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5 想い

 自分の体と記憶を取り戻す為に神殿を出て、ハイヤーに乗り込んだ茜音。車内はとても静かで、何も喋る事はなかった。来る時にはあれだけ煩くしていた茜音だったけれど、今は喋る気になどならない。

 やけに時間が長く感じられる。

 重たい。空気も、気持ちも、背負ったものも。

 けれど背負ったものの重さは葵惟の方が茜音よりも数倍、大きい。

 茜音がするべき事は、自分の体と記憶を取り戻す事、そしてディオスの記憶を夏野の体に戻す事。ディオスが完全になれば、イリオンを消滅させなくても済むかもしれないと、蒼斗は言っていた。アレスが破壊され、ディオスが権限を取り戻せば元のイリオンに戻す事が出来るのだと。

 その為に、茜音は自分の体の許へ向かっている。勿論、自分の為というのが大きいけれど、責任を負っている葵惟の為にも絶対に遣り遂げなければならない。

「茜音、何をそんなに気負っている?」

 不意にかけられた問いに、茜音はハッとすると窓に映る自分の姿を見た。

「君がすべき事は、自分の体と記憶を取り戻す事。それだけでいい」

「でも、俺が失敗したらイリオンは本当になくなるんだろ? 絶対やんなきゃなんないだろ!」

「気負いと気合は違うものだ。力が入り過ぎていても、良い結果は生まれない」

「けど……」

「大切なのは、やりたいという気持ちだ。やらなければいけないという使命感は捨てるべきだろう」

 自らが望んでやる事と、誰かに任されてやる事では大きく違ってくる。想いも力の入れ方も。それは、やりたいと思う事とやらなくてはいけないと思う事でも違う。

 焦りは気持ちを空回りさせ、心を乱す。そんな状態でやる事が、成功するとは思えない。

「君の弟がこの場にいたら、同じ事を言うのではないか?」

 優しく問われ、茜音は首を横に振った。

「葵惟はそんなこと俺に言ってくれないよ。いつだって俺のこと馬鹿にして、大事なことは絶対、言ってくれないんだ」

 そこで一旦言葉を区切ると、そっと微笑んだ。

「でも俺、嬉しかったんだ。葵惟が庇ってくれた時、ホントに嬉しかったんだ。俺、嫌われてなかった。自分の体を捜してる時に葵惟に逢った時も、俺達は繋がってるんだって思った。やっぱり双子なんだって実感した」

 どんなに離れていても繋がっている。元は一つだったのだから、その繋がりは誰よりも強い筈だ。 

 どんなに嫌がっていても、どんなに鬱陶しく思えても、結局離れる事など出来ない。それが性なのだろうと思った。

 そうしていると、ハイヤーが道の左に寄って停車した。窓から外を覗き込めば、道の向こうにランドマークタワーが見える。そして、タイミングを計ったように茜音のスマートフォンからメールの受信を知らせる音が流れた。

 誰からだろうとメールを開いてみると、橘蒼斗の文字があった。

《ランドマークタワーの屋上へ行く手段が必要になるだろう。ハイヤーの停まっている場所は、ドラゴンズガーデンエリアにあたる。そこにガリアードという黄色い耳飾りをつけた白緑色のドラゴンがいる。その一体だけは現実だ。その背に乗ると良い》

 全て見終わり、スマートフォンをズボンのポケットにしまってハイヤーの運転手に送ってくれた礼を言うと、茜音はハイヤーから降りた。

 騒然としている横浜の街。ヘリや取材陣がランドマークタワー周辺に押しかけているのが、数百メートル離れたこの場所からでも見受けられる。

 けれどそれらを気にしている暇などなく、茜音はランドマークタワーに背を向けるとドラゴンを捜し始めた。ドラゴンズガーデンエリアには何度か遊びに来ているが、耳飾りをつけたドラゴンなど居ただろうかと思いつつ辺りを見回せば、横浜の街に似合わないドラゴン達が数頭いる。大パニック状態だからこそ目立たないけれど、凄い光景だなと改めて思う。

 歩いていて、その中に一体、白緑色の綺麗なドラゴンが居る事に気が付いた。他のドラゴンはゲームに出てきそうな荘厳な姿をしているが、そのドラゴンだけはどこか神秘的な雰囲気だ。

 近付いて行って、左耳に黄色いガラス玉のような耳飾りがついているのが見えて、確信する。数歩進めば触られる距離まで近寄り、体長5メートルはあるのではないかという、絹糸のような翼の生えた翼竜を見上げた。

「あんたが、ガリアード?」

 ドラゴンに訊ねるのは何だかおかしいような気がしたけれど、それでも確認しなければならないと声をかければ、振り向いたドラゴンはニコリと笑うように目を細め、首をもたげて頷いた。

 何だか、その仕草と表情が可愛いと思った。

 それから翼を下ろして身を低くしたガリアードは、まるで背中に乗れと言っているようで、けれどもどう乗っていいのか分からずに茜音はあたふたとしながら立ち往生する事になってしまった。いつまで経っても乗らない茜音に、見ていられなくなったのかガリアードは口で茜音の服のフードを摘まむと、少し長い首を後ろに回して背に下ろしてくれた。

 逆向きで乗せられたものの、すぐさま方向を変えてガリアードの首に腕を回して掴まるとガリアードは翼をはためかせ、そのまま飛び上がった。スピードは思ったよりもずっと速く、ジェットコースターに似た感覚を覚えながら、茜音は海中にある空という景色を楽しむ余裕もなく、高度を上げながら一直線にランドマークタワーの屋上へ運ばれた。

 ものの数十秒で屋上へやって来るとガリアードは屋上に降り立ち、その背中からジャンプして茜音も降り立った。

 ヘリポートのみの屋上。茜音が降り立った場所の丁度反対側に、茜音の姿をした人物が立っているのが見えた。

 一度、深呼吸をしてから、その背に向かって歩き出す。

「茜音。会うのはこれで2度目だな」

 睨み付けながら声をかければ、茜音の体は振り返りこちらを向いた。

 自分自身の顔を面と向かって見るというのは慣れないものだと思いながら、茜音は眉を顰める。

「お前、夏野って言ったっけ。何の用だ」

「その体、返してもらうぜ」

「ああ、そうか……お前が、俺の心か。別にいいぜ。どうせ元に戻るだけのことだしな」

 随分とあっさりしている。もっと抵抗するかと思っていたのだが、少々拍子抜けだ。異論がないのであれば、さっさと元の体に戻れた方が良いに決まっている。

 そのまま歩いて行くと、茜音の体がニヤリと口元に笑みを浮かべた。

「でも本当にいいのか?」

 その言葉に、茜音は足を止めた。

「どういう意味だ」

「そのままの意味だ。お前、今、記憶がないんだよな。俺が記憶を全部持ってるから」

「だから何だよ。お前だって心が無いだろ。今は平気でも、心が無きゃすぐに生きられなくなる。困るのはお前の方だ」

「そうだろうな。過去の記憶がなくたって生きていけるもんな。むしろその方が、お前にとっては幸せなんじゃねえの?」

 一体、何を言っているのだろうか。心のなくなった自分も自分ではあるが、それでも考えが理解できない。元に戻る事を本当は受け入れていないのだろうか。だから、揺さぶりをかけているのだろうか。だったら、今の茜音にとってそれは無意味な事だ。何としてでもやり遂げる。そう、決めたのだから。

