枯れ木令嬢が嫁いできたので、徹底的に健康にした結果
「伯爵家の長女? それが俺の領地を荒らした詫びの品なのか?」
「どうやらそのようで……」
広大な屋敷の一室。
従者も困ったように頷き、当主のヴォルン・ルナミリスは息を吐く。
整えられた黒髪と鋭い赤眼、そこから放たれる凛々しい表情にも、僅かな呆れが込められていた。
詫びというのだから何を持って来るのかと思えば、まさか人を寄越すとは。
単純な話だ。
貴族が管轄する土地で、他貴族が勝手な真似をするなど許されない。
そのルールに抵触した相手を、少し強請っただけ。
すると相手方、トーレス伯爵家は自らの長女を譲り渡すというのだ。
何故そうなる?
娘を嫁として差し出して、従属関係を示す気なのか?
ヴォルンはそんな考えを巡らした。
トーレス家の領土は、ルナミリス家領土の丁度隣。
数日が経ち、その人物は彼の屋敷へやって来た。
「名前は?」
「アイリ・トーレスです……」
「良いだろう。状況は理解しているのか?」
「はい……。父がヴォルン様に、大変な無礼を働いてしまったと……」
「正確には、俺の領地で許可なく商売を行った。利益を横取りしたわけだ。勿論、簡単に許されることではない。そうしてトーレス家が差し出してきたものが、お前だ」
伯爵家の長女、らしき少女に改めて説明する。
自分が何故ここに来たのか、一応は理解しているらしい。
不利な立場にいることも分かった上で、ヴォルンに対して畏縮するばかり。
彼自身、言いたいことは色々あった。
だがそんな考えすら打ち消したのは、その伯爵令嬢の姿だった。
痩せ細っている、というのが第一印象。
寧ろ、触れれば折れてしまいそうな気さえする。
無理矢理化粧で誤魔化しているようだが、肌自体に血色の良さは感じない。
無造作に伸びた栗色の髪も、手入れは行き届いていないようでパサパサ。
男であるヴォルンの目からも、枯れ木のような印象は拭えなかった。
ちなみに彼女の従者はいない。
ここへ送り届けたと同時に、馬車と共に帰っていったからだ。
どうぞご自由に。
そんな言葉すら聞こえてきそうな有様である。
「つまり、お前の身柄は俺に委ねられたということだ。さて、どうしてやろうか」
取りあえず鋭い視線を向ける。
トーレス家が嫁として譲り渡したということは、既に彼女の身柄はヴォルンのもの。
どうするも彼の自由。
逆にこんな姿で現れたことを問い詰めることも出来る。
すると少女は祈るように、震える両手を結んだ。
「全て、受け入れます」
「何だと?」
「ヴォルン様の怒りも当然のこと……。それに、これで皆の役に立てるなら……」
「フン。口では何とでも言える。今まで俺はそういった人間を何人も見てきた。その自己犠牲の裏に隠れた本性、直ぐに暴いてやるぞ」
ヴォルンは宣言する。
彼は若くしてルナミリス家の当主となった人物。
その手腕は既に他貴族の間でも有名になっているほどだ。
そんな彼に誤魔化しは通用しない。
悪しき企みがあるなら、それごと暴き出す。
故に彼は一つの決断を下した。
●
「先ずは飯を食え」
「えっ? あ、あの……?」
「何を呆けた顔をしている。そんな貧弱な身体では、まともな体力もないだろう。その風体は、これからこの屋敷に住む者として相応しくない」
「ひ、貧弱……」
「正しい食生活が出来ていないようだな。良いだろう。その枯れ木のような身体と共に、根底から叩き直してやる。勿論、好き嫌いは許さんぞ」
一先ず食事を摂らせることにした。
アイリという少女は、明らかに栄養が足りていない。
このままではいつか倒れてしまうし、ルナミリス家の屋敷に住まうにも相応しくない。
だから当主の力を以て矯正させる。
勿論、衰えた身体に一気に栄養のあるものを与えても、身体が受け付けないことはヴォルンも知っている。
だから消化に時間の掛かる、脂質分の多い食べ物は避けた。
逆に脂質の少ない、皮を取り除いた鶏肉をメインに炒め焼きにさせる。
後は野菜スープなどの前菜も併せてコックに用意させれば、身体に優しい夕食の完成である。
アイリはその料理が自分に作られたものだと、最初は理解できなかったらしい。
しかし、ヴォルンが命じることで戸惑いながらも席に着いた。
何故?
本当に?
