「幼馴染が寂しがるから」と婚約者が言うので、幼馴染さんの分の席も用意しました。わたしの席は、王弟殿下の隣です
今作を11/3(火)10:20より毎日一話ずつ30話のお話として投稿を開始します。
初日はプロローグと第一話です。
よろしければ、ぜひお読みください。
短編ではご指摘いただきありがとうございました。
◆タイトル
「幼馴染が寂しがるから」と婚約者が言うので、幼馴染さんの分の席も用意しました。わたしの席は、王弟殿下の隣です ~名前の出ない席次係の伯爵令嬢は、今夜も王弟殿下の隣に座らされる~
劇場の桟敷席には、手すりのすぐ後ろに、椅子が二つ並んでいた。奥の壁ぎわの柱の陰に、補助椅子がもう一つ。
前の二つは、婚約者どうしが並んで座るための席だ。フレデリック様が右の椅子に座った。わたしが左の椅子に座ろうとすると、フレデリック様に止められた。
「エステル、悪いが後ろに回ってくれないか。カトリーナは背が低いから、前じゃないと舞台が見えないんだ」
後ろに回るというのは、柱の陰の補助椅子に一人で座るということだった。
「でも、わたしの席は……」
「カトリーナが寂しがるから。ひとりだけ離れたところに座らせるわけにはいかないだろう?」
ひとりだけ離れたところに座るのはわたしのほうだった。
そう言いかけて口を閉じた。カトリーナ様が困ったように眉を下げて、わたしを見上げていたからだ。
「ごめんなさいね、エステル様。フレディがどうしてもって」
「……いいえ。どうぞ」
わたしは補助椅子に腰を下ろした。目の前に、金色に塗られた太い柱があった。舞台は柱の右側から半分だけ見える。
幕が上がる。楽団が鳴る。前の二人がときどき顔を寄せてくすくす笑う。
わたしは膝の上で手袋の指をそろえながら、柱の金色の塗りが一か所だけ剥げているのを、ずっと見ていた。
婚約して二年になる。
二年のあいだ、わたしとフレデリック様が二人きりで出かけたことは、一度もなかった。
お茶会にも、遠乗りにも、春の花祭りにも、カトリーナ様がついてきた。理由はいつも同じだった。
カトリーナが寂しがるから。
カトリーナ様の家は、三年前に母君を亡くしている。お父君は領地に引きこもって、王都の屋敷には、ほとんど戻ってこない。だから、隣の屋敷で育ったフレデリック様が、兄のように気にかけてあげている。
それは立派なことだと思う。
思うのだけれど。
第二幕の途中で、舞台の上の恋人たちが抱き合った。客席のあちこちでため息が漏れた。わたしの位置からは、柱しか見えなかった。
わたしには、一つだけ、得意なことがある。
席次を決めることだ。
母方の叔母のベルモント夫人は、王妃様の女官長をしている。王宮で晩餐会や茶会が開かれるたびに、何十人、ときには何百人という招待客の座る場所を決めなければならない。
十五の年に、叔母の手伝いで名札を並べたのが始まりだった。
「エステル。この伯爵とこの子爵を隣にしたのはなぜ?」
「お二人とも、北の鉱山に出資なさっているからです。去年の冬、鉱山で落盤があって、どちらも同じくらい損をなさいました。話が合うと思います」
「では、その向かいに侯爵夫人を置いたのは?」
「侯爵夫人は、甘いものが苦手でいらっしゃいます。お隣の男爵夫人は、甘いものが大好きです。お菓子が出たら、きっと交換なさいます」
叔母はふん、と鼻を鳴らして、それから笑った。
「あなた、頭の中に貴族年鑑が入っているのね。よろしい、次からも手伝いなさい」
それから五年、王宮の大きな催しの席次は、ほとんどわたしが下書きをしている。十七の年からは、いちばん気をつかう主催の卓の席次も、任されるようになった。もちろん、表向きは叔母の仕事だ。わたしの名前はどこにも出ない。