 そういう話だったら付き合ってはいられない。三度みたび、歩き始める。

「そんなの、お前が決めることじゃないだろ。いいから戻れよ。俺は絶対引かねえよ」

 真っ直ぐ見ながら睨み付けると、茜音の体は肩を竦めた。

「自分の心ながら、馬鹿だな。知らない方がいいもんが沢山あんのによ」

「それも、お前が決めることじゃねえよ」

 手の届く距離まで近付いたけれど、視線は茜音の体に向けたまま、決して目を逸らす事はない。

「この距離に俺がいても、何もしないんだな。あの時は刺し殺そうとしてたのに」

「それはこっちの台詞だ。お前あの時、ディオスのこと撃っただろ。今はいいのかよ」

「別に、今の俺には関係ねえな。あの時はあのガキが殺れっていうからやっただけだ。俺が何かする理由はねえよ」

「心のない俺って最低だな」

「心があっても最低じゃねえか。せいぜい後悔しろ。お前はこれから不幸になる。心があることで、お前は世界の終わりを味わうことになる」

「言ってろ、クズ野郎」

 吐き捨てるように言い、茜音は対面する体の肩を掴もうと腕を伸ばした時、茜音の体は不意に体の向きを変えて踵を返すと、そのまま屋上の淵から思い切り床を蹴って跳んだ。茜音の体がふわりと浮き上がったかと思うと空中にある海中に投げ出され、真っ逆さまに落ちていく。

 驚く間もなく、間髪入れずに飛び出した茜音。落ちながら、先をいく自らの体に手を伸ばし、手首を掴むと強引に引き寄せた。

「てめ、そこまでして俺に記憶を戻したくねえのかよ! その為なら死ぬって言うのかよ!」

「その通りだ。体ごと消えちまえ!」

「てめえ!」

 胸倉を掴み、顔を近付ける。

「苦しめ、絶望しろ! 自分の選択がいかに愚かだったかということを思い知れ!」

 息がかかるほどの至近距離で茜音は、頭突きをするように自分の体と額同士をくっつけた。高笑いをしている自分の声を聞きながら、2人の頭の先から光の粒子が体を透過してスキャニングされていく。その最中に、ディオスによってデータのやり取りが行われ、光の粒子が足のつま先まで到達すると光の粒子は消えていった。

 一度、瞬きをして自分の体に戻っている事を茜音は、その目に目を閉じた夏野が映った事で確認した。海中だった景色も、茜音が元に戻った事で空中になっている。

 だが、元に戻ったのだとホッとする余裕は、今はない。このままでは元に戻った意味が無くなってしまうのだから。地上から、野次馬の悲鳴が聞こえてくる。地面まではもうすぐだ。

 恐怖にぎゅっと目を瞑った時、巨大な影が横を通り過ぎた。

 衝撃がきて、けれども思っていたよりもずっと少ない衝撃に目を開けてみて、見えたのは白緑色。それは、屋上に居た筈のガリアードだった。

「お前……ちょっと期待してた。どうもな」

 あのドラゴンならば、もしかしたら助けてくれるのではないかと思って飛び込んだ部分もあった。結果としては助かったので、判断は間違っていなかったという事だ。

 お礼を言って首元を撫でると首が上下に動き、頷いた事が分かった。ガリアードはそのままランドマークタワーを背にして空を飛んでいく。

 背中の方で夏野が目を覚ました事を感じ取ると、茜音は夏野を振り返った。

「ディオス、で、いいんだよな……?」

 恐る恐る夏野に訊ねると、夏野は優しく微笑んだ。

「ああ。君も元に戻れたようだな。この状態ならば、イリオンに戻りさえすれば完全となれるだろう」

「そっか、良かった……」

 良かった。自分はちゃんと出来たようだ。

 ディオスが、情報操作をする事が出来て良かった。体の一部、特に脳に近い部分を触れさせればデータの移動が行えると言っていたから実行してみたのだが、これほど簡単にいくとは正直思っていなかった。

 イリオンを管理し、データに触れていたディオスが居なければ出来なかった事だろう。イリオンの機能が生きてくれていたおかげでもある。

「良かった、これで葵惟の援護に行ける……」

 これでイリオンも元に戻ると、葵惟の事を考えた時だった。ドクンと心臓が大きく脈打った。警鐘のような心臓。何か、嫌な予感がする。

 突然、目を見開いたまま硬直した茜音にディオスは黙ってその様子を見守っている。

「あ……ダメ、だ……」

 呟かれた言葉。

「葵惟、葵惟が……葵惟は……っ!」

 呼吸が浅くなり、声も掠れる。頭を押さえ、無造作に髪を掴む茜音。

 大慌てでスマートフォンをズボンから取り出すと、茜音は番号を打ち込み、スマートフォンを耳に押し当てた。




 茜音が横浜に向かう為に神殿を出て行った1時間ほど後、ナノゲートを復活させる事が出来たと言う慶太からの言葉に、葵惟は決意を固めていた。これから、ナノゲートを通ってスカイツリーへ向かう。そこで自分が何をするのかという事は十分に分かっている。

 そう思って自分の右手を見つめると、僅かに震えている事に気が付いた。

 覚悟など、とうにできている筈だった。それでも、その時を目前に控えているとなると平常心ではいられないという事だろうか。

 葵惟は、ナノゲートを復活させて仕事を終えて、戻って来た慶太と話をしている蒼斗に視線を向ける。

「少し、いいだろうか」

 橘兄弟が同時にこちらを向く。

「アレスの事だが、貴方ほどの人がウィルスを除去するプログラムを作れない筈がない。だが、貴方はアレスを破壊すると言った。何故だ」

「彼がいるのは、イリオンの心臓部。そして、イリオン内のシステムを掌握している事から深く繋がっていると推測できる。つまり、アレス=イリオンだと言ってもいい。その状態でアレスを退ける事は不可能に近い。故に、アレスとイリオンを同時に消滅させる方法を取るしかないのだ」

