3 調査
橘蒼斗から調査依頼を受け、蒼斗から授かったスマートフォンに登録された地図に示されているエリアの中から、赤く点滅している所を順に回る琴似した葵惟と夏野は、2年前、イリオン内で最初に失踪事件が起きたと思われるエリアに来ていた。
そこは093スリーピングフォレストエリア。眠れる森の名の通り、生物が皆、眠りについている静かな深い森で埋め尽くされたエリア。動物や虫や鳥などがおらず、森林浴をするには打って付けだと観光のようにやって来る者の多いエリアだ。広さは6千平方メートルもあり、他の人と会う事の少ない広さも人気の理由だろう。
2年も経っている今、何か情報が得られるとは思えないが、それでも調べてみなければ始まらないと森の中へ入って行った。分かれ道毎に立札が立っているので道に迷う事はなく、安心して進んで行く。
「調べるって言ってもさ、どうすんの? やっぱ聞き込み?」
森の中を道なりに進み始めて1分と経たずに声をかけてきた夏野を横目で見る事もせず、黒いスマートフォンの上に展開されたスクリーンに映ったスリーピングフォレストエリアの詳細な地図を見ながら葵惟は口を開いた。
「そういうものは日が浅い内に行うものだ。時間が経ってからでは無駄足になるだろう。お前は、2年前の日付を言われて、その日何があったか思い出せと言われて思い出せるか?」
「それは……ムリ」
「普通はそうだ。何か特別な日だったり変わった出来事があったりしたのなら別だがな」
それに何より、2年前の失踪日にこのエリアにいなければ問いかけても意味はない。手がかりを探すのであれば、先ずは失踪したと思われるポイントに向かうのが最適だろう。そこで何も見つからなければ一通り話を聞いてみて、駄目なら次のエリアへ向かうというのが葵惟の考えだ。
そう説明すれば、「なるほどね」と夏野は納得していたが、本当に理解しているかどうかは不明である。
そもそも何故、夏野と共に調査しなければならないのか。本来ならば葵惟1人で充分なのだが、蒼斗が《君達に》と複数形で言っていた事から夏野も含まれていると理解していたので、無視する事は出来なかった。折角2人いるのであれば手分けして調査するという事も考えたが、夏野に1人で調査させるのは気乗りせず、又、蒼斗から渡されたスマートフォンは一つだけだった為にこの案は即座に却下された。
効率の悪いやり方しか、今は方法がないという訳だ。
「にしてもさ、テウクロスってあんまいいトコじゃないんだな」
唐突に話題を変えてきたなと思いつつ、夏野の事だから彼の中では話が繋がっているのだろうと思い、返答する気にもならないような内容だった為に暫し放っておく事にする。
お喋りな人間だ。沈黙が嫌で、すぐに話し出すに違いない。
「蒼斗さんの話聞いてたらさ、勝手に事件とかなかったコトにしてるし、規則ですからって話も聞いてくんないし、そんな事実はありませんって門前払いだし、防衛任されてんのにウィルス入れたかもしんないってヒド過ぎっしょ」
「……同意はするが、橘蒼斗も言っていた通り、所詮、企業などそんなものだ。ただ、一つ思い違いをしていたのには驚いたがな」
「思い違い?」
「橘蒼斗はテウクロスの人間だと思っていた。世間的にもそうなっている。だが、橘蒼斗は全く異なる組織を率いていた」
あの時、神殿内にいる人間は橘蒼斗直属のスタッフでテウクロスとは一切の関わりを持たないと明言していた。あの神殿をテウクロスは知らないのだとも。イリオンと同様のシステムを導入し、外界との接触を絶っている状態だとするならば納得できる。故に、イリオンに関する情報であれどテウクロスから連絡がないものに関しては、彼は何も知らないのだという事も。
随分、杜撰だと思う。世界初の試みをしているのだから、どんな些細な情報でも欲するのではないかと考えるが、橘蒼斗という人間はどうやらそうではないらしい。日本全土にいる人間の管理を50人余りのスタッフのみで賄っているのだから当然かもしれない。運営するまでの余裕がないと本人も言っていた。今はまだ管理するだけで精一杯だとも。
