遥か彼方の君
スッキリとした終わりではありません。すみません。
貴方に<好き>と告げたのは随分昔。
両手の指では足りなくなる程の時間想って、……でも届かない。
叶わぬ想いに身を焦がす己を憐れに思い、何度も諦めようとした。
でも出来なくて……過ぎ行く時間に臍を噛みながら繰り返した。
『私を好きになって』
迸る悲鳴は知らずに何度も声になって……でも、聞き届けてくれる人はいない。
どうして私では駄目なのでしょう?
どうして私を選んではくれないのでしょう?
問う度に貴方はいつも曖昧に笑う。他に想う人があるわけではない、ただ……想う相手に私がなり得ないのだと、そう呟いて。
あまりにも辛い拒絶だった。
言われる度、私がどれ程辛く苦しむか、いっそ貴方に見せることが出来たらいいのに……泣いてのた打つ私を見ても、貴方は同じ答えを繰り返すのだろうか?
哀れまれたいわけじゃない、でも……どうせなら知ってほしい。
私がどれ程貴方を想うのか。
海よりも深く、天よりも高く、母よりも果てしなく……ただ貴方を想う。
私以上に貴方を想う人間など存在しないと胸を張って言い切れる。
……なのに貴方は私を愛さない!!
人の心など最も自由にならぬもの。判っていて、不可能ごとを突き付けたくなる程想うのに、貴方は私を拒絶する。
私以外、何処にこれほど貴方を想い、貴方のことだけを考える人間が存在するというのだろう。
出会ってすらいない<誰か>に負け続けた時間。
せめて、姿形の見える相手なら恨むことも羨むことも出来るのに……。
私の敵は見たことも出会ったこともない相手。
貴方の心の中に住まう、まだ見ぬ君。
貴方すら姿を描くことの出来ない見知らぬ君。
でも、その誰かを貴方は想い続ける。
出会いがいつかなど誰も知らない。
しかし、いつか出会う君。
貴方に愛される、<私>ではない<誰か>。
その人を想い、貴方は私を拒絶する。
判っていた、判っていた。そういう相手を貴方が探していたのは判っていた!!
でもまさかその場面に居合わせるとは思っていなかった。
まるで冗談のように女は言う。
『では、私が立候補したら受けていただけるのでしょうか?』
『もちろん』
満面の笑みであっさり了承した貴方を見つめ、私は絶句するしかなかった。
◆◆◆◆◆
快晴の空を見上げぼんやりと風に吹かれる。
ふーっと時間を掛けて吐き出す息は溜め息にも似て……人事のように深呼吸を繰り返していると、やんわりと肩を引かれた。
その瞬間夢から覚めたような感覚があり、導かれて振り返った先には、友人と呼ぶには縁の薄い人が物凄く申し訳なさそうな表情で立っていた。
「レーベン様」
つい、どうしましたの? なんて間抜けなことを聞いてしまった。そのくらい、彼は私の意識の外にいた。
「それ、大丈夫?」
「………え? ……あ、はい。大丈夫です」
ここにきてからずっと揉んでいたハンカチが、手の中でくちゃくちゃになっていた。
擦り切れかけて向こう側が透けて見えるみすぼらしい木綿のハンカチ。
後生大事に持ち歩くそれを彼から隠すため慌ててポケットにしまったが、失うと途端に手持ち無沙汰を感じる。気を抜くと、すぐまたポケットを探ってしまいそうだった。
苛ついている証拠だ。
自制のために両手を組み合わせ、抜けるような青空を見上げる。雲一つない空は、酷く綺麗で眩しくて、心情にそぐわぬその様が胸の何処かに突き刺さった。
痛みに喘いで、また先程までと同じように深く呼吸する。けれど、胸に刺さる何かは秋空に溶けては行かない。何度目かの深呼吸の最中、再び控え目に聞かれた。
「……大丈夫ではないだろう」
また、その存在を忘れていた人の呟きに引き戻された。
また、ハッとして彼の方を向く。そんな私から目を逸らし、濁すように呟かれた。
「……先刻の、あれ」
あれ……彼がそう表現する情景は何度でもはっきりリピート出来た。再び脳内で上映が始まった映像を振り切って、気にしないでください、と手を振って笑う。
「大丈夫です。……少し驚いただけですから」
つい先刻見た光景。
