4 メッセージ
蒼斗の部屋を飛び出した葵惟と夏野は、ナノゲートを通ってイリオン内にあるエリアの1つへ来ていた。そこは茜音が居ると表示されていたエリアで、一面の星の海が広がる下には地球が見える64番目の、ブルーアースという名のエリアだった。
宇宙の真っ只中を歩いているという不思議な感覚のエリア内で、ナノゲートから真っ直ぐ奥へ向かって歩いていると、その姿が目に飛び込んできて葵惟は足を止めた。その少し後ろで夏野も立ち止まる。
派手な赤い髪に、暖色系のド派手な色合いの服装。佇み、宙を仰いでいたその人物がゆっくりとこちらを向いて見えた顔は、葵惟と全く同じものだった。まるで鏡に映したかのようなその顔は、見間違える事など決してない。
後から走ってやって来た慶太はその雰囲気に、夏野よりも後方に距離を置いて立ち止まった。
「茜音……」
5日ぶりの再会だが、葵惟の心は複雑だった。喜び、憎しみ、安堵、嫌悪。言葉では言い表す事の出来ないような感情の波。それは、茜音も同じだったようだ。
「葵惟? 何だよ、その格好。俺みたいじゃん。学校辞めて、家出して、何してるのかと思ったら俺になってたってわけ」
嘲笑するような茜音の顔。蔑んだ目、馬鹿にしているような口元の笑み。
「そういや、帰って来てから身に覚えのない話を結構されたんだけど、あれって葵惟のことだったわけだ」
「元々同じ顔をしているのだから、髪型と服装を変えれば――」
「入れ替われるって?」
葵惟の言葉を遮り、葵惟の言葉を先読みして告げれば茜音の目が鋭く細められた。軽蔑が、形を変えていく。
「けど、性格は正反対だから大変だっただろ。3日ももたなかったんじゃね?」
「そうだな。頭の悪いフリをするのと、愛嬌を振りまくのはこの上なく苦痛だった」
静かな言い合いだがピリピリとした空気が漂う中で、夏野も慶太も黙ってその様子を静観していた。数日ぶりの再会であろう兄弟の会話とは思えないほど、刺々しい物言い。
それは葵惟が本物の茜音だと思っていないからだろうか。その可能性が高い事を、夏野達も聞いていたからそう見えるだけだろうか。
そうして葵惟と茜音が対峙していると、不意に茜音が葵惟から視線を外した。瞳に映したのは、葵惟よりも奥にいる夏野の姿。
「葵惟、俺のフリして友達作ったのか。お前が誰かと一緒にいるの、初めてだろ」
言われて振り向き、夏野の姿を確認するなり溜め息をついて茜音を見やる。
「こんな頭の悪い人間と友達になった覚えなどない」
「は? じゃあ何で一緒にいるわけ」
「お前の友人だろう? 勝手について来られて迷惑している」
「友人? 俺の? 誰だよそいつ。そんな奴、知らねえよ」
その言葉に、葵惟は眉を顰めた。
茜音の姿をした別人だから夏野の事が分からないのだろうか。否、今目の前にいる茜音は、葵惟の性格などを完璧に熟知している。葵惟がいつも1人で居たという事も、だ。
だとするならば、葵惟を知っていて友達を知らないというのは矛盾する。成り代わるのであれば、友人関係まで把握しておくだろう。実際、失踪後に帰って来てからも友人に会っていたというような事を先程、口にしていた。親友ともなる人物を知らない筈がない。
そこで葵惟はふと、ある事を思う。
そもそも、夏野が茜音の親友であるという話は夏野が自分で言っていた事で、茜音の友人として夏野と会った事のない葵惟にはその真偽を問う術はなかった。元々興味がないという事もあったが、それでもおかしい。
そう思って振り返り夏野に視線を向けると、彼は唖然とした顔で茜音を見ていた。
「誰だよそいつ……か。そりゃそうだよな。俺だって知らねえもん」
言って、笑みを浮かべる夏野。
「けど、俺は会いたかったぜ」
地面を蹴って勢いよく飛び出した夏野は一気に茜音との距離を縮めると、ハーフパンツの後ろポケットから取り出したサバイバルナイフを握りしめ、そのまま目前に迫った腹部にナイフを突き刺した。