そんな様子が見て取れる。
ヴォルンはそこで、この少女が今までマトモな食事を摂れていなかったのだと知る。
トーレス家がそこまで財政難だとは聞いていない。
彼女がここまで痩せ衰えている理由は、どれだけ考えても分からなかった。
分からなかったからこそ、これで彼の気が済む訳もない。
「何だ、その腕の痣は? 何処で打った?」
「こ、これは何でもな……」
「馬鹿め、隠そうとするんじゃない。まさか、他にも痣があるんじゃないだろうな?」
「それは……」
「……どうやら、俺の下に来たという自覚が足りないようだな」
食事の最中に見えていた前腕の痣。
夕食を終えた後、ヴォルンはその手首を掴み上げた。
あまりに細く、本当に折れてしまいそうな華奢な腕。
ヴォルンはこの屋敷の主人である。
主人である以上、屋敷に住む者達を管理することも役目の一つ。
力を込めると、アイリの全身に光が纏う。
その光は瞬く間に彼女の痣を治癒していった。
「初歩的な魔法だが、これで痣は消えたはずだ」
「えっ……? あっ……ありがとう、ございます……?」
「黙して痛みに耐えるなど愚か極まりない。その消極的な態度も改めさせてやる。覚悟しておけ」
背を向けて、ヴォルンは告げる。
彼女の身体にどれだけの痣があるかなど、調べる気はない。
それと同じように、何処でそんな痣をつけたのかも。
ただ、黙って痛みに耐える彼女の姿は、誇り高いヴォルンには看過できなかった。
代わりにアイリは、今まで感じていた痛みが消えたせいか。
本当に訳が分からないと言った様子で、彼の背中を見上げた。
「どうして、こんなことを……?」
「フン。痛みで与える強制力など、所詮は心を凍らせるための茨だ。人の本性とは、ぬるま湯に浸かる時こそ現れる。どうだ? 今の内に本性を現した方が身のためだぞ?」
ヴォルンにも意味はある。
まだこのアイリという少女が、何者なのか判断できていないからだ。
彼女の本性を見定めるまでは、この屋敷の住人として扱うまで。
監視は必要だろうが、それ以上に傷付ける意味はなかった。
「もしかして、ヴォルン様はお優しい人なのですか……?」
「ふ、フフフ……愚かな……! 俺はこの歳でルナミリス伯爵家の正当な当主となった恐るべき男! 従者だけでなく、領民すら俺を畏怖している! そう、この俺こそ民を統べるに相応しい!」
何と間の抜けた発言か。
彼女の言葉を、ヴォルンは盛大に否定する。
彼自身、周囲から恐れられる当主と言われる身。
優しいという言葉は不釣り合いであり、アイリに接しているのも警戒してのこと。
そう、決して優しさなどではない。
「という訳で、お前の部屋だ。一日の終わりに風呂で身体を清めた後は、そのベッドでゆっくり身体を休めると良い。健全な精神は健全な肉体に宿る。お前の本性を引き出すには丁度良い環境だろう」
「やっぱり、お優しいのでは……」
「また同じことを……俺は当主だぞ? 優しいなどという不相応な言葉ではなく、恐るべき当主として讃えるが良い!」
「えぇ……?」
貴族令嬢に相応しい部屋を案内し、自らを敬うよう促す。
結局その日、命すら懸けるつもりだったアイリは、目の前の光景にただただ困惑するばかりだった。
●
「フン。先ずはおはようと言っておこう」
「お、おはようございます」
「昨日より顔色が良くなったと見える。どうだ、よく眠れたか」
「はい、久しぶりに……」
「久しぶりだと? 今までどんな生活を送ってきたかは知らんが、そんなものは忘れろ。ここでは全て俺の指示に従ってもらう。夜更かしなどさせん。早寝早起きを徹底させてやる」
翌日になっても二人の関係は変わらず。
ヴォルンはごく普通の生活をアイリに強制した。
早々に眠らせたことが功を奏したのか。
彼女にも少しばかり元気が戻ったように見える。
昨日の時点で真っ当な令嬢ではないことは明白だったが、接する時間が続くにつれ、それがより顕著になっていく。
「まさかとは思っていたが、服を一着しか持って来ていないとは。気付いてはいたが、袖の丈も合っていないではないか」
「これはその、何年も前の衣服なので……」
「ほう? この俺を前にして、随分とナメたことをしてくれるな?」
この屋敷に来た時、アイリはほぼ手ぶらだった。
必要最低限の日用品しか持っておらず、令嬢の在るべき姿とはかけ離れていた。
だからこそ、ヴォルンの取るべき行動も決まっている。
今日の朝食は、野菜をふんだんに取り入れたオムレツ、低脂肪チーズを載せたトースト、そして果実を含んだオートミール。
またもや身体に優しい朝食をコックに用意させた。
これも私のものですか、と言いたげなアイリに朝食を強制し、その後に彼はドレスルームへと案内した。
「趣味趣向は知らんが、好きなものを好きなだけ選べ。足りないものがあれば侍女に言うと良い。身の丈にしっかり合ったものを用意させてやる」
「こ、こんなに沢山……!?」
「沢山? 随分と大袈裟だな? 伯爵家の娘であるなら、この程度は幾らでも手に入れられただろう?」
ドレスだけでなく様々な衣服が吊り下げられているが、量自体は大したものではない。
男であるヴォルンが当主であり、他に姉妹や婚約者もいないためである。
そのため、種類については驚かれる程のことはない。
寧ろ少ない方なのだが、アイリの見方は違っていた。
「自分の服はあまり与えられなかったので……」
「……」
「あっ!? いえ、失言でした! 聞かなかったことにして下さい!」
慌てて訂正する伯爵令嬢。
口止めでもされていたのか。
ヴォルンは表立った反応を見せなかったが沈黙の後、待機していた従者を呼んだ。
「セバス」
「はっ」
「次の貴族間パーティーはいつだ?」
「3ヶ月後でございます。開催場所は王宮で、恐らくトーレス家関係者も出席されるかと」
「良いだろう」
