布石的な序章
特に問題はないと思いますが、いちおう縦書きを想定して書いてます。
ネコミミ、ふさふさのシッポ、ピンクの肉球。なにかをねだるように体をそっとすり寄せてくる。狂おしいほど大きな瞳をゆっくり開き、じっとこちらを見つめてくる。その目に魅入られて動けなくなることしばし、そいつは実に可愛らしい小さな口をそっと開くとまるでキスでもするかのような妖艶さでもって、……オレの腕を思いっきり噛んだ。
「――うわあっ!」
朝、そんな夢で布団から跳ね起きた。
しゃこしゃこと歯を磨く。
せっかくの夏休みなのだからもう少し寝ていてもよかったのだが、夢のせいでしゃっきり目が覚めてしまった。しかし、いったいどんな理屈であんな夢を見たのだろうか。あれが可愛いネコ耳少女とかだったのなら単に自分の性癖を疑えばいいところだが、夢に出てきたのはごく普通に猫。三毛猫だったからメスではあるのだろうけれど、自身の欲求不満というよりはなにか別のものを暗示しているような夢には首を捻る。まぁ、きっと三十分後には綺麗さっぱり忘れているに違いないが。
今日一日の暑さを予感させる朝の空気を感じながら鏡に向かい、すでに鳴き始めているセミの声を頭の片隅で聞きながら、さて今日は何をしようかと考えてみる。
↓
古びたホースを蛇口へと挿し込み、目一杯まで水を出したら玄関先へと戻る。
ホースの先をきゅっと握ると水道水はアーチを描き、夏の太陽にあぶられたアスファルトを冷やすべくばしゃばしゃと音をたてた。
これは実に絵になる光景ではないか。
夏の日差しの下、緑豊かな山を背景に、昭和な感じが漂う木造家屋の玄関先で、うちわ片手に水をまく。ほら、言葉にすればなんとのどかな情景か。
「…………言葉だけなら、な」
思わず漏れる自嘲的なため息。だばだばと水溜りを作っていくカルキ臭い水道水。正直に現実を見れば、無気力な男がヒマをもてあまして呆然とホースを握っているだけである。
そもそも、現時刻はまだ午前十時そこそこ。水撒きなんかしたところで太陽の見せ場はこれからなのだから意味なんかあるはずもなく、ちょっと経てばすぐにカラカラメラメラジリジリになるのは目に見えている。じゃあどうしてこんなご近所さんしか通らないような道路に水をぶちまけているのかというと、やっぱり意味なんかあるはずもない。
運動系の部活に所属している者からすれば、高校二年の夏休みといえば三年間でもっとも燃えるであろう時期。美しい汗水を流して仲間との友情を深め合ったりするようなそんな季節。もちろんオレだってそう思っていたがしかし、我が合気道部はまさかの顧問不在につき当分のあいだ練習は見送り。予定がすべて白紙撤回されたせいでここ数日は実に自堕落な生活を送るはめになっている。
意味もなく大掃除、意味もなく部屋の模様替え、意味もなく凝った料理、エトセトラエトセトラ……。この状況は今朝になっても好転することはなく、だから暇つぶしに窮してでもいない限り、こんな水撒きなんかしないのである。
と次の瞬間、人間のものとは思えない悲鳴がすぐ足元から聞こえてくる。というか、人間の悲鳴ではなかった。
「ふぎにゃあっ!」
「うおっ!?」
ナニゴトかと慌てて下を向くと、全身ずぶぬれの黒猫が一目散に逃げていく。どうやらいつの間にか近寄ってきていたあの猫に気付かず、ホースの水を思いっきりかけてしまったらしかった。申し訳ないことをしたが、そんな謝罪をする前に黒猫は民家の庭へと姿を消してしまい、滴った水の後だけが路上に残される。
ここらはいわゆる閑静な住宅街であるから猫を飼っているお宅も少なくないし、野良猫だって普通に見かけるような通りだ。だから黒猫自体は珍しくもなんともないのだが……。
「あの夢の次はこれか……」
今日は猫に縁がある日なのだろうか。
「はぁ、……もういいや」
水撒きなんてものはそもそも時間を稼げる作業ではなく、ホースの稼動範囲を水溜りだらけにしてしまえばそれでもう終わりになってしまう。もう水を排水溝へと流し込むだけの行為になってしまっているし、ここらへんが潮時といったところか。
次は一体なにをしようか、いよいよ夏休みの宿題ですら暇つぶしに使うレベルにまで達してしまうのだろうか。
夏休み初期に宿題を片付ける自分などという恐ろしい想像に顔を引きつらせながら、垂れ流しの水を止めるべく体の向きを変えて、またしても悲鳴が聞こえた。しかも今度は人間の、女の子の悲鳴だった。
「ひゃあっ!」
「え」
意表を突かれてしばし呆然、そしてすぐに現状把握。いつのまにか近づいてきていた通行人にホースの水を向けてしまったらしい。
「またかい!」
「ええっ!? えっと、そ、その……?」
思わず声に出してしまったオレと、理不尽なツッコミに慌てふためく通行人。
「いやいや、なんでもない。こっちの話だから。それよりごめん、水かかったか?」
「う、ううん、大丈夫……。驚いただけだから」
通行人は同い年くらいの女の子。ひらひらしたワンピースにちょっと踵の高いサンダル、髪は短めで頭には麦わら帽子。どこぞのお嬢様かと思うような雰囲気で、この片田舎には少し似合わないなと内心で呟いた。
この近辺では見かけない顔だけれど、もしや道でも迷ったのだろうかなんて考えていると、その女の子はとことことこちらに近づいてくる。
「あのー、えと、道を聞いてもいいかな?」
ビンゴらしい。
「道? どこ?」
「柏製作所工場、っていうところなんだけど」
「……?」
この近辺の地理なら大抵分かるはずだが、……かしわせいさくこうじょう? 聞いたことがない響きだ。
「ごめん、ちょっと分かんないかも……。本当にこのへん?」
「らしいんだけど……。なんでも数年前に閉鎖された工場で、今は廃墟になってるって……」
「廃墟……? あ、もしかして」
そういえば、昔なんとなく入った小道の先にボロい工場があったような気がしないでもない。ここらで他に工場らしい建物なんてないから、きっとそこのことを言っているんだろう。
「わかる?」
「柏制作工場かは知らないけど、廃工場ならたぶん。あそこに行きたいなら、そうだな。ここをまっすぐ行ったらちょっと大きめの道路に出るからそこを左にずっと行って、三つ目の信号をまた左。しばらく行くと、五……、いや六軒目の民家の先に小道があるから、そこに入ってあとはひたすら進めばある……、はず」
「へ、へぇー……」
目をぱちくりさせる女の子。そりゃそうだ。