それでいいと思っていた。
大きな卓の上に、名札を一枚ずつ置いていく。この人はこの人の隣。この人はこの人から遠く。ぴたりと収まったとき、胸の奥で小さな鈴が鳴る。
その鈴の音を聞けるのはわたしだけだ。
慈善晩餐会は、年に一度、春に開かれる。その夜のわたしは、開宴から閉宴まで、ずっと裏の控えの間にいる。
遅れて着いた客の卓の席を詰め直し、急に中座した客の空いた席を、残った人たちが気まずくならないように埋める。晩餐のあとに移る、菓子と舞踏の広間の席も割り振る。叔母は宴のあいだ王妃様の椅子の後ろに控えていて動けないから、控えの間の指図は、名前を出さないわたしの仕事だった。
去年の春の慈善晩餐会も、そうだった。
その年は、格の都合で、殿下の隣にある公爵が入っていた。叔母が王妃様と相談して決めた席で、わたしは口を出せなかった。ところが開宴の一時間前に、その公爵が急に来られなくなった。殿下の隣が一つ空く。向かいの夫人の席も動かさなければならない。わたしは、一昨年もその前の年もそうしたように、殿下の隣へガルシア将軍の札を戻すことにした。
わたしは名札の束を抱えて、控えの間の床に膝をついていた。
「……君が、これを?」
頭の上から、低い声がした。
顔を上げると、扉のところに、背の高い男の人が立っている。黒に近い紺の礼服。胸に、王家の紋章の入った銀の留め具。
王弟、アルベルト殿下だった。
慈善晩餐会の主催は、毎年、殿下がつとめている。わたしは慌てて立ち上がろうとして膝の上の名札をばらまいた。
「も、申し訳ございません」
「いや、いい。驚かせたのはこちらだ」
殿下は床にかがんで名札を拾い集めてくれた。それから、一枚を指でつまんで首をかしげた。
「今年も、ガルシア将軍が私の隣か」
「はい。あの……公爵様が、いらっしゃれなくなって。それで、元に戻しました」
「将軍は、食事中に一言も喋らない人だ」
「存じております」
わたしは名札を胸に抱えたまま言った。
「殿下は、晩餐会の前に、いつも挨拶回りでお疲れです。お食事のときくらい、静かにしていただきたいと思って、三年前から、この晩餐会では将軍のお隣にしてまいりました。将軍なら、殿下に話しかけません」
殿下はしばらく黙っていた。
それから、ふっと短く息を吐いた。笑ったのだと、少したってから気づいた。
「なるほど。ここ何年か、なぜか、この晩餐会の食事のときだけ楽だと思っていた」
殿下はそれだけ言って、名札をわたしの手に戻し、控えの間を出ていった。
あの日のことを、わたしは誰にも話していない。
フレデリック様にも、話していない。話しても、たぶん、聞いてもらえなかった。
「来月の慈善晩餐会のことなんだが」
フレデリック様がそう言ったのは、劇場の夜から十日ほどたった日の午後だった。
わたしの家の客間で、二人で向かい合ってお茶を飲んでいた。珍しく、カトリーナ様はいなかった。
珍しく二人きりだ。わたしは少しだけ浮かれていた。焼き菓子も、フレデリック様の好きな胡桃のものを、料理番に頼んで用意してもらった。
「今年は、カトリーナを連れていこうと思う」
焼き菓子に伸ばしかけた手が、止まった。
「……カトリーナ様を、ですか」
「ああ。あいつ、母君が亡くなってから、あの晩餐会には一度も出ていないんだ。母君が生きていたころは、毎年、母君と一緒に行っていたのに。今年は喪も明けたし、行きたいって言うんだよ」
「それはよろしいと思います。カトリーナ様のお父君にお願いして招待状を……」
「いや、そうじゃなくて」
