとちょっと桜ちゃん聞いた~? 今晩は気をつけないとコワいかも知れないわよ~、うふふふ~」

「え? なにが?」

 にやにや顔のあずきときょとんとした顔の桜。心の純真さの差である。

「……勝手に妄想してろ。それより夕飯はどうする。いま家には白米くらいしかないぞ?」

 時刻はもうじき夜の八時で外は真っ暗。なんだかんだでずっと外にいたこともあって、そろそろ空腹がピークに達しようかという頃合いだ。

「白米……。ならカレーが食べたいわ~」

「あ、なんか合宿みたいでいいね、カレー。あたし作るの手伝うよ」

「うむ、僕も異論はないぞ。たった今この家の台所を偵察してきたところだが、すばらしいことにカレーのルーのストックがあるようじゃないか」

「勝手に覗いたのか……」

 賛成多数で可決。まぁカレーが嫌いなやつなんてそうそういないし、古典的な夏の定番メニューでもある。しかも和三の言うとおり、偶然にもカレーの材料は全てそろっていたりする。息子になるべく自炊をさせようという母親の思惑で、数日に渡って食いつなぐことができるカレーの具材がすべて用意されていたのだ。

「じゃあ、今晩はカレーでいこう」



 台所で桜と二人、夕飯の用意を進めていく。あずきはハナから料理をする気などなく食べる専門を宣言し、マッドサイエンティストはやたらと張り切っていたがなにやら恐ろしいものを作りそうなので台所の出入りを禁止とされた。残った二人が料理を担当することになったのだが、実際のところオレは横で見ているだけの役回りだ。

 とんとんとん、と心地いいリズムでスライスされていくタマネギ。桜の料理の腕前はなかなかのもののようだった。

「猫アレルギーのくせにタマネギは平気なのか」

「ぜんぜん平気ってワケじゃないけど、もう慣れてるから。包丁で押し潰すみたいに切らなければ汁もそんなに飛ばないし、ちょっと辛くなったら目を閉じて切っちゃうの」

「目を閉じて? 大丈夫なのかそれ」

「やってみようか?」

 見てて、と桜は本当に目を瞑り、しかし手のほうは同じリズムで包丁を動かしていく。自分なら怖くてとても真似できないが、桜の手つきには危なっかしさがないから不思議なものだ。

「ね?」

「ふーん、たいしたもんだ。やっぱり家でよく手伝ったりするのか?」

「うん、お母さんも働いてて遅くなったりするから、私が晩ごはん作ったりしてるの」

 うーむ、一家に一台欲しいところだ。


 十分もしないうちに桜はカレーの下ごしらえを終え、今はもう鍋でことこと煮込む段階。ジャガイモが煮えるまでしばらく待ったらルーを入れて完成とのことだが、ここまででオレがやったことと言えば包丁やらまな板やら鍋やらを棚から出しただけ。完全におまけである。

 さすがに何もしないというのも気が引けるので、冷蔵庫からきゅうりとトマトを取り出してサラダでも作ってみようかと包丁を握る。と、廊下からにゅっと現れた影。

「はふ~、いいお湯でした」

「あ、あずきちゃん。もうちょっとで出来るよー」

「いいにおいだわね~」

 ぬれた髪をタオルでわしゃわしゃと拭きながら台所へとやってきたのは、やることもないからと風呂に入ったあずき生徒会長。

「なになに、最中君サラダ作るの~? ゆで卵つけましょうよ、ゆで卵~」

「お前……」

「……? ふえ~?」

「………………」

「なに~?」

「……う」

 目の前には湯上りでほほを赤く染めたあずきの顔。濡れた髪が肩まで垂れてところどころ首にまとわりついており、なんだろうか、そんなあずきの姿から目を離せない……。

「………………」

「あら~、もしかして湯上りマジックであずきさんの色気に気がついてしまったのかしら~?」

 とかワケの分からないことをほざいてくねりと腰を曲げやがるが、ちがう、そうじゃない。

「……も、ものたりない」

「はい~?」

「なんかすごくものたりないぞ、お前! この! 頭の上が!」

 風呂上りのあずきは頭の上で団子を結ってはおらず、ちょっと天パ気味なごく普通の髪形になってしまっている。そしてそれを見ると、なぜだか大切なものが欠けてしまったかのように胸が痛むのだ。

「ちょ、ちょっとこれを頭に乗っけてくれ!」

「みかん? こう~?」

 言われるままにみかんを頭上に乗せるあずき。それで少し改善されたが、しかしまだなにかが違う。

「ちがう……っ。他になにか……、これはどうだ!」

「かぼちゃ~」

「でかすぎるか……。じゃあこっちはどうだ!」

「かがみもち~」

「季節感がない! ならこれは……!」

「カップアイス~」

「ねぇねぇ最中君、これのほうがいいんじゃない? はいあずきちゃん」

「イチゴ大福~」

「うん、似合ってるよ! 大福だし」

「い、いや……、ギリギリで何かが違う……」

 台所を見渡しても他にピンとくるものがない。なんだ、一体なにを乗せればこの心の隙間は埋まるんだ……!?