 ディオスはイリオンの心臓部を担う存在だった。そのディオスも、繋がっているが故にその場から動く事は叶わなかった。だからこそディオスは夏野という存在を生み出した。ディオスが動けない代わりに夏野が自由に動き回れる。そういう存在を彼は創った。

 しかし、そのディオスの居るべき場所をアレスが奪い取り、成り代わった。つまり、同じ器の中身が入れ替えられた事になる。そしてアレスは侵食する事によってイリオンと同化してしまった。

「茜音に話したのはわざとか。あいつが、元の体に戻れるように」

「あの様子では、自分の体を取り戻す以外の目的を与えない限り、動きそうになかったのでな。ディオスも、承知の上で私の嘘に乗っていた」

「僕の意思を尊重してくれたという事か」

 その言葉に頷く事はせず、蒼斗はただ微笑を浮かべた。それが、答えなのだろう。

 実際、茜音がすんなり承諾してくれた理由はそこにあったと思う。葵惟が頑張るんだから俺も頑張らないと、きっとそんな事を思っていたのだろう。自分の為よりも葵惟の為というのが、茜音の基本的な行動原理なのだから。

 そうして話していると、不意に、蒼斗に通信が入った。それは、リリスという女性からのものだ。確認してほしい事があるから私室に窺っても良いかというもの。特に拒む理由がなかったのか蒼斗は二つ返事で了承していて、すぐに転送装置でリリスが私室へやって来た。

「蒼斗様。今回の件、どう思われますか?」

 転送装置から一歩部屋の中に入った所で立ち止まったまま、リリスは蒼斗にそう問いかけた。

「どう、とは?」

「今まで誰も成し得なかったオーグメンテッドリアリティが、今、目の前にあるのですよ。素晴らしいことだと思いませんか」

 クールビューティという印象の強い彼女だったが、今の彼女からそれは窺えない。研究者という部類の人間だから、歴史的な事実を目の前にして冷静ではいられなくなったという事だろうか。

 しかし、怪訝な顔をしているのは葵惟だけではなかった。

「確かに、本当にオーグメンテッドリアリティが完成しているのであればそうだが」

 どこか冷たい蒼斗の声。

 今はそんな事を話している場合などではないと、そう言っているかのようだ。実際、今は緊急を要する事態が起こっている最中なのだから、科学の進歩の話をしている暇などない。

 しかし、表情を変えたのはリリスの方。

「あれはオーグメンテッドリアリティなどではない。イリオンの視覚情報を投影しているだけだ。つまり、立体映像と同じ事。それの何が素晴らしいと言うのだ」

 蒼斗の口調と声音から、葵惟は全てを悟ったような気がした。

 そして見た事もないような人間の醜悪な顔に、それは核心へ変わる。一度目を閉じ、再び開けると葵惟はリリスを真っ直ぐに見据える。

「先程、イリオンと現実が混ざり合った後に戻って来た時に、誰かが笑っているのが見えたが、あれは貴女だったのか」

「何故、このような馬鹿げた事を?」

 淡々と言ってのける葵惟に、蒼斗が言葉を繋げた。ずっと分かっていたかのような葵惟と蒼斗。しかし慶太だけは状況を把握しきれていないようだったが、それでもリリスは瞳孔の開いたような目で葵惟を一瞥し、その口元に笑みを浮かべる。悪意の塊のような、醜い笑みを。

「何故? 何を言っているのです? ワタシはずっと貴方を見てきました。何年も何年も。貴方に近づきたい、貴方に認めてもらいたい。その思いで、貴方の右腕と言われる存在になった。でも、足りないのよ。もっと近くに、もっと傍に、もっと、もっと! その為には貴方を超える必要があった。だから、新たな世界を創ろうとしたわ!」

 人工知能を使って新たな仮想現実を生み出した蒼斗。それはフルダイブシステムのオンラインゲームの世界とはまるで異なっていた。ゲームと違う生きた世界、それがイリオンという仮想現実。

 普通の世界では駄目だ。もっと、もっと現実に近い世界をと研究をし続けたが、イリオンのような世界を創る事はリリスには叶わなかった。

「それでも諦めきれなかった。だから、貴方の世界をワタシのものにすることにしたわ」

 ディオスの代わりとなる存在を創り出したが、神殿内からイリオンに侵入させる事は出来なかった。神殿内でのデータは全て蒼斗の私室に繋がっている為、そこで計画が露呈する事は避けなければなかった。そこで目を付けたのが、テウクロスで働いている、蒼斗とは中学の同級生だった人物。彼は少なからず蒼斗に嫉妬心を抱いていた為に、イリオンを乗っ取るという計画を話せばすぐさま了承してくれた。

 そうして、テウクロス側からアレスを潜り込ませる事に成功した。

「けれどアレスはただのプログラムで、決められたことしか出来なかったわ。あれではディオスの代わりなどできない、生きた世界にはならない、そう思ったから人間を知るようにさせたのよ。ディオスと同じように」

 しかし、人間を知る方法がディオスとは全く異なっていた。それが、人間を攫ってデータを解析し、実験を行う事で人間を知るという方法だった。イリオン内での失踪はその為のものだったのだと言う。

 ただそれだけの為に、46人もの人間が犠牲になろうとしている。

 葵惟は目を細める。

「けれど、それだけではいけないのよ。貴方を超えなければ、真に認めてもらうことなど出来ないわ。だからワタシは、オーグメンテッドリアリティを実現させる為のプログラムをアレスに組み込んだのよ。複雑なプログラムだったから、発動するまでに2年もの時間を要したけれど、漸く、こうして実行されたのよ! これがワタシの力です、蒼斗様! ワタシを認めて下さいますよね!」

