ワイバーン、襲撃!
フィンは背もたれの上部にある、窓のカーテンを開いた。
まさかの光景に、イルゼは言葉を失う。
黒い点がぽつぽつと見えていたが、だんだんと輪郭が明らかとなった。フィンがぽつりと呟く。
「あれは、ワイバーンだ」
翼の生えたトカゲの魔物である。竜に姿形は似ているものの、生物学的にはまったく異なる生き物だという。
魔王の手先とも呼ばれており、たった一体のワイバーンがひとつの村を滅ぼすこともあったらしい。
魔物のランクには、上位、中位、下位とあるが、ワイバーンは紛れもなく上位魔物である。知能はそこまで高くないものの、人を襲うという残虐な習性があるのだ。おまけに、群れでの行動を可能とする。
空で出会いたくない魔物として、第一に挙げられるような存在であった。
さすがのフィンも、ワイバーンの群れを前に険しい表情を浮かべる。
「ワイバーンなんて、ここ百年くらい国内では目撃されていないのに。まさか、群れで現れるなんて……」
国内の竜騎士が総動員されても、討伐できるかどうかわからない数だという。
まさか、代理聖女の世直し旅が即座に終了するなんて想像もしていなかった。
イルゼは呆然としてしまう。
これは悪い夢なのではないか。手の甲を抓ったものの、普通に痛い。それに加え、ハト・ポウの温もりも感じていた。
今の状況は、間違いなく現実なのだろう。
この世への未練は特にない――と思っていたが、幼少期に食べた白いパンが忘れられなかった。
焼きたてに、バターを塗って食べた記憶が鮮明に甦る。
走馬灯に白いパンを思い出すなど、イルゼくらいだろう。
もう一度、食べたかった。
なんて思っている間に、目の前に黒い物体が下りてくる。それは、リアンの黒甲冑であった。
おそらく彼は、竜車の上に乗っていたのだろう。そこから、何もない空へと跳び下りていったのだ。
そこから、信じがたい光景が広がる。
そのまま落下すると思っていたリアンは、空中に下り立った。
「え、あれは、どうして!?」
「魔法で足場を作っているみたいだ」
窓を覗き込むと、リアンの足下には氷のような塊がある。
「氷魔法と浮遊魔法の合わせ技だな」
ふたつの魔法を同時に放ち、足場とする。魔法は発動させるだけでも大変である。そんな一般常識を破り、リアンは複数の魔法をやすやすと操って見せた。
駆ける瞬間とズレなく、氷の足場が魔法で作られる。
そして、ワイバーンに接近すると、腰に佩いていた剣を引き抜いた。
まるで食材をサクサクと切るように、リアンはワイバーンの首を切り落としていく。
同時に、地上に死骸が落下しないよう、火魔法で全身を焼き切っているように見えた。
「何……あれ」
「リアンは魔法騎士なんだよ」
「魔法、騎士?」
初めて耳にする言葉を、そのまま口にする。なんでも、剣技と魔法を操る騎士をそう呼ぶらしい。
「国内にいる魔法騎士はリアンだけだ」
「は、はあ」
そんな話を聞く間に、リアンは一体のワイバーンの首を刎ね跳ばす。すぐに魔法陣が空中に浮かび、その身は灰となっていった。
「生きている魔物の血肉は燃えにくい。しかしながら、生命活動が停止した魔物は少々の火で燃え尽きてしまうんだよ」
フィンの解説など、ほとんど頭に入らない。
ただただ、圧倒的な強さを持つリアンの戦いを呆然と眺めるばかりであった。
最後の一体を倒したのと同時に、イルゼはフィンに問いかける。
「彼は、何者?」
「言っただろう? 野良竜騎士だ、と」
あそこまで圧倒的な強さを持つリアンが、なぜ主人を持たずに野良竜騎士をしているのか。
彼についての謎が再び浮上する。
フィンに尋ねても、野良竜騎士であるという以上の情報は出てこないのだろう。
イルゼは本人に聞くしかないようだ。
けれどもイルゼ自身、深い事情を探られるのは嫌いだ。リアンから話さない限り、質問しないほうがいいのだろう。
何はともあれ、脅威となったであろうワイバーンは全滅した。ひとまず安堵する。
リアンは何食わぬ顔で戻ってくる。
竜車の中を覗き込んだリアンの兜は、よくよく見たら粘度のある液体がべっとり付着していた。黒なのでよくわからないものの、恐らくはワイバーンの血だろう。あれだけの数を倒したので、全身、返り血で真っ赤なのだろう。
イルゼは悲鳴を呑み込む。
一方で、フィンは窓を開く。血の臭いが、むわっと流れ込んでくる。
顔を顰めつつ、リアンに指摘した。
「おい、リアン。ワイバーンの血がついている」
「どの辺に?」
「たぶん全身」
リアンは頬を手の甲で拭う。まったくきれいになっていなかった。
イルゼは震える手で、ハンカチを差し出した。リアンは首を傾げる。
「その、これで兜だけでも拭いて」
「私に、ハンカチを?」
「ええ、まあ」
「ありがとうございます。その、お心遣いに感謝します」
リアンは左右の頬部分を拭いて終わらせようとしたが、兜にはまんべんなく血が付着していた。フィンから「ぜんぜんきれいになっていない!」と怒られる。
仕方がないのでイルゼはリアンの手からハンカチを抜き取り、兜を拭いてあげた。
リアンはなんだか嬉しそうだった。兜で顔は隠れるのに、そう感じてしまうのは摩訶不思議である。
あっという間に、ハンカチは真っ赤に染まった。
「リアン、返り血のハンカチは燃やしておけ」
イルゼにも魔物の血は毒だから、聖水で手を洗うように命じた。
「毒!?」
「そうだ。習わなかったのか?」
「習っていない!」
リアンの板金鎧は、魔物の毒を無効化にする魔法が付与されているらしい。そのため、魔物の血まみれになっても問題ないようだ。
イルゼはガーゼに浸した聖水で手を拭いた。
念のため、ハト・ポウに大丈夫か質問する。
「ハト・ポウ、毒、もうない?」
『ポポウ!』
ハト・ポウは翼を広げ、○を作った。
問題ないという反応だったので、ホッと胸をなで下ろす。
ちなみに、魔物の毒は種類により異なるらしい。
ワイバーンの血に触れると体内から魔力が蒸発していき、数時間後には死に至る危険なものだという。
「なんで、ワイバーンの返り血を拭く私を止めなかったの?」
「リアンが嬉しそうだったから」
この、親友想いめ……!
イルゼは男ふたりの友情を恨めしく思った。