その結果が、イリオスペインと失踪に繋がっているのだとしたら本末転倒だ。大失態だと言ってもいい。彼を非難する気はないが、イリオンの導入は早急過ぎたのではないかと思うのも事実だ。
「もしかしたら、テストしていたのかもしれないな」
「テスト? 何を?」
「テウクロスが信用に足る企業かどうか」
そこまで言って、あくまで憶測だがなと付け足すと会話を打ち切り、歩くスピードを速める。ゆっくり話をしながら歩いている場合ではない。目的の場所まではまだ1キロ以上ある上に、調査するエリアは何十とある。出来るだけ早く手がかりを見つけなければ、次々に手がかりは消えていく。それだけは避けなければならなかった。
すれから十数分で目的の場所へ辿り着いた。そこは一際大きな樹が聳え立つ場所で、その樹の根元で最初の失踪者はイリオンを後にしている。
この場所で何かがあったと推測される訳だが、大樹を見上げて葵惟と夏野は立ち尽くす。
「調査の方法ってさ、どういうコトすればいいんだろ?」
具体的な事は何も言っていなかったが、確か蒼斗はスマートフォンにいろいろな機能をつけたと言っていた。一体どんな機能が備わっているか定かではないが、それでも今、頼れるのはこのスマートフォンだけ。
地図を消して通常のスマートフォンと同じように画面をスクロールさせて、インストールされているアプリを見ていく。
《足跡追跡》《トークストーカー》《脳内記憶シーカー》《気持ちだけタイムマシーン》《Q&Aコーリング》《透明フィルター》《名探偵シャーロ君》など。その他にも見た事も聞いた事もないようなアプリがずらりと並んでいる。
非常にふざけた名前が多いのは、蒼斗の趣味だろうか。悉く裏切ってくれる人だと思うと呆れるが、それでも意味のないものを渡してくるとは思えないので、とりあえずどれか一つを起動させてみる事にする。
最初に目に入った《足跡追跡》というアプリに触れ、起動させてみると入力画面になる。名前、日時、場所、生年月日を入力するらしい。足跡を追跡すると言うのだから、追跡したい人物の情報を入力すればいい筈だと、最初の失踪者の情報を入れていく。名前は渡辺彰浩。日時、生年月日は警察のデータベースから得られており、場所はこのエリアの名の事だろうと全て入力した。
そして、追跡開始ボタンに触れるとすぐにスマートフォンの画面右上に表示されている日時が入力したものへ変化し、スマートフォンの後ろ側が透けているかのように画面一杯に映し出される。
隣から覗き込むように夏野も見てくるが特に変わった様子はなく、とりあえず様々な場所を映してみようと地面を中心にスマートフォンの向きを変えた途端に夏野が、ひっと情けない声を上げた。
声こそ上げなかったものの、葵惟にも夏野の心情は理解できる。画面には樹を背にして左側、葵惟たちが来たのとは逆側の道の先が映っている状態で、むき出しの地面に足跡がくっきりと浮かんでいるのだから。その足跡はこちらに向かって歩いて来ているのだが、スマートフォンから視線を外すと足跡はなく、スマートフォンを通すと足跡だけがハッキリ映る。
バーチャル世界の中に居てオカルトなど信じていない葵惟だが、多少の不気味さは感じている。足跡追跡という名に偽りはなく、足跡だけを追うという訳だ。右隣で震えている夏野はがっしりと葵惟の腕を掴んでいて鬱陶しいが、それが頼もしくも感じており、今だけは大目に見る事にして足跡を見失わないように移動しながらスマートフォンで追って行く。
足跡は真っ直ぐ樹の傍までやって来るとその場で立ち止まった。足跡だけしか見えない為に何をしているのか定かではないが、そのまま1分が経ち、2分が過ぎる。
「……動かないけど……故障?」