フレデリック様は、紅茶のカップを置いて、わたしを見た。
「僕が、カトリーナの同伴者として行く」
慈善晩餐会では、婚約者のいる者は婚約者を同伴するのが決まりだ。けれど、婚約してからの二回、一昨年も去年も、わたしは女官長の手伝いとして王妃様のお許しをいただき、控えの間に残った。フレデリック様はご両親と並んで座り、その隣は詰められた。フレデリック様の隣に、わたしの名札が置かれたことは一度もない。
今年こそは、と思っていた。
叔母に頼んで、控えの間の指図を年かさの女官に引き継ぐ手はずを整えてもらった。今年は初めて、客として、フレデリック様の隣に座る。今日のお茶の席で、そう打ち明けるつもりだった。胡桃の焼き菓子は、そのために用意したのだ。
「では、わたしは」
「君は、今年も裏方だろう? 去年も一昨年も、ベルモント夫人の手伝いがあるって、僕の隣には来なかったじゃないか」
言ったことはある。
そして、そのとおりだった。二年、わたしはこの人の隣を空けてきた。だから今年こそ、と言うつもりだったのに、その言葉は、喉の手前で止まって出てこなかった。
「カトリーナが寂しがるから。ひとりで行かせるわけにはいかないだろう? 頼むよ、エステル。君はわかってくれると思っていた」
わかってくれると思っていた。
その言葉が胸の真ん中に、冷たく刺さった。
わかってきた。二年間ずっと。柱の陰の椅子に座って。遠乗りでは二人の馬の後ろをついていって。花祭りでは二人が花冠を選ぶあいだ、荷物を持って立っていた。
わかってきたから、こうなったのだ。
喉の奥が熱くなった。目の奥も熱くなった。ここで泣いたら、きっとフレデリック様は眉を下げて、ため息をつく。
わたしは膝の上でぎゅっと両手を握った。爪が手のひらに食いこんだ。
それから、ふと思った。
慈善晩餐会の席次を決めるのはわたしだ。
「……わかりました」
声はふるえなかった。自分でも驚いた。
「カトリーナ様の席も、わたしがご用意いたします。フレデリック様のお隣に」
「本当か! さすがエステルだ。助かるよ」
フレデリック様は、ほっとしたように笑って、胡桃の焼き菓子を一つつまんだ。
「うまいな、これ」
「料理番の自慢です」
わたしは紅茶をひと口飲んだ。少しぬるくなっていた。
その夜、わたしは衣装部屋の奥から、淡い青のドレスを出してきた。
二年前、婚約が決まったときに母が仕立ててくれたもの。フレデリック様の隣で慈善晩餐会に出る日のために、と。その日は、一度も来なかった。裾のレースを指でなぞると、去年の秋の夜会でつけてしまった小さな染みが、まだ残っていた。カトリーナ様がこぼした葡萄酒の染み。フレデリック様は、あのとき、カトリーナ様の袖ばかり拭いていた。
ドレスを胸に抱えて寝台の端に座った。
涙は出なかった。かわりに、喉の奥から、変な笑いがこみあげてきた。
「……わたし、何をしているのかしら」
声に出してみると、少しだけ楽になった。
二年間、譲ってきた。柱の陰の椅子も、花冠も、遠乗りの先頭も。譲るたびに、いつか振り向いてもらえると思っていた。振り向いてもらえなかったのは、わたしが黙って譲ったからだ。黙っている人の気持ちは、誰にも見えない。
それに、わたしのほうも、晩餐会のたびに、あの人の隣を空けてきた。後回しにしてきたのは、たぶん、お互いさまだ。そう思うと、胸の奥が少しだけ、苦くなった。
だったら、見えるようにすればいい。
大声で泣くのでも、怒鳴るのでもなく。わたしにしかできないやり方で。
わたしはドレスを衣装掛けに戻した。それから、染みの上に、明日、侍女に頼んで新しいレースを縫いつけてもらおうと決めた。
