SPRINT 03:過去のトラウマを乗り越える
「これで何を回収するの?」
マリトは、コリーンから渡された黒いバッグを軽く上下に揺らしながら尋ねた。
見た目よりもずっしりと重たい。
「詳しいことは、外で話します」
「どこへ行くんだ?」
「二ブロック先のラーメン屋です」
「そんなところで大切な話をするのか?」
「はい。そんなところのほうが良いんです」
札幌の3月は、まだまだ寒い。
歩道はロードヒーティングのおかげで雪が解けているが、車道はまだ根雪が固まっている。
雪もちらついているが、帽子だけでなんとかなる程度で、フードまでは必要ない。
向かったのはラーメン屋は札幌によくある味噌ラーメンの店だ。
この店は評価が高く、休日には外国人観光客の行列ができることもあるが、今日は平日なのですぐに入ることができた。
店の入り口で、コートと帽子に付いた雪を軽く払い、奥へと進む。
そういえば、この会社に就職してから、コリーンと食事に行ったことはなかったな。
大学時代や前職では、ときどき一緒に外で食事をしたことはある。
ふたりで食事に行くと行っても、彼女との場合、ロマンチックな雰囲気になることは、まずない。
コリーンは最新のAI理論について、ひたすら話す。
マリトは、理論の細かい話にはたいして興味がないのだが、コリーンの説明がわかりやすいので、その場ではわかった気になる。
だが、家に帰る頃には、内容の大半は忘れている。
その日入ったラーメン屋は、20席ほどの小さな店で、ふたりはカウンターに席を取った。
カウンターの一番端には、店長の趣味なのか、客からのお土産なのか、アニメキャラのフィギュアがいくつか置いてある。
なかには、マリトも知っている最近のアニメに登場する服を着たウサギのキャラクターもある。
それほど混んでいなかったので、黒いバッグは隣の空いた席に置かせてもらった。
コリーンは、「話の前に注文をしましょう」と言った。
それぞれのラーメンと瓶ビールを、グラス二つと一緒に頼んだ。
◇
カウンターの奥にあるテレビでは、ニュース番組が流れていた。
「アンドロメダコンサルティング」が、新卒の就職人気企業ランキングから滑り落ちたという話題だ。
それに関連して、自殺者が出たというニュースである。
アナウンサーが解説者にコメントを求めている。
「『パワハラ動画事件』がありましたからね」
「ああいう印象がついてしまうと、学生は敬遠するんじゃないでしょうか」
アンドロメダコンサルティング――
マリトとコリーンの前職だ。
その社名を聞いただけで、今でも心拍数が上がり、息が詰まるような感覚になる。
「先輩、大丈夫ですか?」
「場所を変えましょうか?」
コリーンが心配そうに尋ねてくる。
「大丈夫。ちょっと驚いただけだよ」
「すぐ次のニュースになるよ」
出てきたビールをふたりのグラスに注ぎながら、マリトは答えた。
あの会社のパワハラは自分も、その犠牲者だった。そうマリトは思っている。
コンサル業界は、ハイレベルなクライアントに対して、それ以上の知見を提示することが求められる。
そのため、社内の資料品質のチェックは極めて厳しい。
組織文化が未成熟で、上位者の自制心が欠けていると、パワハラは簡単に蔓延する。
心を病んでしまう人も珍しくない。
一定の品質を出すために、資料の何度も作り直すのは、ある意味当たり前の話である。
しかし、その「品質」の定義が曖昧なのが、この仕事のつらいところでもある。
いきなり顧客に見せてNGを出されるのは致命的なので、その前に社内で徹底的にレビューすることになる。
だが、何が「正解」なのかはわからないなかで、顧客の期待を外してしまうリスクを避けるには、無限とも思える労力が要求される。
しかも、時間はいつも足りない。
レビューを受ける人への配慮の欠けた、無神経な上司がいるとストレスは容易に最大化する。
「いつまでかかってるんだ」
「何度言ったらわかるんだ」
「私がやるから君はもういい」
マリト自身も精神的に追い込まれてしまった。
あまり思い出したくない記憶だ。
だが、テレビのニュース番組が、その記憶を無理やり引きずり出してくる。
……自殺者が出た、だと?