「……どうしてものを乗せようとするの~。髪が乾いたらお団子やってあげるわよ~」

「くっ、髪が乾くまで待つしかないのか……」

 仕方なくドライヤーを持ってこようとしたその時、第四の声が台所に響き渡る。

「ふはははは、お困りのようだな! ならばこのマッドサイエンティストにまかせるがいい!」

「おお、なにかいいアイテムがあるのか!」

「あずきクンの頭に乗せるのにふさわしいもの、それは……!」


 夏の夜。普段はつけっぱなしのテレビも今晩ばかりは電源を落とし、涼しげに鳴く虫の声を聞きながらテーブルを囲む。桜のカレーはさすがの一言。オレの不恰好なサラダにも輪切りのゆで卵が彩りを飾る。

 普段とは違う面子で食べる夕食と言うのも一味違っていいものだ。

「おいしいわね~」

 パトカーのごとく頭に赤色灯を乗せたあずきはもぐもぐと満足そうな顔を浮かべると、テーブルに置かれたスイッチに手を伸ばす。

 ぴんぽーん!

 くるくると回って光を放つ赤色灯。

「うむ、それでいい。適合度百三十%だ」

「不思議と私も違和感を感じないわ~」

 気に入ったらしい。



 食事を済ませサイレンも外したあずきは、全員を居間に集めてこんなことを言い出した。

「……嫌な予感がするのよね~」

 口調は普段通りでもその表情はやや硬く、それが冗談などではないことは誰もが理解できた。だからこちらも真剣に聞き返す。

「予感って、どんな」

「今日会った、あの工場の新しい所有者について~、えっと、九鬼建設株式会社だったかしらね~、最中君?」

「ああ、そんな名前だったな」

 長いこと猫を集めてエサを与えていた柏さんが亡くなり、その後に土地を買い受けたのは九鬼という名の建設会社だ。明後日から廃工場を含めたあの土地は、おそらく社長なのであろうあの男が所有することになる。

「そっか、もう明後日からは工場には入れなくなっちゃうんだよね」

「だが工場のセキュリティが突然に変わったりするわけでもあるまい? 隙を見て入ろうと思えばいくらでも入れるのではないか?」

 ぶっちゃけてしまえば和三の言う通りだ。柏のおばあさんにせっかく貰った立ち入り許可が無効になるのは残念だが、所有者に無断で入ったのは今日だって同じこと。見つかってしまった時にかなり厳しく怒られるだろうとは思うが、結局のところはなにも変わっていないはずだ。しかしあずきはゆっくりとかぶりをふった。

「そこじゃないの~。問題なのは、所有者が変わったっていうところよ~。いい? 建設会社が土地を買ったんだからきっと資材置き場かなにかにするつもりなんでしょうけど、それってつまりあそこを活用するってことなのよ~? 今まで放置されてきたあの土地が、それを利用する気まんまんの人に渡るの~。じゃあ、最中君、あなたがあの土地を買ってなにかに使おうと思ったら、まずなにをする~?」

 あの土地を利用するなら……? ということはまずそのための建物を作らなければならないから、ならあの工場は解体して、つまりそれより先には……。

「……あ」

「でしょう~? 誰だってそうよ~」

 気がついて、全身に嫌な汗が伝う。つまりは一刻の猶予もないということで、猫たちを追い出そうと思うなら、それは明日中にやっておかなければならないということだ。

「実を言えば、私があの猫たちをなんとしようと思ったのはね~、とある猫まみれ工場をどっかの企業が買い取ろうとしているっていう噂を聞いたからなのよ~。でもこんな早くとは思ってなかったから、ちょっと出遅れちゃったみたい~……」

 あずきは悔しそうに眉をひそめる。

「……で、でもまだ遅くはないだろ。明日こそあの猫たちを全部追い払ってやればいいんだろ?」

「頑張るしかないわね~。でも今日の成果から言えば、あと一日ではちょっと厳しい気がしないでもないのだけど~」

「それは……」

「まぁ、きっとなんとかなるわよ~。それにあの社長だって、いくらなんでも所有権を獲得したその日のうちに行動を始めるほどせっかちじゃないでしょうから~」

「………………」

 その言葉に根拠はない。しかし、今の段階ではどうしようもないというのもまた真実だ。それより今はしっかりと休息をとり、万全の状態で明日またチャレンジするほうがいくらか現実的だろう。

「ごめんなさいね~、考えてみればこんなこと今言うべきじゃなかったわ。きっとまだ数日は猶予もあるはずよ~。明日のことは明日考えるとして、最中君、ありったけの枕を用意してちょうだい~」

「枕? 何に使うんだ?」

 なにかいいアイディアでも思い付いたのだろうか? するとあずきはやれやれと首を振り、そして人差し指をずばしっと立ててこう言った。

「やーねぇ、枕投げするに決まっているでしょう~!」

「明日に備えて寝るぞ」

「えぇ~っ!」

 なぜか本気でショックを受けているらしいあずき。いくらなんでも切り替えが早すぎやしないか、こいつ。

「人の家で枕投げするのはちょっと、迷惑だよあずきちゃん……」

「うむ? 破損したものについては僕が直してみせるが」

「バカなこと言ってないで和三、お前も布団敷くの手伝え」

 枕投げの誘惑も分からなくはないが、今は少しでも明日に備えて寝ておかなくては。なにしろ明後日、すべての猫が処分されてもおかしくない状況なのだから。



 翌朝は七時から活動を開始、午前中は初日と同じく各自で自由に行動をとった。しかし案の定、これといった成果を上げることなく太陽は天頂へと達し、仕切りなおしの意味も込めて昼食を取ることとあいなった。

 昨日と同じ中華料理屋丸伍で、昨日と同じ座席に座りながら、昨日より肩を落としてカウンター席に並ぶ四人。全員の士気がうなぎ下がり(?)なのは明らかで、目を凝らせば頭の上に無数の縦線が浮かんでいるのが見えるほどどよーんとした空気が店内に充満している。

