イルゼの想い
「それでは、ふたりきりのときは、イルゼ様と呼ばせていただきます」
「いや、アイスコレッタ卿、私の名前に様はいらないんだけれど」
「アイスコレッタ卿ではありません」
「……リアン、様」
「私も様は不要です。イルゼ様が私を呼び捨てにするのならば、同じようにいたしましょう」
面倒な事態となった。
初対面に近い、しかも異性を呼び捨てにするなど難易度が高い。もう、聖女様と好きに呼ばせておけばよかったと、自らの提案を後悔する。
発言に責任を持つように、とイルゼに教育したのは家庭教師だ。当時のイルゼは七歳か八歳。印象的だったので、記憶に残っていたのだろう。
なんとなく嫌という理由で、自らの発言は撤回できない。イルゼは腹を括った。
「わかった。リアン、これでいい?」
「はい! ありがとうございます、イルゼ」
改めて、名前を呼ばれてくすぐったい気持ちになる。
前に名前を呼ばれたのは、いつだったか。記憶にないくらい、誰も呼ばなかった。
リアンの周囲には、花が舞っているように思えた。もちろん、幻覚である。
しばし嬉しそうにしていたリアンだったが、ハッと肩を震わせる。唐突に、挙動不審となった。
「どうかした?」
「イルゼ、その、強引でしたか?」
「何が?」
「その、名前の呼び方について、強要してしまったのかと」
「強要ではないから、安心して」
「で、でも、困っていましたよね?」
「それは――あまり、私の名前を呼ぶ人がいなかったから、戸惑っていただけ」
「そう、だったのですね」
リアンはしょんぼりと、肩を落とす。
感情豊かと言えばいいのか悪いのか。
兜で覆われているのに、リアンは非常にわかりやすい男であった。
彼とは、これから一緒にいる時間が長くなるだろう。
イルゼの事情を把握していたほうが、あとあと楽になる。今みたいに、気まずい時間を過ごすのはまっぴらだった。
「私、父の愛人の子で、教育をまともに受けていないの。気づいていたでしょう?」
「いいえ、まったく」
そんなわけあるかと、内心指摘する。
喋りは品がなく、食事のマナーだって、リアンやフィンのように洗練されていない。明らかに、躾けがなっていないという自覚はあった。
「文字の書き方や計算、ちょっとした歴史に初級編のマナー程度は習っていたけれど。弟が生まれてからは、メイドとして実家で働いていたの」
「メイドとして、働いていた!?」
リアンは大げさに驚く。彼の大声に驚いて、パンを突いていたハト・ポウが軽く飛び上がった。
「あ、聖鳥様、申し訳ありません」
『ポーウ』
ハト・ポウは苦しゅうないと、翼を左右に振っていた。
「なぜ、娘に対してそのような酷いことをするのか。まったく理解できません」
「父は早々に、私に見切りをつけた。それだけだと思う」
家門に生まれた女性ひとりを育てるのには、莫大な資金がかかる。
教育費用に、ドレス代、メイドや侍女、家庭教師などの人件費、それから嫁がせるさいの持参金――。
「いい家に嫁がせようと思えば思うほど、お金がかかる。私はそれを、家庭教師から習っていたの。だから、現実をあっさりと受け入れられた」
正直に言えば、貴族女性としての役割はイルゼにとって負担に思っていた。
もしも、夫となった男性との相性が悪かったら?
後継者となる男児が産めなかったら?
社交界の付き合いで顰蹙を買ったら?
不安を抱えたまま、皆、知らない家へと嫁いでいく。
それよりも、責任のない使用人をしていたほうがずっと楽だ。そんな考えのもと、これまで生きてきた。
「私よりも世の貴族女性のほうが、酷い目に遭っている」
追放された聖女カタリーナや、偽聖女ユーリアだってそう。イルゼは言い切る。
野心家であるエルメルライヒ子爵に利用され、姉妹は翻弄された。
何も知らず、ユーリアが本当の聖女か否かも確認せずにイルゼはエルメルライヒ子爵に命じられるがまま悪事に加担した。
もう二度と、このような事態などあってはならぬだろう。
フィンは、イルゼに約束した。聖教会に寄付が集まって、聖水や聖石が十分集まったら、再び聖鳥を召喚すると。
次こそは、契約してみせるとフィンは宣言していたのだ。
フィンは聖鳥を聖教会の象徴にすることを、諦めていなかったのである。
特別でもなんでもないただ無作為に選ばれた聖女に、国の平和を背負わせる仕組みが間違っているとフィンは憤っていた。
彼のような考えを持つ者は、ごく稀だろう。
ずっとずっと昔から、貴族女性の立場は弱かった。なんて話を、家庭教師から聞いていたのだ。十八年生きて、まさにその通りだとイルゼは思う。
どれだけ早く生まれても爵位は与えられず、賢くても仕方がないと教養を取り上げられ、政の道具として都合よく利用された挙げ句、男児を産めなければ役立たずだと罵られる。
貴族社会では、よくある話である。
――あなたは上手く立ち回りなさい。相手に悟られないよう、利用されるのではなく、利用するのです。
家庭教師の言葉の一つ一つは、イルゼの中に深く浸透している。
絶対に他人へ弱みなんて見せないし、迷惑もかけない。そして、誰にも頼らない。
それが、イルゼの生きる道だった。
「イルゼ、他人の苦しみと、自分の苦しみを同じように考える必要はないかと」
「え?」
リアンの言葉に、イルゼの心が乱れる。
溢れないようにと蓋をしていた感情が、ぐらぐらと揺れ動いていた。
「他の人のほうが苦しい思いをしているはずだから、自分は大丈夫なんて考えは間違っています。あなたの苦しみは、あなただけのもの。誰かの苦しみと比べて、軽んじる必要はないのです」
涙がポロリと零れた。
頬を伝った瞬間、イルゼは驚く。
涙なんて、涸れ果てているものだと思っていた。
本当は、ずっとずっと辛かった。
世話をする乳母や使用人達がいる中で暮らしていたのに、突然部屋を追い出されてしまったから。
どうすればいいのかわからず、親切だったメイドに泣きついた。
けれども、メイドは「知らない」と冷たく返す。
他の使用人達も同じだった。
皆、イルゼではなく、エルメルライヒ子爵の娘に対して優しかったのだろう。
見放されたイルゼは、ひとりで涙を流す。そんな状況であっても、誰も知らんぷりだ。
今までは、一瞬たりとも放っておかれなかったのに……。イルゼは衝撃を受ける。
このままではいけない。
イルゼは涙を流しながらも、行動に出た。使用人の仕事をするのと引き換えに、食事と寝床を得たのだ。
仕事に慣れてきても、イルゼは毎晩のように涙を流していた。
ある日から、悲しいのに涙も出なくなる。涙は涸れるものなのだと、イルゼは思った。
それからというもの、イルゼは自分の感情に蓋をした。
きっと貴族女性のままだったら、エルメルライヒ子爵に利用されて、酷い目に遭っていたかもしれない。
仕事は忙しいけれども食事にありつけて、温かい寝床がある。今のほうがずっとマシだと、言い聞かせていたのだ。
リアンはイルゼの強がりを、あっさり見抜いた。
涙で鎧姿が滲んでいた。