瞬間、葵惟の手から黒いスマートフォンが落ち、その後ろで突き飛ばされた茜音が尻餅をついた。後方でガラスの割れるような音が聞こえて、夏野は掴まれている自分の手首を見やる。
夏野の手首を掴んでいるのは、痛みに顔を歪めている葵惟。
「……何……して……!」
消え入りそうな夏野の声など無視して手首を掴む手に力を込めると、自らの腹部に突き刺さっているナイフを抜き、自身の体が倒れてしまわないように逆の手で夏野の肩を強く掴んだ。
じんわりと滲んでいる脂汗と、息の切れている様子から傷が相当痛んでいる事は明白で、けれども葵惟はしっかりと夏野を見据える。
「自分の片割れを助けて、何が悪い……」
「いや、だって、あいつ本物じゃな……!」
言いながら、葵惟の背後に座っている茜音を見やるが、そこには誰の姿もなかった。「え……」と夏野の口から声が漏れる。トランスポートもナノゲートも無しに人が消える事など有り得ない。
それは現実世界ではない、このイリオンであっても同じ事。突然、人が消える事など不可能だ。
「あれ……どこ行っ……!」
辺りを見回してみても茜音の姿はどこにもない。何で、どうして、と必死の形相で茜音を捜す夏野の姿は鬼気迫るものがあって、異様だといってもいい程だった。
そうして動いたからだろうか。途端に夏野の肩に体重が重くのしかかり、夏野はハッとして崩れ落ちそうな葵惟の体を支えながらその場に座り込んだ。
「ちょ、大丈夫!?」
慌てて声をかけた夏野を見て、瞬間、ふっと小馬鹿にするように葵惟は笑った。
「……自分でやっておいて、何を言う」
「いや、そうだけどそうじゃないだろ! 何であんなことしたわけ? どうでもいいんじゃ、なかったの……?」
語尾は弱々しく消えていきそうな声だったけれど、この至近距離で聞こえない筈もなく、葵惟はそんな夏野の言葉に静かに目を閉じる。浮かんでくるのは、茜音のコロコロ変わる顔。
笑ったり怒ったり泣いたり悔しがったり羨ましがったり落ち込んだり凹んだり、そんな茜音の表情が思い浮かぶ。
「だからと言って、見殺しにしろとでも言うのか。そこまで性根は腐っていないつもりだ」
「腐ってないどころか、葵惟は……っ」
「弟くんとは呼ばないのか?」
悪戯な笑みを浮かべて挑戦的な視線を送れば、夏野は可愛くないとぼやいて顔を背けた。
何だか一気に和やかな空気に変わったなと感じ取ると、後ろで傍観していた慶太は2人の傍までやって来てしゃがんだ。葵惟の腹部の傷を見て、イリオスペインになる可能性が高いが、病院に行って診てもらった方がいいからイリオンから出ようと言おうとして、けれどもテレビ画面大のスクリーンが現れ、名を呼ばれた事で慶太は動きを止めた。
スクリーンに映し出されているのは、慶太の兄である蒼斗だ。
『慶太、失踪者が消えた』
「えっ? 兄ちゃん、それって」
『イリオンに残っていた46人が突如として消息を絶った。現在、追跡しているが一切痕跡がない。お前達もすぐに……――』
突如、ヴン……と空間が歪み、映像が乱れた直後プツリと通信が途切れた。その光景には覚えがある。葵惟と夏野が失踪者の調査をしている際に、何度も起こった現象なのだから。
何が起こっているのか分からないが、嫌な予感しかしない。
その時だった。視界の端にキラキラと輝くものが映り込み、葵惟はそちらへ視線を向けて、そこに少年が立っている事に気が付いた。
小学校に入るか入らないかくらい幼い、白髪の少年。純白の、軍服を思わせる服に身を包み、血で染めたようなマントを羽織っている。輝くような金色のツリ目のあどけない顔。その顔は、どことなく夏野に似ているような気がした。
「我は世界の支配者」
不意に微笑の浮かんだ口から、子どもらしい可愛らしい声で紡がれた言葉に、例のメッセージが思い浮かぶ。
「人に必要なものは神。世界を混迷へと導き、天より降臨した。我が名はアレス」