大好きな貴方ーライアン王弟殿下ーと、彼の年上の甥で公爵家の嫡男レーベン様との縁が切れる音がした、あの景色。
いつものように三人一緒に招かれたお茶会。同じテーブルで、時折他の招待客と会話を楽しみながら、私達はいつもと変わらない時間を過ごしていた。
同じ年の私とレーベン様と、二つ年下の殿下。私達は幼い日に引き合わされて以降いつも三人一緒だった。
それにはいくつもの思惑が混ざり合った複雑な事情があるのだけど、そんなものは関係なく。私はただ、出会って一目で恋に落ちた大好きな貴方と共にいられることが嬉しく、幸せだった。
その幸せが壊れる音が聞こえた、あの場面。
主催者に案内されて、主賓である隣国の令嬢が私達の元へ挨拶に訪れた。立上がりそれを迎えた私とレーベン様を差し置いて、彼女は真っ直ぐ殿下だけを見ていた。
豊かな黒髪の整った顔立ちの令嬢は、私と同じ年と聞いたのに、体付きの所為か随分と大人びて見える。女の勘が嫌な警告を発して、そっとライアン殿下を窺うと彼はいつものとろけるように甘い微笑を浮かべていた。
国中の女、老いも若きも皆が焦れるという殿下の笑顔。
私もその一人だが、それは国を越えても変わらないらしい。
目の前の女も真っ直ぐ見つめてしまった殿下の麗しさに手にした扇が口許からずれる程見惚れて、隣の夫人にそっとつつかれてやっと意識を取り戻したようだった。
己の醜態に一瞬頬に朱を走らせ、微かに俯いた彼女は、気を取り直すようにすぐに見事な淑女の礼で挨拶した。
『遠いところを来てくださったのです、堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。さあこちらへどうぞ』
立ち上がった殿下が自身の隣の椅子を引き、そこへ彼女を座らせる。
位置的に彼女は私の真正面に座ることとなった。
その所為でなく彼女の纏う血のように赤いドレスが酷く目に付いて、正直不快だった。
そして、第一印象通りの警告通り、彼女の魅力は私にないものだった。
華やかな造りのお顔は一見高慢そうに見えるのに、言葉を交わして微笑んだ途端、近寄りがたい大人びた雰囲気が一瞬で壊れる。そして現れるのは、年相応の少女としての溌剌さ。
ハッとする程美しい淑女の笑みが、血の通った少女の微笑みに変わる瞬間を見せられて勘違いしない男はいないだろう。
ただ可愛いだけのお人形……と評される私とは対極にあるタイプの女性だ。
予想通り、殿下は身体ごと彼女の方を向いて無心に話している。その様は彼女の魅力に惹かれ、夢中になっている男そのもののように見えた。
私とレーベン様は視線で合図を交わし、それとなく二人に話を合わせながら、四人で談笑している雰囲気を作る。殿下と彼女が特別親しくしていたなんて思わせる訳にはいかない。
今日のお茶会は、そういう駆け引きの必要な場所なのだ。
時折レーベン様と視線を交わしながら、そんなことを考えて適当に相槌を打っていたから、正直その時の話題がなんだったか私ははっきり覚えていない。
突然私の名前が女の口から出て、彼女の方を見たらしっかりと目が合った。
『ミモザ様は殿下の婚約者ではありませんのね』
確かめるように言われ、ギョッとしたのは私とレーベン様だけだった。
この国のものが決して触れないその話題に無遠慮に踏み込んで、女はゆったりと笑う。
そして貴方は常と変わらない顔で、違う、とはっきりおっしゃった。
笑顔で否定した殿下を見て心得たように頷いた女は、では……と言葉を継いだ。
『私が立候補したら受けていただけるのでしょうか?』
『もちろん』
軽く、本当に軽く貴方が答えたこと。
どんなに私の胸を抉ったか、貴方は知りもしないでしょうね。
その瞬間確かに私は傷ついて……為すべきことが判っていても、それ以上その場にいることが出来ずに、席を立ってしまった。
相応しくない振る舞いだったのは判っているのに、これ以上私ではない女に笑い掛ける殿下を見ていることは出来なかった。思い出すと今も確かに胸を刺すものがある。ズキンと痛んだものを隠して、レーベン様に何でもないことのように笑って見せた。