 嬉々とした表情のリリス。彼女は報われると信じて疑っていないのだろう。けれどもそうではないという事を、ここにいる彼女以外の者は知っている。空気が物語っている。

 彼女が何をしたのかという事も、真に理解している。それが理解できない者は、この場には彼女以外にはいなかった。

 葵惟同様に冷たい目をリリスに向ける蒼斗。

「もう少し優秀な人間だと思っていたのだがな、非常に残念だ」

 その言葉は、酷く冷たかった。軽蔑しているというのがアリアリと取れて、それは彼女自身も身に染みたのか、表情が再び一変した。愕然としたような彼女。

「何を、言っているのですか?」

「私は先程、言った筈だ。今回の件は、馬鹿げていると」

「何故……何故ですか! ワタシは偉業を成そうとしただけ、それの何がいけないと言うのですか!」

 逆上したようなリリスの言葉は、酷く滑稽なものに聞こえた。

「私がイリオンを創設した理由を憶えているだろうか。管理され、閉鎖された世界で人はどのように生きるのかを検証し、又、どの程度の管理を求めるのかを知りたい。そして、現実世界で足りないものや必要なものをイリオンという世界で試行錯誤する事によって、現実世界に還元させ、より良い国や世界にする為のシミュレーションをする場としてイリオンを提供する。それが、私が創ったもう1つの現実だ」

 現実世界で行えない事を仮想現実で試行する。その為に、安全措置には万全を期していた。故に、怪我を負わない世界としたのだから。

 監視、管理する事によって、イリオン内で犯罪は起こらなかった。

 都会で暮らす子ども達は仮想現実の中で様々な自然と触れ合う事が出来た為に、教育にも良いとされていた。

 様々な情報を共有する事が出来る為に、現実世界でのネットワークの強化もされるようになった。主に病院や警察や消防などの施設の提携がより強固となったのも事実である。

 イリオンが出来た事によって現実世界で変わった事は幾つもある。それを今後も増やしていく為の存在だった。

「そのイリオンを自らの欲の為に脅かした人間を評価できる筈もない。君がした事は、実に愚かな行為だ」

 そんな自分勝手な理由が正当化される筈などない。冷静に考えれば簡単に分かる事だったというのに、己の欲にまみれたせいで彼女は何も考えられなくなっていたのだろう。総てが終わった後に、蒼斗に認めてもらえると信じて疑わなかったのだろう。その為に他の人間が幾ら犠牲になろうと、何も感じなかったのだろう。

 人間というものは、愚かな生き物だと葵惟は思った。

「……蒼斗様に認めてもらえないのなら、もう、意味がないわ……」

 落胆したようなリリス。彼女の手元で、何かがキラリと光った。

「せめてこの手で貴方を!」

 駆け出し、握りしめていたハサミを思い切り振り上げ、蒼斗目掛けて振り下ろした。ひゅんっと彼女の横を何かが掠め、飛んでいったハサミは後方にいる葵惟の近くの床へ突き刺さる。

 蒼斗とリリスの間にいるのは慶太だ。蒼斗は顔色一つ変える事無く、微動だにする事無く椅子に座っている。

 足に力が入らなくなったかのように座り込んだ彼女を見下ろす蒼斗の目には、うれいが見て取れた。

 慶太がすぐさま他のスタッフに連絡を取り、2人のスタッフがやって来ると何も事情を聞かずに彼女を両脇から抱えて立ち上がらせ、転送装置の方へ連れて行く。その最中で、蒼斗は口を開いた。

「アレスを止める事は可能か」

 問いかけに、彼女は虚ろなまま笑った。

「もう誰にも止められないわ。アレスはワタシの手を離れたもの。もう誰にも止められない。プログラムされたまま、イリオンを現実に引き込むわ。ワタシは神を凌駕したのよ!」

「そうか……このような事をせずとも、君の能力は認めていたというのに。本当に、残念だ」

 連行されて行くリリスに、それ以上言葉をかける事は無かった。

 リリスが居なくなり、蒼斗は椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰ぐ。太陽の光を反射してキラキラと輝く水。それはとても綺麗で、それ故に残酷に映った。

 自分が統治している神殿内から裏切り者が出たという事は、どれ程の傷になるのだろうか。友人も仲間も居なかった葵惟には、到底計り知れる事ではない。心配そうに兄を見ている慶太も、言葉を発しなかった。

「全ては私の責任か……私は他者への配慮が足りないという事は自覚していたが、ここまでの事態になるとは……私自身が知らねばならないようだ。人というものを」

 そっと、慶太は微笑んだ。

「それも必要だと思うけど、兄ちゃんは素直になるとこからじゃない? 人は、言われなきゃ分かんないよ。褒めてもらえなきゃ、分かんないよ」

「……そうだな」

 言わないと伝わらない。言われないと分からない。相手の心を全て理解する事など出来ないのだから。だから、言葉というものがあるのだろう。意思疎通の為には必要不可欠なものだ。それを、おこたってはいけない。

 葵惟と茜音がこじれた理由もそこにある。葵惟も、茜音に伝えなければならない事がある。必ず伝えなければならない事が。その為にも、葵惟はやるべき事をやり遂げなければならない。必ず。

 今回の一連の犯人が判明したものの現状が変わる事もなく、葵惟はナノゲートを通ってスカイツリーの中に来ていた。

 今いるのは展望回廊。エレベーターを降りてすぐの場所だ。眼下に広がる地球を見ながら、昼間の空に浮かぶ広大な宇宙を見上げる。宇宙空間が広がっているせいで、昼間だというのに暗い。

『葵惟君、準備はいいかい』

 頭の後ろに浮かぶスクリーンから聞こえてきた声に、葵惟は静かに頷いた。

「ああ。問題ない」

 展望回廊を上りきった先に、アレスが居る。蒼斗の指示で慶太がアレスを追跡した結果、位置情報がその場所になっていた。だから、蒼斗もこの場所にナノゲートを出現させてくれた。

 塔から突き出した螺旋状の通路を登り切り、真っ直ぐ進んで行くと純白の影が目に映った。その小さな影は、眼下に広がる青い地球と東京の街を眺めている。

「漸く来たのう」

 まだ幼い少年の声が耳に届くと、彼はこちらを向いた。金色の瞳だけが、色を持っている彼。

「待っておった。お主を歓迎する」

「待っていた? まるで僕が来る事が分かっていたような口ぶりだな」

「分かっておったのだよ。お主を見た時に、我が許へ来るであろうとな。それに、全知全能の神とはそういうものであろう?」

「神というものを僕は信じてはいない。神と言われるものも、基は人間だったんだ。僕達と変わらない存在に縋るなど、馬鹿げている」

 人間が転身して神になったものなど多くある。この日本においては、八百万の神として家具なども神に変わる。そんなものが総てを知っているなど、おかしな話ではないか。

 信じている人間にとやかく言う気はないが、それでも、自分はそんなものに頼る事などしない。

 ハッキリと言い放つと、「そうか……」とアレスは呟き、そして何かを考える素振りを見せたかと思うと笑みを浮かべる。

「ならば、お主も神にならぬか?」

 一瞬、言っている意味が理解できなかった。目の前にいる少年の姿をした人工知能は今、何を言ったのか。葵惟は思わず眉を顰めた。

「何を言っている」

「ヒトが神になれると言うのならば、お主にもその資格があるという事。否、お主にしかその権利はない。そうであろう? ヒトではないヒトの子よ」

 その言葉を聞いた瞬間に、アレスの言っている意味を理解した。それならば納得がいく。

 後方のスクリーンから、着信音が鳴り響いている。電話に出たのは慶太のようだ。通話をスピーカー状態に変えたらしく、遠くで茜音の声がする。どうやら、身体は元に戻ったらしい。