言い、アレスと名乗った少年が指を鳴らすと、葵惟たちのいるエリアの床が大きく揺れた。震度5以上あるのではないかという程の大きな揺れは数秒続き、そして、揺れた事で崩壊していくように周囲の景色が大きく歪む。水に落とした絵の具が混ざり合うような歪みは徐々に大きくなり、そしてイリオンの景色が何と混ざり合っているのかを知った時、葵惟は驚愕した。
青空が広がる、ビルが立ち並び人々が行き来する都心部。そのビルの奥には、今や日本人なら知らない者はいない、白く聳える高い塔が見える。空を貫く樹のような塔。
東京の街と宇宙空間が完全に重なっているという、目を疑うような光景がそこに広がっていた。その異常事態に気が付いているのは葵惟たちだけではない。現実世界にいる人々も、足を止め、その異常さを実感しているのかざわめいている声が忽ち大きくなり、走っていた筈の車も停まっている。
騒然とする街の中で葵惟たちの体が一瞬にして消えると、次の瞬間には蒼斗の私室に居た。
「済まない。緊急事態だった為に強制的にログアウトさせた」
「何が、起こっている」
真っ直ぐ葵惟に見据えられ、椅子に座ったまま蒼斗は静かに口を開いた。
「イリオンは崩壊し、現実と仮想現実が1つになろうとしている。各道府県で今、先程お前達が見たものと同じ現象が起こっている」
椅子の手摺りにあるボタンを押すと、スクリーンが映し出され、テレビ中継が流れ始める。
『ご覧下さい! 首里城が空中に浮いているかのような、奇妙な光景が広がっています!』
『姫路城から巨大な樹が生えています! 周辺も樹で埋め尽くされていますが、触れる事はできません!』
『昼間だというのに、清水寺周辺は夜の闇に包まれています。太陽が見えているのに光が届いていません。これは一体……』
慌ただしくリポートをしながら、目の前の光景にただ驚くばかりのアナウンサー達。各道府県の県庁所在地付近、又は砂丘や通天閣や城などその県を象徴する場所がイリオンのエリアと重なり合い、奇妙な光景を作り出している。その異常な現実を各テレビ局で報道しているが、どの局も何が起こっているのか理解できないといった様子だ。
そして海中と重なったランドマークタワーが映し出された時、その天辺にいる人物に目を瞠った。
『何と、ランドマーク付近にドラゴンがいます! 巨大なドラゴンが、1、2、3……とにかく沢山! あ! 見て下さい、子どもです! 子どもが、ランドマークタワーの頂上に立っています!』
映し出されたのは、葵惟のよく知る人物だった。
茜音が立っている。一般人が立ち入る事の出来ない場所に、平然と立っている。それだけでもう、疑う余地はなかった。
「それぞれの失踪エリア、もしくは近いエリアの映像が重なっている。その中心には全て失踪者の姿がある。現実のデータ化、仮想現実のリアライズ、その両者を同時に行って創られた世界こそが、今回の一件の首謀者の狙いだろう。そう、その人物は《オーグメンテッドリアリティ》を実現させようとしている」
耳慣れない言葉に、それが何なのかと慶太に訊ねられた蒼斗は簡単に答えた。
オーグメンテッドリアリティとは、目の前に見える現実の世界の上にコンピュータ内に存在する、関連した情報を重ね合わせて表示する技術の事。それは正に今、日本中で起こっている、現実世界にイリオンが重なって見えている現象の事。
「何の為にそんなこと……」
慶太の呟きに答えたのは、葵惟だ。
「アレスはゼウスの息子の名。アレスはディオスの中で生まれたバグのようなものなのだろう。アレスがディオスに成り代わったのであれば、アレス自身がイリオンの中枢という事になる。現実世界に出る為には、イリオンごとでなければならない」
「恐らく、ヒトというものに興味を持ち、ヒトを知る内に導き手が必要だと考え、自らが神となりヒトを支配することを選んだのだろう」
葵惟の言葉を蒼斗が引き継ぎ、そう締め括る。
イリオンに異変が起こり始めた2年前から、否、それ以前からアレスは人間を見ていたのだろう。少しずつ情報を集め、そうする内に人間に足りないものを見つけた。それが人間を導く存在。ただ何気なく日常を生きている者、道を見失い彷徨う者、未来を諦めた者、そういった者達が多く存在しているという事は事実だ。