「ふふ、殿下があんなにもあっさり他の方を受け入れるとは思っていなかったから、少し驚いただけです。……私は何年もお慕い申し上げていると伝えていても駄目なのに、あんな……冗談のような告白で受け入れて貰える方もいるのだと思うと、空しいだけですから、……大丈夫です」
女に滲む羨望は隠さなかった。
幼い頃から一緒のレーベン様には隠しても無駄だ。
笑え笑え。
所詮これは最初から叶わぬ恋。
抱き続けたのは私の勝手。
結末がどうなろうと誰の所為でもない。
貴方が私以外を選んでも、貴方を、ましてや選ばれた誰かを恨む筋合いはない。
最初からそういう恋なのだ、これは。
だから心配しないで、寧ろ煩わせてごめんなさい、と言う意味を込めて笑うのに、彼は一緒に笑ってはくれなかった。
振り返った時に見た表情のまま、ずっと私を見ている。
気の毒そうな、申し訳ないような顔。
やめて……そんな目で見られる方がずっと辛い。
ずっと惨め。
判っていた結末に傷つくなんて、馬鹿らしいにも程がある。
ほら見てご覧……誰かの嘲笑が聞こえる。
そう、愚かな私が悪いのよ。
だから一緒に笑ってくださいな。
そう思って微笑むのに、レーベン様は益々悲痛な顔を為された。
そんなお顔をされても、私は態度を変えることは出来ない。
「……冗談だと思う」
やがて絞りだすように言われた慰めは、でもなんの効果もなく。
「冗談の方がきついですわ。私の本気は、あの方の冗談以下ということですし」
「っ………………すまない」
ついきつくなった口調は責める意味合いを過分に含んで……即座に謝られた。
「いいえ、私こそ折角慰めていただいたのに、申し訳ありません。これだから、私は殿下に振り向いてもらえなかったのでしょうね……」
「ミモザ……」
「これでもう殿下の婚約者はあの方に決まりでしょう。私たちの<お役目>も終わりですわ」
「けれど君は本心で殿下を想っていただろう?」
「ええ、……最後まで殿下には信じてはいただけませんでしたけど」
つい遠い目をしてしまう程長く思い続けた貴方。
確かに、私と貴方は政略のために引き合わされた。
でも……そんなもの関係なく私は貴方をひたすらに想った。私以外の誰が貴方を幸せに出来るのかという傲慢さまで持って、ひたすらに……。
でも貴方はただの一度も、私の心を、想いを、信じず。
揚げ句の果てに、私の目の前で、私以外の誰かを選ぶ言葉を口にする。
ふぅ……と零れたのは、疲労に促された溜め息だった。
帰ります、と告げると、何処へ? とも問わず、レーベン様はエスコートのために手を差し出してくれた。言葉にしなくても判ってくれる彼を、先程友人というには縁薄いと思ってしまったことを申し訳なく思う。
彼はずっと一緒にいた、戦友のような、仲間なのに……。
彼の手を掴んで立ち上がらせて貰い、頭二つ分程上にあるレーベン様の顔を真っ直ぐ覗き込み願った。
「ありがとうございます。ですが、申し訳ありません、レーベン様にはどうか私の分も公爵家の務めを果たしてくださいませ」
「ミモザ」
「私は一人で大丈夫です」
笑って言い切ると、レーベン様は奇妙に顔を歪めながらも私の手を解放した。
後で使いを出すからと言う彼と別れてから見つけた使用人に、他の招待客には内緒で帰宅のための馬車を用立てて貰えるよう言伝た。
すぐにやってきた執事に気分が優れないこと、直接主人に辞去の挨拶が出来ない詫びを伝え、用意して貰った馬車へ向かおうとした途端、今一番会いたくない人と会ってしまう。
彼の令嬢を連れた殿下が何故かやってきて、私を見つけると令嬢をその場に止どめて駆け寄ってきた。
「ミモザ、何をしていた。探したぞ」
「……殿下こそ、何故こんなところに?」
「そなたもレーベンもいないから探しに来たのだ。……レーベンは一緒ではないのか?」
「レーベン様は会場へ戻られました。私は気分が優れないので先にお暇させていただきます」
「何っ? 大丈夫か?」