『葵惟、駄目だ! このままイリオンが無くなったら、葵惟が消える!』

『アオが消えるって……どういうこと……?』

『俺と葵惟は双子なんかじゃない! 本当は!』

「解離性同一性障害。僕と茜音は、二重人格だ」

 静かに口にした言葉。

 茜音がショックを受けているというのは、顔を見なくとも、言葉を詰まらせたという事だけで分かる。そもそも、記憶が戻ればこういう反応になる事は予想済みだった。それに、双子だと思い込んでくれている方が葵惟にとっては好都合だった。

 敏い蒼斗には感付かれていたようだが。それと、目の前にいるアレスにも。

「僕が普通の人間ではないと、どうして分かった」

「近しい存在というものは、感じ取れるものなのだよ。我同様に、この世界で肉体を得たであろうと、見た時に理解したのだ」

「それで、ここに来ると思ったという訳か」

 近しい存在は感じ取れる。その心当たりが、葵惟もない訳ではない。

 それは恐らく蒼斗も気付いていた筈だ。だからこそ、葵惟がアレスの許に行くと言うのを止めなかったのだから。

 もしかしたら、最初に会った時にはすでに気付かれていたのかもしれない。データを扱える神殿内なのだから、何かしら、常人には分からない変化があったとしてもおかしくはない。君に興味を持ったという言葉には、それも含まれていたのかもしれない。

「話をしてはくれまいか? 我もお主の誕生には興味があるのだ。ヒトというものを知る良い機会にもなるのでな」

 手摺に腰掛けているアレスは完全に愉しんでいるような表情をしている。こういうところは子どもと言うべきか、もしくは、やはり探究心が強いのか。恐らくは両者なのだろう。彼は生まれたばかりの存在で、恐らくは人間を知ろうとしていたのだから。

 相手が待ってくれると言っているのであれば、拒否をする理由はない。今すぐどうにかしなければならないというほど、切迫した状況でもないのだから。

 ふうっと息をつき葵惟は、今はかけていない眼鏡を上げる動作をしてから話を始める。

「僕と茜音は本来、双子だった。双子で生まれる筈だった。しかし、僕は生まれる前にこの世を去った。生まれる事が出来たのは、茜音だけだった」

 母親の胎内で育っていた2つの命。しかし片方の胎児に栄養が吸われ、栄養の行き渡らなかった胎児は死亡した。元々、生まれる前から両親は名を付けていて、亡くなったのは葵惟と呼んでいた子の方で、無事に生まれた茜音は1人っ子として育てられていた。

「その頃、すでに僕は茜音の中に存在していた。いや、生まれる前にはすでに居たんだ。茜音は僕が死んで居なくなった事を分かっていたのだろうな」

 生まれる前から2人で生きてきた茜音と葵惟。しかし、自我のない赤ん坊ではどちらが表に出ていても両親には区別がつかず、1歳頃には多少の違和感を覚えたものの、子どもの気まぐれだろうと何も気にはしていなかった。

 それが変わったのは、3歳になる前の頃の事。

「その頃には僕も茜音も自我を持ち、性格も少しずつ変わってきていた。両親が気付いたのは、僕が葵惟と名乗った事と、茜音が1人で話すようになった事がきっかけだった」

 茜音がオモチャに話しかけているのかと思った母親が「誰とお話してるの」と訊ねると、茜音は「葵惟と話している」と答え、精神科に連れて行かれた結果、解離性同一性障害だと診断された。

 診断中に、茜音ではなく葵惟に対して医者は、いつからいるのかと訊ね、生まれる前からと葵惟は答えた。そして、葵惟が生まれる筈だった子の名を名乗っている事から、亡くなってしまった双子の弟を生きさせたいと茜音が願って生み出した人格ではないかという推測に至った。

「その後、僕は両親に都築葵惟として育てられた。僕達は再び、双子に戻ったんだ」

 両親は葵惟の存在もきちんと認めてくれていて、葵惟と茜音は、茜音の体を共有する双子という奇妙な関係になった。それが数年続き、これがずっと続くと思われていた。

 そんな中で、日本中を揺るがす出来事が起きた。

 それは今から5年前の事。イリオンが完成し、日本中でナノゲートが取り入られた。葵惟と茜音の家にも導入され、茜音はその日、初めてナノゲートを潜った。

 見えた世界は現実には有り得ないようなもので、嬉々としてはしゃいだ茜音はいつものように葵惟に話しかけた。いつものように無感情な葵惟の声は、茜音の後方から聞こえてきた。

 振り返った茜音の目に映ったのは、自分と全く同じ姿の人間。

 そこで初めて、葵惟と茜音は互いの姿をその目に映し出した。

「イリオンに入る時のスキャニングで、僕と茜音は別の人間だと認識されたらしい。ログアウトして現実に戻る時も、再構築された際に僕は茜音とは別の人間だった。そうして僕は、1人の人間として生きる事になった」

 そこまで話して、葵惟は後ろのスクリーンを振り返った。そこに映っているのは蒼斗と、その奥にいる慶太。

 真っ直ぐに蒼斗を見て、葵惟は頭を下げる。

「ありがとうございました。僕は、貴方のおかげで正式に都築葵惟となれた。感謝してもしきれない」

 頭を上げて見えた蒼斗の表情は、何とも言い表せられない、とても複雑なものだった。

 解離性同一性障害で生まれた人格だと言っても蒼斗が驚いていなかったのを葵惟は見ていた。その理由は、恐らく慶太の家で出て来た人形のような女性の発言がきっかけなのだろう。蒼斗と慶太は、その女性の事をバーチャルの中で生まれた人間だと言っていた。彼女はきっと、葵惟を見た時にデータから人間になった者だと感じたのだろう。そして、茜音の中にディオスがいる事も感じたのだろう。

