〝卑しい赤狐〟イルゼの修道生活
カンカンカンと、甲高い鐘の音がかき鳴らされる。
それは、聖教会で奉仕する修道女達を起こす合図であった。
狭い部屋にベッドが四台も詰め込まれ、同じ数の修道女が共同生活を営む。
ひとりは元王太子の筆頭愛人、もうひとりは聖女カタリーナの元侍女、もうひとりは聖教会の寄付金に手を付けた侯爵夫人、そして〝卑しい赤狐〟こと、エルメルライヒ子爵令嬢イルゼ。
修道女の朝は、太陽が昇るよりも早い。
最初に起きたのは、イルゼであった。むくりと起きあがり、大きく背伸びをした。
朝の鐘は三十分も続く。耳をつんざくような音で、鳴り終えたあともキーンという音に苛まれるのだ。
「うるさ」
イルゼは掠れた声で、ぼそりと呟く。
聖教会の空気は乾燥していて、喉は常に痛みを訴えている。喉にいいという蜂蜜は贅沢品で、修道女の口になんて入るわけがなかった。
のっそり起き上がると、頭がずきんと痛んだ。これは、幼少期から続く片頭痛である。
なぜか雨の日の朝に限定して、左の目の辺りを中心に鈍痛を覚えるのだ。
理由はよくわからないものの、ここ最近はずっと雨なのでいい加減嫌になる。
鐘の音が、頭痛をさらに悪化させているように思えてならない。
今日も、絶不調の状態から一日が始まる。
寝台の周囲は、カーテンなどで遮られていない。自分だけの空間など皆無であった。
薄暗い中、イルゼは魚油ランプを灯す。
生臭さと共に、周囲はぼんやりと照らされた。
魚油の灯りは薄暗く、おまけに臭い。臭いの少ない蜜蝋の蝋燭は罪を背負った修道女には贅沢品なのである。
イルゼはカゴに畳まれた修道服を手に取った。分厚い青の生地に、黄色い刺繍糸で聖教会の紋章が刺された贅沢な召し物である。
失脚し国外追放された前枢機卿が修道女全員にあつらえたものだった。
修道女達の見栄えを気にして作らせたと口にしていたようだが、実際は仕立屋と癒着関係にあったのである。
仕立屋から金を受け取り、聖教会に寄付された大金を仕立屋に横流ししていたのだ。
それらの悪事も、偽聖女の発覚とともに明らかとなった。
意外にも、服自体は上等な仕立てであったために、そのまま使われることとなったようだ。
上下繋がった丈の長いワンピースに、上からケープとマントが一体化した外套をまとう。髪を三つ編みにして、ベレー帽を被ったら身なりは整った。
ここで、イルゼはため息を零す。
同室の者達は、誰ひとりとして目覚めていなかったのだ。
鐘は鳴り止んでいない。それでも、すうすうと寝息を立てている。
朝食は同室の者が揃わないと貰えないというルールがあった。うんざりしつつ、イルゼは声をかける。
「ねえ、そろそろ起きたら?」
反応はない。
それも無理はないだろう。彼女らは数ヶ月前まで高貴な身分で、贅沢な暮らしをしていた。朝、起きるのは太陽が高く昇るような時間帯だったのだろう。日の出前に起きていたのは、イルゼひとりだけだったのかもしれない。
エルメルライヒ子爵家の娘として認知されたイルゼであったが、扱いは最低最悪だった。
メイドが着ているようなエプロンドレスしか与えられず、しっかり働かないと食事をもらえない。
使用人同然の暮らしをしていた。
もちろん、朝は日の出前から始まっていた。
朝はエントランスの床磨きから始まり、シーツの洗濯、絨毯の手入れ、家具磨き、アイロンかけと、仕事を山のように頼まれていた。
その激務に比べたら、聖教会の奉仕なんて大したことはない。女官長にいじわるされて、食事を抜かれることもなかった。
指導する修道女達は禁欲的で、真面目だ。
ルールをきちんと守っていたら、食いっぱぐれることなんてなかった。
そんなイルゼがなぜ、偽聖女ユーリアの取り巻きをしていたのかというと、父親であるエルメルライヒ子爵に命令されたからであった。
偽聖女ユーリアの取り巻きは全員、エルメルライヒ子爵が選抜し、用意した令嬢ばかりだったのだ。
聖女カタリーナへの悪口も、すべて台本があってそれを暗記して読みあげるだけ。
もともとイルゼの顔付きはいじわるそうだと揶揄されることも多かったので、さほど演技をせずとも嫌味として伝わっていた。
イルゼは偽聖女ユーリアに近しい取り巻きだったにもかかわらず、拘束されなかった。
聖教会での奉仕を、イルゼは〝幸運〟だと思っていたのだ。
イルゼのささやかな望みは、朝昼晩と食事を取ること。
それを叶えるために、同室の女達を起こす。
「早く起きないと、朝食を食べる時間がなくなるから」
大声をあげても、鐘の音に負けてしまう。
イルゼはぽつりと呟いた。
「おばさん達、朝弱すぎ」
「な、なんですって!?」
「誰がおばさんなんだい!?」
「聞こえていてよ!!」
同室の女達は、変なところで耳聡かった。
◇◇◇
なんとか朝食の時間に間に合った。
狭い部屋でギャアギャアと騒いでいたために、耳の鼓膜は限界を訴えている。まだ、近くで文句を言われているように錯覚していた。
深いため息と共に、朝食が載った盆を受け取る。
本日のメニューは、野菜スープに硬い黒パン。
祈りを捧げたあと、イルゼはまずパンをちぎってスープに投入する。そうしないと、口の中の水分をすべてパンに持っていかれるのだ。
コップに注がれているのは、白湯だ。もうずっと、白湯ばかりである。
以前までは三日に一度、ミルクの日があった。けれども、畜産を営む地域が魔物に襲われ、乳製品が王都に入ってこなくなったらしい。
乳製品だけではない。
農村地帯も魔物の襲撃に遭い、壊滅状態だという。収穫するはずだった麦は、すべて焼けてしまったと。
一か月もすれば、朝食からパンがなくなるだろう。なんて話を、厨房で働く者達がしていたのを耳にした。
聖女の不在は、国に大きな影響を及ぼしている。
イルゼはパンをちぎる手を止め、ハンカチに包んでそっと懐に忍ばせた。