納得したように頷く。
王宮でのパーティーとなれば多くの貴族が参加する。
当主であるヴォルンにもその知らせは届いていた。
現状、参加の返事は保留のまま。
あまり気乗りしなかったヴォルンだったが今この瞬間、気が変わったらしい。
アイリの方へと向き直り、指を三本立てた。
「3ヶ月だ」
「えっ?」
「3ヶ月後のパーティーに参加する」
「そ、そうですか。いってらっしゃいませ」
「何を言っている。お前も来るんだ」
「えぇっ!? ぱ、パーティーですか!?」
「拒否など許さんぞ。それまでに、俺の隣にいるに相応しい女に仕上げてやる」
突然の強要に彼女は慌てふためく。
こんな私が、といった表情をしており、パーティーに参加した経験も殆どないことが見て取れた。
「わ、私が、そんな催しに参加するなんて……!」
「安心しろ。俺は貴族間でも恐れられるヴォルン・ルナミリスだぞ。ふざけた視線を送って来る連中など、まとめて返り討ちにしてやろうではないか。アイリ、お前は大船に乗ったつもりで身を委ねておけば良い」
しかし、ヴォルンにとって些細なことだった。
彼女がどんな生き方をしてきたのかは知らない。
どんな扱いをされてきたのかも。
それでもヴォルンの下に来たものは全て彼のモノであり、彼の管轄下にある。
無下に扱う理由は何一つない。
するとアイリは目を丸くした後、か細い声を出した。
「名前……」
「ん?」
「名前を、呼んで頂けるのですか……?」
「ふ、フン。何を言うかと思えば……そんな些細なことなど気にするな。これからは何度でも呼んでやる」
何を単純なことで喜んでいるのか。
顔を綻ばせるアイリを見て、ヴォルンは照れくさそうに顔を背ける。
やはりこの伯爵令嬢には、常識というものを叩き込まなければならないらしい。
そうして何度か促し、侍女と一緒に服を選び始めた彼女を見て、再度従者を呼んだ。
「セバス」
「はっ」
「トーレス家について再度調べ上げておけ。今度は念入りにな」
「畏まりました」
小声でそう伝える。
探るのは彼女のことではなく、トーレス家自体のこと。
そもそも、以前からこちらの領土に干渉してきた恥知らずである。
幾ら令嬢を一人寄越されたとて、簡単に信用するつもりはない。
敵と見定めつつ、必要最低限のことは探っておくべきだろう。
加えてやって来たのは、真っ当な生活を送ってこなかっただろう人物。
ヴォルン自身も当主という立場なので、まだ完全に信用は出来ない。
無礼だと突き返すことも出来るのだろう。
しかし、それは美しくない。
何よりこんな有様にしたトーレス家と同じことをしてしまうようで、自らのプライドが許さなかった。
「放っておけん女だ……全く……」
侍女が選ぶ服に、目を輝かせながらも戸惑うアイリを見て、彼は独り言ちる。
そう、彼にはプライドがある。
恐るべき当主として在るべき姿、相応しい在り方。
それは当然、彼の所持する全てのものに波及し、アイリも例外ではない。
だからこそ、自らの手の中にある以上、この枯れ木令嬢を徹底的に健康にしてみせよう。
そして、こんな目に遭わせた連中を見返してやろう。
ヴォルンはそう、心に決めるのだった。
●
結局のところ、アイリが不審な行動をすることはなかった。
万が一、間者である可能性を考慮してのことだったが、ここにいるのは不健康な令嬢のみ。
健康的に眠り、健康的に食べ、健康的に日を浴びる。
彼女は3ヶ月後のパーティーを目指し、自身の生活態度を積極的に改めていった。
当然、ヴォルンもその過程を見届けることにした。
「良いか、アイリ。先ずは1周で慣らす。この素晴らしき庭園でランニングできることを光栄に思うが良い」
「は、はいぃ……!」
「体力をつけることは重要だ。そうでなければ、長時間のパーティーや会談には耐えられんからな」
彼女の身体は見るからに貧弱。
この状態ではパーティーはおろか、外に出て活動することすらままならない。
先ずは体力をつける必要があった。
そうすれば、ある程度の自信も付いてくる。
なので、食事で栄養を摂った後は日々の運動を強要した。
今のアイリは、庭園を1周するだけで息が上がってしまう。
ひぃひぃ言ってはいるが、軽く汗をかく程度の運動は必要不可欠。
ヴォルンも同じように並走しつつ、彼女の体力づくりを見届けた。
勿論、必要となるのはそれだけではない。
「学ぶという意識を養うことこそ、勉学では最も重要になる。俺達は貴族という立場だ。常に学び続けるという意志がなければ、時代の流れに残され、民を導くことは出来ん」
「が、頑張ります……!」
貴族という立場だからこそ勉学も重要だった。
怠慢のまま過ごすばかりでは、自身の領地を守ることは出来ない。
聞くところによると、アイリは下働きばかりさせられ、勉強をした経験が殆どないらしい。
貴族令嬢が下働きとは、どういうことなのか。
ヴォルンはあえて聞かず、執務をする傍らで彼女に思考力が鍛えられる学問を教えた。
どうやら学ぶこと自体はアイリにとって新鮮だったらしく、意欲的に取り組んでいく。
問題に正解すると安堵と共に、今まで見せなかった笑みを浮かべるようになり、ヴォルンとしても悪い気はしなかった。
「そして民と接するのも、貴族たる者の責務だ」
外に出ても問題にならない程度に健康になると、ヴォルンはアイリを街へと連れだした。
領民と交流を持つことも、学びの一つ。
彼は時折こうして街を視察しており、同じようにアイリを案内していった。
恐れられる当主という話ではあるが、出会った民衆の反応は真逆。
連れ出された彼女の目には、尊敬と親しみを込めて彼に接する人ばかりが映った。
そして広場では、何人かの子供が彼の元に駆け寄ってくる。
「ヴォルン様~肩車して~」