 それを慶太が蒼斗に話し、蒼斗はそこから葵惟の存在を推測した。

 だから、アレスの許に行く人間を選出しようとした時に、今と同じような複雑な表情をしていたのだろう。

 それはこれから起こる事も予測しているから。

 何も言わない蒼斗に背を向け、葵惟はアレスを見据える。

「これが僕と茜音の真相だ。満足したか」

「大層、面白い話であった。我はやはり、お主というヒトに興味がある」

「生憎だが、僕は自らを神と称する胡散臭い者に興味はない」

 キッパリと言い切る葵惟。

 こんな状況でも尚、葵惟は葵惟のままだ。その言葉も態度も表情も、今までの葵惟と何ら変わりはない。

 そんな葵惟を目の前にして、アレスはくくっと喉の奥を鳴らして笑う。

「主は、我がこれまで見てきたどの人間とも違う。主の願いは何だ」

「願いだと?」

 怪訝そうに眉間に皺を寄せる葵惟。

「そう。我はゼウスの子。ゼウスはヒトの願いを聞き、願いを叶え情報を集めておった。我に叶える力はない。だが、ヒトの願いに興味がある。主の願いとは何なのだ」

 まるでお伽噺を子どもに言い聞かせるように静かに語るアレス。黄金の瞳から、感情を読み取る事は出来ない。ただずっと、口元の笑みだけは絶やさない。

 人間とは何か、人間とはどういう生き物なのか、どういう存在なのか。それを知る為だけに犯した愚行。それを正当化させる訳にはいかない。

「そんなに知りたければ教えよう。僕の願いは唯一つ。お前と共に、この世界と消滅する事だ」

 淡々と、今までと何ら変わりない口調の葵惟。

 しかし茜音も慶太も絶句した。アレスは狂気じみた笑みを浮かべ、蒼斗はただ眉を顰める。

「はははっ! これはこれは、主は神である我を消すと言うのか!」

「お前は神などではない。所詮は人に生み出されたもの。神になる事など出来ない。誰も。僕はこの身を持ってお前を消す。絶対に」

 アレスを睨み付ける。こんな、漫画の主人公のようなセリフを口にするなど、我ながら滑稽だと、葵惟は自嘲気味に笑った。生まれてこなかった人間が主人公になれる筈などない。

 それに、自分が救世主になったつもりも毛頭ない。葵惟はただ、自分のやるべき事をやっているだけなのだから。

「ふざけんなよ、葵惟!」

 息を切らしながらの怒声。それは後方から聞こえてきた。驚いたように振り返って見えたのは、スクリーンよりも後ろに立っている茜音の姿。茜音が今、スカイツリーの中に居る。それも、葵惟のすぐ近くに。

 見た瞬間に葵惟は眉間に皺を寄せた。

「何をやっている! 馬鹿かお前は!」

「馬鹿は葵惟の方だろ! 急いで戻って来てみれば、何なんだよそれ!」

 恐らく茜音は、ランドマークタワーから戻って来て神殿内で今の会話を聞き、復旧した神殿のナノゲートを使ってここまでやって来たのだろう。肩で息をしているところを見ると、茜音自身が言っていたが相当急いで来たらしい。

 しかし、葵惟にとってこの状況は最悪だ。

 言い合いをしながら、チラッと後ろにいるアレスを見ると、憤慨していたのが嘘のように笑っている。小学生にも満たない子どもという見た目がしっくりくる、その笑顔と心情の変化。知識量があるだけの子どもと認識して良さそうだ。

 アレスが何かを仕掛けてくるつもりがない事を知り、葵惟は再び茜音を見る。

「お前が来た所で何になる。さっさと戻れ」

「嫌だね。あんなの聞いて戻れるわけないだろ! せっかく俺が元に戻ったってのに、自分は消える? 意味わかんねえ」

「お前が元に戻る事と僕が消える事は関係ないだろう」

「関係ないわけないだろ! 俺がどんな気持ちでお前のことを――」

 茜音の言葉を遮るように、葵惟はガッと勢いよく茜音の胸倉を掴んだ。間近で見つめ合う葵惟と茜音の目は、互いを映しながら仇のように睨み合う。兄弟喧嘩など日常茶飯事だったが、それでも、ここまでのものは初めてだ。

「僕が生きたいといつ言った! そんなもの、お前の勝手な思い込みだろう。勘違いなど、ただの迷惑だ!」

 瞬間、茜音の目が憤りから驚嘆へ変わる。信じられないようなものを見る目。

「そんな、そんな言い方……俺はずっと葵惟といたかったんだ! 葵惟に生きててほしかったんだ! だから!」

「本当にそうか? 生まれる前の事を、僕は憶えている。その頃、お前が僕に伝えてきていたのは、謝罪だった」

 まだ言葉を話せない頃の事なのだから、言葉として受け取ってはいない。それでも、繋がっているからこそ伝わっていた。ごめんねという思いが。

 葵惟の言葉に、茜音は足の力が抜けたようにその場に座り込んだ。

「……そうだ……俺……俺が、葵惟を殺したから……俺が葵惟の分まで栄養摂って、それで葵惟が死んじゃったから、それを父さん達の会話で知ったから……俺が殺したんだって思ったら怖くなった……だから絶対に、葵惟を消したくないって思った……俺……俺の自己満足だったんだ……」

 恐怖に歪む茜音の顔。

 葵惟は知っている。茜音が真実を知った時の事を。それは、両親に葵惟の存在が発覚した少し後の事。夜中に両親がリビングで話しているのを偶然聞いてしまった。葵惟は元々、知っていた事実だった。生まれる前に、両親は何度も口にしていたから。亡くなってしまった、生まれる筈だった葵惟の事を。そして茜音には絶対に知られないようにしようといつも話していた。茜音が気にする事など、目に見えていたから。

 自分が生み出された理由がそこにあるのだと、葵惟はずっと知っていた。知っていて、それでも知らないフリをしていた。茜音が真実を知った後も、何事もなかったかのように振る舞っていて、茜音は知らない方が良いのだと思って隠してきた。

 けれどもう、隠す必要もない。

「お前は罪悪感から僕を生み出し、それを僕に隠し、何事もなかったかのように今まで生きてきた。僕が知らない筈もないというのに。お前は本当に馬鹿だな。本当に愚かで、見ていてイライラする」

 スッと細められる葵惟の目。その顔を見上げる事も、今の茜音には出来ない。辛うじて葵惟の声が聞こえているといった様子だ。

 それだけの事を葵惟は告げていて、茜音も感じている。

「本当に馬鹿だ、お前は……僕の言った事も、自分の言った事も憶えていないのだからな」

 微動だにしない茜音を、葵惟は見下ろしたまま。

「そんなの、あいつの勝手な思い込みだろ。そんなこと誰も望んでなんかないのに、迷惑なだけだろ……お前が、アレスに対して発した言葉だ。そして……自分を生み出した人間に感謝こそすれ、疎んだ事も迷惑だと思った事もない。僕はそう言った筈だ」