 事態が思ったよりも急を要するということが判明したにもかかわらず、なんの進展も見られないというのは思ったより精神的に堪えるもので、先の見えない暗闇でじたばたもがく気力すらなくなりかけている状況だ。

 ずぞぞと力なく広東麺をすすり、息継ぎ代わりにため息をつく。

「なにをどうすればいいかの見通しがまったく立ってないってのは、厳しいな……」

「そこ~、せっかくの食事がしょんぼりになるような発言は慎みなさい~」

「む……」

 すでにかなりの勢いでしょんぼりなのだが。

 と、厨房からカウンター越しに手が伸ばされたかと思うと、頼んでもいない揚げ団子が目の前に配膳された。

「ほい、情報提供量だぜー」

 またしても店主に無断でサービスしてくれるのは、こちらとは対照的に楽しそうな顔のアルバイター。クビなったりしないのだろうか。

「お姉さん、よっぽどヒマなんですね……」

「いやいやそんな人聞きの悪いこと言いなさんな。ちょーっとお客さんがいないだけだからね。その証拠に店長はテレビ見てるしさ」

「はぁ。と言っても、べつに今日は面白い話もないですよ? 見ての通り進展がなくて途方にくれているところですから」

「ふーん、たしか工場に住み着いちゃった猫をどうにかするんだっけ? ナントカっていう建設会社のアルバイトかなにかなの?」

「建設会社? それってもしかして九鬼建設会社のことですか?」

「あーそれそれ。昨日お客さんがさぁ、九鬼んとこが柏工場をどうこうするけど変な問題があってどうのって話をしてたから、もしかして諸君はその会社のために猫を追い払うエージェントなのかなと思ったのですよ。でも違うみたいだね」

 この店にお客がいるということに少々驚きつつ、やはり昨日あずきが言っていたことは的外れではなかったのだということに顔をしかめる。九鬼建設会社にとってあの猫たちが処分すべき対象なのはもう間違いないようだ。

 隣に座る和三が空の丼をことりとテーブルに置き、ご馳走様と丁寧に手を合わせてから天井を仰ぐ。

「……ふむ、やはり早急に対処せねばならんようだな。のんびり昼食など取っている場合ではなかったのかもしれん」

 とそこに注がれるアルバイターの興味津々な目線。

「ところでキミはなんで白衣なんだい? コスプレ?」

「む、失礼な。これはマッドサイエンティストとしての誇りなのだ。仮装趣味などと一緒にしないでいただきたい」

「サイエンティスト? 科学者なんだ、へー。ますますワケがわからないね諸君らは」

「ぐ……」

 閉口するマッドサイエンティスト。しかしワケがわからないのはコイツだけであって、こちらまで一緒にしないで欲しいところだ。

「あ、ふむふむ? ちょっと分かったかもしれない。工場から猫を追い出すためのメンバーの中にサイエンティストがいるってことはつまりアレだわね?」

 お姉さんはびしっと和三の鼻っ面に人差し指を伸ばし、満面の笑みでこう言った。

「キミは猫いらずを作るわけだ!」

「ぶっ!」

 広東麺を吹いた。

「な、なんということを言うのだ! 僕の頭脳はもっと平和的に利用するためにあるのだぞ!? そんな毒物を扱うような倫理観は持ち合わせていない!」

 和三が激昂する一方、隣の桜はあずきに無邪気な質問をする。

「ねぇあずきちゃん、猫いらずってなに?」

「野良猫に食べさせて殺すための毒入り団子よ~」

「そ、そんな……」

 桜、涙目。

「え、あれ、間違えた? 猫を処分するんじゃないの?」

「処分と言うな、せめて処理だ! むしろ対応と言え! 百匹の猫を毒殺するなど正気の沙汰ではないぞ!」

「だってマッドなんでしょ? 正気の沙汰じゃないんでしょ?」

「ぐ……っ」

 和三再び閉口。無邪気な顔で恐ろしいことを言うアルバイターだ。

「猫いらずじゃないとすると毒ガス?」

「違う!」

「じゃああれだ、みかんの皮」

「……なんの話だそれは」

「ほら、みかんの皮をぎゅってやると汁が飛ぶじゃない? やらなかったかなー、給食の時間とかに友達の顔にかける嫌がらせ。あれって猫も嫌がるらしいし、そーやって猫を撃退するっていう」

「撃退と言うな、オブラートに包むということを知らんのか! どうしてそう非人道的な発想へと走るのだ!」

 和三はばんばんとカウンターを叩いて反論する。どうもこの二人は相性が悪いようだが、今は和三の味方をするべきだろう。

「オレ達は猫たちに別の場所に移動してもらいたいだけです。工場とか建設会社のためじゃなくて猫たちのために。だろ、あずき?」

「まぁ、そういうことね~。でもこの人の言うことにも一理あるわ」

「ちょ、ちょっとあずきちゃん……?」

「猫いらず撒こうって言ってるんじゃないわ、でもこの手詰まりな状況を打破するにはちょっと乱暴な手段もとらないといけないかもって話よ~」

 エビチリ定食を完食し、あずきはおもむろに席を立つ。そして本日午後の行動方針を告げた。

「猫たちを一度、力ずくで敷地外へと追い出してみましょう」



「煙?」

 猫の鳴き声が聞こえる縁側で、柏おばあさんはきょとんと首をかしげた。

「ダメですか~? 火の管理は絶対に怠りませんから~」

「まぁ、かまいませんけどねぇ。九鬼さんが怒るかもしれないですよ?」

「そこは大丈夫です~。私たちの目的は一致していますので~」

 あずきの無茶なお願いに対しておばあさんは思いのほか簡単に許可を出してくれた。九鬼建設会社と目的が一致しているとは初耳だが、ともかくこれで地権者の許しを得た。あの社長に見つかればなんだかんだと文句を言われそうな気もするが今日までは柏のおばあさんの発言が絶対。これで気兼ねなく作戦を実行できるというものだ。

