ひっくり返った国
イルゼはエルメルライヒ子爵と愛人の子である。
当時、エルメルライヒ子爵夫婦に子はなく、七歳くらいまではごくごく普通の貴族令嬢として育った。
状況が変わったのは、八歳の誕生日を迎える二ヶ月前。
エルメルライヒ子爵夫人の妊娠が発覚したのだ。
これまで優しかったエルメルライヒ子爵夫人は豹変し、イルゼを無視するようになった。
女主人の態度を見て、使用人達もイルゼを冷たい目で見るようになったのである。
その理由は、卑しい愛人の子だから。
幼いイルゼに、そんな言葉を浴びせる侍女がいたのだ。彼女はとてもいじわるだった。
通常ならば、心の傷となっただろう。
けれどもイルゼは、「そうなんだ」と納得するだけだった。
食事も時折忘れられていたものの、イルゼは優しい庭師から菓子を貰いに行っていた。
貴族令嬢として扱われていた時から、イルゼは要領よく生きてきた。
それは、もとより彼女が持っていた潜在能力だったのか。
人は働いて報酬を得る。教育により理解していたイルゼは、使用人に混ざって働き始めた。
使用人達は屋敷のお嬢様が働き始めたことに驚き、止めようとした。けれども、働かないと生きていけないと主張すると、誰も何も言わなくなった。
イルゼが使用人同然で働いていることを、エルメルライヒ子爵夫婦は見ない振りをしていた。
夫婦の間には跡継ぎが生まれ、イルゼを気にしている場合ではなかったからだ。
腹違いの弟がすくすく育っている間に、イルゼは使用人としてせっせと働く。
侍女に混じって働くことは嫌がられたので、もっぱら下働きである。
朝は厨房補助、そのあとは洗濯、アイロン掛け、窓磨きに、床掃除、落ち葉を拾い集めるのもイルゼの仕事だった。
そんな生活を十年続けていた。すっかり貴族令嬢としての教養も抜け落ち、その辺の娘と変わらない〝はすっぱ〟に育つ。
将来については特に何も考えていなかった。イルゼの幸せとは夜ぐっすり眠って、食事をお腹いっぱい食べることだから。
屋敷にいたら、ほどほどに叶う。
賃金を貰っていなくても、満足していた。
けれども、状況は大きく変わる。
イルゼの前に、父親であるエルメルライヒ子爵がやってきたのだ。
手づかみでトマトを食べる娘を見て、大きなため息をつく。そして、まだ下町の娘のほうが品があると零した。
それでもいいと言って、エルメルライヒ子爵はイルゼの腕を引く。
使用人の活動区画である階下から、屋敷の住人の生活区間につれて行かれた。
まずは風呂。侍女の手によって、もみくちゃに洗われる。捨て犬のようだと言われたのは若干腹が立ったものの、久しぶりに浸かった風呂はとても気持ちよかった。
それから、いい匂いがする香油を肌や髪に揉み込まれ、美しいドレスを纏い、華やかな化粧が施される。
赤狐の毛色に似ていると言われる髪も、優雅に結い上げられた。
再び、イルゼはエルメルライヒ子爵の前にやってきた。彼は「少しは見られるようになったか」と呟き、イルゼに分厚い書物を暗記するよう命令する。
それは国内の貴族について書かれた貴族名鑑。あとから手渡された羊皮紙の束に書かれていたものは、国を守護する聖女カタリーナへ対する悪口の数々。
エルメルライヒ子爵は高々と宣言する。これから国をひっくり返してみせる、と。
その言葉のとおり、国はひっくり返った。
きっかけは、新たな聖女の登場である。
ユーリア・フォン・クラウゼ――聖女カタリーナの妹で、エルメルライヒ子爵は「彼女こそが真なる聖女だ!」と宣言した。
聖女カタリーナは偽物だと糾弾するのは、イルゼの仕事だった。
言葉というのは、力を持っている。
嘘でも、大きく声をあげたら人はあっさり信じてしまうのだ。
聖教会も、新たな聖女ユーリアを支持した。
後ろ盾を失くした聖女カタリーナは、日に日に立場を失ってしまう。
エルメルライヒ子爵は、王太子ハインリヒと新たな聖女ユーリアの仲も取り持った。
ふたりは共通の趣味があることから意気投合し、瞬く間に恋し、愛し合うようになった。 そして――聖女カタリーナが国王に謁見を希望した日に、騒動となる。
王太子ハインリヒは聖女カタリーナに婚約破棄を言い渡し、新たな聖女ユーリアを妃として迎えると宣言。
その後、聖女カタリーナを偽物であると責め立て、国外追放を言い渡したのだ。
偽物聖女はいなくなり、めでたしめでたし――とはならなかった。
聖女カタリーナが姿を消した途端、国は荒れ始める。
降り止まない雨、何度も地上に叩きつけられる雷、農村地帯を襲う嵐など。
それだけではない。
集団暴走した魔物が、街に侵攻し始めたのだ。
これまでは聖女の祈りによる結界のおかげで、魔物は足を踏み入れることができなかった。
けれども、それを可能としてしまったのだ。
人々は気づく。
国外追放された聖女が本物で、追い出した聖女が偽物だったことに。
危機を感じ取ったエルメルライヒ子爵の逃亡は鮮やかだった。早々に財産を纏め、王都を抜け出した。
その後、妻子ともども行方不明となる。
そうなると、責任は王太子ハインリヒに一点集中した。
彼は命をもって、罪を償わされたのだ。
偽聖女ユーリアが処刑されるのも、時間の問題だろう。
国内は混乱を極めた。
そんな中で、大いに怒っている者がいた。
「いや、国の命運を聖女ひとりに背負わせるなど、ありえないだろうが!」
国王の諮問機関である枢密院の者達を一喝する。
それは聖教会の新たな枢機卿となる、フィン・ツー・アインホルンであった。