005.冬の手習い2
改稿後になります。
こちらの世界にも楽器はあるが、嗜む人は嗜むけれど、絶対に必要なものではないらしい。
かつては貴族の嗜みの一つではあったが、時代は流れ、音楽家の一族やその子弟などが貴族をパトロンとして演奏する、という形になっているようだ。
無論、楽器を演奏することは貴族としても推奨されていることのようだけど、誰もが音楽の才能がある訳ではない為、自然と今のスタイルになったとのこと。納得。
前世の私はピアノを習いたかったにも関わらず、親に反対されて習うことも出来ず、仕方なくブラスバンド部に所属した。
そこで経験したのは管楽器という、本来の希望であるピアノとはかけ離れた楽器を嗜んだ。何でも良いから楽器がやりたかったのだ、私は。楽器弾けるのカッコいい、って思ってしまったのだ。
子供の頃の、やりたいのにやれなかった事と言うのは、思いの外心の深い所に根付くもので、楽器を弾けるようになりたい、という欲求は大人になってからも燻り続けた。
来世でその願望を実現する事になるとは思わなかったけれども。
ピアノはこの世界にはない。あるのはチェンバロだ。ハープシコードとも呼ばれる。ピアノのように澄んだ音ではないが、高く響く音で、私はとても興味を持った。教会のパイプオルガンのような品を感じたからだ。
意外なことに父はチェンバロが得意と言う事だったので、父にチェンバロを教えてもらった。
毎日練習をした。
こちらの世界での楽譜は、私の知る楽譜とは違うので、苦戦しているけれども。
かつての上司が言っていた。ピアノのプロになるには、とにもかくにも練習が必要で、他の楽器とは比べものにならない程の練習時間を必要とすると。
五歳の私では弾ける曲は少ないが、とにかく触れること。それが大事だった。
肉体年齢による自由の利かなさと、知識を持ち得ながらそれを利用する事が出来ない不満、前世とは比べものにならない文化の低さと言うのか、違い。
命を狙われ続ける事による緊張状態、未だ犯人は分からず、何故そこまで執拗に命を狙われるのかが不明──。
そう言った諸々のフラストレーションを音楽に向けることでストレス発散していった。
チェンバロを弾いている時はその他の事を考えずに済んだ事も、私が没入した理由だろうと思う。
父がずっと使っていたというチェンバロは、白地に塗られ、羽ばたく鳥と咲き誇る花が描かれている大変意匠の凝ったものだった。きっと物凄い高価な年代ものだろうと思う。
私がチェンバロを弾いている間、ヴィントは丸まって寝ている。高い音だからヴィントには辛いのではないかと思ったが、いつも側にいるということは、思う程嫌ではないのかも知れない。
とは言え、あまり激しい曲は弾かないことにした。もっとも、五歳の指では弾けないのだが。
「ソフィアがこんなにチェンバロに夢中になるとは思ってもみなかったよ」
父としては、子供のうち誰か一人でも、自分と同じようにチェンバロを好きになって欲しいと思っていたようで、姉や兄に教えてみたのだそうだ。結果、どちらも楽器に興味を示さなかったのだと言う。
だから、私がチェンバロを気に入ってくれて嬉しい、と言って破顔した。
新しい曲を覚える時には、父に弾いてもらい、音を覚えてから練習した。楽譜だけではまだ、どんな曲なのかが分からないのだ。
たまに書類仕事に疲れた父が来ては、間違っていたり、変な癖がつかないように教えてくれた。
姉のツェツィーリアは読書や刺繍をする際に、私のチェンバロを聴きに来ることが増えてきた。
母や兄も来ては私の邪魔をすることもなく、私の弾くチェンバロをひとしきり聴いていく。
お抱えの音楽家なんていないから、私の弾くチェンバロは彼らにとっても丁度良いのかも知れない。
あぁ、運動不足である。
今、万歩計をつけたら、日に100歩もいかないと思う。
屋敷の中を散歩しようと思ったのだけど、寒くて風邪をひき、屋敷内ですら散歩禁止になってしまった……! ソフィアの身体の弱さには毎度驚かされる。
お風呂もわざわざお湯を沸かさないといけない為、気軽に入れない……。
花も育ててみたいのに、温室がないから冬は育てられない。来年は収穫した花やハーブでコーディアルやらオイルを作りたい。作りたいが、未だに家の蔵書にはそういった内容が記された本はない……。この世界にはないのか?!
ないならないで穴だらけの知識で作るのを試してみてもいいが、それは六歳の子供がやれるようなことだろうか?
「ヴィントも運動不足で太ってしまいそう」
ヴィント用に用意してもらった目の粗いブラシで、ヴィントの毛を梳く。ヴィントはブラッシングが好きらしく、されるがままになっている。そうだろうそうだろう。気持ち良かろう。ちなみに逆向きにブラッシングされるのは嫌なようで、抗議の眼差しを送られたので、やらない。
マリエルがやろうとしたが、案の定ヴィントに拒まれてしまった為、私がブラッシングをしている。それはそれで良いんだけど、なにぶん大きく育ったものだから、たかがブラッシング、されどブラッシングな状態である。
ダンスがないということは、バレエもないんだろうし、オペラとかもないんだろうな。せっかくお貴族様になったので、そういったものを見たかったが、ないのなら仕方ない。近世に華開く文化はない、と言うことだ。
機織りとか糸紬ぎとかもやってみたい。眠り姫にも糸紬ぎとかあったな。
染色とかはプロにお任せしたい。色を染めた後の定着剤とか、そういった難しい事には興味がない。
裁縫にも興味がない。前世でも出来たが、洋服作りに興味はないのだ。
あぁ、ぬいぐるみ作りならやってもいいかも。
料理もやりたかったが、厨房に入ることは絶対に許されないことなので、泣く泣く諦めた。公爵令嬢が厨房に入るなど、絶対にありえません!と、マリエルに激怒された。
怒ったマリエルは本当に怖かったです……。
とりとめもないことを考えながら、ヴィントにブラッシングをしていたら、マリエルが声をかけてきた。
「ソフィア様、お茶を入れました。休憩をなさってはいかがですか?」
私からすれば充分過ぎる程の巨体なヴィントのブラッシングを終えて、マリエルの淹れてくれたお茶を飲む。
「ありがとう、マリエル」
早く春になれ、と切に願う。
新しい季節は人に何かを期待させる力があると思う。