新しい枢機卿
修道女の一日の大半は、〝祈り〟に捧げられる。
生活区が分けられた修道士と共に大聖堂に集まって、朝と晩の礼拝を執り行うのだ。
今日は新しい枢機卿が祭壇に立つらしい。
前枢機卿の失脚、国外追放から半年経っていたが、やっと新任を迎えるようだ。
聖教会の最高顧問として名高い枢機卿は、六十歳以上の司教の中から選別される。
偽聖女事件の責任を背負う形となるので、誰もしたくなかったのだろう。
いったい誰が就くのか、修道女の間でも話題になっていた。
聖歌を歌い始めると、大聖堂の扉が開かれる。
歌声の中に、動揺が走った。それでも歌を止めるわけにはいかないので、動揺が混ざった聞くに堪えない聖歌が歌われる。
いったい誰が枢機卿に任命されたものか。イルゼは通り過ぎる枢機卿を横目で見た。
枢機卿のみ纏うことの許されている、深紅の生地に金の刺繍を施した式典聖装をまとうのは、金髪に新緑を思わせる明るい瞳を持つ、白皙の美少年であった。
年の頃は十六くらいか。
酷いとしか言いようがない聖歌に微塵の動揺も見せず、淡々と進んでいく。
十代の枢機卿など、前代未聞だろう。
社交界で有力貴族の顔を覚えさせられたイルゼであったが、美少年枢機卿の美貌に覚えはなかった。
はて、と首を傾げる。
もしかしたら、イルゼと同じどこぞの愛人の子に責任を押しつけたものか。だとしたら、大変気の毒である。
あとに続いていた司祭が、祭壇に立つ若き枢機卿を紹介した。
「こちらにおわすのは、新たな指導者たる枢機卿、フィン・ツー・アインホルン猊下である」
フィン・ツー・アインホルン――イルゼの中に叩き込まれた貴族名鑑に、その名は該当しない。
アインホルンという家名にも、覚えがなかった。
いったいどこから連れてきたのか。
ただ、その辺で拾ってきた美少年ではないのだろう。
修道士や修道女を見下ろす目は、人の頂点に立つ者のそれである。
二十歳に満たない少年は、年齢にそぐわない威厳を漂わせていた。
その後、朝の祈りは滞りなく進んでいった。
美少年枢機卿の、中性的な美しい声で祈りが唱えられる。
修道女の中には、美しい枢機卿を前に熱いため息を落とす者もいた。
一方で、イルゼの脳内は別のことで占められていた。
朝の祈りのあとは、奉仕の時間である。
今日、イルゼに振り分けられていたのは、大聖堂のパイプオルガンの裏にある部屋の掃除だった。早く掃除を済ませて、ほどよくサボろう。なんてことを考えていた。
朝の祈りが終わり、枢機卿が司祭を引き連れて大聖堂をあとにする。
誰が合図するというわけでもなく、修道士と修道女はそれぞれの生活区へ戻っていった。
イルゼは大聖堂に残り、振り分けられた部屋の掃除を開始した。
窓を開いて空気を入れ換え、口には布を当てて縛ってから箒を握る。
数日前に掃除をしたようだが、それでも埃が積もっていた。
手早く箒で掃いて、水拭きする。ワックスで艶を出したら掃除は完了である。
長年下働きに勤めていたイルゼの手にかかったら、これくらいお手の物であった。
聖教会では奉仕の時間をたっぷり取っている。あと一時間は続くので、掃除が終わったイルゼは自由に過ごせるというわけだ。
手を洗い、部屋の隅に置かれた木箱の上に腰を下ろした。懐に忍ばせていたパンを取り出す。
イルゼの体温で温められていたからか、朝食で食べたときよりしっとりしているような気がした。それでも、口の中の水分はこれでもかと奪われる。
一口食べただけで、何か飲みたくなった。
当然、奉仕中の飲食は禁止である。ふらりと厨房に立ち寄って、茶の一杯なんて貰えるわけがない。
茶の産地は降り止まない雨の打撃を受け、収穫できる状態ではないという。
聖女の祈りがなくなった影響か、大雨や川の氾濫、嵐などの天変地異にも襲われていた。
王都も、一週間雨が止まないという困った状況である。
このままだと、確実に国は滅びるだろう。
真なる聖女がいなくなったのは、イルゼの父親であるエルメルライヒ子爵のせいである。
けれども、聖教会にはイルゼを責める者はいない。
多くが関係者だからというのもあるが、聖教会は諍いを禁じていた。
一度騒ぎを起こした者は、三日の断食と一年の監禁が言い渡される。
そんなわけで、怒りのはけ口としてイルゼに憎しみを向ける者はいなかったのだ。
近いうちに、国は確実に滅びる。
そんなことよりも、イルゼは今現在、口の中の水分がなくなりつつある現状にうんざりしていた。
ため息をひとつ零していたら、パタパタと鳥が羽ばたく音が聞こえた。窓枠に、白い鳥がちょこんと止まる。
あれは、元王太子ハインリヒと、偽聖女ユーリアの結婚式のさいに空に放つ予定だった鳥だろう。
平和の象徴として、結婚式の日に白い鳥を放つのがこの国の慣習なのだ。
不要となったので、外に放たれたのだろう。
鳥は自由でいいなと思っていたらその鳥はイルゼのほうへと飛んできて、あろうことか頭上に着地した。
「え!?」
『ポウ!!』
おかしな鳴き声に、イルゼはぷっと噴きだす。
頭の上からどかそうと手を伸ばしたら、ちょこんと手の甲に飛び乗った。
「な、なんなの?」
妙に懐っこい鳥であった。イルゼの目の前に持ってきても、飛び立とうとしない。
そんな鳥の視線は、イルゼが持つ黒いパンにあった。
「これ、食べたい?」
『ポーウッ!』
まるでイルゼの言葉を理解しているかのように、高々と鳴いた。
「いいよ、あげる」
『ポウ!』
パンをちぎって床に投げると、白い鳥は嬉しそうにパンを突いていた。
それを見つめていると、それとなく心が満たされる。
これまで、誰かに何かを与えるという行為をしていなかったのだとイルゼは気づいた。
「そんなにパンが好きならば、また持ってこようか?」
そう言うと、白い鳥は顔を上げて嬉しそうに『ポウ!』と鳴いた。
「国内の天変地異でも収まれば、もっといいパンが食べられるんだけれど」
『ぽーう……』
イルゼの独り言にも、白い鳥は反応を示す。だんだん面白くなってきた。
「お前、愉快な鳥だね。名前でも付けてあげようかな」
ポツリと呟くと、白い鳥はハッとなる。
期待の眼差しを、イルゼに向けているように見えた。
「そうだ。命名――ハト・ポウ」
『ポーウ!』
白い鳥改め、ハト・ポウが鳴いた瞬間、眩い光を放つ。目を閉じたのに、左の瞼の裏に魔法陣が浮かんだ。
瞼の裏がカッと熱くなり、酷い片頭痛に襲われる。痛む場所は、いつもと同じ。左の目の周辺である。不可解な魔法陣が浮かんだのも、左の瞼。
いったいどうして? 疑問が浮かんだのと同時に、痛みはスッと消えた。
「え、なんで?」
「何事だ!!」
光が収まって呆然としていると、部屋に誰かがやってくる。
金髪に緑の瞳を持つ美少年枢機卿であった。
イルゼの頭上に移動していたハト・ポウが、『ポーウ』とひと鳴きする。