「フッ、愚かな。肩車が危険であることを理解していないようだな。誤って転倒すれば、頭に傷を負う可能性もあるのだぞ。そんなことになれば、家族が悲しむだろう。それを知らんような子供には、おんぶ程度が相応しい」
貴族の中には領民と一線を引く者もいるが、ヴォルンは違った。
尊大な態度を取りつつも、発言自体は子供達を気遣っている。
おんぶ自体もやぶさかではないらしい。
そんな彼といるためか、自然と周りの視線が集まってくる。
あまり人と関わってこなかったためか、アイリがソワソワしていると、年配の男性が声を掛けてきた。
「もしや、貴方がヴォルン様に嫁いで来たお方ですかな?」
「えっ!? と、嫁ぐ!? あ、あの、私は……!」
「やっとこの時が来ましたな。今は亡き先代様方も、きっとお喜びになっていることでしょう」
男性はこの街に暮らして長いのか、懐かしむような表情を見せた。
「ヴォルン様は今までこの土地を、我々の苦難を一人で背負い、お守りくださいました。ルナミリス家唯一の血を継ぐ者として、幼き頃より気を抜けない日々を過ごしてきたことは、察するに余りあるというもの」
「あの方が……」
「我々では、本当の意味でヴォルン様の力になることは出来ませぬ。ですからどうか、ヴォルン様を支えてあげて下され」
話を聞いて、アイリはヴォルンの方を振り返った。
そこには、仕方ないといった様子で子供と触れ合う彼の姿がある。
確かに屋敷にいるのは従者ばかりで、彼の親族は見かけない。
ルナミリス家としては、たった一人。
それを考えると、恐るべきという言葉の意味も少しだけ変わってくる。
何か自分に出来ることはないだろうか。
考え込む彼女の表情は、そう言っているようだった。
●
それから一ヶ月が経った。
アイリは健康的な身体になりつつあるようで、目のクマも完全に取れ、表情に活気が戻った。
髪質も徐々に改善され、肌の血色も良くなり、枯れ木にすら見えていた以前の姿とは比ぶべくもない。
筋力はまだ改善の余地があるが、年相応の貴族令嬢としてお淑やかな雰囲気を纏う。
これが彼女本来の姿なのだろう。
ヴォルンの徹底した健康志向は功を奏したようだった。
そんな中、いつもとは違った日が訪れる。
慌しく従者達が動き回り、屋敷中がせわしない。
アイリはヴォルンの寝室、ベッドに横たわる彼を見守っていた。
「全く、この程度で大騒ぎする必要などないだろうに」
「ヴォルン様……」
「ただの風邪だ。それよりも、近くにいると移るぞ」
「私の痣を治して頂いた時みたいには……?」
「あれは痣を消すだけの初歩的な魔法だ。風邪ともなると、癒しに特化した魔法がなければ通用せん」
ヴォルンは横たわりながらも答える。
この程度はどうということはないと振る舞っているが、アイリは依然として動かなかった。
彼女が屋敷に訪れてから、初めての体調不良。
不安そうな表情からは、彼の身を案じていることが分かる。
対する彼の表情に大きな変化はない。
風邪なので、そこまで倦怠感もないのか。
ただ、少しだけ感傷的になっているようだ。
彼はその場から動かないアイリに向け、静かに語り始める。
「当主にもなれん貴族の子供など、他貴族からすれば格好の獲物。傀儡のように操られるだけだ。それでも俺は、両親が残したこの土地と民を守る使命があった。恐るべき当主として、畏怖されなければならなかった。たとえこの身が、病弱なモノであろうとも」
「!」
「意外そうな顔をする。確かに、体調を崩すのは久しぶりだ。それなりに健康には気を付けていたのだがな」
ヴォルンは自嘲気味な笑みを浮かべる。
彼にとって、健康には重要な意味があった。
両親に先立たれた中、後ろ盾となる者は少ない。
優秀な従者は揃っていたが、自分自身が万全な状態でなければ、そこを狙う者達も当然のように現れる。
トーレス家が良い例だ。
貴族だからこそ、民を守るからこそ、自らの権威を示さなければならない。
そうでなければ何も守れない。
そのためには先ず、病弱な身体を改める必要があった。
今までアイリにしたことも、全てはかつてヴォルン自身が課したものばかり。
彼が健康に拘る理由はそこにあった。
「アイリの姿は、かつての脆弱な自分を思い出す。だからこそ、放ってはおけなかった。それだけだ」
ハッとしたアイリは、そこで何かを感じ取ったのだろう。
今までヴォルンがしてくれた数々のことが思い浮かんだのかもしれない。
一体、自分に何が出来るのか。
彼女はゆっくりと彼の手を握った。
「どうした?」
「幼い頃、風邪を引いた私にお婆様がこうして手を握ってくれました」
「……そうか」
「っ……」
「フッ、何を寂しそうな顔をしている? 安心しろ。この俺は恐るべき当主、ヴォルン・ルナミリスだぞ。この程度は……」
大袈裟だ、と彼は言いかける。
心配される程にヤワではない、と安心させたかったのだろう。
その瞬間だった。
握っていたアイリの手から光が零れた。
「えっ?」
「これは……?」
意図してのことではない。
何が起きたのか分からず、お互いに目を丸くする。
光は収束し、ヴォルンの身体を取り巻いたかと思うと直ぐに霧散した。
一瞬の出来事。
しかしヴォルンは何かを感じ取ったようで、不意にその場から起き上がった。
「身体が軽い。体調もすこぶる良くなった……? アイリ、もしや癒しの魔法が使えたのか……?」
「えっ? い、癒しですか? 私はただ、強く念じただけで……?」
直ぐにでも動けそうな容態に、彼は驚いて問う。
問われたアイリに自覚はないようだった。
ただ手を握って、ヴォルンの息災を念じただけ。
そもそも彼女は癒しの力はおろか、魔法を使ったことすらない。
今の光は何だったのか、本当に分かっていない様子だった。
いつもとは違った、この日。
それは彼女にとって転機でもあった。
「セバス、何か分かったか」