「……エステル。これはどういうつもり?」
叔母のベルモント夫人は、大きな卓の上の席次表を見下ろして眉をひそめた。
王宮の奥の、女官たちが使う作業部屋だった。卓の上には、晩餐会の大広間の見取り図が広げてある。長い卓が五列。その上に、二百枚近い名札が並んでいる。
叔母の指が一枚の名札の上で止まった。
ヘイスティングス侯爵家の席の並び。侯爵ご夫妻、その隣に嫡男のフレデリック様。そして、フレデリック様の隣、去年も一昨年も詰められていた、婚約者の席に。
カトリーナ・ゴドウィン嬢。
「フレデリック様のご希望です」
「ご希望」
「カトリーナ様が寂しがるから、ご自分が同伴者として行く、と。わたしはそのとおりに席をご用意しただけです」
叔母は名札とわたしの顔を交互に見た。
「侯爵ご夫妻は、ご存じなの?」
「存じあげません。フレデリック様が、お話しになっていると思います」
「話しているわけがないでしょう」
叔母はぴしゃりと言った。それから、大きく息を吐いて、眼鏡を外した。
「あなた、怒っているのね」
わたしは答えなかった。
怒っている、のだろうか。
自分でも、よくわからなかった。胸の中にあるのは熱いものではなかった。むしろ、ひどく静かだった。冬の朝、池に張った氷の上に立っているような静けさだった。
「……叔母様。わたし、二年間、頼まれたことは全部してきました」
「知っていますよ」
「今度も、頼まれたとおりにしました。少しも違えていません」
叔母は眼鏡をかけ直した。何か言おうとして口を開いた。
そのとき、作業部屋の扉が叩かれた。
「失礼。ベルモント夫人、今年の席次を見せてもらえるだろうか」
入ってきたのはアルベルト殿下だった。
叔母がさっと膝を折った。わたしも、慌ててそれにならった。
「殿下。わざわざお越しいただかなくても、こちらからお持ちしましたのに」
「いや、いい。ついでがあった」
殿下は卓のそばまで来て見取り図を見下ろした。主催の席。殿下の名札の隣には、今年もガルシア将軍の名札が置いてある。殿下の指がその上を軽くなぞった。
それから、見取り図の上を、端から端まで、ゆっくりと目で追っていく。
ヘイスティングス侯爵家の並びのところで目が止まった。
「……ゴドウィン嬢?」
殿下は顔を上げてわたしを見た。
「モンテール嬢。君の名札がどこにもないようだが」
どきりとした。
殿下がわたしの名前を覚えている。去年の春、控えの間で一度だけ話した、名前も名乗らなかったはずの、わたしの名前を。
「わたしは……裏方ですから」
「裏方」
「開宴してからも、控えの間におります。急に来られなくなる方がいたら、すぐ席を動かせますし」
殿下はまた黙った。
それから、主催の席の、自分の名札の左隣を、とん、と指で叩いた。そこは空いている。毎年、王妃様のお身内が座る席で、今年はまだ誰も決まっていなかった。
「では、ここに」
「……え?」
「主催の隣は、その夜いちばん働いた者の席だ。私はずっとそう思ってきた。今年からはそうする」
叔母が隣で小さく咳払いをした。わたしは名札の束を持ったまま、立ちつくした。
「殿下、それは……わたしは、ただの伯爵家の娘で」
「三年前から、私はこの晩餐会で、ゆっくりと食事ができるようになった。去年の春、控えの間で君を見つけて、ようやくわけが分かった」
殿下の声は低く、静かだった。
「調べたら、君の言ったとおりだった。三年前から、私の隣を決めていたのは、ずっと君だった。礼を言う機会を、ずっと探していた」
卓の上の二百枚の名札が、ぼやけて見えた。
誰にも見えないはずだった。叔母の名前で出される席次表の、その下にある、わたしの小さな鈴の音。