「そうそう、そういうことなら裏にある倉庫を見てみたらいいわ。昔主人が使っていた七輪がまだあったはずだからねぇ」

「七輪?」

「あらまぁ、若い人はもう知らないのかもしれないわねぇ。炭を入れて火を起こすための道具なのだけど、炭も一束ぐらいは残っていたはずだから使ってちょうだい」

「それはありがたく拝借します~」

 ぺこりと頭を下げたあずきはちらりとこちらへ視線をよこす。わかった、オレに運べと言うんだろう。

「七輪って言うと、もしかして猫にあげるアジを焼いていたっていう?」

「その通りです、懐かしいですよぉ。焦げて網にくっつくからやめてくださいとあれほど言ったのに、主人はなるとを焼くのをやめようとしなくてねぇ……」

「……はい?」

 なんだ今の文脈は。こちらの頭の上に浮かぶ疑問符を気にも留めず、おばあさんは懐かしそうな顔で昔語りを始めてしまった。

「主人はなるとが好物でしてねぇ。それも炭火で焼き色を付けたのが一番だ、なんて言っていつも仕事終わりになるとを焼いていたんですよ」

「はぁ」

「そうそう、あの一番初めのトラ猫もなるとの匂いに釣られてやってきたんですよ。猫もなるとなんて食べるんですねぇ。魚の干物をあげるようになってからは見向きもしなくなってしまいましたけど、最初はもう、それはおいしそうに食べていました」

「あ~」

「だからなるとか」

 あずきと二人でぽん、と手を叩く。耳の切れたボス猫が『なると』などと口走った理由はこれだったらしい。どこかの誰かが『きっとなるとって名前なのよ~』とか言っていたが、違うではないか。

「主人が引退してからはもう七輪なんて使わなくなってしまいましたけど、どうせならあなた方が使ってくれたらいいでしょう。猫を追い出すためというのは少し皮肉ですけど、あのコたちのためになることには変わりがないでしょうからねぇ」

「ええ、きっと~」

 それじゃあ、とあずきは立ち上がり一礼。それから倉庫があるという家の裏手へと歩いていった。オレも軽く会釈してからその後に続く。

 最後にちらりと見たおばあさんの顔はどこか寂しそうだったような気がしたが、気のせいかもしれない。



 年季の入った丸い七輪と炭の束を抱えて工場内へと帰還すると、ちょうど桜・和三ペアも山から戻ってくるところだった。

「あ、あずきちゃんと最中君。それって七輪?」

「そうよ~。若者でもこれくらい分かるわよね~?」

「え? なんのこと?」

「いいえ~、こちらの話~。それよりそっちも集められたみたいね~」

 和三が手にしているビニール袋には針葉樹の枝葉が溢れるほどに詰まっている。ところどころ針のような葉が袋を破ってしまっているほどだ。

「ああ、これだけあれば十分だろう? それに立派な松が多かったからな、足りなければすぐにまた調達できるぞ」

 工場裏手にある小山に入った二人に課せられた任務、それは松の葉をかき集めてくること。それも茶色く枯れたものではなく、できれば枝から直接とったような生木の状態のものが好ましい。

 七輪と炭と松の葉。猫を工場から一斉退避させるためにあずきが考えた手法とはつまり、煙を使ったいぶり出しだ。

「猫たちはだいたい中に集合してるみたいで好都合だわ~」

 あずきは工場内をぐるりと見回して猫の様子を確認する。時刻はそろそろ三時を過ぎようかという頃合いで、暑さのピークはすでに過ぎたが、それでも夏の熱気を嫌った猫たちは涼しい屋根の下へとこぞって逃げ込んでいる。ざっと見ただけで全体の七十パーセントほどの猫が工場内にいるようで、めいめいにのんびりとくつろいでいるようだ。

「幸せそうに寝息をたててるねー。なんだかかわいそうかも……」

「気持ちは分かるが、致し方あるまい。それよりもどこか別の場所でのんびり暮らしてもらえればその方が猫たちのためだろう」

「……猫たちのため、ね~」

「む? なにか言ったか?」

「べつに~。それじゃあさっそく始めましょうか~」

 一瞬沈んだ表情を見せたあずきだったが、すぐにもとの気だるげな顔付きに戻って七輪を運ぶように指示を出した。オレは言われるがままに珪藻土の塊を工場の中心へと移動させ、セッティングを開始する。

 炭は安定した火力を供給する優れものだが、火を起こすのに時間が掛かるという欠点もある。マッチの火を近づけた程度では着火しないので、新聞紙や着火剤などを使って一度火力を確保してからその火を炭へと移す必要がある、……との説明を柏のおばあさんから伝授され、どきどきわくわくの初七輪に挑む。

 火皿の上に炭を置き、その上に新聞紙を敷き、そして火を点けようとしたその時、横から伸びた手にマッチを奪われた。

「まぁまぁ待ちたまえよ最中クン」

「なんだよ、っていうかなんだそのキラキラした目は」

 人から奪ったマッチ箱を両手でもてあそぶ白衣の男。なにやら実にイイ笑顔を浮かべている。

「いいかね、マッドサイエンティストには心ときめくアイテムがいくつもあるが、その代表的な一つがアルコールランプ、もしくはガスバーナーだ。三角フラスコや試験管はもちろんだが、バーナーの類は欠かせないのだよ。つまり、着火=マッドサイエンティストという式が成り立つのだ」

