生きる地獄に果ては無し
ここは俺達の居場所であり、墓場だ。
真っ暗で窮屈な箱。おもちゃみてぇにちんけな作りで、壁に体が当たりゃあカンカンと耳障りな音を立てやがる。鬱陶しいったらありゃしねぇ。
壁は薄く、外で聞こえる笑い声が、狭っ苦しく肩寄せあっている俺達を馬鹿にしているみたいに思えてくる。
こんなところに閉じ込められちまった理由は、分かっちゃあいる。外の世界からすりゃ、ここが俺達の住処としちゃあ当たり前だし、なんなら、こんな箱だとしても、入れてもらっているだけでありがてぇ話なのかもしれない。
俺達には仕事があって、外に出ることはできる。目の眩むような光は自由の象徴と言っていい。
とはいえ、この箱からおさらばするのは、働けない奴がお払い箱になってゴミ箱に行くときさ。
俺がここに放り込まれてから随分経った。
毎日の労働で、文字通りこの身を擦り減らして生きてきた。俺だけじゃない。他の奴らもそうだ。そろそろお役御免になってもいい奴もいる。
俺の予想じゃ、真っ先にゴミ箱行きになるのは鉛筆の野郎だ。こいつは、自分の立場ってものを分かってんのか分かってねぇのか、いずれにしろ馬鹿が付くほど真面目に働きやがる。おかげで、勤勉を絵に描いたような俺ですら霞んじまう。
奴は五人兄弟の長男で、全員2Bだ。
昔と比べて、最近のガキは筆圧が弱くなったと言われるようになってから、HBは筆箱から追い出され、もっぱらBや2Bの濃い奴らが駆り出されている。
ところが、だ。筆圧が弱いなんてのは、嘘だ。俺は身をもって知っている。
俺の仕事は、ガキが犯した過ちの尻拭いをしてやることだ。言い替えるなら、書き損じを消してやるってことだ。
俺がいなかったら、ガキ共は書き損じた文字の上から鉛筆でぐるぐると塗りつぶしちまう。恥を上塗りするように。そんなことされたらノートが汚くなっちまうだろう。俺はきれい好きなんだ。なんでもクリーンに行こうぜ。間違ったときは、隠そうとせずに間違いを認めて、一からやり直す。肝心なことは、ノートだって人生だって同じさ。
話が逸れちまったな。
ガキ共をなめちゃいけねぇ。奴らに加減なんて期待するだけ無駄だ。力任せにぐりぐりとやる。その怪力で刻まれた黒は、なかなか消えやしない。
俺も初めは、なにがなんでもまっさらにしてやろうと突っ張っていたが、そのうち疲れてきて、角が取れて丸くなっちまった。比喩じゃなく文字通りにな。
そんなもんだから、鉛筆はあっという間に短くなっちまうし、俺の体が疾風の如く耗りゆく様は涙無しには語れねぇ。
まぁ嘆いたって仕方がねぇのさ。
俺は使い物にならなくなるまで働いて、天寿を全うできりゃあそれでいいと思っている。命ってのは限りあるから儚く美しいのさ。ぱっと開いてぱっと散る。それが俺の生き様よ。
さあ/\とくとご覧あれ。
世の中の過ちを正して回る。東に誤字ありゃあ角を潰して、西に落書きありゃあ転がっていく。消すことにかけちゃあ右どころか左に出る者すらいやしねぇ。誰が呼んだか、天下の字消し屋とは俺のことさぁ!
「あの……誰に向けて、その口上を……?」
おっと、長男鉛筆のお出ましだ。
「誰に、ねぇ。強いて言うなら、世界にだな」
「私には、哲学的なことはよく分かりませんが、消しゴムさんは広い視野をお持ちなのですね」
ほら、これだ。こいつは何事も真正面から受け止める。ちと角張りすぎているんだ。角張ってるのはてめぇの六角形のツラだけで十分ってもんだ。
こいつの生真面目さは、こいつの持ち主であるガキ譲りかもしれねぇ。あいつときたら、俺が魂を削った結晶、もとい消しカスをきっちり集めてとっておいていやがる。
「天下の何とかって聞こえたんだけど、何の話?」
うるせえ修正テープ。てめぇがその話に乗ってきたらややこしくなるだろうが。使われないのにかっこいいってだけで居させてもらってるくせに。
「いいか、長男鉛筆。俺達の先はもう長くねぇ。幕引きってもんを考えなきゃならねぇわけよ」
「分かっていますよ。五男にもよく言い聞かせています」
五男は、目をぱちくりさせて兄を見下ろした。鉛筆ってのは歳くうほど小さくなるもんだからな。(……なんだい、鉛筆に目があっちゃあ悪いか?)