聞いていた人がいた。
「……ありがとうございます」
声がかすれた。殿下は何も言わず、まっさらな名札を一枚、卓の上から取ってわたしに差し出した。
「自分の名前は、自分で書くといい」
ペンを持つ手が少しふるえた。
エステル・モンテール。
五年間、何千枚も名札を書いてきた。自分の名前を書いたのは初めてだった。わたしの名札は、これまで一度も、どの卓にも置かれたことがなかったから。
慈善晩餐会の夜、大広間には、百を超える燭台が灯された。
天井から下がる大きな飾り燭台の光が、卓の上の銀器と硝子の杯に跳ね返って、広間じゅうがきらきらしている。
わたしは開宴の直前まで控えの間にいた。
今年は誰も欠けなかった。名札を一枚も動かさずにすんだ。宴のあいだの指図を年かさの女官に引き継いでから、叔母に手伝ってもらってドレスの皺を直した。
淡い青の絹のドレスだった。二年前、婚約が決まったときに母が仕立ててくれたもの。フレデリック様の隣に座るために用意して、一度も、晩餐会で袖を通せなかったドレス。
「顎を上げなさい、エステル」
叔母がわたしの襟元のレースを整えながら言った。
「今夜のあなたは、裏方ではありませんよ」
大広間に入ると、ざわめきが、ほんの少しだけ小さくなった気がした。
主催の卓は広間のいちばん奥、一段高いところにある。そこへ向かって長い卓のあいだを歩いた。
途中で、ヘイスティングス侯爵家の席の横を通った。
フレデリック様は、もう座っている。隣には、桃色のドレスのカトリーナ様。二人の前に置かれた名札は、わたしが書いたものだ。
フレデリック・ヘイスティングス様。
ご同伴、カトリーナ・ゴドウィン様。
その隣で、侯爵ご夫妻が、身じろぎもせずに座っていた。
ご夫妻は、今夜、息子が誰を連れてくるのか、何も聞かされていなかったのだろう。
侯爵夫人が扇の陰で何かを鋭く囁いた。フレデリック様が、何か言い返した。まわりの卓の人たちが、ちらちらとそちらを見ている。
婚約者のいる嫡男が、婚約者ではない令嬢を、同伴者として連れてくる。慈善晩餐会の長い歴史の中でも、たぶん、初めてのことだった。
フレデリック様が、ふと顔を上げた。
わたしと、目が合った。
フレデリック様は、ぽかんと口を開けた。それから、わたしが向かう先、主催の卓のほうを見てもう一度わたしを見た。
わたしは軽く膝を折って会釈をした。そして、そのまま歩いていく。
主催の卓の前で、アルベルト殿下が立ち上がった。
殿下はわたしの名札の置かれた椅子を、自分の手で引いてくださった。
広間のざわめきが、今度ははっきりと大きくなった。
「……殿下、皆様が見ています」
「見せておけばいい」
殿下は椅子を押しながら、わたしの耳もとで低く言った。
「今夜の席次がどれほど見事か、皆に見てもらう。私の隣に、誰が座っているのかも」
頬がかっと熱くなった。
殿下の右隣ではガルシア将軍が、白い髭の下で、もぐもぐと前菜を食べている。将軍はわたしを見てほんのわずかに顎を引いた。それが挨拶なのだと、少しあとで気づいた。
料理はとてもおいしかった。
五年間、この晩餐会の料理を、温かいうちに食べたことがなかった。いつも控えの間で、裏方に下げられてくる冷めた残り物を、名札の束を片手に、立ったままつまんでいた。皿の上で白く固まった脂の味しか、わたしは知らなかった。温かいうちに食べる王宮の料理が、こんなに柔らかくて、こんなにいい匂いがするのを、わたしは初めて知った。
「鴨は好きか」
「はい。……いえ、わかりません。初めて温かいのをいただきました」
殿下は手を止めてわたしを見た。