「わけがわからん」

「簡潔な言い方をすれば、着火は僕に任せておけということだ」

 ぐっ、と親指を立てる和三だが、ようするに自分がやりたいだけだろう。マッチやらライターやらで大はしゃぎする小学生と同じ思考回路だ。

「……ならさっさと点けろ」

「ふあはははは! よおし、華麗な着火テクを見せてやる!」

 七輪の脇にしゃがみこみ、箱からマッチ棒を一本取り出して「シャキーン」などと格好つけ、「三、二、一……!」などとカウントダウンをしてから振り下ろし、そのあげく失敗してマッチ棒をぽっきり折ったマッドサイエンティストから箱を奪い返し、しゅぼっと火を点けて新聞紙へと着火した。

 めらめらと燃えていく新聞紙にまた炭を重ね、これでしばらく待てば安定した炭火となるはずだ。

「これでよし、と」

「う、うわあああああっ!?」

 突如悲鳴をあげた和三。見れば涙目。

「ぼ、僕がやりたかったのにぃぃぃっ!?」

「泣くなよ、小学生か……」

「し、信じられない凶行! まさかこんなことを平然とやってのける精神の持ち主がいるとは思わなかったぞ!」

「もー、お前めんどくさいなぁ……」

 思わず漏れた本音に少し反省し、好きなだけ擦れとマッチ箱を和三に手渡して自分は七輪の火へと視線を移す。

「ん?」

 ふと気がつくと、工場内の猫たちが少しずつこちらへ集まってきているようだった。二、三匹の猫が引き寄せられるようにやってきたかと思うと、それを見た他の猫たちもわらわらと集結し始めたのだ。そしてなにをするわけでもなく、ただ七輪の周辺に集まってじっとこちらを眺めている。

 なるとがベルトコンベアを駆動させた時ほどではないが、なにかを期待するように集まってきた猫たちの姿に一つ思い出すことがあった。

「もしかして、覚えてるのか……?」

 そうだ、この七輪はもともと工場の主だった柏さんが使っていたもの。猫たちはこの七輪で焼いたなるとやら干物を目当てにやってきていたのだ。使われなくなって久しい古びた七輪だが、それを使って火を起こしたのを見てきっと猫たちは昔を思い出したのだろう。七輪の火は猫好きなおじいさんと、おじいさんがくれる美味しい干物の記憶なのだ。

「柏さんのこと、やっぱり好きだったんだな」

 しみじみとした気分で再び火の具合を確認する。

 薄い新聞紙はあっという間に燃えカスとなり、代わりに熱量を得た炭がほの明るく赤みを帯びてきた。むわっとした熱気が顔を炙るのを確認して、青々とした松の葉をビニール袋から出していく。猫たちは袋の中身が食べ物でないことにがっかりした様子だが、それでも七輪の周りから離れようとはしない。なんだか本当に申し訳ない気分になる。

 と、七輪からはるか離れたシャッター脇でこちらを見守っている女子二人が口々にコメントを述べる。

「猫たちは今ね、サカナだサカナだ、って騒いでるよ」

「ちょっと感動的ね~」

「おじいさんのこと忘れてないんだねー」

「三日たてば恩を忘れるなんて、どこの誰が言ったのかしらー」

「……ところでお前ら、なんでそんな離れてるんだ?」

 猫の輪とは対照的にどんどん七輪から遠ざかっていく二人。

「だって~、ケムいなの嫌だもの~」

「私もちょっと嫌だなー、って」

「嫌なこと人に押し付けやがって……」

 アレルギー持ちの桜はともかく立案者のあずきの態度はどうなのだ。そんなこと言ったらオレだって嫌に決まっているだろうが。

「おい和三、お前は逃げるよ――って、うお!?」

 釘を刺すように和三のほうへと振り返ると、まるでガスの充満した危険区域に乗り込むかのような軍隊仕様ガスマスクが目の前にででんと現れた。ゴーグルの向こうからくぐもった声でマッドサイエンティストが笑う。

「はっはっは、しゅこー……、案ずるな、しゅこー……、僕はずっとここにいるさ、しゅこー……」

「……なに一人だけガスマスクなんか用意してんだコラ」

「なにをいうか、しゅこー……、これからやろうとしていることが、しゅこー……、どれほど危険か分かっていないから、しゅこー……、って、あ! まて、返せ!」

「うるせぇ! いいからやるぞ!」

 和三から奪い取ったガスマスクを蹴り飛ばし、十分な火力を持った七輪へと松の葉を投入する。

 ぱちぱちと小さな音が聞こえたかと思うと次第に生木が燃える臭いが鼻をつんと突くようになり、ついには凄い勢いで白煙が上がり始めた。

「ぶわっ、キツイなこれは……」

「げほっ、げほぉっ! ま、マスクを返せぇぇ!」

 生の松に含まれる大量の松脂が不完全燃焼を起こし、刺激のある白い煙となって立ち上っていく。服の袖を口と鼻に当てても咽るような臭いは防ぐことができず、涙まで溢れてくる始末。

 今すぐにでも逃げ出したくなるような状況だが、それは猫たちも同じことだ。

「ふにゃあ!?」

「ぎにゃ!」

 口々に悲鳴のようなものを発しながら一目散に逃げていく猫猫猫。人間よりはるかに優秀な五感を持つ彼らにこの煙はさぞや辛いことだろう。思い出の品をこんなことに使って申し訳ないが、この煙なら工場内から全猫を追い出すことも可能だろう。

