この恋は、まっさらだった
私は、人の恋にまつわる記憶の匂いが分かる。
好きだった人を思い出すと、シャボン玉の匂い。
憧れは、きらきらした晴れた日向の匂い。
忘れられない恋は、少し焦げた砂糖の匂い。
でも――
嘘だけは、はっきり臭う。
腐ったものみたいに。
鼻の奥にこびりつく、不快な臭いで。
◇
「ずっと好きでした。付き合ってください」
大学に入って三度目の告白。
目の前の男子から漂ってきたのは、強烈な悪臭だった。
生ゴミと、濡れた雑巾を混ぜたような匂い。
(ああ、まただ)
私は内心でため息をつく。
この人は私が好きなんじゃない。
彼女が欲しいだけ。
断られても次に行ける程度の気持ち。
「ごめんなさい」
そう言うと、彼は露骨に不満そうな顔をした。
――匂いは消えないまま。
やっぱり。
◇
こんなことが何度もあった。
優しそうな人でも。
真面目そうな人でも。
人気者でも。
告白の言葉が本気じゃないと、必ず臭う。
だから私は恋愛をしないことにした。
本気じゃない好意を受け取るのも、
本気かどうか疑い続けるのも、
どちらも疲れるから。
◇
転機は、ゼミの飲み会の帰りだった。
「送ってくよ、白石」
声をかけてきたのは同じゼミの男子、橘。
橘は落ち着いていて、無口で、女子と距離が近すぎない人。
一緒にいて、あまり気を使わなくていい人だった。
「大丈夫、近いし」
「夜道だから」
強引でもなく、押しつけでもない。
ただ自然に隣を歩く。
そのとき、ふと気づいた。
――匂いがする。
甘くもない。
苦くもない。
懐かしくもない。
まっさらな本の匂い。
恋の記憶の匂いなのに、何も書かれていない。
まだ誰にも読まれていない、新しいページの匂い。
(なに、これ……)
「どうした?」
「え、いや……」
顔を上げると、橘は少しだけ照れたように笑った。
「俺さ」
ためらいがちに言う。
「恋愛したことないんだ」
胸がどくんと鳴った。
「……え?」
「好きって感覚が、よく分からなくて」
本の匂いが、かすかに揺れる。
ページをめくる前の、静かな緊張みたいに。
「だから普通に付き合うとか無理だと思ってた」
橘は苦笑した。
「でも白石といると、何か変わりそうな気がする」
その瞬間。
まっさらなページに、すっと染み込むように広がった。
――インクの匂い。
新しい文字を書き始めたときの、あの静かで少し鋭い匂い。
(……書かれてる)
まだ最初の一行。
でも確かに、何かが始まっている。
空白だった本に、初めて言葉が刻まれたみたいに。
「だからさ」
橘はまっすぐ私を見る。
「試してみない? 恋人」
私は息を止めた。
告白の言葉。
普通なら、あの嫌な臭いが来るはずなのに。
――しない。
まったく、しない。
代わりにあるのは、本とインクの匂いだけ。
(嘘じゃない……)
本気かどうかは分からない。
でも少なくとも、嘘ではない。
そんな告白、初めてだった。
「……いいよ」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
「私も、恋愛よく分からないし」
橘の目が大きくなる。
「本当に?」
「うん」
インクの匂いが、少し濃くなる。
まるで続きを書き足すように。
橘はほっとしたように息を吐いた。
「よかった」
その声は、信じられないくらい素直だった。
私は思う。
――この人の気持ちは、まだ恋じゃない。
でも嘘でもない。
空っぽでもない。
まっさらな本に、これから物語が書かれていく途中。
「ねえ」
「ん?」
「もし本当に好きになったら、ちゃんと言ってね」
「うん。約束する」
迷いのない声。
匂いはまだインクだけ。
でも、確かに温度がある。
夜風が吹いた。
その中で、私はふと考える。
嘘の告白は何度も嗅いできた。
本気の恋の匂いも、たくさん知っている。
なのに――
橘の恋だけは、最後までどうなるのか分からない。
何も書かれていないから。
どんな物語にもなるから。
もしかしたら、私だけが知らない恋になるのかもしれない。
そんな恋が、今、始まった。