「はい。アイリ様に聖女の力が宿っている、その事実に間違いはないようです」
「聖女……百年に一度と言われる希代の力か……。しかし、彼女は今まで一切自覚がなかったという。何故、今になって……」
「今になって、という訳ではないようです。恐らくこの力は、今まで自覚なく使われていたのではないかと」
「ほう。詳しく話せ」
数日後、調査を進めていた従者から報告を受ける。
そこにはヴォルンだけでなく、困惑するアイリも同席していた。
「お屋敷にいらっしゃった時点では、アイリ様の身体は非常に不安定な状態でした。それを補っていたのが、聖女の力なのでしょう。あまりに微細な力だったため、我々も気付きませんでしたが」
「無意識的に自分の身体を守っていたということか。相当無理をしていたのは確かだが……」
「はい。ですがここでの生活を送るにつれ、その必要もなくなったのでしょう。健康的なお身体になったことで、自発的に力を扱う余裕ができたのではないかと」
彼女の力は、ルナミリス家に来てから発現したものではない。
元々から備わっていたものだという。
しかしその殆どは自身の身体を守るため、無意識で使用していたらしい。
枯れ木のような有様で行動できていたのはそのためか。
ようやくヴォルンは納得したようだった。
「と、いうことだ」
「!?」
「何を驚いた顔をしている。これはアイリにとって朗報だろう。聖女の力を持つ者など、そうはいない。トーレス家の連中も、手放したことを後悔するだろうな」
「で、ですが、風邪を治す位は大した力ではありません。きっと何かの間違いで……」
「実は言っていなかったが、あれは風邪ではなく幼い頃からの持病でな。結構、重篤だったのだ」
「!?!?!?」
「まぁ、落ち着け。今一度医者に診てもらったが、驚くべきことに完治していた。医者からは一生治らんものだと言われていたのだがな。間違いなく、その力は本物という訳だ」
あの場で言った風邪は、アイリを心配させないためではあったが、それ以上に自身の容態を悟られないためだった。
今まで様々な医師に診てもらったが、結果は同じ。
体質の問題ということで、常に身体の均衡を保っていくしかなかった。
そんな状態を他者に知られれば、不利益が生じるかもしれない。
彼の言葉は万が一を考えてのことだった。
だがヴォルンは、それが彼女に対する非礼だったと理解した。
だからこそ、アイリに向けて頭を下げる。
「すまなかった」
「え……」
「俺はまだ、心の何処かでアイリを疑っていた。トーレス家から差し向けられた間者ではないかと。しかし、アイリは何の利益もなく俺の病を治した。今はその思いを恥じるばかりだ。感謝している」
やりようによっては、聖女の力を盾にヴォルンに様々な要求を呑ませることも出来たはず。
しかし、それをしなかった。
トーレス家など関係はない、紛れもない彼女の本心から出た行動だ。
彼女の思いから目を背けていたことに、彼は感謝と謝罪を重ねた。
話を聞いたアイリは目を丸くするばかりだったが、少し経っておずおずと切り出す。
「私は、ヴォルン様のお役に立てるのですか?」
「フッ。役に立てるかなど考える必要はない。既にアイリは、このルナミリス家の一員なのだ。胸を張って、この地で生きれば良い」
彼女は全く気にしていない。
自分が役に立てるかどうかに意識が向いているようだ。
そんな考え方に思わずヴォルンは自然と笑みを見せる。
今まで敵と味方を見極めるばかりだった自分とは違う。
彼女には分け隔てなく手を差し伸べる優しさがあるのだろう。
始めはトーレス家のために命を賭す覚悟を抱いていた彼女が、このルナミリス家に訪れてから変わったのだ。
ならば、自分に出来ることは一つだろう。
彼は満足げに告げる。
「そして俺のモノである以上、より健康的な生活を送らせてやる。覚悟しておけ」
「は、はいっ!」
アイリは元気よく答える。
そこに枯れ木のようだった少女の面影は何処にもない。
従者も微笑ましそうに見守る中、二人は互いの思いを分かち合ったのだった。
●
更に一ヶ月が経った。
聖女の力は明らかになったものの、大きく暮らしが変わることはない。
ヴォルンもアイリも、健康的な生活を維持し続けた。
多少の噂が広まったのは確かだが、それだけだ。
何度も街へ降りて民衆と接していたこともあり、彼女は既に皆から受け入れられている。
アイリも自分らしさを取り戻したのか。
以前にも増して明るい表情を見せるようになった。
更に言えば、行動自体も積極的になっていった。
(ヴォルン様! スコーンを焼いてみました!)
(さぁ、ヴォルン様も一緒に走りましょう! 私はもう一周行けます!)
(まさか、夜更かししていませんか? 駄目です! ヴォルン様も、もっと健康的な生活を送るべきです! お眠りになるまで、私が見張ります!)
(ふふ……ヴォルン様の手、温かいです……)
もしやヴォルン以上に健康になったのだろうか。
アイリは彼と共に暮らすことに楽しさを感じているようだった。
体力づくりだけでなく、勉学もどんどん要領よく吸収していき、従者に習って菓子作りにも励むようになった。
健全な精神は健全な肉体に宿る。
まさしくヴォルンが言った通りとなった。
「積極的になったと言うべきか、強かになったと言うべきか。まぁ、悪くはない」
執務室でペンを走らせながらも、ヴォルンは口元を緩める。
彼自身、アイリの成長ぶりを嬉しく思っていた。
もうじき王宮でのパーティーもある。
この調子なら、他貴族の前に出たとしても何の問題もない。
ただ一点、気掛かりなのは聖女の力。
類まれな力を一目見ようと、この短期間で周囲の貴族がルナミリス家に接触を試みてきた。
今まで誰も見向きもしなかったというのに、現金な連中だ。
今のところは全て追い返しているが、パーティー内ではそうもいかない。