 タオルをぐるぐると顔に巻いて煙対策をしながら、七輪を乗せた台車を押して回る。オレがウチワで煙を拡散させ、和三が松の葉を定期的に補充するというコンビネーションを用いて、猫たちを工場外へと誘導するように煙を充満させていく。効果は抜群だったようで、三十分もしないうちに工場内はもぬけの殻となり、工場の外にいた猫たちもみな敷地の外へと逃げ出していった。


「おつかれ~」

 木陰で新鮮な空気を思う存分吸っている男二人にねぎらいの言葉がかけられ、水でぬらしたタオルが手渡された。

「おおすまないな、これはありがたい!」

「あーあ、全身べとべとだぞこれ……」

 タオルで顔を拭くと、真っ白だった生地があっという間に茶色く変色した。和三の顔を見てなんとなく想像はしていたが、オレもついにガングロメイクデビューを果たしてしまっていたらしい。松脂がこびりついた手も見事に真っ黒で、その辺の石ころを触ると握らなくても手にくっついて落ちないほどの粘着力だ。

「でもすごいねー。あれだけいた猫が全部逃げちゃったよ」

 のんきな声で笑う桜の言うとおり、周囲は異様な静けさに包まれていた。というよりも、常に絶えなかった猫の鳴き声が聞こえないせいで妙な違和感に襲われているのだ。道路からやや離れたここは本来ならこれくらい静かな場所なのだろう、いかに今までの状況が異常だったかよく分かる。

「もう鼻がやられて判らないんだけどな、まだ煙の臭いは残ってるのか?」

「ええ~、それはもう近所迷惑はなはだしいくらいのレベルでヤニ臭いわよ~。明日九鬼の社長に怒られるのも面倒だから、この件に私たちは関わっていないという設定でよろしく~」

「設定って……」

 確かにあの社長ならそれこそ松脂のようにねちねちと説教をしそうな雰囲気だが、すくなくともこの煙の臭いが残っているうちは猫たちを追い出す効果が持続するはずだ。いつまでかは分らないが、一定期間猫を工場に近づけない効果はあるだろう。

「さっき逃げていく猫の言葉を聞いたけど、やっぱりかなり嫌いみたいだったよこの臭い。みんなすごく文句言ってたもん」

「猫はハッカ系の臭いが嫌いとも言うし~、みかんの皮しかり、松脂しかり、鼻につーんとくるものは苦手なんでしょう~。この煙バリアがいつまで続くかは予想できないけど、例えば逃げ込んだ先がとても暮らしやすい場所だったりしてくれればいいわね~。工場に戻ろうっていう気がなくなるくらいイイところなら、猫を追い出すっていう目標はまさに達成されるわ~」

「そんな幸運な結末ならいいけどな。夢中で逃げるあまりもう帰って来られないようなところまで行っちまったりしてたら、ちょっと可哀想かもだ」

 鼻のいい猫のことだ。臭いがしなくなるところまで逃げるとしたらそれはかなり遠い場所になるだろう。縄張りの外に出てしまえばもう帰って来られないことだってあるはずだ。

「それはそれでしかたないわよ~。それに言ったでしょう? 猫はもともと一匹で十分生きていけるんだって~。人間がエサをあげるから貧弱になっているだけで、やればできるコたちなのよ~?」

「それは、まぁそうだろうけど」

 いずれにしても、それまでの居心地がいい住処を奪ってしまったことに変わりがない。これで猫たちの辿る運命が少しでもよくなってくれたのならいいのだが。

 するとあずきはぱん、と仕切りなおすように手を叩く。

「分からないことを考えても仕方ないわ~。私たちは一仕事やり終えたんだし、ここで休憩としましょう~」

「なんで屋外に逃げてたお前がそんなやり遂げた表情を浮かべてんだ。この脂だらけの手で顔を触りまくってやろうか」

「の~せんきゅ~。遠慮しとくわ~」

「このやろ……」

 ひらひらと手を振る団子頭、イラっとする。

「だが、このままでいるのもあまり気分のいいものではないぞ。最中クン、一度この松脂を洗い流そうではないか。なによりせっかくの白衣が茶色く汚れてしまったのは非常に心苦しいのだ。白衣は白でこそ白衣、白さ九十%以上をキープしていないとマッドサイエンティストとして示しがつかないのだ」

 誰に対する示しだ。それに衣服を汚れや薬品から守るための白衣なのだから、汚れてなんぼのものではないのか。

「そうだよ、二人ともゆっくり休んで。あたしとあずきちゃんで後片付けはしておくから」

「え、私もやるの~?」

「あずき、お前は意外そうな顔してないで素直に働け。それじゃあ桜、ちょっと頼むな。いったんオレん家に帰ってシャワー浴びてくるから」

「うん、いってらっしゃい」

 桜の笑みに見送られ、オレと和三は廃工場を後にする。

 なお、帰路の途中で小学生に「きったねー」と笑われたり、飛んできた虫が張り付いて逃げられなくなったりしたことは記憶から除外することにした。



 キャットウォークから続く安っぽい階段を上り、半開きになっていた鉄製の薄い扉を上に開いて進むと、柏製作工場の屋上へと出ることができる。

 屋上と言っても実際のところはただの屋根。白っぽいセメントの床が広がっているだけで落下防止用の柵もなく、ベンチなんて上等なものはもちろんない。昔は使っていたのであろう物干し台が入り口のそばに転がっているが、それも風雨にさらされてすっかり錆びてしまっていた。