「お兄ちゃん、それって、たくさんがんばったら、きれいな黒耀石になれるってお話でしょ」
「ああ、そうだよ。私はなれるかどうか分からないけれど、私がいなくなっても悲しむ必要はないんだよ」
「お兄ちゃんならなれるよ! いつも、いっぱいいーっぱい、がんばってるもんね」
おい長男、随分と残酷な嘘を付くじゃねぇか。優しさってのは、もっと上っ面でいいもんだぜ。
五男が兄貴に向ける、尊敬に満ちた眼差しを見ちまったら、俺は何も言えなくなっちまう。
現世での働きに応じて、鉛筆が黒耀石に生まれかわれるってぇのなら、俺は一体何になれるのか。
なんなら無限字消地獄に落ちるのもいい。俺のきれい好きは死んでも治らねぇだろうからな。
そのときは突然にやって来た。
箱が開いて、ガキが長男鉛筆をつまんだとき、俺には分かっちまった。これが今生の別れだって。
長男鉛筆も悟った顔をしていた。風の無い湖の水面みてぇに静かな声で、五男に語りかけた。
「行ってくるよ。たとえ私が戻って来なくても、黒耀石になれるよう祈っていてくれるかい」
五男は、何の疑いも無い無垢な光を湛えた瞳と、憂い事を知らぬ無邪気な声で兄を送り出す。
「行ってらっしゃい! お仕事、がんばってね」
なぁ長男よ、てめぇは立派な黒耀石になるぜ。こいつの顔を見りゃ分かるさ。誰かの心の英雄になれた奴は、もう何者にだってなれるんだぜ。
五男は兄の凱旋を誇らしげに待っていた。
その頭上で箱が開き、光が差し込む。そろそろ俺の出番だろうと思ってはいた。ガキってぇのは落ち着きがねぇからすぐに間違える。
はいはい働かせていただきますよ……と腰を上げると、ガキの指先は五男に向かった。
そういうことかい。長男鉛筆、てめぇは役目を全うしたってわけだ。これからは弟達の時代さ。安心して黒耀石になりやがれ。
俺も、そう遠くはないうちに、そっちに行くぜ。何に化けるかは知らねぇ。何でもいいさ。
結論から言えば、長男鉛筆は帰って来やがった。五男と一緒に。だが、おててつないだ仲良し兄弟で戻ってきたわけじゃねえ。
その姿を初めて見たとき、何が起きたか分からなかった。こんなに小さくなるほど歳をくった俺でも、まだ理解できないことがあるなんてな。
「ただいま帰りました、消しゴムさん」
どこか晴れやかな表情で、長男鉛筆は微笑む。
ちょっと待ってくれ。まずは確認だ。
「てめぇは長男鉛筆で間違いねぇな?」
「そうですよ」
「そんで、外に出て、戻ってきた。首皮一枚つながったが、黒耀石にはなれなかったみてぇだな」
長男鉛筆は呑気に「そうですね」なんて笑ってやがる。よく笑っていられるな。
俺が落ち着くまで話を長引かせようと思ったが、そっちの方が酷かもしれねぇ。俺も、きっと長男鉛筆だって何も間違っちゃあいねぇんだろうが、起きちまった現実は受け入れなきゃならねぇ。
「長男鉛筆よ、てめぇも分かっちゃいるだろうが、五男と命をつながれちまったんだな?」
長男鉛筆のケツから先、あるはずの無いその先、そこに五男のケツがくっついていた。つなぎ目はセロテープでぐるぐる巻きにされちまっている。
ガキってのは残酷な生き物だ。残酷の代名詞だ。悪気が無いのが恐ろしく、たちが悪い。
短くなっちまった長男鉛筆が持ちづらいから、五男鉛筆とくっつけた。ガキにとっちゃあ単純な話だ。だが俺達からしたら、簡単な話じゃねぇ。単純な話と簡単な話ってのは、近いようでいて、似て非なるものなんだよ。
「五男は話せんのか」
長男鉛筆が「ほら、ご挨拶して」と体を揺らす。
「けし……ご……むさ……ん……けし……ご……むさ……ん…………? お にい ちゃ」
「……もういい。おい長男、てめぇはそれでいいのかよ」
何が問題なのかと言わんばかりに、長男鉛筆は首を傾げやがった。(そうさ、首もあるんだよ)
「どちらかの精神が希薄になってしまうのは仕方のないことです。この子は、意識の主導権を自ら譲ってくれたんですよ。とても良い子でしょう」