念のため、彼女にはその心構えを伝えておくべきだろう。
街に視察に出ているアイリの帰りを待ちながら、彼は執務を続ける。
しかし、そんな時。
彼女の護衛に当たっていた従者が、慌しく屋敷に戻ってきた。
「ヴォルン様っ!」
「どうした、セバス」
「アイリ様が何者かに拉致されました……!」
「なっ!?」
急な知らせにヴォルンは思わず立ち上がる。
突然のことだったという。
街の子供達と交流を深めていた彼女が、休憩に入ろうと人目から離れた一瞬の隙。
黒装束を纏った複数人の者達に襲われ、馬車に担ぎ込まれたらしい。
そして彼女を乗せた馬車はあらゆる制止を振り切り、街の外へと逃走したのだという。
そこまで聞いたヴォルンの手は強く握りしめられ、小刻みに震えていた。
「申し訳ございません。護衛の目を抜かれました」
「詫びは後で聞く。それよりも、彼女の所在は分かっているか」
「はい。向かった方角と僅かな痕跡から、大よその見当がついています」
「それだけあれば上出来だ。場所を教えろ」
声色は既に押し殺したようなものへと変わる。
誰が、一体どんな理由で拉致をしたのか。
ヴォルンに興味などない。
あるのは、これまで自分達が過ごしてきた月日が踏み躙られたという事実のみ。
かつてない程の激情が彼を襲っていた。
目の当たりにした従者は意を決し、その在処を伝える。
「アイリ様のご実家、トーレス伯爵家です」
そこからのヴォルンの行動は迅速だった。
従者任せではなく、自らその領地へと乗り込んだ。
他貴族の領地への介入は基本的に禁止されているが、既に相手はルナミリスの領土に対して何度も過ちを犯している。
無法には無法。
前もってトーレス家の内情を調べ上げていたことが活きたようだ。
その夜、固く閉ざされたトーレス家の正門が、轟音を立ててこじ開けられた。
「な、何者だっ!?」
土煙を立てる正門付近に、当主であるトーレス伯と衛兵達が集う。
現れたのはヴォルン・ルナミリス。
外套を羽織り、闇に溶け込むような黒髪から紅い眼光を覗かせる。
そして舞った土煙を軽く払いながら、怒りに満ちた視線を放った。
「俺が来た理由は理解しているはずだ、トーレス伯」
「ど、どういう意味か分かりかねます……。私にはさっぱり……」
「アイリを渡せ。承諾か拒否、そのどちらかで返答しろ。拒否するようなら、このまま押し通る」
「何を仰るか……! そのような蛮行、許されることではありませんぞ……!」
「話を聞いていなかったのか。承諾か拒否、お前にはその二択しかない」
もう一歩、ヴォルンは足を踏み出す。
余計な問答をするつもりはない。
話を逸らされる程に彼の怒りは増していく。
トーレス伯にとってヴォルンは遥か年下の貴族なのだが、そのあまりの剣幕に気圧され始める。
自身が逆鱗に触れてしまったことを改めて後悔したのかもしれない。
すると騒ぎを聞きつけたのか、甲高い声が響き渡った。
「あの子は、貴方の元には戻らないわ!」
屋敷から現れたのは、裕福そうな身なりの夫人。
目つきは鋭く、明らかに気の強そうな風貌だ。
その女性はヴォルンに敵意を向けながら、大声で制止する。
臆していたトーレス伯と同じく、かつてのアイリとは似ても似つかない程に健康的な身体のようだった。
「お前がアイリの母親か」
「あの子を貴方のような男に任せておけない! そもそも、貴方に引き渡したこと自体が間違いだったのよ! 見なさいよ、この手の傷を! あんなに従順だったのに、この私に反抗するような野蛮な子にするなんて!」
「……何だと?」
「噂通りの男ね! 脅しだけじゃ飽き足らず、私達の屋敷に土足で踏み入るなんて! ちょっとくらい大目に見てくれても良いじゃない! それとも、聖女の力がそんなに欲しいのかしら!? でもあの子は私達の家族よ! だから全て返してもらうわ!」
語尾を荒げながら言い放つ。
元々、彼女を譲り渡したのも脅されたせい。
在るべきところに帰るのは当然のこと。
夫人はそう言いたいようだった。
そんな言葉を受け、ヴォルンはゆっくりと口を開いた。
「それだけか?」
「は……? 何を言って……!」
「言いたいことは、それだけかと聞いたんだ」
必要のない詭弁。
聞く意味のない戯言。
ヴォルンの全身から青白い魔力が流れ出した。
「お前達の事情など知らん。アイリは俺の下に来た。つまり俺のものだ。それ以上の理由は必要ない」
「……!」
「お前達は知らんのだろう。彼女が何を楽しみにして、どんな笑みを浮かべるのかすらも」
トーレス家の内情を知る上で、アイリがどんな扱いをされていたのか、既にヴォルンは知っていた。
予想通りの扱い、顔を顰めたくなるような仕打ち。
唯一味方だったのは、数年前に亡くなった祖母だけだったという。
そんな有様で、家族という言葉を持ち出す資格などあるのか。
あろうはずがない。
瞬間、周囲に異変が訪れる。
ヴォルン以外の人間から魔力が漏れ出ていく。
意図してのことではない。
それら力は全て、ヴォルンに向けて吸収されていった。
「な、何だ……? 力が抜け……!?」
「今は調子が良い。何故、俺が今まで他貴族に領地を侵略されず、この歳で当主の座に至ったのか。その理由を教えてやる。骨の髄までな」
「うっ!? あああぁぁぁっ!?」
ヴォルンは片手を掲げる。
彼が王家から認められて当主となったのには理由があった。
貴族としての技量だけではない。
立場や歳の差すら埋める、ねじ伏せる程の圧倒的な力。
そしてそれを冷静かつ冷酷に行使する判断力。
それこそが、ヴォルン・ルナミリスの最も恐れられるもの。
トーレス伯達は、所詮は若造と彼を甘く見過ぎていたのだ。
滅多に力を行使することはないが、牙を向けた者に容赦はない。