 そんな味気ない屋上は、しかし暑さもひと段落ついた夕方のひと時においては隠れた和みポイントとなっていた。


「………………」

 硬いセメントに一人腰を下ろし、夕日に包まれていく景色をぼうっと眺める。

 山に囲まれた田舎町の景観は少し寂しいが、同時に心が落ち着く風景でもある。工場へと続く砂利道は車の少ない道路へと伸び、その先には古びた民家と赤い水田が広がっていく。周辺の小山は夕日色に照らされてまるで妖怪でも出てきそうな妖しげな雰囲気をまとい始め、ヒグラシと夜の虫の声がもうしわけ程度に反響していく。

 決して都会から遠いわけではないこの場所に、しかしこれだけのどかな風景があるということに改めて驚かされる。ここから見える景色だけがぽっかりと切り取られて孤立しているかのような不思議な感覚を覚えて、ふっと目を閉じた。

 百余匹の猫たちがいなくなった廃工場。自分がいたのはたったの一日だけだというのに、それはなんだか少し寂しいような気もする。騒がしかった夏が終わって物悲しさを孕んだ秋が来るように、ここにも静寂が訪れた。

 でもこれでいいのだ。工場から開放された猫たちはこの先もっと気ままに生きていくことができる。ベルトコンベアから流れてくるエサを食べれなくても、それが猫にとっては自然なこと。人間の作った環境になんてこのまま戻ってこないのが一番いい。

 がた。

 背後で物音がしたので振り返ってみると、あずきが階段を上がってきていた。

「なに一人でたそがれちゃって~」

「べつに、涼んでただけさ」

 あずきはオレの横に腰掛けると、同じように夕方の風景に目を細める。

「いい景色じゃないの~」

「すこし寂しい感じだけどな」

「それはきっと、ここがやっぱり廃工場だからね~。今まで猫がいたから気がつかなかったけれど、うち棄てられた場所ってことに変わりはないってことだわ~」

「じゃああずきは、ここを建設会社が買収したことには賛成なのか?」

「賛成かどうかは別としても、当然の流れではあるでしょう~。猫が占拠していたことだけじゃなくて、こんな土地がほったらかしにされていること自体がおかしかったのよ~。古いものを大切に思うのは人間の心理として当然だけど、新しいものへと移っていくのは世の中の真理として当然だから~、新しい持ち主が決まることも歓迎すべきでしょう~」

「そうか。なら、あとはこのまま猫たちが帰ってこなければ万事解決なワケだ」

「そういうことになるわね~」

 あずきは携帯電話を取り出して時間を確認する。

「もうすぐ六時になるわ~。一度追い出しただけではすぐに戻ってきてしまうと思っていたけれど、意外と効果があったみたいね~」

「よっぽどあの煙がイヤだったみたいだな」

「それは最中君も同じでしょう~」

 くすくすと笑うあずきだが、あれは笑いごとではない。人間ですら近づきたくない臭いなのだから猫ならなおさらだろう。

「でもそうだ、工場内にはまだしばらく松脂の臭いが残るし、わりと楽観視してもいいのかもな。それに明日になれば九鬼建設会社が本格的にここを使い出すんだろうから、猫たちもさらに戻りづらくなるだろ」

「そうね~。明日までに戻ってこなければもう大丈夫って言っていいかも知れないわ~。今日はとりあえず日が暮れるまで様子を見ましょうか~。それで明日の朝もう一度確認して問題なければ、解散って流れになるのかしらね~。その後は九鬼建設会社に任せてしまってもいいんじゃないかしら、きっと猫を寄せ付けないようにするだけで処分したりはしないはずだし~」

 百匹の猫を処分するのはかなりの手間がかかる。敷地の周辺にちょっと松脂の臭いをつけておいてそれで猫が近づいてこなくなるのなら、わざわざ捕まえて処分する必要なんてどこにもない。あずきの言うとおり、明日の朝までに戻ってこなければそれ以降は九鬼建設会社がなんとでもするだろう。明日の朝に確認すれば――、

「……ってことはなにか、今晩も家に泊まるつもりなのか?」

「当然でしょう~。今日の晩御飯はなにかしらね~」

「カレーの残りに決まってるだろ」

「え~っ、いくら一晩置いたカレーが美味しいからって二日連続は辛いわよ~。今晩はあっさりとした麺類が食べたいわ~」

「お前、自分は作らないくせに……」

 徐々にその輝きを失っていく夕日。夕飯のコトはあれが地平線の奥へと沈んでいってからの話だが……。



 なにを話し合うわけでもなくぼけっと景色を眺めたまま、いつのまにやら屋上から見える空は夕方から夜へと移っていく。

 しかし七時前、突然現れたまっ黒な積乱雲が空を覆い始めた。

 分厚い雲がわずかな光も遮って辺りは一気に暗くなり、遠くから聞こえてきたゴロゴロという低い唸りはあっという間に近づいてきた。

「……これは凄い夕立がきそうね~」

 気温が下がり肌寒くなってきた屋上で、あずきは顔をしかめて立ち上がった。今にも降り出しそうな雨雲を見上げ手のひらを空に向ける。

「家に帰ってる時間はなさそうだな。夕立ならすぐに止むだろうし、工場の中で雨宿りしてやり過ごしたほうがいいだろ」

「私もそう思うわ~」

「なんか、やっぱり猫たちに申し訳ないことした気になるな……。いままでは雨が降っても屋根があったのにさ」

「屋根の下に住んでいる猫のほうが少数派よ~。それに、猫たちだってバカじゃないんだから雨宿りの場所くらいすぐに見つけるわ~」

「そう、だよな」

 そんなことを言っている間にぽつぽつと雨音が聞こえてくる。水滴が乾いた白いセメントに跡を残し、それからあっという間に土砂降りの雨へと変わる。

 すかさずあずきは中へと続く階段へと向かい、オレもそれに続こうとしてしかし立ち止まった。

「……? どうしたよ、最中君、濡れるわよ~?」

「いや、いま何か聞こえた気がして……」

 大粒の雨が屋上を叩いては弾ける音、あっという間に溢れた水が流れる音。その中に紛れてなにかが聞こえる。ざあざあと痛いくらいの雨に打たれながら、誘われるように屋上の縁へと移動した。

