05.火事
焦げ臭いその臭いは私の思考能力をじりじりと焼いていく。
この臭いは何を焼いている臭いなのか、私はよく知っていた。
冷や汗がじんわりと浮かぶ。
ナタリエ様はドアをそっと開けて外をみているため、私のそんな様子には気づていない。
個室は防音になっていたようで、開けられたドアからは、他のお客様たちの慌てふためく声と黒い煙が流れ込んでくる。
「どうやら火事のようですわね。私たちも逃げましょう……テイル様?」
「……ぁっ」
ナタリエ様が近づいてきて顔を覗き込んでくるのが分かったが、指先1本動かせないほどに私は震えていた。
建物を焼く臭いは、脳裏に焼き付いているあの光景を想起させる。
「テイル様!テイル様!お気を確かに!」
ナタリエ様の声と、顔に触れてくる手に正気に戻ることが出来た。
ぎゅっと目を閉じて、自分に言い聞かせる。
――ここはリンベルンじゃない。しっかりするのよ『テイル』。早く逃げないと。ナタリエ様だって危ないのだから。
「だ、大丈夫……ですわ。すみません。参りましょう」
声と手は震えているけれど、何とかハンカチを取り出して口に当てる。
ナタリエ様が心配そうに見てくるけれど、今は空元気でも行動しなければならない。
個室を出れば、黒い煙が蔓延している。
火の元は近くないのか、火は見えないのが幸いだ。
私たちの個室は1階にあったので、安全に外へと出ることができそうだ。2階へ続く階段から多くの人が慌てて降りてくるのがみえた。
「……?」
精霊たちがひどく落ち着かなさそうにしていることに気がつく。
魔法をお願いする時にしか姿を見せない精霊たちだが、リンベルンの民はある程度感じ取ることが出来る。
その精霊たちが、今はざわざわとしていた。
精霊たちは実体を持っていないため、火事には影響はないというのに。
どうしたのか問いかけたいが、ナタリエ様が傍にいて問いかけることが出来ない。
感じ取れる方にちらりと視線を向ければ、精霊たちは一瞬光のもやの姿をみせて、2階へと続く階段を示している。
それはまるで、私に行って欲しいとお願いしているようだ。
「あ、えと、わ、私、あちらに忘れ物がありまして……」
「何をおっしゃっているの?今はそれどこではありませんわ!」
私だってこの火事現場から早く出ていきたい。
否応なしに過去を思い出させてくるこの店から早く離れたかった。
でも、精霊が呼びかけてくる先はきっと――。
「ナタリエ様……ごめんなさい!ナタリエ様はお逃げになって!」
ナタリエ様の静止を振り切って、私は2階へと続く階段へと足を向けた。
後ろで名前を呼ぶ声がしたけれど、振り返らずに駆け上がる。
妖精たちは光のもやになって、私を2階の奥へと誘導するが、どんどん煙は濃くなり、火の勢いも激しくなっていく。
熱風と煙で目と喉が焼かれそうだ。
すれ違う人がいなくなったあたりで、私は妖精たちに風の膜を張ってもらった。
これでしばらくは大丈夫だろう。
精霊たちは2階の1番奥の個室前で止まった。
私たちのいた個室とは対角にある部屋だ。
発火元はここなのか、火に覆われている。
「誰か、いらっしゃいますの?」
ドアは開け放たれていて、中の人たちは逃げたはずだけど、そろりと覗き込む。
中は調度品と壁にかけられた絵画にも火が移っていて、絵画が壁から音を立てて落ちた。
「ひっ……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
誰もいないでくれと願ったのに、私の呼び掛けに謝る青年の声が聞こえた。
部屋の隅で細い体躯の青年が蹲っている。
黒煙で視界が悪く、目を凝らして青年を確認すると、私は予想していたとはいえ言葉をなくした。
「!」
――その青年は白い髪と赤い瞳をしていた。
青年の周りの精霊がざわざわとしている。
精霊たちは青年を助けて欲しいと呼びに来たのだろう。
このカフェにそぐわないよれたシャツとシワのよったスラックスを履いていて、テーブルの上には魔封石の首輪が置かれているのを見る限り、青年はリンベルンの生き残りで間違いないだろう。
魔封石はリンベルンでは罪人に付けられる精霊と接触できなくなる鉱石だ。
精霊と接触できないことは魔法を封じられることを意味する。
「大丈夫ですわ。安心なさって、私はあなたを助けに来ましたのよ」
青年に手を差しだしても青年はビクッと体を揺らして、部屋の隅に体を押し付け怯えてしまった。
不意に、数日前に聞いた生き残りが捕らえられたという話を思い出した。
何となく勘だが、きっと青年はその人なのだろう。
「私はあなたに害を与えませんわ。信じてください」
天井にまで火が移っていて、いつ崩れ落ちるかわからない。
精霊に頼んで風の膜を青年にまで伸ばしてもらっているが、そのことに気づかないほどに、彼は怯えて動揺している。
目を逸らして蹲る青年に、私は1度目を閉じて覚悟を決める。
大丈夫だ。外に出るまでにかけ直せば問題ない。
「皆、魔法をいったん解いてくれる?」
私にかかっていた魔法が解け、視界に白い髪が入り込む。
「私もリンベルンのものですわ。ですから、どうかこの手を取ってください」
青年はごめんなさいと繰り返していた口を閉じて、目を見開いた。
安心させるようにニコリと微笑んで見せれば、青年は泣きそうな顔で私の手を取ってくれる。
「もう、大丈夫ですわよ」
青年を立ち上がらせると、弱っていたのかぐらっとよろけたので青年の腕を肩に回す。
重いけれど、自分の足で歩くことは出来そうなので大丈夫だろう。
出口へと振り向いて、私は足を止めてしまった。
「……どうして?」
まん丸に開かれ満月のようになっている金色の瞳が私を見つめていた。
こんな状況なのに金色の瞳に映っているのだと歓喜する愚かな恋心が、彼は本物だと告げている。