竜車は空へ
邪竜――悪しき存在として、歴史上で何度も人類の敵となった。
その体は悪に支配され、人を喰らって魔力を得る邪悪な竜である。
そこまで世界史に詳しくないイルゼでも、邪竜の恐ろしさについては知っていた。
子どもが読むような本でも、邪竜はいつだって悪役だったから。
イルゼは驚き過ぎて、言葉を失う。
地上へと着地した邪竜は、ジロリとイルゼを睨んだ。背筋が凍るような思いとなる。
この場から今すぐにでも逃げ出したかったものの、足が竦んで動けなかった。
邪竜を前に、恐怖に支配されてしまった。
『ポーーウッ!』
いまだ、リアンの頭上にいるハト・ポウが叫んだ。その瞬間、イルゼの緊張感はプツンと切れる。
ハッと、我に返った。
冷静になって考えると、もしもリアンの竜が邪悪だったら、イルゼなど一口で呑み込んでいただろう。
邪竜は竜が着地する魔法陣の上に、きれいに下り立っていた。それはきちんと使役されている証だろう。
イルゼはリアンに話しかける。
「あれが、あなたの竜?」
リアンは大きく頷こうとしたものの、ふるふると首を横に振る。それは、違うという意思の表れではない。深く理解しているわけではないが、どうしてかわかった。きっと、身振り手振りで反応するのは止めて、きちんと言葉にしようとしているのだろう。
彼は胸に手を当てて深呼吸したのちに、イルゼに言葉を返した。
「その、そうです。あれは、私の竜です」
優しさと品が滲んだような、低い声であった。やはり、最初の印象通り年若い青年なのだろう。おそらく、年の頃は二十歳前後か。
「どうして、これまで喋らなかったの?」
「私と話をすると、呪われるので……」
呪いと聞き、さすがのイルゼも驚く。いったいどういうことなのかとフィンを振り返った。
「呪いなわけがあるか。周囲が適当に言っているのを、本人が気にしているだけだよ」
なんでも、邪竜と契約を交わしたリアン自身が呪われた存在だと噂されていたらしい。
そのためどんどん口数が減ってしまい、挙げ句の果てに会話を身振り手振りで済ませるようになったようだ。
「あの、マルコゲは怖くないです。人を呪うこともありません。安心してください」
邪竜の名は〝マルコゲ〟と言うらしい。独特すぎるセンスに、イルゼは笑ってしまった。
「何か、変なことを言いましたか?」
「思いがけない名前だったものだから」
「そうでしたか」
不器用ながらも言葉を返すようになったリアンに、フィンが鋭く指摘する。
「リアン、お前、笑われているんだぞ」
「それでもいいです。これまで、誰かを笑顔にしたことなどなかったので」
「いや、お前、相当面白い男なんだが?」
「初耳です」
喋り始めると、リアンの印象はますます面白い方向へと転がっていく。
フィンの言う通り、ただの面白い男なのだろう。
イルゼの中に残っていた恐怖心は、いつの間にか薄くなっていた。
ここで長く話しすぎた。
国内には、困っている人達が大勢いる。早く駆けつけないと、パンも食べられなくなるような状況に陥っているのだ。
イルゼは急ごうと一行を急かす。そして、リアンに向けて手を差し出した。
首を傾げているリアンに、一言付け足す。
「手を、貸してくれるのでしょう?」
「あ、はい!」
リアンは弾んだ声で返事をして、サッと手を差し出す。イルゼはそっと指先を重ねた。
優しく握り返されたのと同時に、踏み台へと一歩を踏み出す。
腰を支えられた状態で、車に乗り込んだ。ハト・ポウも、あとに続いて飛んでくる。
リアンはフィンにも手を差し出したようだが、「気持ち悪いことをするな!」と怒られていた。しょんぼりと肩を落としていたが、それも一瞬であった。イルゼの視線に気づくと、手を振り始める。イルゼが軽く会釈すると、嬉しそうだった。
謎に包まれていたリアンだったが、本人はミステリーとはほど遠い天真爛漫な青年のようだった。
「変な奴だろう?」
「少しだけ」
今は、そういうことにしておく。
リアンが操縦席に乗り込むと、車内に魔法陣が浮かび上がった。
竜と操縦者を繋ぐ手綱が、魔法の力で浮かび上がる。
魔装線路を展開するための魔石は、操縦席に入れる器があるらしい。御者となる者は竜を制御したり、魔石を追加したりと忙しいようだ。
「通常、竜車には護衛も付ける。それも、リアンが兼ねている」
「あの、前から気になっていたんだけれど、猊下の護衛は?」
「いない。騎士を傍に置くなんて、暑苦しいだろうが」
「アイスコレッタ卿も騎士だけれど」
「あれは特別だ。親友だからな」
「さようで」
会話をしているうちに、竜車が動き始める。
邪竜マルコゲが翼をはためかせる。すると、ゆっくり、ゆっくりと体が浮いた。同時に、車体も上昇していく。
驚いたことに、動いても車内は安定したまま。景色を眺めていなければ、動いているとわからないくらいである。
『ポーウ』
ハト・ポウは初めての竜車に緊張しているようだった。いつもはイルゼの頭上でうたた寝しているのに、今は膝の上で目をギンギンさせていた。
念のため、突然の衝撃で跳んでいかないよう、ハト・ポウの体を両手で包み込むようにして押さえておく。
ハト・ポウに気を取られている間に、竜車は空を走っていた。
「すごい……!」
思わず、感嘆が口から零れる。
竜車は悠々と、雲間を横切っていった。
雲を抜けた先には、青空が広がっている。
見たこともないくらい澄み切った青だった。地上に広がる木々も、美しく見えた。
どれも、代理聖女を務めなかったら見られなかった景色だ。
しばし見入っていたが、フィンが大人しいことに気づく。
なんと、腕を組んだまま眠っていた。
枢機卿の就任から今日まで、めまぐるしい毎日を過ごしていたのだろう。
イルゼには想像もできない重圧を、十六の少年が背負っているのだ。立派なものだと思う。
今だけは、ゆっくり寝かせておこう。
そう思ったのと同時に、耳をつんざくような『ギャギャギャ!』という鳴き声が聞こえた。
もしや、邪竜の鳴き声なのか。
ハト・ポウも、負けじと鳴き始める。
『ポ、ポーウ! ポーーーウ!』
「え、何?」
フィンはハッと目覚める。深く寝入っていなかったようだ。
「どうした?」
「いや、なんか変な鳴き声が聞こえて」
「変な鳴き声?」
そう呟いたのと同時に、操縦席と繋がる窓が開かれた。
リアンが驚きの情報を口にする。
「魔物です。しばし離れます。自動操縦にしてありますので、ご安心を」
「は!?」
そう言い残し、リアンは姿を消した。
「ちょっ――!」
魔物の出現に驚けばいいのか、リアンが空の上で姿を消したことを驚けばいいのか。一度にたくさんの情報が流れ込んできたので、イルゼは混乱する。
「落ち着け。リアンに任せていれば、問題ない」
「っていうか、空、魔物がでるの!?」
「飛行系の魔物がいるだろうが」
「それはそうだけれど……」
高度な魔法技術をもって作られた竜車と魔装線路である。魔物避けをしているものだと、イルゼは勘違いしていたのだ。
「言っただろう? 竜車には護衛が必要だ、と」
だったら、御者と護衛を兼任させないでほしいと、イルゼは思った。