浮気されたから、今夜はシチューにしよう
最近、夫が怪しい。
遅い時間に帰って来るなり、ただいまのキスも抱擁もおざなりに、汗を掻いたからとすぐに風呂場へ向かう。
「貴方の大好きなシチューが冷めてしまうわよ」と言っても、「すぐ上がるから」と私を押しのけていく。
愛する夫だもの。どんなに汗を掻いても臭いなんて感じたことはないけれど。確かに私を抱く時の甘酸っぱい匂いとは違う、香ばしい本格的な汗のにおいがした。それに加えて……
いや、やめよう。
まさかあの夫に限ってそんなこと、ある訳ないじゃない。たとえ私以外の、他の女性の臭いが染み付いているからといって、浮気したとは限らない。……長時間密室で寄り添いでもしなければ、あんなに強くは臭わないと思うけど。
いえ、やめましょう。
私の鼻が、ほんの少し人より敏感なだけよ、きっと。
「ふう、さっぱりした」
ガウンを羽織り、赤らんだ顔でテーブルに着く夫の前に、ほかほかのシチューを置く。
じっくり煮込んだトマトベースに、じゃがいも、玉ねぎ、ほうれん草。そして柔らかい牛肉。
料理下手な私にしてはなかなか美味しいシチューで、今では毎日食べても飽きないと言われるほど、夫の大好物になった。
「ああ、いい匂いだな。今日も美味しそうだ」
「いつもと同じよ。ずっと変わらないわ」
「それがいいんだよ。好きなものはずっと変わらなくていい」
……貴方は変わってしまったけどね。
喉から出掛かったその言葉を、ぐっと呑み込んだ。
◇
「今夜は何がいい?」
「うーん、卵のサラダとぶどうパン。あと、いつものシチュー」
「夕べと同じじゃない。疲労回復の為にも、たまにはポークソテーに、帆立ときのこのクリームスープなんてどう?」
「美味しそうだね。じゃあそれでお願いするよ。最近仕事が忙しくて疲れているから」
本当は何に疲れているのかしら……なんて訊かない。
「分かったわ。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
ほら、行ってきますのキスと抱擁は、今までと何も変わりないもの。
私の思い過ごしよ、きっと。
野菜はあるけど豚肉と帆立がない。午前中の家事を終えると、私は買い物かごを手に街へ繰り出した。
夫は貴族の端くれであり、王宮の事務員として働いている。家には一応使用人もいるし、馬車だって出せるけど。私は出来るだけ、自分で出来ることは自分でやりたかった。特に夫に関すること……料理はその一つで。少しずつ上手くなって、美味しいと喜んでもらえると幸せな気持ちになるのだ。
夫の『好き』を見つける度に、夫の家族なのだと実感出来る。自分はこの世界の住人で、かけがえのない居場所を手にしたのだと、胸が温かくなるから。
もし、たとえ、万が一、夫が誰かによそ見をしていたとしても。つまらぬ揺らぎでその灯を消さないようにと、変わらぬ素肌の愛しさを信じていた。
紅茶店で茶葉を買い、夫に似合いそうなベストをウィンドウ越しに眺めた後、行きつけの肉屋に向かう。いいお肉があるといいな、朝食のベーコンも買っておこうと考えながら歩いていると、視界に見慣れた姿を捉えてしまった。
大通りの遥か向こう。中肉中背のよくある顔なのに、誰よりも一際輝いている夫と……その夫に寄り添う見知らぬ女。明け方まで私を抱き締めていた腕に抱き寄せられ、見た目よりも厚く逞しい胸にしなだれ掛かっている。
彼女を見下ろし、照れたように笑う夫の瞳には……はっきりと愛が灯っていた。
いえ、やめましょう。
私の目が、ほんの少し人より冴えてるだけよ、きっと。見たくないものまで見えてしまっているだけ。
いや、やめよう。
私の鼻が、ほんの少し人より敏感なだけよ、きっと。風に乗って鼻腔に流れ込むこの臭いが、夫に染み付いているあの臭いだったとしても。
やめ……
紅茶店の紙袋が粉々になり、黒い茶葉が石畳を舞った。
今夜はやっぱり、いつものシチューにしよう。
ダン! ダン! と乱暴にじゃがいもと玉ねぎを切り、我が家で一番大きな鍋に放り込む。