それから、自分の皿の鴨を一切れ、黙ってわたしの皿に移した。
「殿下、それは……」
「将軍の真似だ。三年前、将軍が私に同じことをした。あれで、この人は信用できると思った」
将軍が向こう側で、ふん、と鼻を鳴らした。
わたしは思わず噴き出しそうになって、慌てて口元をナプキンで押さえた。
「笑っていい」
殿下が前を向いたまま言った。
「今夜の君は、笑っていい席にいる」
ナプキンの陰でわたしは小さく笑った。笑い声が銀器の触れ合う音にまぎれて消えた。胸の奥がじんわりと温かくなった。こんなふうに、誰かの隣で笑ったのはいつ以来だろう。
ふと、広間の向こうに目をやった。ヘイスティングス侯爵家の卓で、フレデリック様が、皿に手もつけずに、こちらを見ている。カトリーナ様はうつむいて、杯の脚をいじっていた。
わたしは目をそらさなかった。そらさずに、鴨をひと口、ゆっくりと食べた。
晩餐が終わって、人々が隣の広間へ移っていくころ、フレデリック様に呼び止められた。
回廊の柱の陰だった。燭台の明かりが届かなくて、フレデリック様の顔が半分だけ暗く見える。
「エステル。どういうつもりだ」
声が低くうなるようだった。こんなフレデリック様を見るのは初めてだった。
「どういうつもり、とは」
「とぼけるな! あの席次は君が作ったんだろう。カトリーナを僕の婚約者みたいに座らせて。名札にまで、ご同伴、なんて書いて。おまけに君は、王弟殿下の隣だ。父上も母上も、皆の前で恥をかいたんだぞ」
「カトリーナ様の席をご用意してほしいと、おっしゃったのはフレデリック様です」
「皆の前で、あんなふうに見せびらかせとは言っていない!」
「お隣にご用意いたします、と申しあげたら、助かるとおっしゃいました。同伴者のお席はお隣です。去年も一昨年も、空けておかれたお席です」
フレデリック様は、言葉に詰まった。
口を何度か開けたり閉じたりして、それから、ぐっと顎を引いた。
「……君は、王弟殿下の隣にいたな。いつからだ。いつから、殿下とそういう……」
「そういう、とは何でしょう」
わたしはまっすぐにフレデリック様を見た。
胸の奥の、凍った池の上に、ひびが入る音がした。
「二年間、わたしはフレデリック様の後ろにいました。柱の陰の椅子にも座りました。花祭りではお二人の荷物を持っていました。カトリーナ様が寂しがるから、とおっしゃるたびに、わたしは黙って譲りました」
声が少しずつ大きくなった。止められなかった。
「でも、わたしが寂しいかどうかは、一度も、訊いてくださいませんでした」
フレデリック様の目が大きく見開かれた。
「……君だって、訊かなかっただろう」
しばらくして、フレデリック様が低い声で言った。
「二年、晩餐会のたびに、僕の隣は空いていた。婚約者に置いていかれる男だって、仲間にずっと笑われていた。君は一度でも、それを訊いたか」
胸の奥で、何かがぐらりと傾いた。
言い返そうとして、言葉が出てこなかった。そのとおりだったからだ。わたしは名札を並べるのに忙しくて、この人の隣の空いた椅子を、一度も、この人の側から見たことがなかった。
回廊の向こうから、こつこつと靴音が近づいてきた。桃色のドレスが柱の陰から現れた。
「フレディ。もうやめて」
カトリーナ様だった。
カトリーナ様はわたしの前に来て深く頭を下げた。
「エステル様、ごめんなさい。ずっと、謝らなきゃって思ってたの」
「カトリーナ様……」
「わたし、寂しいなんて一度も言ってないわ」
フレデリック様が、え、と小さく声を漏らした。
カトリーナ様は顔を上げてフレデリック様をにらんだ。目のふちが赤かった。
