自分とは違う自分 ~一人称をたらこにした所感~
どうも、たらこです。
たらこのエッセイを読んでくれている人は気づいたかもしれませんが、50回を境に一人称を「私」から「たらこ」に変えています。
ちょっとした変化が自分の中で起こったので、ご報告しようかと。
その前に、どうして一人称を変えたか。
それについてお話しします。
実は……デリケートなエッセイを書くと、たらこは感想が怖くてビクビクしていたのです。
別に誰かに何か酷いことを言われたことはまだ一度もないのですけど、どうしても内面をさらけ出す系のエッセイを書くとナイーブになってしまいます。
自分の心の内をさらけ出すわけですから、当然のことながら、否定的な感想はダメージが大きくなります。
先ほども言いましたけど、幸いにもまだそのような体験はしておりません。
ですので、ただの取り越し苦労ではあると思うのですけども……。
怖いものは怖い。
やっぱり怖いのです。
だったら、そんなエッセイ書くなよと思うかもしれませんが、怖さよりも快楽を求めてしまう性分なもので……(え?
まぁ、リスク込みで投稿しているわけです。
だって感想欲しいもん。
そこで、たらこは考えました。
どうしたら万が一の時にダメージを減らせるか。
色々考えた結果、もう一人の自分を用意することにしました。
たらこです。
え? 何を言っているのかって?
だから、たらこです。たらこですってば。
たらこは、筆者とは別人格の存在です。
エッセイを書いたり、活動報告をしたり、他の人の作品に感想を書いたり、レビューを書いたり、コメントを残したりする時だけ現れる、不思議な妖精みたいな存在なのです。
この人、馬鹿なのかな?
そう思ったそこのアナタ。
……否定はしない。
でもね、割とありっちゃありな手段なんですよ。
なろうの中で架空のもう一人の自分を演じることで、直に受ける精神的ダメージを、全てそのもう一人の自分に押し付けることができるのです。
こう書いていると、筆者酷い、作者酷い、たらこ可哀そうと自分でも思います。
ですが、ちょっと想像してほしいのです。
皆様、おうちにある小皿の上に乗せたたらこを頭の中で思い描いて下さい。
たらこは、明太子でも、焼きたらこでも、なんでもいいです。
お皿の上に乗ったたらこが思い描けましたね?
では、そのたらこに必死になって説教するオジサンを思い浮かべて下さい。
「お前のエッセイはつまらん!」
「馬鹿か貴様! このタコ!」
「いったいその年まで何をやっていたんだ!」
顔を真っ赤に染めて食品に説教するオジサン。
とっても変な光景ではないですか?
別にオジサンでなくても、オバサンでも、怖いお兄さんでも、巨乳のおねーさんでもいいのです。
誰かが必死になって食品に説教する光景を思い浮かべて下さい。
そうすると……なんかスッキリしません?
いや、しないですよね。
でも、直接自分が叱られているのではなく、この人は食品に怒っているのだと考えると、ワンクッション置いて精神的ダメージが軽減されると考えたのです。
われながら実にあほなことを……。
まぁ、そんなわけで一人称を変えたわけですけども。
自分の呼び方を「私」から「たらこ」に変えることで、ある変化が起きました。
なんか……文体がめっちゃ柔らかくなったんです。
ですます口調になった上に、なんかふにゃーんとした文章になりました。
ふにゃーんとした文章を書いていると、気分もふにゃーんとなります。
なんかとてもリラックスできるのです。
日常生活で自分の名前を一人称にすることはまずありませんが、エッセイの中で自分の名前を一人称にすると、世の中のあらゆることがどうでもよくなる気がします。
だって……自分をたらこって呼ぶ人って、明らかにおかしいでしょう。
なろうのなかでもたらこ一人だけなんじゃないかしら。
ということで、たらこは一人称をしばらくたらこで統一しようかと思います。
まぁ……どうせすぐに飽きるんでしょうけど。
以前から思っていたことですけど、キャラクターを演じるのって大切な事なんだと思うのですよ。
別になろうでなくても、ツイッターやYouTubeでキャラを演じる人たちはたくさんいますよね。
営業や接客のお仕事なんかも、キャラを演じるようなものかもしれません。
というか、日常的にみんな、いろんなキャラを使い分けていると思うのです。
社会人はたくさんの顔を持っているはず。
今日はどの顔で行こうかしら。
なんて、器用に顔を付け替えられるとは思いませんけども、信頼できる人の前の顔と、そうでない人の前の顔は、やっぱり違うのかなぁと。
たらこは、わたしです。
それ以上でも、それ以下でもありません。
私とは違う、もう一人の自分。
エッセイを書き続けているうちに、どっちが本当の自分なのか、分からなくならないようにしたいものです。
演じているうちに人格を乗っ取られたらたまったもんじゃない。