そんな人間が救いを求める者は神だとどこかで知ったディオスは、神として、現実世界とイリオンを統治しようとしたのかもしれない。
「けどそんなの、あいつの勝手な思い込みだろ。そんなこと誰も望んでなんかないのに、迷惑なだけだろ」
ぼそりと呟いたような夏野の言葉に、葵惟は目を丸くしてから俯くと、ずっと支えてくれていた夏野の体から離れてゆっくりと立ち上がった。突然の葵惟の行動に夏野は呆けたような顔をして葵惟を見上げていて、慶太と蒼斗もその行動に疑念を抱いているようだったが、葵惟はそのどれも気にする素振りを見せず、痛む腹部を抑えながら夏野を見下ろした。
その目はどこか、淋し気だった。
「ずっと、そう思っていたのか」
「……え……?」
「僕がどんな気持ちで生きてきたのか、伝わっていなかったとはな。いや、僕自身も気付いてはいなかった。お互い様と言う訳か」
「弟くん……急に何言って……」
「自分を生み出した人間に感謝こそすれ、疎んだ事も迷惑だと思った事もない。僕はそれほどまでに捻くれていたのか? 茜音」
真っ直ぐに夏野を見つめる葵惟。
その目は心の中をも見透かすようなもので、そして確信を持っているという葵惟の表情に夏野は俯いた。それが、答えのような気がした。
「本当は、初めから分かっていたのかもしれない。お前が茜音であるという事に。疎ましく思っていた筈なのに、僕はお前を拒絶しきれなかった。貴方も気が付いていたのだろう?」
言いながら蒼斗を見つめれば、彼はフッと笑みを浮かべた。やはり知っていたらしい。慶太は驚いたような表情を見せていたけれど、蒼斗は動じるどころか顔色一つ変えなかった。
敏い彼の事だから、自分と同じように気付いていたとしてもおかしな事など何もない。
「夏野君の事を見ていれば自ずと。親友よりも親友の弟を気にかけるというのは少々、道理に合わない。君達の関係を思えば尚の事だ」
初対面から数日で、長年共にいた親友以上にその弟を大事に思う事は考えにくい。理由は、本来は親友だったが今は違うか、元々親友ではなかったかのどちらかになる。前者であれば、わざわざ葵惟にくっついて茜音の捜索をするとも思えない。後者で最も可能性が高いのは、彼自身が茜音であるという場合だ。そうなると、葵惟を心配するのも気にかけるのも当然の事と言える。
それから、と葵惟は気になっていたもう1つの事を口にした。
「お前の中にもう1人、別の人間がいると僕は思っている」
「どういうこと?」
「分からないと言いながらもお前はヒントをくれていた。一見、頭の悪い人間のする発言のようだったが、確実に答えに導いていた。茜音の頭で出来る事とは到底思えない」
引っかかっているのはそれだけではない。決定的だったのはつい先程、夏野が茜音を刺そうとした事。その際に見たものが見間違いでなかったとするならば、茜音以外の人間が夏野の中に共存しているとしか考えられない。
話し終えて、夏野――基、茜音の反応を窺っていると、ずっと黙って俯いていた茜音が口元に笑みを浮かべた。
「っはは。だから俺は最初に忠告したんだぜ? 葵惟を騙し通せるわけないって。最初に葵惟って呼んじゃった時にはやっちゃったって思ってたし、それに葵惟より他の人間を優先させるとか俺には無理だわ」
一気に自分の気持ちを言い切ると、茜音は真っ直ぐ葵惟を見据える。
「葵惟の言う通り、俺は正真正銘の都築茜音だし、俺の中にいる奴もどうせ分かってんだろ?」
「ああ。あの時、茜音の姿をした者はお前の事を狙っていた。あの体が本物の茜音の体だとして、それが理由でお前が消されるとは考えにくい。つまり、狙われたのはお前ではなくもう1人という事になる。そうなった時、アレスが疎ましく思う人物など思い当たるのは、イリオンの管理者であるディオスだけだ」