「な、なぁ、聞こえないか?」

「なにがよ~。雨音しか聞こえないけど~?」

 階段下の安全地帯に退避したあずきも耳を済ませるが、おそらくそこからは聞こえない。その音は……、いや、その声は、工場の外から聞こえてくるのだから。

 そして今はっきりと、その正体が見えた。

「おいおい……、嘘だろ」

 砂利道を挟んで工場の向かいにある草むらが動いたかと思うと、そこから一匹の黒猫が飛び出してきた。雨に濡れた全身の毛を体に張り付かせながら、一直線に走っていくのは工場の敷地。わき目も振らず全力疾走し、あっという間に開いたシャッターから工場の中へと入ってしまった。

 聞こえてくる猫の鳴き声は一段と大きくなり、見ればそこかしこからずぶぬれの猫たちが姿を現す。そのどれもが一目散に工場の中へと飛び込んでいく。

「一体どうしたのよ~って、あ~」

 雨に濡れながら隣にやって来たあずきもその光景を目の当たりにし、思わず声を上げた。

 松脂の煙を使って追い出した猫、おそらくそのすべてが工場へと戻ってくる。臭いを嫌って出て行った猫たちだがそれ以上に雨に濡れるのは嫌だったようで、最高の雨宿りポイント目指して次々に駆け込んでくる。

「………………」

 その光景をしばらく呆然と見下ろすこと三分、工場の中はあっという間にもとの騒々しさを取り戻してしまった。

「これは、どうすりゃいいんだ……」

「……明日以降も最中君家にお邪魔することになるかもしれないわね~」


 雨音と猫の鳴き声が騒々しい柏製作工場の給湯室で、四人は今の空よりどんよりした顔を浮かべる。

「よもやこんな簡単に戻ってくるとはな……」

「みんな臭いって文句言ってるけど、でも外に出る気はないみたい」

 給湯室の扉を開けばそこには普段にも増して密度の高い猫空間が広がっている。いつもなら建物の外にもいる猫たちだが、今は雨を嫌って全ての猫が中に集まってしまっているからだ。

「まぁ、一回で効果があるとは思っていなかったけど~、これはさすがに精神的ダメージ大きいわね~」

「参ったなこれは。煙でいぶり出しても雨が降ったらすぐに戻ってくるし、なんども繰り返して徐々に離れさせようにもタイムリミットはもう明日だぞ……」

 八月一日になれば九鬼建設会社がこの敷地の所有権を持ち、オレ達が中に入ることも許されなくなる。ましてや七輪を持って煙をばら撒くようなことをすれば一生立ち入り禁止になること間違いなしだ。

「夕立が止んだ後にもう一度やってもいいけど~、あまり持続性がないのは証明されてしまったし~……」

 今晩もう一度いぶり出しても恐らく明日の朝になれば、……少なくとも次に雨が降るときには全てふりだしに戻ってしまうだろう。

 全員の間で脱力感が伝播し、暗い給湯室がさらに重い空気に包まれる。しかし今は他の方法も思いつかないし、一時的とはいえ効果があることが分かったのだ。ここでやめては意味がない。

「……やり続けるしかないだろ。とりあえず今晩もう一度やろう。いつまで持つかは分からないけど、明日になって建設会社のやつらが来るときに猫たちがここにいなければとりあえずやり過ごせる。そしてまた隙を見て繰り返していくしかない」

「そ、そうだね。ようするに会社の人たちに見つからなかったらいいんだもんね」

「うむ、なんなら松脂よりも効果的な煙の調合を考えてもいい」

 桜と和三がそろって賛同する中、しかしリーダーのあずきだけは首を縦には振らなかった。

「あずき、なにか問題でもあるのか?」

「いいえ~、今後もやり続けることに関しては反対する理由なんてどこにもないわ~」

 ただ、とあずきは現時刻を確認してかぶりを振る。

「今晩はもうダメよ~。柏さんに迷惑が掛かりすぎるわ~」

「あ……」

 そうか、忘れていた。柏さんはこのすぐ隣に住んでいるのだ。今日の煙も相当な量が隣へと流れ込んでいるはず。夏なのだから今夜も当然窓も開けているだろうし、夜にやるのはあまりにも迷惑だ。

「そうか……。でも、ならどうする?」

 するとあずきはしばらく考えるそぶりを見せ、それから今日はもう帰ろうと言い出した。

「明日になっても土地の所有権が移るだけ、すぐに猫たちが処分されるとは限らないわ~。きっとそんなにせっかちじゃないわよ~」

「……いいのかよ、そんな適当なことで」

「………………」

「なぁ、あずき」

「……しょうがないじゃない、今晩はもう打つ手がないわ~」

「それは……」

 あずきの言うことに根拠はない。しかし、ほかにどうしようもないというのもまた事実だ。最終期限は明日じゃない、今はそう願うことしかできない。

「雨が止んだら帰りましょう~、明日また……、いいえ、明日はもっといい成果を上げればいいだけの話よ~」

 そう言う本人が一番納得していないのは誰が見ても明らかだった。だからこそ、その言葉にみんな黙って頷くことにした。



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