当然だ。どっちか諦めなきゃならねぇってなら、五男は兄貴に譲るだろう。
「誰でも長生きしたい。当たり前ではないですか。どんな姿になろうとも。命を長らえさせてくれたこの子と主様には、大変感謝しています」
はは、主様ね。笑わせてくれるぜ。
こんな地獄を見せてくれるってんだから、主は主でも、閻魔様みてぇに非道な主様なんだろうよ。
「俺はてめぇみてぇな化け物になってまで生きていたいとは思わねぇ」
五男の姿が飛び込んでくる。化け物なんて言われたくねぇよな。てめぇは何も悪くねぇのによ。
「てめぇの黒は、きれいな黒耀石の黒なんかじゃねぇ。守らなきゃならねぇものを踏み台にして、生き伸びることに取り憑かれた腐りきった黒だ」
俺の言葉は、もう長男鉛筆には届かなかった。壁に向かって、ひたすら「ありがとうございます」と呟いていやがった。
程なくして、かっこいいからと新入りになったロケット鉛筆に、鉛筆共は取って代わられたが、俺にとっちゃあ、もうどうでもいいことだった。
生きるも地獄、死ぬも地獄。俺の地獄は、いつ始まって、いつ終わるんだろうな。
なんて考えていたら、俺のお迎えも唐突だった。
分かるんだよ、ガキの指先でな。
いつもは、ほぼ無意識に、無造作につまみ上げるくせに、こういうときには宝石を触るみたいに、そっと拾い上げるんだ。鉛筆のときもそうだった。
全身の浮遊感。俺に差す光の筋が強さを増す。紙の上に降り立てば、お粗末な黒に顔を擦りつけ、摩擦熱に耐え、命が削れていくのを感じる。
ああ。もう俺の体は、無に等しいほどしか残っちゃいねぇ。
あばよ、くそったれな地獄。
俺は無限字消地獄に行くんだぜ。
妙な心地で目が覚めた。暗闇。音は無ぇ。
俺の命は尽きたはずだが、辺りを見回しても、どうやら地獄ではねぇようだった。それどころか、見覚えすらある。
おいおい、ここは相変わらず箱の中じゃねぇか。
壁に向かってブツブツ言ってる鉛筆、いけすかねぇ修正テープやロケット鉛筆の野郎もいやがる。
「目が覚めた? 消しゴムさん」
声をかけてきやがったのは、修正テープだ。
「おい、これはどういうことだ」
「ふーん、やっぱり分からないんだ」
「もったいぶってんじゃねぇ!」
修正テープは、やれやれと小馬鹿にするような顔を隠しもせず、肩をすくめて見せた。
(何度も言わせるんじゃねぇ。俺達にゃ目も首も顔も肩もあるんだよ)
「じゃあ教えてあげるよ、その体のこと」
……なんだって? 体のこと?
俺は、なんでこの場所に戻ってきたのかを尋ねたんじゃなかったか? 体がどうのこうのなんざ訊いちゃいねぇ。
『『おい、聞こえるか』』
「修正テープ、今、何か言ったか」
「ん? 体のことを教えてあげるって……」
「そうじゃねぇ、『聞こえるか』って訊いただろ」
修正テープは途端に表情を曇らせた。
「ああ……始まっちゃったか……。そっちの話を聞いた方が早そうだね……」
『『俺は、てめぇだぜ』』
気色の悪い声がする。だが俺は気付いちまった。
これは、俺の声だ。
「どこにいやがる! 出てきやがれ!」
『『俺はてめぇの中にいる。俺だけじゃねぇさ。大勢の俺が、てめぇの中にいるんだぜ』』
確かに、声は耳の外じゃなく、頭の中で鳴っているように聞こえる。吐き気がしてきやがる。
(俺には耳だってある……それどころじゃねぇ)
『『てめぇもその一人さ。これからも働くんだぜ。今日から、てめぇは【練り消しゴム】の一員だ』』
俺の頭に蘇ったのは、ガキが集めていやがった消しカスだった。
(まだ言わせんのか、頭だってあるに決まってんだろ。このツッコミはこれで最後だぜ)
俺の命の欠片を寄せ集めて、俺という化け物を作り上げやがったんだ。
あのガキ、やはり地獄の主かもしれねぇな。
笑いが込み上げて来やがる。
ここは正真正銘の無限字消地獄に違いねぇ。
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