恐る恐るといった様子で訊ねられるが、時間が動いている以上それはないだろうと思い、黙ったまま画面を見続ける。時間の入力は、失踪する5分前を設定した。もう少しで失踪時間だ。その時になったら何かが分かるだろうと放置しておく。
そして更に1分が経過した。失踪時間まで1分を切った。ここからは目を離せない。10秒が経った。変化はない。更に10秒過ぎた。時間がやけに長く感じられる。そして更に10秒が経とうとした時だった。
画面が乱れたと思った次の瞬間、それまでずっと動かなかった筈の足跡は消え、すぐにザァーッと砂嵐のようになったかと思うと数秒後に画面が元通りになった。
「……え……何、今の……」
絞り出すような夏野の声を聞きながら、葵惟は画面右上の日時を見やる。失踪時間から1分が過ぎている。画面の乱れから元に戻るまで1分もかかってはいない。時間が早回しされている。だが、当然の事ながら葵惟は画面に触れていない。つまりアプリの故障か、もしくはその時の状況を再現できなかったか。
「怖っ、何これ怖っ!」
「……何かがあった事は確かなようだな。ただ、足跡だけでは特定は難しい」
他のアプリを起動させるのが良いだろうと思い今一度、並んだアプリを眺めるが先程の事があるからか、どうにも起動する気になれない。説明文なしにいきなり起動するのだから、行き当たりばったりと言っていい。先程のように心臓に悪いものはなるべく引き当てたくはない。
そこまで考えてから葵惟は足跡追跡を終了し、アプリの羅列されている画面を夏野に向ける。
「どれか一つ選択して起動させてみろ」
突然の事に思考が停止しているのか数度、瞬きをし。
「えっ、俺が!? ちょ、ヤダよ俺、あんな怖いの無理!」
絶対嫌だ、断固拒否するとブンブンと首を横に振る夏野。
「僕は一度起動させた。次はお前が起動させる番だ」
「何それ、聞いてないよ! 順番とかなくていいから!」
「橘蒼斗に調査を頼まれたのはお前もだろう。いいから早くしろ」
自分でも理不尽な事を言っている自覚はあったが、そこまで夏野が気付くとは思えず、屁理屈でも何でも言って誤魔化して押し付けてしまえばこちらのものだ。臆病風に吹かれている夏野には、少し圧力をかけるだけでいい筈なのだから。
そうして睨み付ければ、やればいいんだろと半ば自棄になりながらスマートフォンを葵惟から奪い取ると、嫌々ながらも画面を見ている。
脅えている、困っているというのがアリアリと顔に出ているけれど助けなど出す筈もなく、もうどうにでもなれとアプリの一つを起動させると夏野はすぐさま葵惟にスマートフォンを戻した。
「起動はさせたから、後は弟くんがやって!」
確かに起動させろとは言ったが、それだけで放り投げられるとは思っていなかった為に眉を顰めるものの、言葉が足りなかった自分の責任かと思い直すと、大人しく画面を見る。
画面左上に《Q&Aコーリング》の文字。その下には再び入力画面がある。Qと書かれているという事は質問を書けば良いだろう。誰に回答を求めるのかが明記されてはおらず、そこに不安を覚えるものの何かしなければ先に進めないというのも事実なので質問を書いてみる。
今知りたいのは、2年前の失踪事件を知っているかどうか。
入力し、とりあえず一息つく。どんな事が起こっても平気なように心の準備だけはしておく。数秒おいて意を決し、コーリングのボタンを押す。5秒後、該当者無しの文字が表示されて、葵惟も画面を覗き込んでいた夏野も肩透かしを食らったように大きく息をついた。
しかしすぐに、より詳しい質問をしますかとの表示が浮かび上がる。
質問する内容は細かく伝えなくてはならないというのは常識だ。不安感から失念していたのは葵惟の失態だろう。すぐにYESのボタンに触れ、質問内容を変更する。
失踪のあった日にこのエリアに人が居たかどうかを書き、再びコーリングのボタンを押す。今度は躊躇いなく。5秒後、画面がスリーピングフォレストエリアの詳細な地図になると、Aの文字が疎らに4つ表示され、吹き出しが3Dのように画面から飛び出すと、それぞれのAの後に言葉が現れる。
