ツェツィーリアの戸惑い
改稿後になります。
長くなったので、二つに分けました。
命を落としかねない高熱の後、ソフィアの心はかつてのソフィアとは似ても似つかない、まったく別物になってしまった。医者はそのうち治ると言ったけれど、そうはならなかった。
まるで別人のような態度に誰かがソフィアの身体を乗っ取ったのかと思った。でも、ソフィアしか知らないことを知っているのを見るたびに本人に違いないのだと思う。
劇的に変わってしまったソフィアに違和感を覚えたけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。多分それはソフィア自身が苦しんでいるように見えたからだと思う。
いつも見えない何かと戦っているように見えた。それが何なのかは分からない。ソフィアに何度も何があったのか尋ねたけれど、ソフィアは悲しそうに何でもないと首を横に振るだけで、家族の誰にもその悩みを打ち明けてはくれなかった。
いつも寝たきりだったけれど、明るく朗らかに笑っていたソフィアはいなくなってしまった。
身体を丈夫にする為に散歩をすると言い出し、侍女のマリエルを連れて最初は屋敷の中を、それから屋敷の外を散歩するようになったソフィアは、身体を使うからか食事の量も増えて、私たち家族を安心させた。
ただ、ちょっと遠くまで散歩すると、虚弱がまた顔を出して熱を出すことはあったが、それもすぐに収まっていった。
大分遠くまで散歩出来るようになって来た頃、ソフィアはアンハルト家の敷地内にある森に行くと言い出した。以前に比べて自ら要求をしなくなったソフィアだが、一度言い出した場合は聞かない頑固さを持つようになっていた。
マリエルも最初は反対していたが、ソフィアの頑固さに、このままでは一人で行きかねないと危惧したのだと思う。最終的には折れて、森まで同行したのだった。
とは言っても、あの森には兎や狸がいるぐらいで、危険はない筈だった。それなのに森から戻って来たソフィアは、物語でしか目にしたことのない風狼の子を抱いていたのだ。これには、さすがのお父様も驚いていた。
ソフィアが強引に連れて帰って来たのかと思ってマリエルから詳しく聞くと、母狼がソフィアに子狼を押し付けて去って行き、仕方なく屋敷に連れて来たのだと言う。
お父様が言うには、母狼は人間の匂いがついた子狼を二度と受け入れはしないだろうし、風狼の伝承によれば最大級の礼として己の子を人に預けるのだそうだ。そして預けられた風狼は主に忠実で、生涯従うとのこと。
その伝承の通り、風狼の子はソフィア以外に絶対に身体を触らせようとはしなかった。白い毛がもふもふとして気持ちよさそうで、ちょっとでいいから撫でさせて欲しかったのに、その願いは一生叶いそうにない。
この頃から、ソフィアは命を狙われるようになる。
食事に毒を盛られ、眠っているところを襲われる。それらは全て、幼い風狼のヴィントによって防がれてはいたけれど。屋敷中がピリピリとして、落ち着かない日々の始まりだった。
何故かいつもソフィアが狙われた。魔の五歳と言われる一つの峠を越えたにも関わらず、違う形で命を奪われようとしている。
お父様もお母様も神経を尖らせ、すり減らしながらソフィアを守ろうとし、原因を調べた。狙われる理由を。
私が狙われるのならまだ分かる。私は第一王子の婚約者の候補に選ばれているから。両親も私が狙われていることの巻き添えになっているのではないかと考えたようだった。
けれど違った。私じゃなくソフィアが狙われていた。
調べに調べても何も分からなかったようで、両親は調査こそ継続していたけれど、ヴィントにソフィアを任せる事にした。ヴィントはソフィアを必死に守ってくれていた。
ソフィアを襲おうとした者は決まって、何者かに取り憑かれたようだった。
恐ろしい程にソフィアを憎んでいた。
長い冬が訪れた時に、ソフィアはかつての彼女と同じように、私やアドニスのすることを自分もやりたいと言い出した。いつもなら窘める両親が、珍しくソフィアの願いを許可した。
未だに虚弱で、いつまた高熱を出して命を落とすかも知れず、挙句命そのものを脅かされている末の娘に、我慢ばかりさせたくないと思ったのだろう。それに冬は長い。暇を持て余すだろうことは想像に難くなかった。
私とお母様は刺繍を。アドニスからは文字を教えることになった。
ソフィアに読み聞かせをする為に、アドニスはこれまでとは比べ物にならない程に勉強に勤しんだ。ソフィアに教えることは何の問題もないようにみんな思っていたのだ。
それなのに、ソフィアはアドニスから文字を教わると、恐ろしい速さで習得した。いくら読み聞かせの効果があったとしても、こうまで簡単に覚えられる筈はない。元々文字を知っていたのかと思ったが、知らない文字などもあり、演技ではなく、本当に知らないようなので、知らなかったのは間違いない。となると、天才なのだろうか?
