ドーナツと幸せ
「どうして、ドーナツを売ろうと思ったの?」
「それは、ドーナツを食べると幸せになるからだ! 人が幸せになると、〝瘴気〟の発生が大きく減少する。それが、世界平和に繋がるのだ」
「瘴気?」
「ん? 瘴気を知らぬのか?」
「ええ。初めて聞いた」
「最近の聖女は、物知らずなんだな」
そもそも聖女ではない。そんな言葉が喉元までせり上がってきたものの、ごくんと呑み込んだ。
「瘴気というのは、人間が発する怒り、悲しみ、憎しみ、妬み、恨み、苦しみ――それらの負の感情が具現化したものだ。その昔、これがあまりにも大量発生してしまったので、荒れに荒れた。そんな世界を救おうと、過去に存在した大賢者が世界の仕組みを変えてしまったのだ」
大賢者が人々に希望を与えるため、聖女という存在が各国に生まれるようにした。その辺の話は、フィンから軽く聞いていた。
ただ、瘴気について聞いたのは初めてである。
「瘴気が発生すると天変地異を誘発し、魔物はもれなく凶暴化するのだ」
「そんな……!」
人々を恐怖に落とし込んだのは、人々だった。驚くべき事実である。
魔物の集団暴走についても、明らかにされていないことであった。
暴れたら暴れるほど、魔力を消費してしまう。手っ取り早く魔力を供給するために、魔物は人を襲って喰らうのだという。
「だったら、魔物は人のせいで、悪い存在になってしまった、ってこと?」
「まあ、そうだな。古代まで遡ると、魔物と人は干渉していなかったようだ」
長きにわたって、魔物はこの世の悪とされてきた。しかしながら、本当の悪は人間側なのではないか。イルゼは思う。
「正直、世界に聖女を作ったことは失敗だと思っておる」
「それはたしかに」
「おお、わかるか! 誰に言っても、理解してもらえなくてな!」
それはそうだろう。人間側にとって、聖女は極めて都合のいい存在だ。悪く言うはずがない。
ハイエルフはイルゼの背中をバンバンと叩き、喜んでいた。力が強くて若干痛かったものの、イルゼはぐっと堪える。
「お主は不思議な聖女よ。瘴気をまったく発していない」
「どういうこと?」
「通常、人は大なり小なり、瘴気を纏っているものだ」
不満を持たない者はいないとハイエルフは言い切る。
怒り、悲しみ、憎しみ、妬み、恨み、苦しみ、誰もがこれらの感情をその身に抱えながら生きているのだ。
「歴代の聖女を見かけたことがあるが、人より少ないものの、皆瘴気を纏っていた。お主はどうして、まったく瘴気を纏っていない?」
「それは――」
まず、思い浮かんだのはハト・ポウの存在だ。ハト・ポウとの契約で繋がることによって、瘴気が浄化されているのかもしれない。
あとは、リアンの存在も引っかかる。精霊の血が流れる彼と一緒にいたので、なんらかの影響を受けている可能性があった。
心当たりがありすぎる。
「見たところ、初代聖女のような無垢なる清らかさは感じないのだが」
「ええ。私は誰かの手本になるような人間ではない自覚はある」
「ははは! お主、面白い奴だな」
自覚はなかったが、五百年も生きるハイエルフに言われると妙に説得力がある。もちろん、嬉しくはなかった。
「まあ、何はともあれ、人間が瘴気を抑えたら、魔物の集団暴走は収まるし、天変地異も落ち着くだろう。世界平和の鍵は、ドーナツが握っているわけである!」
握っていない。ドーナツは平和など、絶対に握っているわけがない。
指摘したかったが、ぐっと我慢する。
またしても、会話が途切れてしまった。イルゼは必死になって新たな話題を考える。
「まあ、そんなわけだから、ジルコニア公国はお主が守ってくれ」
「待って。突然言われても困る」
「困る? お主はシルヴィーラ国から亡命してきたのではないか?」
「違う。きちんとした手続きを経て、入国してきたの」
リアンと偽装結婚までして、やってきたのだ。ここで代理聖女代理なんてやっている場合ではない。
「なるほどな。この国の領地に聖女がやってきたものだから、喜んで呼び寄せたのだが」
ハイエルフは強引なところはあるが、悪人ではないのだろう。ただ、善人でもない。
「私を元いた場所に帰して」
「それはできない」
「どうして?」
「少しの間でいい。その間に、我がドーナツで世界を幸せで包んでみせようぞ」
「一応聞くけれど、少しの間ってどれくらい?」
「二十年くらいだな!」
まったく少しの間ではない。ハイエルフの少しは人間と大いにズレていた。
「じゃあ、頼んだぞ!」
去ろうとするハイエルフの腕を、イルゼは掴んで引き留める。
キョトンとした顔で、見下ろされた。
「聖女、どうした?」
「あ――」
このまま置いていかれたら、勝手にジルコニア公爵家の屋敷に忍び込んだただの不審者である。
何がなんでも、ハイエルフをこの場にと止めないといけない。
考えろ、考えろと自らを鼓舞させる。けれども、頭の中は真っ白だった。
「聖女よ。人々がドーナツを待っているというのに、引き留めるな」
待っていない。ハイエルフの作った魔物と関連ある食材を使ったドーナツなど、誰も喜ばないだろう。聞いただけで、卒倒するに違いない。
彼女を引き留められるネタなどなかった。万策尽きたかと思ったが――視界の隅にドーナツが入り込む。
ハイエルフの最大の興味は、ドーナツにある。
何か、ドーナツをネタに引き留めることはできないのか。
イルゼは懸命に考える。
なんでもいい。思いついたものを、勢いのまま口にした。
「あの、ドーナツって、いろんな種類があるのをご存じ?」
「ん? ドーナツの種類?」
「ええ、そう!」
ハイエルフが絶賛するドーナツは、クッキーみたいに表面の生地がサクサクしたタイプだ。
「ドーナツには、いくつか種類があるの」
「詳しく話を聞かせてくれ」
見事、ハイエルフは引っかかる。イルゼは彼女から見えないように、背中に回した手で拳を握った。