意外と筋肉質だけど、細かく切れば全部入るわよね。
ぐつぐつぐつぐつ。
野菜達の静かな悲鳴に、呑気な馬車の音が混ざる。
あら、今日は早いのね。
こちらへ近付く香ばしい汗と女の臭いに、一気に本能が覚醒し、鋭い牙と爪が伸びる。
────肉が帰って来た。
「お帰りなさい! お風呂の用意出来ているわよ。ちゃんと洗ってきてね。……特に腕」
おざなりのキスも抱擁もさらりと躱し、私は出来るだけ牙を見せないように笑顔を浮かべる。
何も知らない肉は、一瞬首を傾げるものの、「ありがとう」と機嫌良く風呂場へ向かって行った。
ああ臭い。
怒りと共に、ニョキニョキ伸びる爪。
上手く切れるかしらと、イメトレしながら宙を切り裂いてみた。
いつものガウンを羽織り、赤らんだ顔でテーブルに着く肉。でも今日は、まだシチューは置けない。だって材料が足りないんだもの。
水を飲んでにこにこと皿を待つ哀れな肉に、私は爪を後ろ手に隠しながらそっと近付く。
「ねえ、今日はご飯の前に、私を抱き締めてくれない?」
今から捌かれるとも知らない肉は、きょとんとしながらもすぐ嬉しそうに笑い、おいでと両腕を広げてくれる。
この腕であの女を……
怒りを通り越して、悲しみが押し寄せる。
ほかほかの胸にぽふんと力なくもたれ掛かれば、肉は私の頭に羽みたいなキスを落とし、背中を優しく撫でてくれる。
大好きな甘酸っぱい匂いに、魔物の本能がみるみる萎んでいく。牙も爪も引っ込み、愛に濡れた心と身体が、勝手に彼を迎え入れる準備を始めてしまう。
情けないわ……
どうして人間なんかを愛してしまったのかしら。
────かつては敵対していた魔物族と人間族。
繰り返される争いは、互いに甚大な被害をもたらした。
平和協定が結ばれてから早数千年。互いの世界に干渉することなく、平和に暮らしてはきたが……時折興味本位で、人間界を覗いてしまう魔物もいる。
私もその一人。
魔物族の姫として伸び伸びと育まれた好奇心は、人間界を覗くだけでは飽き足らず、とうとう足を踏み入れてしまった。
平和協定を結ぶ際に交わした魔術により、禁忌を犯した魔物は、魔物として生きることが出来なくなる。角、翼、牙、爪と共に魔力を奪われ、もちろん魔界には一生帰れない。平均千年の寿命も百年以下に縮み……つまりは人間として生きていかざるを得なくなるのだ。
一人ぼっちで途方に暮れていた私を救ってくれたのが、偶然出逢った夫である。
私を保護し、結婚し、人間界で生きる為の権利と居場所を与えてくれた。
魔王の血を引く私は、元々魔力が強かった為、完全に魔物の本能を失うことはなかった。負の感情が大きければ大きいほど、それを引き金に牙と爪が生え、無性に血肉を欲する恐怖に苛まれる。だけど何故か夫の温もりに触れると、たちまち荒い血が凪いで、安定を保てるのだった。
悔しいなあ。
私を裏切った腕に思いきり牙を立てて、爪で切り落として、大鍋で煮込んでやりたいのに。
こんな風にされてしまったら、私も甘いキスを落として、優しく撫でたくなってしまう。
目を瞑り、心地好い鼓動に血脈を委ねていると、夫が私の左手を取り、薬指に冷たい何かを通した。
「綺麗……」
血を思わせる赤い石が、ちょこんと嵌まった銀の指輪。その輝きを見ていると、まるで身体の芯にハーブティーを流し込んだみたいに、すうっと清々しいものに包まれていく。
「昔、魔物の処刑場だった洞窟で発掘した魔石だよ。傍に置いたり身に着けているだけで、魔物の本能と血の暴走を抑える効果がある。こんな小さいのを見つけるだけで、三ヶ月も掛かってしまって。それで毎晩帰りが遅くなったんだ」
「仕事で忙しいって言ってたのは……」
「うん。優しい君のことだから、仕事帰りに採掘しに行くなんて言ったら、心配して断られてしまうと思って。……嘘を吐いたことも汗臭かったことも、本当にごめん。君は嗅覚が敏感だから辛かっただろう?」
運動した後みたいな香ばしい汗の香りは、暑くて湿っぽい洞窟で採掘してくれていたからなの?