うちの子は天才かも知れないと色めきたつ両親に、ソフィアは慌てて、ヴィントの為に一生懸命勉強しているのだと言って、それ以上褒められることを良しとしなかった。五歳なのに。親に褒められることを嫌がるなんて。私が文字を覚えた時には、褒めてもらいたくて仕方がなかったというのに。
私とお母様から刺繍を教わった時も、ソフィアは知っていることを聞いた風な反応で、すぐに刺繍の基本を覚えてしまった。私はこのことにも驚いたのだけれど、自身が刺繍を得意としており、長女の私も得意だったのもあってか、母譲りの才能ということでお母様は納得していた。それを聞いてソフィアがちょっとほっとしたように見えたのは、きっと気の所為ではない。
ハンカチに鳥のメジロを刺繍するとソフィアは言い出し、基本を覚えたばかりとは思えない手つきでメジロの頭、身体、足、枝と刺繍していった。それはとても愛らしく、今までに見たことのない刺繍だった。
一般的なのは、ハンカチの端に沿うように繁栄を祈る為のつる草などを刺繍したり、四隅に小さな薔薇を刺繍するぐらいのもの。それなのに、ソフィアは鳥そのものを刺繍した。
こうなると母譲りの才能では済まなくなるのだろう。お母様は小さくため息を吐くと自分も水仙の花を刺繍すると言い出し、私にはカトレアの刺繍をさせた。後に刺繍されたハンカチは王の第一王妃と第二王妃に献上され、淑女の間で縁取りなどではない刺繍が流行ることになるのだ。
このことで、お母様も何か気付いているのだと思った。
我が家ではお父様しか楽器を嗜まなかったけれど、ソフィアはチェンバロに興味を持った。
お父様の指導の下、音階、楽譜の読み方、チェンバロの弾き方を覚えていった。
とても五歳児とは思えない集中力でひたすらにチェンバロを弾き続けるソフィア。もう、全てにおいて天才で通したら良いのではないかと思う程だった。
チェンバロを弾くことで目に見えてソフィアの情緒が安定していくのが分かった。お父様は、感情を表に出すのに楽器を弾くことはとてもいいんだよ、と少し悲しそうに微笑みながら言った。
お父様もソフィアが感情を抑えこんでいることに気が付いているようだった。十歳の私が気付くのだもの。お父様が気付かない筈はない。当然と言えば当然だ。
チェンバロを弾くことに慣れて来たソフィアは、これまで聞いたこともないような曲を弾き始めた。作曲の才能があるとか言うのではないと思う。試しに弾いてるという感じではなく、明らかに知っている曲を思い出して弾いているのだ。
お父様はソフィアの弾いている曲を楽譜に起こし、春の社交の場で何度となく披露することで、自分が作曲したかのように振る舞った。元々チェンバロの名手として有名だった為、お父様が作曲をしたことも、さすがアンハルト公爵と言われるぐらいで済んだ。これを五歳のソフィアがやったら大変なことだ。
長い冬が終わり、六歳になったソフィアは突如庭師のハリーと何か始めたようだった。今度は何をする気なのだろう……。
我がアンハルト家は別名薔薇公爵と呼ばれる程に様々な種類の薔薇が咲いている。
お母様が問い詰めたところ、ソフィアは薔薇を使って精油を作るのだと言い出した。私は聞いたことがなかったけれどお母様はご存知だった。ただ、使い方としては、ハンカチや手紙の便せんに一滴垂らすような用法しか知らなかった。ソフィアは別の使い方を口にする。
薔薇から作った精油を冬の乾燥した肌に塗りたいというのだ。眼から鱗の発想だった。