 アレスの目的を知った時に、確かに茜音はそう言い、確かに葵惟もそう言った。その直後に茜音の正体をバラした為に、記憶には留まらなかったのだろうか。そうであるならやはり、茜音の頭の悪さを疑う。せっかく、誤解を解いたというのに憶えていないなど、愚かの極みだ。

 落胆してから初めて、茜音が顔を上げた。 

「お前が僕を殺した? 違うな。お前は僕に命をくれた。言わば恩人だ」

「え……?」

「僕は確かに一度死んだ。しかし、こうして今、生きている。それは全てお前のおかげだ。これまでの人生はお前のおかげで成り立っている。感謝しかなかった」

「……でも、だって……」

「僕がお前にべったりくっついていたら、その時が来た時に辛くなるだろう。だから敢えて、辛く当たる事を選んだ。それでもお前は、僕にべったりだったがな。喧嘩ばかりだったが、それでもお前は僕の事を何よりも大事にしてくれていた。それは、お前の知り合いに会って回って実感した」

 茜音の知り合いだという人物の誰もが葵惟の話題を口にした。離れていても、いつも葵惟の事を考えていたというのはそれだけで分かる。夏野として居た筈の茜音自身が、そう口にしていた。

 もしかしたら、面と向かって言いたかったのかもしれない。茜音ではない時だからこそ、素直に言えると思ったのかもしれない。葵惟が茜音の事を嫌いじゃないと言った時の笑顔も、きっとそういう事なのだろう。

 茜音に愛されている事を葵惟はずっと知っていた。そして自分も、茜音の事が何より大切だとずっと知っていた。だから、何があっても突き放せなかった。出来る筈がなかった。

「僕はお前の事が本当に大切なんだ。だから、僕の分まで生きてくれ」

「……何、言って……! 生きるなら一緒に!」

 縋るように立ち上がって葵惟の腕を掴む茜音に、葵惟はそっとその手に触れた。

「言っただろう。始めたものは終わらせなければならないと。頼む……僕の言う事を聞いてくれ」

 言いながら、力の緩んだ茜音の手を自分の腕から外す。

「蒼斗さん」 

 呆然と見てくる茜音を見る事はせずに葵惟は目が合ったスクリーンの向こうにいる蒼斗の名を呼び、蒼斗が頷いた直後、茜音の姿が一瞬にしてその場から消えた。強制ログアウト。先程、混ざり合う2つの世界の中に取り残されそうになった葵惟達を神殿に戻した時と同じだ。

 慶太が、蒼斗に掴みかかっている。

『兄ちゃん、どういうことだよ! こんなのオレ、聞いてない!』

『葵惟君は元からそのつもりだった。だからアレスの許に行く事を自ら選んだ。彼の意思だ』

『だったら何で言わなかったんだよ! こんなの納得できないよ!』

「あまり自分の兄を責めるな……僕の意思を汲んでくれたんだ」

『それでもオレは嫌だ! ディオスがいれば、イリオンは元に戻るんでしょ?! だったらアオが消える必要なんてない!』

 ディオスが茜音と2人きりになって、ランドマークタワーに向かっていた時に話していた事。夏野の体に戻ったディオスがイリオンに戻って完全となれば、イリオンを消す必要はないと、神殿から出る前に蒼斗自身が言っていた。

 蒼斗は慶太を見ずに目を伏せる。

『アレスとイリオンは繋がっている。この状態でアレスが消えれば、イリオンも消える。ディオスが戻った所で、もうどうにもならない』

 そこで、葵惟の前から消えた茜音が蒼斗の部屋にやって来たらしく、スクリーンに映り込む。

『何だよ! 何なんだよそれ! 初めての頼み事がこんなのってないだろ! 葵惟が消えるなら俺も一緒に!』

「僕と共に消える事に何の意味がある。僕を想うのなら、生きてくれ」

 そう言って微笑み、後方から聞こえる茜音の言葉も叫びも全て無視して、葵惟は再びスクリーンに背を向けてアレスを見やる。

 何度も他人の話を待ってくれているなど、本当に空気の読める子どもだ。人工知能だからこそなのだろうか。

「そろそろ終わりにしよう」

「出来るものか。我を消滅させる事など不可能だ」

「他の場所だったら無理だっただろう。しかし、ここはお前にとって最悪の場所だ」

 自信に満ちた葵惟の言葉に、アレスはどういう事かと眉を顰める。

 ずっと気になっている事があった。何故、形が蠍座なのかという事。メッセージの文面から、遊びの一種なのだろうと思っていた。しかし、蠍座が完成形ではない事、そしてアレスの名を聞いてピンときた。

「この場所は、蠍座の中心に当たる。赤く輝く星、アンタレスに相当する場所だ。アンタレス、別名アンチ・アレス。アレスに対抗する者という名だ。つまり」

 ポケットの中からスマートフォンを取り出し、ロックを解除する。

「この場所こそが、お前を消滅させられる唯一の場所という事だ」

 真っ直ぐにアレスを見据えると、アレスは明らかに狼狽えている。

 顔は強張り、今まであった余裕が一切消え去る。

「そんな……我はそのような事をした覚えは……まさか……」

「ディオスの仕掛けた罠だ。お前に対抗する為に、この場所に破壊プログラムを設置している。お前はもう、終わりだ」

 掲げたスマートフォンの中にあるボタンの1つに触れるとスクリーンが消え、周囲の景色が宇宙と眼下の地球だけに変わった。イリオン内にあったエリアそのものだ。

 現実世界が何も見えなくなった事で実感する。どうやら、現実世界とは切り離されたらしい。

 茜音達の姿が無くなり、息をつくと葵惟は真っ直ぐにアレスを見る。アレスの表情は、落ち着いていた。

「イリオンの中枢に居て様々な情報を得ているお前が、蠍座の事もアンタレスの事も知らない筈がない。それに、消されると分かっていてのあの余裕。どうも釈然としない」

 いくら人間に興味があるからと言って、自分が消されるかもしれないという状況で、ただ静観しているというのはどう考えてもおかしい。

 すると、アレスは再び笑みを浮かべる。愉しそうに、哀しそうに。

「我も主同様、消滅に躊躇いはない。我がこの世界に生まれた理由。それは神として世界を崩壊させる事」

「崩壊? 融合ではないのか」

「我を創った者は融合させたかったようだが、協力者は崩壊を望んでいた。創造主の知らぬ間に改変されたのだ」

 テウクロスに居る、蒼斗の同級生だったという人物が仕掛けた事なのだろう。リリスは現実世界と仮想現実を混じり合わせ、イリオン以上の世界にしようとしていた。しかし、結果はまやかしのものだった。つまり、リリスの計画は初めから上手くいく事はなかったのだ。