「最初の一回は、たしかにうれしかった。母さまが死んで家に誰もいなくて。でも、そのあとは、毎回フレディが勝手に迎えに来たのよ。エステル様と二人だと間がもたないから、来てくれって」
「カトリーナ、それは……」
「劇場のときだって、わたし、後ろの席でいいって言ったわ。フレディがエステル様を後ろにやったのよ。わたしのせいにして」
カトリーナ様の声が回廊に響いた。
「わたし、来年、ベルナール子爵家の方と婚約するの。今夜だって、その方の前で、フレディの婚約者みたいに座らされて……どれだけ恥ずかしかったか」
フレデリック様の顔から、血の気が引いていった。
そのとき、回廊の奥から、重い声がした。
「フレデリック」
ヘイスティングス侯爵だった。侯爵夫人も一緒だった。二人とも、いつからそこにいたのか、わからなかった。
侯爵は息子の前に立って長いあいだ黙っている。
「……モンテール伯爵家には、私から詫びを入れる。婚約はこちらの非として解消する」
「父上、待ってください! 僕は……」
「おまえは、二年間、自分の婚約者を柱の陰に座らせていた。それを今夜、王都じゅうの者が知った。弁解の余地があると思うか」
侯爵はわたしに向き直って深々と頭を下げた。
「モンテール嬢。愚かな息子が申し訳ないことをした」
侯爵夫人も、扇を閉じて頭を下げた。
フレデリック様は、柱に背をつけたまま、ずるずると床に座りこんだ。
わたしはその姿を見下ろした。
胸の中で、凍った池が、すうっと溶けていく。でも、思っていたほど、気持ちは晴れなかった。ただ、ひどく疲れている。
「……失礼いたします」
それだけ言ってわたしは回廊を歩き出した。
夜の露台はひんやりとしていた。
大広間の楽団の音が、扉越しに、くぐもって聞こえてくる。手すりの向こうに、王都の屋根が月の光を浴びて、どこまでも青く広がっていた。
わたしは手すりに両手をついて、大きく息を吐いた。
終わった。二年間がたった一晩で。
涙がぽろりとこぼれた。悲しいのかどうか、自分でもわからなかった。ただ、目から勝手に水が出て止まらなかった。
「……ここにいたか」
背中から、声がした。
振り向くと、アルベルト殿下が、露台の扉のところに立っている。手に、硝子の杯を二つ持っていた。
「殿下……申し訳ありません、こんな」
慌てて目元をぬぐおうとした手を、殿下がそっと押さえた。
「拭かなくていい。誰も見ていない」
殿下は杯の一つをわたしに渡した。冷たい葡萄の果汁だった。お酒ではなかった。
「回廊のことは、聞いた。……すまない。私があの席を勧めたせいで、つらい思いをさせた」
「いいえ」
わたしは杯を両手で包んだまま、首を振った。
「殿下が勧めてくださらなかったら、わたし、今夜も控えの間にいました。冷めたお料理を食べて、回廊でフレデリック様に叱られて謝っていたと思います」
言いながら、また涙が出た。でも、今度の涙は、少しだけ温かかった。
「わたし、五年間、自分の名札を書いたことがありませんでした。誰かの隣に座るのは、いつも、誰かが座ったあとの余った席だと思っていました」
殿下は黙って聞いていた。
月の光が殿下の横顔を、銀色に縁取っている。
「モンテール嬢」
「はい」
「私も、余った席に座ってきた」
意外な言葉だった。わたしは顔を上げた。
「王弟というのはそういうものだ。兄の隣でも、兄の子の隣でもない。どの晩餐会でも、いちばん扱いに困る札だ。叔母上たちは毎年、私をどこに置くかで頭を抱えていた」
殿下は杯の中の果汁を、少しだけ揺らした。
「三年前から、それがなくなった。私の隣には、いつも、ちょうどいい人が座っていた。疲れた夜には将軍が。退屈な夜には、話の面白い老学者が。誰が決めているのか、気になって仕方がなかった」