ソフィアから完成したものを受け取ったお母様はそれをつけて社交の場に出て、大いに宣伝をしていた。
いくつかある公爵領の中でも薔薇の産地として有名な領地に命じて、薔薇から作ったエッセンシャルオイルを公爵家の新たな生産物としてまず王家の王妃お二方に献上し、王都の貴族たちに流行らせていった。
それから、コーディアル。
敷地内の端の方に大量に植えて育てたエルダーフラワーを初夏に刈り取ると、それを蜜、レモン等と煮詰めに煮詰めて、エルダーフラワーコーディアルを作った。これも、領地に銘じて大量に作らせて王都で流行らせた。ソフィアに教えてもらってお湯にこのコーディアルを溶かして飲むと甘くとても美味しい。飲むとむくみが取れるので、お母様と私もよく飲ませてもらっている。
世間は当家の近頃の目覚ましい活躍を噂したが、お父様もお母様も否定しなかった。身体が病弱で可哀相な末の娘の為に出来ることはないかと長年努力してきたことが、ここに来て実を結んだのだと言った。社交の場で聞かれた時には、両親にならって私もそう説明した。
アンハルト公爵家の末姫 ソフィアと言えば、王都の貴族で知らぬ者はいない程有名になった。アンハルト家には極稀に白銀の髪を持つものが生まれることは知る人ぞ知ることで、特段隠してはいないのだと。
その伝説のような髪を持ち、噂通りにソフィアは大変虚弱で、両親であるアンハルト公爵夫妻が心を砕いている。
身体にいいと聞けば何でも取り入れる様子から、公爵の発言をみな信じた。
チェンバロの曲も、ソフィアが新しい曲が弾きたいと言うものだから父親の面子にかけて作曲したのだと吹聴した。
ハンカチの刺繍は虚弱であまり屋敷から出ることの出来ないソフィアに、せめてと鳥や花を刺繍したものを持たせたのだと母は説明したのだ。どちらも信憑性があった為、疑うものはいなかった。
ここまでさせるソフィアに多少関心が高まるのは仕方のないことだったと思う。
教えてはいなかったけれども、弟のアドニスも何となく妹のソフィアが非凡であることを感じとっていて、うまく話を合わせているようだった。
こうやって、アンハルト家はソフィアを外界から守っていた。いずれ社交の場に出ることになり、ソフィアの非凡が悪目立ちしない為に、出来ることを家族みんなで暗黙の了解の元、実行していた。
ソフィアが七歳になり、魔力を持っていることが分かった。指輪が金色に変化したのだ。
家族の持つ指輪は一様にラピスラズリ色だった為、ソフィアの指輪が変化したのを見た時には驚いた。家族みんな、同じ気持ちだったと思う。
現代において魔力は貴重な能力で、今では王家にしかその血が残っていない。諸外国においてもそれは同様と聞く。
それなのに妹は魔力を有している。特別な容姿を持つ私の妹。彼女にまた一つ、特別な力が加わった。
風狼のヴィントを飼い始めた時にも大変驚いたものだけれども。本当に、ソフィアと来たら次から次へと特別な力を手に入れていく。
ソフィアがいくら特別な力を手に入れても構わない。でも、その力によって妹を守れなくなるのは嫌だった。
高熱の後、別人になった妹にどう接して良いのか分からなくなった。
命を狙われるようになり、食事に毒を盛られるだけでなく、寝しなを襲われて、恐怖で泣いたソフィアは私に抱き付いた。しがみついて身体を震わせて泣く妹は小さくて弱かった。一度泣き出したら止まらないのも変わりがなかった。泣き顔も同じ。
私は何を恐れていたのだろう。
ここに、妹はいる、と思った。