だけど……
「汗なんかどうでもいい。それよりも、最近貴方から、ずっと女の人の臭いがしていたわ。今日街へ出た時、貴方がその人と一緒に居るのを見たの」
夫は少し考え、「ああ」と微笑む。
「あれは僕の親戚で、魔物族と魔界の研究者なんだ。君が血に苦しんでいることを相談したら、魔石のことを教えてくれてね。彼女が管理している洞窟だから、採掘にも協力してもらったんだ。今日は一日中石の加工に付き合ってくれたんだよ。あ、君が魔王の娘だってことは必ず秘密にしてくれるから安心して」
「……抱き寄せていたのは?」
尖らせた唇から出る昏い声に、夫は一段と楽しげに笑う。
「石畳の隙間にヒールが挟まって、転びそうだったのを受け止めたんだ。優秀なんだけど、子供の頃からどこか抜けてるんだよなあ」
「でも、でもでもっ! あの時の貴方の瞳には、愛が灯っていたわ! 愛しくて愛しくて堪らないっていう輝きが! 魔物の視力を舐めないでよね!」
高ぶる負の感情に、血が荒れそうになるも……
魔石の効果だろうか。清々しいものが瞼にその血を集め、涙に変えて流してくれる。
『泣く』って、こんなに素敵なことなのね。
左目を温かな指で、右目を甘い唇で。
後から後から溢れるものを、優しく優しく拭われる。そこにもう真実はあるのに、夫は丁寧に想いを伝えてくれた。
「きっとそれはね、君の話をしながら歩いていたからだよ。僕の妻がどんなに愛しいかを惚気すぎて、彼女にからかわれていたから」
何も言えない。
尖ったままの私の唇をつまみ、彼はニヤニヤと笑った。
「そうか……だから帰って来た時、少し牙が生えていたんだな。嫉妬してくれたのか……可愛いな」
「……可愛くないわ。シチューに入れて、食べようとしちゃったもん」
「食べてもいいよ。君の一部になれるなら本望だ。いつも……いつもいつも、一つに熔けてしまいたいと思っているのに」
涙に濡れた、互いのしょっぱい唇が重なる。それはさっきからずっと蠢いている、激しい人間の本能に灯を点けた。
待って、まだ指輪のお礼を言っていないのに。
まだ…………
もしかしたら、私はずっと貴方を疑っていたのかもしれない。私と結婚してくれたのは、愛ではなく、哀れな魔物への同情だったのではないかと。
甘い息を吐きながら謝れば、「僕はそんなに器用じゃないよ」と切ない顔で微笑われた。
◇
ぐつぐつぐつぐつ。
火に掛けられたままくたくたになった野菜スープに、使用人は残っていたベーコンを足し味を整える。
翌朝、互いのにおいを纏った夫婦の前で、それは呆れながらも、ほかほかと湯気を立てていた。
ありがとうございました。