「屋敷へ戻れば治ります。ご心配には及びません。それより殿下、未来の婚約者様を放っておいてはいけませんわ。すぐにお戻りになってください」
と、こちらを窺っている少女へそれと判らないよう視線を向ける。私に指示されて、鼻白むように笑った殿下は潜めた声で続けた。
「あれは……社交辞令だ。貴族同士ではよくある軽口だろう」
……ああ、判ってた。この人はそういう男。
それを平気で私に言う、そういう人。
「あちらはそうは受け取りません。いい機会ですし、夢など追わずそろそろ本気で身を固める覚悟をなさってください」
「なんだ怒っているのか?」
「いいえ、哀しんでおります」
ストレートに告げると、何故か殿下は目を瞬かせた。
普通だろう? 好きな男に婚約者が出来る場に居合わせてしまったのだから。
それでなくても、私は微妙な立場の、微妙な令嬢なのだ。
「それでは失礼します」
「後で見舞いを贈る、気をつけて帰れ」
「……ありがとうございます」
いっそこの場で、いらないと言えたら楽なのに……それでも私は喜ぶだろう。
愛する男からの、心の籠らない贈り物を、心底喜ぶのだ、私は。
走り出した馬車の車窓から流れ行く景色を見ながら無意識にポケットを探る。
手に触れる柔らかなガーゼの感触。
擦り切れる程握り締め続けたそれを手にして、ぼんやり口にした。
「もういいかしら……?」
もういい、とはっきり言えない自分が憎い。
でも、もういいのではないか?
もう、充分ではないだろうか?
お役目も、恋も、私はもてる力すべて使って努力してきた。
でも、貴方は私を選ばない。
この先何をしても貴方は私以外を選ぶ。
なら、どんな努力することも無駄だろう?
無駄な努力をこれから先も重ね、無駄な時間を過ごすのか?
いつかいつか……報われないと判りながらも、何処かで期待して過ごし続けるのか?
問う脳裏に先程のレーベン様のまなざしが蘇る。
そして、あんな目で周囲から見守られ続けるのか?
あんな目を……両親や兄弟にさせ続けるのか?
哀れむような、……否、私を見る誰かも苦しんでいるような、あんな目を。
優しい両親、暖かい兄弟、頼もしい友人……取り巻くすべての人にあんな悲しげな目をさせ続ける、私の想い。
私がこの想いを抱き続ける限り、彼らから本当の憂いを取り除くことは出来ない。
……判っているのに、捨てられない想い。
私の人生に絡み付く<想い>という足枷がいっそ憎くて、唇を噛んだ。
捨ててしまおうと何度も思ったのに、結局捨てられない。
目の前で他の女を選ぶ姿を突き付けられても、なくならない。
捨ててしまえば楽になれるのに……。
「どうか、もう、許して……」
そんな言葉を無意識に請うてしまうような<想い>は、もうきっと<恋>でも<愛>でもない。
……では、私が抱くこれはなんなのだろう?
考えようとする思考を、乱れた呼吸と共に零れた涙が乱す。
それを拭うのは、擦り切れた木綿のハンカチ。
想いの塊のようなそれを握り締めて顔に押し当てる。
これを手にしたのはほんの子供の頃。
失われた生命を悼んで流れる涙を隠しきれない私に、殿下が下さった。
本当は殿下が一番泣きたかっただろうに、あの方は一粒の涙も零さず。
喪服の王子は気丈に立って、最愛の死を見送った。
『きっと、ミモザもレーベンもいつか、あんなふうにいなくなるのだろうな……』
不意に蘇った呟き。
無意識に応えていた。
「いいえ、ライアン様、……私達は、私は、ずっと貴方のおそばに……おりますわ」
唱える言葉と共に蘇った情景が私の視界を開かせた。
そうだ、この誓いを、この想いを、捨てて楽になることなど、私は望まない。
最初に踏み込んだのは、私。
届かなくていい、信じて貰わなくていい。
報われるために抱いた想いじゃない。
これは、私が、貴方に捧げると勝手に誓った<想い>。
遥か彼方の貴方に、ただひたすら、私が、捧げ続ける。
ただそれだけの、想い。
私が抱いたのはそういうものだったと今更思い出して、私は<恋>でも<愛>でもないものを抱き締め、そっとハンカチに唇を寄せた。
読んで頂きありがとうございました。