 だからこそ、あのメッセージだったのだろう。

「混迷へと導く、か。神と名乗ったのは、ディオスが神の名を冠しているからか」

「それもあるが、我を創った人間は自ら神になりたがっていた。あの、橘蒼斗のように、世界を統べる者になりたいと。我はその代わりなのだ」

 アレスはくくっと喉の奥を鳴らして笑う。

 自嘲めいたその笑いは、自身の存在を嘆いているのだろうか。それとも、そんな存在でしか居られない自分への嫌悪なのだろうか。

「我は所詮バグ。存在する事で世界を崩壊させるのだ。だから我はこの場所から動く事はままならぬ。イリオンの中枢があるこの場所は、強力なファイアーウォールで守られておってな。内からの方がより強固となっておる」

「自分を閉じ込める檻だったと?」

「それも然り。我がイリオンの中枢と繋がっている事は知っておろう?」

「ああ。お前が消えればイリオンも消えるという程に」

「うむ。繋がっているからこそ、ここから離れる事は叶わぬ。永久に。だが、不変ではない。ディオスがおらぬようになって、イリオンに亀裂が入ったのだ。その亀裂から、我という存在はイリオン全域に浸透し、崩壊を招いた」

 存在自体がバグなのだから、存在している限りイリオンは壊れていく。内側からどんどん崩れていく。それをアレスに止める事など出来ない。そういう存在として生み出されたのだから。

 人工知能と言えるほど高度なものではないのだろう。自らの意思で考え、行動する事すら叶わない存在、それがアレス。ただプログラムされた通りにディオスからイリオンを乗っ取り、世界を崩壊へ導いていた。意思を持ち合わせていないが故に、リリスが居なくなった今でも自らを止める事は出来ない。

 他人の意思で生み出された存在。近しいと言っていたアレスの言葉が、漸く理解できたような気がした。

「ディオス……夏野を見逃したのもわざとという訳か」

 問うように話せば、アレスは葵惟から視線を外して広大な宇宙を見上げる。

 作り物の宇宙、作り物の地球。それでも壮大で、荘厳で。

 アレスの浮かべていた笑みが、少しだけ崩れた。

「我は己の存在が赦せぬ。消滅できる機会を逃す手はないであろう」

「僕と、同じという訳か」

 その通りだと、アレスは頷いた。

 意思が、ない訳ではなかった。それでも何も出来なかった事が何よりも悔しかったのだろう。だから事件を起こし、メッセージを残し、誰かに報せようとした。それが葵惟だった。茜音が失踪しなければ、葵惟とてここまで関わる事はなかっただろう。それも、計算だったのかもしれない。

 それでも、葵惟にだって赦せない事はある。

「いくら高尚な事を言っていても、お前が人を殺したという事実は変わらない。マグマと化したラグーンエリアで乖離した者達。そして今尚、お前と繋がっている、失踪していた茜音を除く45人。お前が消滅すれば彼らも消滅する。イリオンが消滅するのと同じにな」

 今、葵惟達がいる場所で茜音の体が夏野を撃った事で確信した事がある。それは、アレスと失踪していた茜音の体が繋がっていたという事。心のない茜音が夏野を殺す理由はない。アレスがディオスを消そうとしたと考えるのが妥当だ。そのおかげで、夏野の中にディオスも存在していると知ったのだが。

 しかし、それは同時に失踪していた46人全てがアレスと繋がっているという事も示している。繋がっているからこそ、映像を送受信する事が出来るのだろう。

 軽蔑するような眼差しを向けるが、アレスは何の反応も見せなかった。ただ少し、俯いただけ。

「うむ。我も同じ思いだ」

 そこで一度言葉を区切り、アレスは息をついた。

「最後に一つ……我が、主を神にしたいと思うたのは、本当の事。主ならば、善き世界が創れると思うた。我が自ら引き金を引けば、主が消える必要もない。我の代わりに、神にはならぬか?」

 静かに問いかけてくるアレス。それは、彼の本当の意思なのだろう。買いかぶり過ぎだと、葵惟は思った。蒼斗にしてもそうだが、周囲の人間は都築葵惟という人間を過大評価し過ぎている。

 例えそうではなくとも、葵惟が頷く事など有り得ない。

「答えなど判り切っているだろう。神など、この世に必要ない。導く者もだ。自分の心のままに、信じるものを信じて生きていけばいい。それが、人生というものだろう」

 これまでに葵惟が経験した事。感じたもの。見てきたもの。聞いた事。知った事。それら全てをくれたのは茜音だ。そして、葵惟に1人の人間として生きる術をくれたのは蒼斗だ。そして、人と人との繋がりをくれたのは慶太だ。

 彼らには感謝してもしきれない。このような形での別れは本意ではない。今現在、淋しいと感じている自分がいる。だがそれでも、これ以上一緒に居る事は出来ないと葵惟自身が知っている。時間を共有すればするほどに離れがたくなる事も理解しているから。

 今しかない。タイミングはここなのだ。

「では、そのボタンを押して、我と共に逝こうではないか」

 振り向いたアレスは元の笑顔に戻っていて、見られた葵惟もフッと笑みを浮かべる。先程、押したボタンは別の物。アレスと話をしていた事がその証拠だ。

 消し去る前に、どうしても話がしたかった。

 近しい存在だったからだろうか。総てを知って、スッキリしたかったからだろうか。同じ想いを共有したかったからだろうか。自分と同じ存在だと実感したかったからだろうか。彼の本心を知りたかったからだろうか。

 理由など、そのどれでも良い。話がしたかった、ただそれだけで良い。

 消えゆく者に理由など必要ない。

「ああ、そうだな」

 スマートフォンを操作し、起動スイッチとだけ書かれたアプリに触れると、景色が一瞬にして真っ白に変わった。そして、葵惟とアレスの体が粒子へ変換されて景色に吸収されていく。

 消えるのだと実感しても、何の感情もなかった。

 元々死んでいるのだから、もう何も怖くない。慶太と蒼斗が居てくれれば、茜音は大丈夫だ。独りにはならない。

 葵惟は静かに目を閉じると、景色に溶けていった。


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