【いたよ】【あー、あの日はかくれんぼしてたわ】【多分いたと思うけど……】【ピクニック日和だったから来てたわよ】
このエリアの地図上に現れたという事は、どうやらエリア内にいる人物に対して質問をしているらしい。そうとなれば、もっと詳しく聞くべきだと質問を書き換えてコーリングを押した。
同じ日に異変を感じなかったかどうか、と。
すると5秒経っても何も現れず、10秒、20秒と過ぎ、40秒後に一つだけAの文字が表示された。地図上の北北西の位置。それは先程、かくれんぼをしていたと書いていた人物の居た場所だ。
すぐに吹き出しが飛び出して文字が現れる。
【異変って言うほどじゃないかもしれないけど、時間ずれた気がする。おれ、隠れる場所探してたんだけどさ、途中で鬼の声聞こえなくなって、変だなって思ってたらすぐ見つかって。まだ数え終わってないだろって言ったら、時計見たら時間になってたってそいつ言ってて。何か変だなって】
そこまで文字が現れると吹き出しは消え、再び質問を書く画面へ移行した為にアプリを終了させて電源を切ると葵惟は息をついた。
今ので、足跡追跡の時に起こった時間のズレが故障ではないと裏付けが取れたと言って良い。どういう原理で回答がきたのかは不明だが、証言は証言だ。
そう思うなり葵惟は来た道を戻り始めていて、慌てて後を追いかける夏野。
「ちょ、どこ行くの?」
「次のエリアに決まっているだろう。ここで失踪したのは最初の被害者だけだ」
「そうだけど、今の蒼斗さんに報告しなくていいワケ?」
「2年前の不確かな情報が一つだけだ。報告するには幾つかの確証が必要だろう」
「だったら、ここでもっと詳しく――」
調べた方がいいんじゃないかという夏野の言葉を遮るように立ち止まると、葵惟は真っ直ぐ夏野を見据える。
「後どれだけのエリアを調べなければならないと思っている。一つのエリアに割ける時間は限られているのだから、移動するのは当然だ」
言って再び歩き始める葵惟の後ろ姿を見ながら、夏野はぼそりと呟いた。
「……そんな葵惟の理屈、押し付けられたって知らないっつーの」
「訊いてきたのはお前だろう。文句があるなら、ついて来なければ良いだけの話だ」
どうやら聞かれていたらしいという事にギクリとするなり慌てて取り繕う夏野に溜め息をつきつつ、未だ突き放せずにいる自分の心に疑問を持ちながら、夏野の言い訳を聞き流してトランスポートへ向かって歩く。
トランスポートでの移動は一瞬とは言え、トランスポートは1つのエリアに大抵1つ、多くて2つしかないのでトランスポートから目的の場所へ行き、帰って来るだけでかなりの時間のロスになる。その為、2つ目のエリアに来た頃には神殿を出てから小一時間ほど経っていた。
続いてのエリアは、3人の失踪者が出ている055マリーナエリア。ヨットやクルーザーなどが繋がれている、白と青の2色が広がるエリア。豪華客船の外装をした建物がシンボルの、バカンスを楽しめるエリアとなっている。
カモメの鳴き声と波の音と浮かれた人々のざわめきで溢れ返るエリアで、誰かが失踪したとなれば騒ぎになってもいい筈だと思いながら黒いスマートフォンの電源を入れ、ロックを解除するとアプリに目を落とす。
使ってみなければその機能を知る事は出来ず、又、知らなければどのアプリが適しているかも判らないので、気は進まないが別のアプリを起動させる事にする。幸いな事に、3件の失踪時期は近いので一気に調べられる可能性もある。
大きく息を吐き出し、《気持ちだけタイムマシーン》を起動させると、画面から悪魔の翼が生えた黒い猫が飛び出した。前2つのアプリとは違うようだと思いながら見ていると、猫と目が合った。
「ご搭乗ありがとニャ。ニャーはナビゲーターニャ。行きたい時間を教えてニャ」