殿下がわたしのほうへ、体を向けた。
「去年の春、控えの間の床に膝をついて、名札をばらまいている君を見つけた。ああ、この人だったのか、と思った」
心臓がどくん、と大きく鳴った。
「それから一年、ずっと考えていた。どうすれば、あの人を私の隣に座らせられるか」
「……殿下」
「婚約者がいると知っていた。だから、何も言わなかった。今夜も、席を勧めただけで、それ以上のことをするつもりはなかった」
殿下は少しだけ言葉を切った。それから、手すりに置いていたわたしの手の上に、自分の手を重ねた。
大きな手だった。指先が少し冷たかった。
「だが、もう婚約者はいないのだろう?」
顔が耳まで熱くなった。
殿下の手の下で、わたしの指がぴくりと跳ねた。逃げようとしたのではなかった。どうしていいかわからなくて指が勝手に動いたのだ。
殿下はわたしの指をそっと握り直した。
「急がない。君が泣き終わるまでここで待つ。明日も、来月も、君が名札を書く卓の横で待つ」
「そ、そんなに待っていただかなくても……」
「待たせてくれ。私は待つのは得意だ。一年、待った」
わたしは笑ってしまった。泣きながら、笑った。
殿下も、短く息を吐いた。今度はすぐに笑ったのだとわかった。
春が来て、王宮の作業部屋の窓辺に、白い花が咲いた。
卓の上には、見取り図が広げてある。今度の晩餐会はいつもより小さい。招待客は六十人ほど。
王弟アルベルト殿下と、モンテール伯爵家の長女エステルの、婚約を祝う晩餐会だった。
「主役の席次まで自分で決める花嫁なんて聞いたことがありませんよ」
叔母が呆れたように言いながら、紅茶を淹れてくれた。
「ほかの人に任せたら、気になって眠れません」
「知っていますよ」
叔母は笑って、わたしの肩を軽く叩いて、部屋を出ていった。
わたしは名札を一枚ずつ置いていく。
ガルシア将軍は殿下の右隣。カトリーナ様は婚約者のベルナール子爵令息と並べて窓際の明るい席に。ヘイスティングス侯爵ご夫妻は、招待しなかった。そのかわりに、侯爵から届いたお祝いの手紙は、礼を尽くした返事を書いて送った。
フレデリック様は、春から南の領地へ移ったと聞いた。
最後に、主賓の卓の真ん中に、二枚の名札が残った。
一枚は殿下の名札。もう一枚はわたしの名札。
わたしは殿下の名札を置いて、それから、自分の名札を手に取った。
「迷っているのか」
扉のほうから、声がした。殿下がいつのまにか戸口にもたれてこちらを見ている。
「……いいえ。少し、うれしくて」
「うれしい?」
「自分の名札を、誰かの隣に置くのは二回目です。一回目は殿下が置かせてくださいました。今度は自分で置きます」
殿下は戸口から離れて卓のそばまで来た。
それから、わたしの手の中の名札を、上から包むように手を重ねた。
「では、一緒に置こう」
二人の手で、名札を、殿下の名札の隣に置いた。
とん、と、小さな音がした。
胸の奥で鈴が鳴った。今まででいちばん、澄んだ音だった。
(完)
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「君は飾りでいい」と婚約者が言うので、飾りらしく黙っていたら、隣国の大使の通訳ができるのがわたしだけでした
十年の戦を終わらせる調印式で、国璽の獅子の左耳が白くないと気づいたのは「余計な口をきくな」と言われたわたしだけでした
「おまえは地味だから、夜会は妹に行かせる」と父が言うので、妹のドレスの直しを全部引き受けたら、仕立てを見た公爵閣下に工房ごと引き抜かれました