アレスが世界を支配する上で一番の弊害になるのがディオスだ。ディオスはイリオンの核だと言っても良い存在で、常にイリオン全体を把握し監視し管理している。蒼斗は管理責任者だが、その役割はディオスの調整をする事。つまり、中枢を担うディオスこそがイリオンであると言っても過言ではない。ディオスが居ては、アレスの計画は遂行できない。故に、アレスが狙うのはディオスしか居ないという訳だ。
葵惟の後方で何か作業している蒼斗の姿を視界に映しながら、茜音が再び声を発する。
「私は、人間というものを未だ理解しきれていなかったようだ。君が言う通り、都築葵惟という人間は優秀だった。こうして話をするのは2年ぶりになるな、蒼斗」
「2年ぶりということは、それ以降は全てアレスが応えていたという事か」
コクリと頷き返す、茜音の中にいるディオス。2年前と言えば、イリオン内で異変が起こり始めた頃。そこからすでに、イリオンはアレスに乗っ取られていた事になる。
「イリオンと現実世界が完全に混じり合うにはまだ時間がかかる。打開するにもな。これまで起こっていた事を君達も知る権利がある。少し、話に付き合ってくれ」
そう前置きをし、茜音の中にいるディオスは語り始めた。
話の始まりは、イリオン創設時である5年前にまで遡る。
ゼウスという人工知能の一部を改変して作られたディオスは、ゼウス同様に常に学習する性質を持っていた。ただし、吸収する速度はあまり速くなく、それ故にイリオン導入までに時間が掛かったと言ってもいい程だった。
そうして時間をかけて学習していく中で、ディオスが最も興味を惹かれたのが人間という存在だった。それは元になったゼウスの影響かもしれない。ゼウスは人間の願いを叶える事を最も重要視している人工知能だったのだから。
人間に興味を持ち、出来る限りの情報を集めたディオスだったが得られる情報には限りがあり、特に人間の心については、情報だけでは圧倒的に足りなかった。実際に触れてこそ、心というものを知る事が出来るのだという結論に至ったディオスは、人間を生み出す事にした。それが、夏野という少年。
人間として生きられるだけの情報のみを組み込んだ夏野をイリオン内に放ち、空っぽな彼が他の人間と触れ合う事で情報を蓄積させていった。そうして少しずつ様々な事を学習しながら生活していき、3年の月日が流れた。夏野から受け取った情報によりディオス自身も成長し、どんどん人間らしくなっていた。
そんなある時、ディオスの中にウィルスが入り込んだ。それは、本来ならば防衛している筈のテウクロスから侵入したもので、内側からの侵入に自己防衛機能が働く事はなく、ディオスは侵されてしまった。システムは征服されコントロール権を奪われたものの、間一髪のところで心臓部を夏野に移す事に成功し、難を逃れたディオス。それから2年、アレスに気付かれないように動向を探り、怪しまれないギリギリのラインで情報を操作していたが突如、本来ある筈のない実験施設のようなエリアへ飛ばされてしまった。
そこでディオスは、人間の情報を改変している事を知ってしまった。その情報を改変された者こそ、イリオン内で失踪した人々である。アレスに捕らえられたディオスはその時に失踪していた茜音と、心と記憶を、データを移動するように入れ替えられた。
茜音の記憶とディオスの記憶を持つ茜音と、茜音の心とディオスの心を持つ夏野。
この事で、夏野の中には2つの心が混在する事となってしまったのだという。
それが、12日前の出来事。そこから、ディオスから茜音へ話し手が移り変わる。
「その後、ディオスが夏野として生活してた、イリオンにある部屋に戻されたんだけどさ、この姿で家に帰るわけにもいかないし、俺の体と記憶は取り戻さなきゃって思って、イリオンで《茜音》について調べてたんだ。そんで、俺の姿をした葵惟に会ったってわけ」
「記憶がないと言う割には数年前の事までしっかり憶えているようだが」
「元々、夏野の記憶と私の記憶は共有しているだけで別のものだ。茜音の心が夏野の中に入り込んだ際に、私の心だけは融合させた。その為だ」
つまり夏野の体の中には、茜音の心・ディオスの心・夏野の記憶があるという事だ。
