表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

この恋は、まっさらだった

作者: サク
掲載日:2026/03/10

 私は、人の恋にまつわる記憶の匂いが分かる。


 好きだった人を思い出すと、シャボン玉の匂い。

 憧れは、きらきらした晴れた日向の匂い。

 忘れられない恋は、少し焦げた砂糖の匂い。


 でも――


 嘘だけは、はっきり臭う。


 腐ったものみたいに。

 鼻の奥にこびりつく、不快な臭いで。


 ◇


「ずっと好きでした。付き合ってください」


 大学に入って三度目の告白。


 目の前の男子から漂ってきたのは、強烈な悪臭だった。

 生ゴミと、濡れた雑巾を混ぜたような匂い。


(ああ、まただ)


 私は内心でため息をつく。


 この人は私が好きなんじゃない。

 彼女が欲しいだけ。

 断られても次に行ける程度の気持ち。


「ごめんなさい」


 そう言うと、彼は露骨に不満そうな顔をした。

 ――匂いは消えないまま。


 やっぱり。


 ◇


 こんなことが何度もあった。


 優しそうな人でも。

 真面目そうな人でも。

 人気者でも。


 告白の言葉が本気じゃないと、必ず臭う。


 だから私は恋愛をしないことにした。


 本気じゃない好意を受け取るのも、

 本気かどうか疑い続けるのも、

 どちらも疲れるから。


 ◇


 転機は、ゼミの飲み会の帰りだった。


「送ってくよ、白石」


 声をかけてきたのは同じゼミの男子、橘。

 橘は落ち着いていて、無口で、女子と距離が近すぎない人。

 一緒にいて、あまり気を使わなくていい人だった。


「大丈夫、近いし」


「夜道だから」


 強引でもなく、押しつけでもない。

 ただ自然に隣を歩く。


 そのとき、ふと気づいた。


 ――匂いがする。


 甘くもない。

 苦くもない。

 懐かしくもない。


 まっさらな本の匂い。

 恋の記憶の匂いなのに、何も書かれていない。

 まだ誰にも読まれていない、新しいページの匂い。

(なに、これ……)


「どうした?」


「え、いや……」


 顔を上げると、橘は少しだけ照れたように笑った。


「俺さ」


 ためらいがちに言う。


「恋愛したことないんだ」


 胸がどくんと鳴った。


「……え?」


「好きって感覚が、よく分からなくて」


 本の匂いが、かすかに揺れる。

 ページをめくる前の、静かな緊張みたいに。


「だから普通に付き合うとか無理だと思ってた」


 橘は苦笑した。


「でも白石といると、何か変わりそうな気がする」


 その瞬間。


 まっさらなページに、すっと染み込むように広がった。


 ――インクの匂い。


 新しい文字を書き始めたときの、あの静かで少し鋭い匂い。


(……書かれてる)


 まだ最初の一行。

 でも確かに、何かが始まっている。


 空白だった本に、初めて言葉が刻まれたみたいに。


「だからさ」


 橘はまっすぐ私を見る。


「試してみない? 恋人」


 私は息を止めた。


 告白の言葉。


 普通なら、あの嫌な臭いが来るはずなのに。


 ――しない。


 まったく、しない。


 代わりにあるのは、本とインクの匂いだけ。


(嘘じゃない……)


 本気かどうかは分からない。

 でも少なくとも、嘘ではない。


 そんな告白、初めてだった。


「……いいよ」


 自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。


「私も、恋愛よく分からないし」


 橘の目が大きくなる。


「本当に?」


「うん」


 インクの匂いが、少し濃くなる。

 まるで続きを書き足すように。


 橘はほっとしたように息を吐いた。


「よかった」


 その声は、信じられないくらい素直だった。


 私は思う。


 ――この人の気持ちは、まだ恋じゃない。


 でも嘘でもない。

 空っぽでもない。


 まっさらな本に、これから物語が書かれていく途中。


「ねえ」


「ん?」


「もし本当に好きになったら、ちゃんと言ってね」


「うん。約束する」


 迷いのない声。


 匂いはまだインクだけ。

 でも、確かに温度がある。


 夜風が吹いた。


 その中で、私はふと考える。


 嘘の告白は何度も嗅いできた。

 本気の恋の匂いも、たくさん知っている。


 なのに――


 橘の恋だけは、最後までどうなるのか分からない。


 何も書かれていないから。

 どんな物語にもなるから。


 もしかしたら、私だけが知らない恋になるのかもしれない。


 そんな恋が、今、始まった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