グリーン・フラッシュ
霞みゆく夕闇の中、太陽が沈んでいく。
静かに、そしてゆっくりと、いつものように。
変わり映えのないオレンジの光を放ちながら。
「…………」
僕はそれを何も考えずただじっと、虚ろな目で眺めていた。高層ビルの屋上で――ある覚悟を携えて。
僕が今立っているこの建物は、僕が住むこの街で一番の標高を誇るオフィスビルだ。屋上からの景色をぐるりと見渡せば、街全体はおろか、隣の街やその奥にある山や海が一望できるほどに高い。
まさしく絶景と呼ぶに相応しいのだろうが、屋上は生憎、関係者以外は立ち入り禁止となっている。でも僕はビル内に居る人々の目を盗み、非常階段を駆け上ってここまで来てしまったのだ。
こんな何もない所にそこまでして、僕は何を求めて来たのか。
単に景色を楽しみたいから?
――違う。
ふと物思いに耽りたいから?
――違う。
それとも誰かを呼び出して想いを告げたり、時代錯誤な果たし合いをするため誰かを呼びつけて待っていたり?
――違う、違う。
――そう、死にたいからだ。
失敗や挫折。失恋や裏切り。仕事・恋愛・友情といった、様々な関係やしがらみに僕はもう疲れ果ててしまったんだ。
『誰もが通る道だ、キミだけじゃない。頑張れ』
『貴方の良さを理解してくれる人は必ず現れる』
相談に乗ってくれた上司や友人やカウンセラー、果ては街角の占い師。誰もが決まって建前的な助言や説法を、口上にて並べ立ててきた。
それらはもう聞き飽きたし、もう何も僕の心には響かない。
実際のところ、彼等の言っている事は正しいのかもしれない。いや正しいのだろう。人生に於ける成功を経験してきた人達の大体は、似たような内容の秘訣を語るからだ。
ああ、そうだよ。
全部わかってる。
僕が弱いだけなんだ。
仕事で上手くやる為に、あの子に好かれる為に、失敗は沢山したけれどそれ以上に努力もしたつもりだ。
でも、ダメなものはダメなんだ。
何度も立ち上がれるほど、僕は強くない――。
いつか、人を『石』に喩えた話を聞いたことがある。
人生という名の川を流れていく石は、成長するにつれて上流から下流へと流れていくのが常だ。流れるにつれ石は徐々に欠け、磨り減る。その変形していく過程は人生で言うところの挫折や失敗に当たるのだろう。
そして下流へと流れ着く頃には、研ぎ澄まされ、洗練された石――様々な経験を経て心も体も強くなった人間が出来上がる、という話だ。
でも、流れる全ての石が下流に辿り着くなんてありえないだろう?
――流れに乗り切れず、水底に淘汰された石。
――磨り減る過程で、砕け散ってしまった石。
数々の成功の裏には当然、失敗や挫折があるということだ。僕はそう、辿り着けなかった側の石だったんだ。
それに気付いてしまったら、その選択へと行き着くのに、そう時間はかからなかった。
そして、いざ迎えた今日――。
この屋上にて、僕は自らの命を終わらせにきた。
一歩、また一歩と、内周に沿って立てられた鉄柵へと足を運ぶ。足元が震えてしまうのは、僅かに残っている恐怖心からだろうか。それとも様々な責任や負担、不安から解き放たれる喜びからか。
わからない。
わからないけど、僕はこれから飛び降りて死ぬんだ。
覚悟は既に振り切らせてある。迷いなく僕は、柵をよじ登った。
高い。とても高い。足場のバランスが悪いせいもあってか、吹き乱れる風が更に強く感じる。
怖い。すごく怖い。真下を見下ろすと、目眩を引き起こしてしまいそうになる。
頑張れ、僕。頑張るんだ。ほんの勇気を出すだけで、永遠の安らぎへと辿り着くことができる。
もう少し。あと少し。痛みなんて一瞬だろう。もう半歩踏み出す事が出来れば――。
ゼロとイチの狭間。空と地の境界線から身体を投げ入れようとしたその時。沈みゆく太陽が、雲の切れ間から顔を覗かせたのだ。
僕はその瞬間、これまで見たことのない光景に目を奪われる。それによって身体のバランスを崩しかけ、落ちそうになったが、なんとか堪え体勢を維持してみせた。
「…………っ」
それは既に見えなくなっていたが、僕は目を点にしたままだった。沈む直前、ほんの数秒だけだったが太陽から、緑がかった閃光が発せられたのだ。決して目の錯覚なんかではない。
――今のは一体、何だったんだろう。
どうしても好奇心に駆られてしまった僕は、一旦飛び降りようとするのを中断し、柵から身体を降ろす。そしてあの世へと持っていく筈だったスマホをスーツの内ポケットから取り出し、さっき見た光の正体をウェブで検索した。
調べてみてわかったのだが、どうやらさっきの光は
『グリーンフラッシュ』という現象らしい。
ごくごく稀に起こる自然現象らしく、気候や環境の特殊な条件が整った状態であっても滅多にお目にかかれないものだという。更に調べていくと、動画サイトにてその現象が起こる瞬間を捉えた映像がアップされていたので、僕は早速再生をしてみた。すると確かに、さっきの光に似た映像が写し出されていた。
――けど、肉眼で拝むことができた僕は目にした人々の中でもさぞかし稀有な部類に入るのだろう。
「ははっ……」
ふと、笑いが零れてしまった。えも言えぬ、妙な達成感が芽生えたからだ。
そして僕の心からはさっきまでの『死にたい』という感情が、いつの間にか綺麗さっぱりと無くなっていた。
いつも目にしていた、太陽だったはずだ。東から昇り西へと沈み、毎日同じ色の光を放つ。見なくても、時間帯だけで何をしているのかわかる。そんなわかりきった軌道しか描かない、いつも同じ色の太陽が『こんな色の光を放つのか』と、僕の固定観念を覆してみせた。
そう、可能性を示してくれたんだ――。
その後、自ら命を絶つのは辞めた。
それと、務めていた職場も辞めた。
僕は旅に出る事にした。世界中を周って、僕の中に隠されているであろうまだ見ぬ可能性を追い求めるための旅だ。様々な環境や文化に触れ、視野を広く持てればと思った。
そして旅の目的はもうひとつある、それは――。
――またあの緑の閃光を、見たいからだ。
読んで頂き感謝ですm(_ _)m