引きこもってニュースを見なかった時期に、世の中ではそんなことがあったのか。
ニュースの内容から察するに、パワハラ言動の動画が、学生向けの会社紹介セミナーで誤って再生されたらしい。
しかも、その内容がSNSにまで拡散され炎上したというのだ。
そんなことが起こり得るのだろうか?
そんな動画があること自体おかしいし、それが外部に流れるなど、ありえないとしか思えない。
そして、自殺者の写真が画面に映し出された瞬間――
マリトの手が止まった。
口元まで持ってきていたビールのグラスが、宙で静止した。
『小堀汎昭(42歳)』とテロップが出ている。
心臓が止まりそうになった。
それは、かつての直属の自分の元上司で、マリトにパワハラを浴びせ続けた張本人だ。
頭の回転が速く、打たれ強いタイプの人だったのに、まさか自殺にまで追い込まれるとは。
「これは君が会社にいる頃に起きたんだっけ?」
「社内の反応はどうだったの?」
マリトは、かすれた声で尋ねた。
「私がやめてから数ヶ月後のことなので、社内でどんな騒ぎになったかは、よくわかりません」
「でも、これはちょっとやり過ぎですよね」
コリーンは手にしていたグラスのビールを飲み干した。
「アンドロメダは、皆の憧れの人気企業だからなあ……」
マリト自身、この会社に内定をもらったときには、とても得意な気持ちになったものだ。
嫉妬ややっかみが裏にあるニュースの報道が加熱するのは、いつものことだ。
このネタは、SNSでさぞかし炎上したことだろう。
マリトは残っていたビールを飲み干した。
コリーンが、じっとこちらの顔をのぞき込むんできた。
「…『自業自得だ』とかは思わないんですよね。先輩は」
「そうだな。人を追い込む感じはいやだったけど、指摘自体はおかしくはなかった」
「私は自分の作ったものが、最終的に成果物に入らず、結局何の役にも立たなかったことが、一番つらかったかな」
マリトは言った。
「そのあたりが、先輩のいいとこなんですけどね」
「でも、それで、部屋から出られんようになったんじゃないですか」
怒っている。彼女は表情には出ないのだが、感情が高ぶると少しだけ関西弁が混じることがある。
「わたし、怒ってたんですよ。すごく」
「あの写真の人にも、頼ってくれなかった先輩にも」
◇
当時、マリトは、会社を無断欠勤したあげく、自室に半年間閉じこもってしまった。
彼女は何度も見舞いに来てくれたが、それすらもマリトは無視したのだった。
マリトが社会復帰したのは、友田社長から技術営業部隊の立ち上げに協力してほしいという電話を受け取ったことがきっかけだった。
アンドロメダコンサルティングは欠勤による解雇となり、生活費の貯金も残り少なくなり、さすがに、そろそろ仕事を探さないといけないと思い始めたタイミングだった。
マリトは、友田社長が大学の准教授であったときから指導を受けており、企画能力を高く評価してもらっていたという自覚があった。
自信を失っていたマリトだったが、友田社長の一緒にやろうという言葉で、入社を決意したのだった。
そして、入社初日にチーフアーキテクトを紹介するといって、現れたのがコリーンだった。
当時、友田社長は事業拡大のために大学時代時代の教え子を集めていたという背景があった。
筆頭はコリーンだが、そこからの繋がりでマリトに声をかけたという流れだったらしい。
おそらく、彼女がいなければ、この会社に入ることはなかったはずだ。
もう構わないでほしいという態度をとったにもかかわらず、諦めることなく社会復帰の道を開いてくれたことに、どれほど感謝してもしきれない。
◇
「あのときは、本当に苦労をかけた。申し訳ないと思ってる」
マリトはそう言うと、
「そういうことじゃないんですけどね」
そうつぶやきながら、グラスに残ったビールをあける。
「では、そろそろ本題に入りましょう」
「『回収』の話だね」
しかし、ちょうどそのタイミングで、ラーメンが運ばれていた。
本題は、食事の後に持ち越されることになった。
#STATUS: SPRINT COMPLETED. PROJECT IN PROGRESS.
システム開発の現場もストレスフルですが、コンサルの現場もストレスフルなのでした。この主人公は元の世界でもすでにトラウマを引きずっていたということで、いろいろ乗り越えていってほしいものです。