次に見えたのは、あらゆる力を根こそぎ奪われ、倒れ伏していくトーレス伯達の姿だった。
戦いというものすら起きない、一方的な制圧。
屋敷にはトーレス家長男らしき令息もいたが、怯え切っていて歯向かう様子はなかった。
衛兵達も毒気を抜かれ、剣を抜く様子すらない。
それほど時間を掛けることもなく、ヴォルンは離れの小屋へ辿り着く。
厳重に施錠された小屋へ入ると、そこには閉じ込められていたアイリの姿があった。
「ヴォルン様!? どうして!?」
「帰るぞ」
「えっ……あっ……?」
「フッ、まさか俺が助けに来ないとでも思ったのか? 俺は恐るべき当主、ヴォルン・ルナミリスだぞ? 外で伸びている連中と一緒にしないでもらおうか?」
驚きを隠せないアイリに向け、彼は安堵したように笑う。
残念ながら、ヴォルンはトーレス家の連中のように薄情な男ではない。
聖女の力に目覚めたからと言って、態度を変えることもない。
ただ彼女を奪われたことに怒り、助け出しに来ただけだ。
見たところ、アイリの様子に大きな変化はない。
街へ出掛けた時と同じ姿のままだった。
ただ全くの無事という訳でもないようで、彼はその顔を見て手を伸ばした。
「頬が腫れているな。貸せ」
「あっ!? だ、大丈夫です! 痛みませんし、私の力で直ぐに……!」
「貸せと言ったんだ」
何をされたかなど聞くつもりはない。
ヴォルンは腫れた頬に触れ、自らの力で傷を癒した。
本来、聖女の力を持つアイリには不要ではある。
だが、彼はそうしたかったのだ。
かつて服の下に幾つもの痣を隠していた時と同じように。
頬の腫れが引いていくのを感じ、アイリの瞳が揺らぐ。
この3ヶ月、今まで彼女が自分の境遇を明かしたことは殆どない。
ある程度は察せられたが、トーレス家での生活がどれ程苦しいものだったのか、決して口にはしなかった。
そういう性格なのだろう。
一人で抱え込み、そのまま沈み込んでいく。
そして今もこうして必死に口を閉ざしている。
だが、どんな者であろうとも背負うものはまとめて引き受ける。
それが恐るべき当主である、ヴォルン・ルナミリスの在るべき姿だ。
そして既にその自覚はあったのだろう。
彼は魔力を用いて何処からともなく、あるモノを取り出した。
「……機を窺うつもりだったが、トーレス家が強硬手段に出た以上、俺としても後手に回るつもりはない」
「え……」
「これを受け取るが良い」
光の中から現れたのは掌サイズの小箱。
それを開くと、そこには銀色に輝く指輪が収まっていた。
「拒否は許さんぞ」
「これは……まさか婚約指輪……!?」
「あぁ」
「こんな大切なものを……本当に、宜しいのですか……?」
「拒否は許さんと言ったはずだ。受け取れ」
いつものようにヴォルンは当主の力を以て強制する。
しかし、流石に今までとは勝手が違うようだ。
指輪を目の当たりにしたアイリは、喜びを感じつつも臆しているようだった。
「まさか、自分には相応しくないとでも思っているのか?」
「!」
「全く……分かっていないようなら教えてやる。俺の下に来てから今までの間、アイリには自ら変わろうという意志、支えようという思いがあった。それは強さだ。ここのトーレス家の連中を遥かに凌ぐ、優しさという名の強さだ。聖女の力も、所詮はその強さによって引き出されたものに過ぎない。俺は知っている。アイリが何を楽しみにして、どんな笑みを浮かべるのかを」
自分を変えることは簡単ではない。
かつて病弱だったヴォルンがそうだったように、まさしく心を入れ替えたという程の覚悟が必要だ。
それをアイリはやり遂げた。
確かに、今までヴォルンに言い寄る女性は何人もいた。
だがその全員が、彼の力を目当てにする者ばかりだった。
他者をねじ伏せ、圧倒できる力。
それは所詮、自分を変えようとする意志の強さから生まれた付属品に過ぎない。
同じように、ヴォルンも聖女の力に惹かれた訳ではない。
自分を変えられるだけの心の強さ。
同じ思いを、同じ意志を分かち合ってきたこれまでの日々。
彼は自然とそこに惹かれていたのだ。
「何よりアイリが拉致されたと聞いた時、俺は久しぶりに怒りを抱いた。アイリを奪われたという事実が、どうしようもなく俺を狂わせたんだ」
そう言って、ヴォルンは一歩歩み寄る。
もっと傍へ、手繰り寄せるように。
「だからもう、何処にも行くな。俺の傍にいろ」
他の連中のように手放したりはしない。
悲しませたりもしない。
アイリはそんな彼の本心を理解したのか。
泣き笑いを見せながら、その指輪を受け取った。
●
かつて枯れ木のような令嬢がいた。
両親から溺愛される長男と違い、虐げられるばかりで満足な食事も与えられなかった長女。
男でもなく、何の才能もなく、自己主張も薄かったせいか。
思い出すだけで命の意味を問いたくなるような日々の連続を過ごした。
そんな彼女、アイリがルナミリス家を訪れてから3ヶ月。
約束していたパーティーの日が訪れる。
馬車を降り、多くの貴族達が待ち受ける王宮内に足を踏み入れ、少しだけアイリは緊張する。
身だしなみはしっかりしている。
身に纏うドレスが似合う程に美しく、絹のような髪を靡かせ、何より健康的。
侍女も太鼓判を押してくれた。
けれど、パーティーに参加するのは今回が初めて。
それでいて、アイリの噂は既に貴族の間で知れ渡っている。
更にこれだけ大規模なパーティーに出席するとなると、緊張するのも無理はない。
だが、彼女は一人ではない。
隣に並び立つのはヴォルン・ルナミリス。
彼がいると知るや否や、無配慮にアイリへ近づこうとした者達が一斉に距離を取った。
流石は恐るべき当主、というべきか。
アイリは安堵しながらも、自分もしっかりしなければと気持ちを改める。
「この様子では先が思いやられるな」
「ありがとうございます。私も、緊張がほぐれました」