胡散臭そうな目でナビゲーターだと言った猫を見ているが、言わなければ先に進まないので口を開く。
「1年前の5月20日から6月3日まで」
「範囲了解ニャ。搭乗は2名ニャ?」
「ああ」
「了解ニャ。タイムスリップ開始ニャー!」
ニャーンとナビゲーター猫が一鳴きすると周りの景色が波打ち、ナビゲーター猫を中心に波紋が広がるように周りの色が褪せていくと、波打っていた景色が元通りになった。
一体何が起こったのかと周りを見回していると、ナビゲーター猫が口を開く。
「現在は5月20日の12時頃ニャ」
「それってどういうコト? タイムスリップってホントに?」
「気持ちだけニャ。その時間を再現してるだけニャ。触ったり喋ったりはできないニャ」
気持ちだけタイムマシーンというのはつまり、周りの映像を行きたい時間のものに変更するという事だろう。イリオンならではというべきか。確かに、先程見た景色とは変わっていなくてもそこに居る人々は先程とは全く異なっている。時間が移動したというのは本当のようだ。
「人を捜しているのだが、そういう事は可能か」
「名前を教えてもらえば検索できるニャ」
「元宮織江、夏木音哉、保屋野明菜」
憶えていた名を3つ告げるとナビゲーター猫の目が金色に光り輝き、サーチライトのように周囲を映し出す。すると豪華客船の中で動きが止まった。
「発見ニャ」
「マジか。行ってみようぜ!」
駆け出そうとした夏野を、すぐさまナビゲーター猫が引き留める。
「ダメニャ」
「何で?」
「気持ちだけって言ったニャ。動けば元に戻るニャ。やり直しニャ」
「つまり……僕達が元いた場所、見ている範囲しか再現できないという事か」
「その通りニャ」
そう万能なものではないらしい。失踪者を1人発見できたのだから、その場所に行ってもう一度アプリを起動させるべきか。そう思って、アプリを再起動する事も出来るのかと問いかければ、ナビゲーター猫は首を横に振った。
「同じ時間に来るには最低でも1日置かなくてはならないニャ。続けて使用すると周りに影響が出るニャ」
当時の状況を再現しているという事は、イリオンのシステムに何らかの方法で潜り込み、映像を拝借しているという事なのだろう。蒼斗が制作したと思われるアプリなので正規の方法を利用しているのだろうが、断続的に使用するとそれだけ負担もかかる筈だ。
そうなると、手掛かりどころか葵惟たちが異変を起こす事になりかねない。
つまり、別の方法を考えるべきだ。そこまで考えて葵惟は周りにいる人々に視線を移した。
「だったら、先程伝えた人物を捜し出してほしい。詳しい時間と場所をだ」
「了解ニャ。時間は早回しするかニャ?」
「出来るのなら」
「お安い御用ニャ」
どうやら葵惟たちがこの場から動かなければ、割と万能なアプリのようだ。目を光らせ、灯台のように回転しながら周りの景色を早回しさせるという高度な技をやってのけるナビゲーター猫に、葵惟も夏野も素直に感心していた。
マスコットのような姿をしているというのに実は凄い猫だと。
それから高速で早回しされた映像は、2週間進むのに3分とかからなかった。回転を止め、目を回した様子もなくナビゲーター猫は口を開く。
「指定した時間になったニャ。タイムスリップ終了ニャ!」
再びニャーンとナビゲーター猫が一鳴きすると周りの景色が波打ち、ナビゲーター猫を中心に波紋が広がると元の色へ戻っていき、波打っていた景色が元に戻り、周囲に居る人々も最初に葵惟たちが来た時と同じとなった。
「戻った……」
「これがさっきのデータだニャ」
右前脚を上げると、肉球スタンプのついた小さなデータが浮かび上がり、葵惟はそのデータを手に取った。するとナビゲーター猫は深々と頭を下げる。
「ご搭乗ありがとニャ。またのご搭乗をお待ちしてるニャ」
そう言うとナビゲーター猫は画面の中へ消えていき、強制的にアプリが終了された。
