悪魔の囁き
イルゼはこれから命じられるであろう内容を、ある程度予想していた。
けれどもそれは、ハト・ポウの世話係とか、餌係とか、その程度だった。
美少年枢機卿の言った〝代理聖女〟とはなんぞや。
目には見えない疑問符が雨霰のように飛び交う。
「わけがわからない、という顔をしているな」
「ええ、本当に、何が何やら……」
「言葉のとおり、お前が聖女の代わりを務めるということだ」
「なぜ?」
イルゼは自分でも驚くほど低い声で問いかける。短い言葉の中に、「嫌だが」という感情がこれでもかと滲んでしまった。
「聖教会において、聖女というのは崇拝の象徴である」
世界の歴史が続く中、人々は聖女を信仰の対象にしてきた。
「なぜ、人は聖女を信仰してきたのか。それは簡単だ。大きな力を持ち、かつ美しい存在だったからだ」
歴代の聖女は皆美しかった。人々は聖女の姿に心酔し、ますます信仰するようになったという。
「美しいものは、人を酔わせる。その定義を、僕は聖鳥にも当てはめ、人々の信仰を絶対的なものにしようと考えていた。しかし、しかしだ」
美少年枢機卿はうんざりとした様子で、イルゼの頭上で羽を休めるハト・ポウを見る。
「この鳥畜生では、人々の熱気も冷めてしまうだろう」
「それは、まあ……」
美しく、尊くておかしがたい存在であれば、聖女でなくとも信仰心は高まる。
けれども、ハト・ポウみたいなどこにでもいる鳥であれば、人々はそっぽを向くだろう。
「この混沌たる時代に、聖女信仰は重要だった」
聖女を信じてさえいれば、この世は平和である。
国民が思いをひとつにしていたら、余計な騒動は起こらない。
現に、聖女が十八年も不在となる隣国は、長年悲惨な状態である。
国は荒廃し、国民の生活は逼迫する一方。特権階級である王族や貴族への不満も募り、市民運動が各地で起きている。それだけならばまだいい。革命が起きたら、国内の情勢はさらに悪い方向へと傾くだろう。
「大変遺憾なのだが、国の平和を保つにはどうしても〝偶像〟が必要だ。その役割を、その鳥畜生とお前に果たしてもらいたい」
ここで、イルゼは挙手する。引っかかる点があったのだ。
「聖女代理を務めろとのことだけれど、私は社交界で嫌われているエルメルライヒ子爵の娘で、かつ偽物の聖女の取り巻きだった。口の利き方を知らない上に、美しくもないのだけれど、その辺はどうお考えで?」
「確かに、お前は聖女だった娘達とは真逆の存在だ」
美少年枢機卿はずんずんとイルゼに接近し、片膝をつく。
平伏していたのだが、顎を掴まれ上を向かされた。
輝く美貌が、眼前に迫っている。
なめらかな肌に、ぱっちりとした瞳、それを縁取るくるりと上を向いた睫など、どの部位を切り取っても芸術品のような美しさだ。
あまりにも煌びやかなので、目がチカチカする。顔を逸らそうと思っても、顎を強く掴まれているので身動きが取れなかった。
「舞台に立たせるとしたら、悪女役だな。聖女カタリーナをいじめる役を命じたエルメルライヒ子爵の見立ては正解だった」
「なぜ、それを?」
聖女カタリーナに悪口をぶつけるよう命じられていたことは、誰にも話していない。
どうして美少年枢機卿が把握しているのか、イルゼは理解に苦しむ。
「お前、運よく聖教会送りにされたと思っているのか?」
「それは――」
たしかに、よくよく考えたらおかしい。
聖女カタリーナに悪口をぶつけて心的外傷を与えたイルゼが、聖教会の無期限の奉仕活動で済むなんて処罰が甘すぎる。
「偽聖女ユーリアが、お前は悪くないって証言したんだよ」
「ユーリア様が?」
「ああ、そうだ」
なんでも、イルゼが聖女カタリーナの悪口台本を持ち歩いていたことを把握していたらしい。エルメルライヒ子爵の指示で言わされていたのだと、証明していたようだ。
「おまけにお前の出生についても、偽聖女ユーリアは話し、エルメルライヒ子爵に逆らえる立場でなかったことを話したんだ」
通常であれば、イルゼも偽聖女ユーリアと同じく拘束される予定だった。けれども、エルメルライヒ子爵に命じられて実行していたということで、情状酌量をくみ取り、聖教会送りとなったようだ。
「ユーリア様……!」
歴史上最低最悪の悪女と罵られている偽聖女ユーリアであったが、イルゼはそう思わない。
王太子ハインリヒとの結婚と聖女の座を狙う野心はあったものの、それ以外はごくごく典型的な貴族女性であった。
教養が抜けおち、礼儀もなっていないイルゼに、いろいろ教えてくれたのも彼女である。
ドレスだって、エルメルライヒ子爵が急こしらえで用意したものが流行遅れだからと、私物をいくつか譲ってくれた。
現在、社交界では〝卑しい赤狐〟と呼ばれるイルゼ以上に嫌われていると耳にしていた。けれども、イルゼにとってはよき貴族女性の模範であったのだ。
「偽聖女ユーリアを公開処刑したほうがいい、という声が高まっている」
どくんと、胸が大きく跳ねた。
それも無理はないのだろう。
元王太子ハインリヒが処刑されても、聖教会を非難する声は収まっていない。いつか、市民が結託して聖教会を破壊しようと乗り込んでくるのではと、戦々恐々とする修道女さえいるくらいだ。
美少年枢機卿はぐっと接近し、とろけるような美しい声でそっと囁いた。
「もしもお前が聖女代理を務めるのであれば、僕が偽聖女ユーリアの処刑を反対し続けよう」
聖教会の最高顧問である枢機卿の反対があれば、偽聖女ユーリアは絶対に処刑できないという。
続けて、美少年枢機卿は囁く。
「美しさについては、心配いらない。次代の聖女は、顔出ししない方向でいく」
聖女の姿を布で覆い、影だけを見せるようにするらしい。
「偽聖女事件は、ユーリア・フォン・クラウゼの美しさが仇となった。だから、新しい聖女の容貌は隠すことにする。そう言えば、皆納得するだろう」
聖女の言葉も、美少年枢機卿が代理で読み上げるという。イルゼはただ、皆の前に立っているだけでいいらしい。
「代理聖女を、務めてくれるね?」
悪魔の囁きのように聞こえてならない。けれども、偽聖女ユーリアは自分の保身を考えず、イルゼを守ってくれた。
今度は、イルゼが守る番なのだろう。
変わらない毎日が崩れ去るのは絶対に嫌だ。
けれども、それ以上に不義理を働くのは嫌だった。
イルゼは美少年枢機卿の命令を受ける。
偽物聖女として、立つ決意を固めた。