「それは構わないが無理だけはするなよ。会場には今のように、アイリを目当てに近づこうとする者もいるはずだ。必要なら直ぐに俺を呼べ。唾を付けようとする者がいるなら、俺が直接出向いてやる」
「ヴォルン様は心配性ですね」
「……何を言うかと思えば。俺はただ、色目を使う連中が気に入らんだけだ」
そう言って視線を逸らす。
これは照れ隠し。
この3ヶ月の間に、彼女にもようやく分かるようになってきた。
尊大な言葉遣いをしているが、それは表面上だけ。
本当はとても不器用で、とても面倒見が良く、とても照れ屋。
そんな親しみすら覚える人だ。
アイリは彼の様子に笑顔で返す。
するとヴォルンは咳払いをして、話題を変えるように口を開いた。
「そう言えば、何故トーレス家に敵意を持たれていたのか。理由は察しが付いた」
「そうなのですか? 一体どんな……?」
「王宮のパーティーには専用の招待状が必要だ。その招待状は各貴族に対して複数枚配られる。元々は各自が信用ある者を招待するためのものだが、それを無断で売買していたのがトーレス家だ。俺は以前、それを忠告した」
両親がどんな不正をしていたのか、アイリは何も知らない。
そもそも、3ヶ月前に若造の怒りを買ったと言われ、強制的に彼の屋敷に放り込まれたのが彼女である。
事情など知る由もなかった。
今まで自分へ行ってきた仕打ちを考えるなら、不正など山ほどしているのだろう。
それを年端も行かないヴォルンに咎められ、矜持を傷付けられた。
だからこその敵視。
彼女にとってはやはり、といった感想しかなかった。
「まぁ、拉致の件も含めて、俺が暴いた不正は全て王家に伝えておいた。既にトーレス家はこのパーティーに参加する余裕すらないようだ」
「そうですか……」
「やはり気になるか?」
「いいえ。少し意地の悪い挨拶を考えていたのですが、伝える機会がなくなったので残念に思っただけです」
「……強くなったな」
「これもヴォルン様のお陰です」
トーレス家の人間は、このパーティーには参加していない。
数々の不正が明らかになり、王家からその責任を追及されているところなのだ。
悠長にパーティーへ参加できる訳もない。
もしかすると、領地の管理そのものを返還させられてしまうかもしれない。
そんな話も聞こえてくる。
顔を青白くする両親や兄の姿を見られないのは心残りだが、考えても仕方ない。
考え過ぎて、そちらに引っ張られたくもない。
それがアイリの結論。
その決断に、ヴォルンは何処か満足そうだった。
「フッ。以前、アイリが初めて俺の前に現れた時、その本性を暴いてやると言ったな」
「そう言えばそうでしたね」
「どうだ。そろそろ明かす気になったか」
そんなことを聞いてくる。
当初はそのままの意味だったのだろう。
間者かもしれないアイリを見極めるための牽制。
だが、今は少し違う。
彼女はゆっくり頷いて答えた。
「最初は恐ろしかったです。お母さま達以上に酷いことをされるだろうって、覚悟していました。でも、そんな考えは直ぐに無くなりました」
「そうか」
「はい。何よりヴォルン様は時折、寂しそうに見えたので」
「寂しい? この俺が?」
少しだけ驚くヴォルン。
彼はかつてこう言っていた。
自分には果たすべき使命があると。
領地や民を守るために、周囲から畏怖されなければならないと。
それらは全て自分を奮い立たせるためのもの。
そんな彼が時折見せる表情は、アイリ自身に近しいものを感じた。
だから何か力になれないか。
支えになれないかと考えたのだ。
結果として、より健康的な生活を送るべく、今では彼女がヴォルンを引っ張っている。
今日のパーティーが終わった後も、夜更かしせずに早寝早起きをするよう示し合わせていた。
「……まさか、そんな風に見られていたとはな」
「それと、私より一つ年下だったことも驚きました」
「それを蒸し返すか。確かに年齢より高く見られることは何度もあったが、今更そんな細かいことを気にするつもりはない。俺は恐るべき当主だからな」
「ええ。確かに、貴方は恐るべき当主さまです」
自慢気に返されたが、アイリは素直に、そして笑顔で肯定する。
単純に怖いという意味ではない。
価値などないと思っていた自分に自分らしい生き方を、道標を与えてくれた。
嫌いだった自分のことが、少しだけ好きになれた。
そんな恐ろしい人に向けて、彼女は改めて伝える。
「全てを諦めていた私に手を差し伸べてくれた。生きる目的を与えてくれた。そんな恐ろしくて、温かくて、愛しい人です」
「なっ!?」
純粋な言葉を前に、ヴォルンは言葉に詰まる。
いきなり愛を囁かれて戸惑ったようだ。
視線を彷徨わせた結果、彼女から逆方向へと逸らす。
その顔は少しだけ赤らめているようだった。
「ふ、フン! 臆面もなくそんな言葉を口にできる胆力があるなら、この先のパーティーも問題ないだろう!」
「ふふふ」
「な、何を笑っている……! 全く……!」
照れ隠しのためか、少しだけ反抗してくる。
やはりヴォルンは直球で攻められることに弱い。
3ヶ月の間に分かったことの一つだ。
こうして見ると年相応の青年でしかない。
本当の彼はとても可愛らしい人なのだ。
そんな人と共にいられることを、思いを分かち合えることを、アイリは嬉しく感じた。
「さぁ、行くぞ。俺達の晴れ舞台だ」
気を取り直してヴォルンは手を差し出す。
その彼に促され、アイリも手を重ねてパーティー会場へと歩き出した。
もう大丈夫。
彼が支えてくれたように、自分も同じくらい支えよう。
それが精一杯な思いの伝え方。
これまでも、そしてこれからも、この想いを忘れずにいよう。
彼女はそう決意し、左手に光る指輪の感触を確かめる。
そして自分の身を最後まで案じてくれた祖母に向けて念じた。
私は今、とても幸せなのだと。