茜音とディオスの現状については理解した。しかし、引っかかっている事はまだ他にもある。
「茜音の体を取り戻す事は可能なのか?」
今、ランドマークタワーの屋上にいる茜音の姿をした人物。茜音の体と茜音の記憶とディオスの記憶を有する人物。茜音だが茜音ではないその人物の中に、茜音の心を戻さなければ元の茜音に戻る事は出来ない。
しかし、イリオンから外に出た状態の現状で、それは可能な事なのか。茜音の中にいるディオスに向けて質問をすると、返答したのはディオスではなく、傍観者になっていた蒼斗だった。
「それは問題ないだろう。私が、混じり合う世界で君達をログアウトさせられた事で、イリオンの機能が生きている事が証明された。つまり、データのやり取りは出来るという事。この神殿内と同じだと思ってくれていい」
データのやり取りが出来るという事は、イリオン内で夏野と茜音の記憶と心というデータを移動させたのと同じ事が出来るという事。それさえ出来れば、茜音は元に戻る事が出来ると、蒼斗はそう言う。
「では、混ざり合った2つの現実を引き離す事は?」
「可能だ。今現在、混じり合っているように見えているが2つの世界は別々に存在している。各都道府県にいる46人の記憶と脳を使って視覚情報を送信し、イリオンが現実に存在しているように見せているに過ぎない。アレスと名乗った人物が今回の事件を引き起こしている事は疑いようがない。ならば、イリオンの現実化を止めさせればいい。アレスとイリオンを消滅させる」
「……そうか」
目を伏せ、茜音に完全に背を向けてから、葵惟は蒼斗の方を見やる。その視線を受けながら、蒼斗は説明を続ける。
「アレスを構築するプログラムを破壊すれば視覚情報は遮断され、元に戻る筈だ。それを合図に私がここからイリオンを消滅させる。この状況を打破するには、この方法しかない」
アレスに必要なプログラムはすでにあるという話だ。万が一、ディオスに不具合が起きた場合、早急に対処できるようにと用意していたらしい。
そう話しながら、ディオスと視線を合わせた蒼斗の表情はどこか淋しそうで、けれども夏野の顔をしたディオスはそっと微笑んだ。
君の気持ちも想いも分かっているから気にしないでくれ。そう言うかのように。
蒼斗がこの場から動けない以上、他の人間がアレスの許に行かなくてはならない。その役目を買って出ようと名乗りを上げたのは、慶太。
「そのプログラムを持ってくのは、オレが――」
「僕が行こう」
兄ちゃんの代わりにオレがやると言おうとした慶太の言葉を遮ったのは、他でもない葵惟だった。
まさか葵惟が自ら関わる事を望むなんて、と言うような顔で葵惟を見つめている茜音。実際、茜音が驚くのも無理はないと葵惟自身も思っている。他に興味がない、周囲など関係ない、どうでもいい。そうして今まで生きてきたのだから。
「今回の件、見つけたのは僕だ。始めた者が終わらせるのは当然だろう」
「じゃ、じゃあ、俺も!」
「茜音、お前は自分の体と記憶を取り戻せ。僕なら、1人で充分だ」
背を向けていても、茜音が煮え切らない表情をしているのだと容易に分かる。常に傍に在り続けた存在なのだから。
口元に微笑を浮かべた葵惟が真っ直ぐに蒼斗を見つめると、蒼斗はただ静かに頷いた。何も言わずに、ただ頷いただけ。けれども、葵惟はそれで十分だった。
「葵惟君、こちらへ」
呼ばれた事で葵惟が蒼斗へ近付くと黒いスマートフォンを出すよう言われ、取り出した黒いスマートフォンへ蒼斗がデータを移動させた。今のが、破壊プログラムなのだろう。
「破壊プログラムは、アレスの近くで起動するだけでいい。それが、イリオン崩壊の合図だ」
「了解した。必ず遂行する」
託されたものは小さなスマートフォン。その中にどれだけ大きなものが詰まっているのか。それはきっと葵惟には計り知れない。
それでも、始めたものは終わらせなければならない。それが始めた者の責任。
傷の痛みなど、今はもう消えていた。