ナビゲーター猫が居なくなり、残された肉球スタンプのついたデータを見つめている葵惟に、「それどうするの」と夏野が訊ねてきたので、葵惟は答えずに《照合検索》というアプリを開くとマリーナエリア内の地図が表示され、そこに先程のデータを移動させるとすぐに3カ所に星印が浮かび上がり、その横に日時が表示される。
「この場所のこの時間に、失踪した人達がいたってコトか」
「ああ。全員あの建物内にいたらしいな」
見上げた巨大豪華客船がどことなく異様な雰囲気を放っているような気がして、夏野がゴクリと生唾を呑み込んだ。
船内に入ると、船底部分は大広間のようなホテルのロビーのような内装になっていて、その上層階からは客室やレストラン、カフェテリア、バー、ショッピングなどが楽しめるプロムナード、操舵室、デッキ上にあるプールなど、様々なものが取り揃えられている。
その中の、操舵室と後方デッキに星印がついており、後方デッキに2つ星印がある。先ずは後方デッキに向かう事にした。船底を1階としている為に、デッキに出るまでには10階以上もあった。本来の船とは違いエレクティオンエリアにあったようなエレベーターが設置されていて、案内図を頼りに後方にあるエレベーターに乗ると数秒も経たずにデッキのある階へ到着し、後方デッキに出た。
太陽の光が眩しくて思わず目を眇めながら、広いデッキへ出ると人の姿はぽつぽつと居る程度だった。人気のスポットだからもっと大勢の人で賑わっているのかと思っていたが、恐らくプロムナードや前方デッキのプールに人が集中しているのだろう。
人が居ないのは好都合なので、デッキの左端までやって来ると葵惟は黒いスマートフォンを取り出した。隣で景色を眺めながらはしゃぐ夏野の声を聞きながら、アプリの1つを起動させる。
トークストーカーという文字が左上にあり、入力画面が現れる。入力するものは足跡追跡と同じで、対象者の氏名と年月日と時間。今度はログアウトしたと思われる時間の3分前に設定して、レッツストーキングという、押す気を無くさせるボタンに触れた。
すると足跡追跡と同じように画面が透過され、その瞬間に嫌な予感が脳裏を過った。まさかまたホラーな感じなのではと。
直後、スマートフォンから女性の声が聞こえてきた。
「あー、気持ちいー! やっぱ、気分転換はここだよねー」
すぐ傍から聴こえた声に夏野がキョロキョロと辺りを見回しているのが横目で見えたが放っておき、スマートフォンを周囲に向けると、つい先程葵惟たちが出て来た船内へ続くドアの所に、こげ茶色のボブカットの髪の葵惟たちよりも年上、恐らく慶太と同年代の女性が立っている。泣きボクロが特徴的な、健康的で細身の彼女には見覚えがある。1年ほど前にここで失踪した元宮織江に間違いない。
画面から視線を外すと彼女の姿はなく、立体映像のようなものだと推測される。足跡だけの時よりは気味の悪さがないというのは救いだろうか。これなら平気だとばかりに、夏野もスマートフォンを覗き込んでいる。
彼女はデッキに出て来るなりこちらの方へ向かって来ていて、ぶつかる事はないと分かっていてもその場から避ければ、彼女はデッキの淵から外の景色を眺めた。
「海が凄くキラキラしてる。こうしていると、嫌な事なんて全部消えていくみたい……」
言いながら、デッキの淵を歩いて行く。随分と大きな独り言だと思うが、その時は周囲に人が居なかったのかもしれないと思って見ていると、不意に彼女は足を止めた。佇み、じっと宙を見つめている。
そのまま彼女は動く事無く1分が過ぎようとしていた時、彼女の先に見えた空がぐにゃんと歪み、彼女の体も波打ったように映像に乱れが生じた。
歪みが大きくなるとブツリと映像が途切れ、数秒もせずにすぐに回復したが彼女の姿はすでに消えていた。
夏野の表情が見る見るうちに青褪めていく。
「……今のって……さっきと同じ、だよな……?」
「乱れたという点ではな。まだ2件目で偶然の域は出ない。次の失踪者を調べよう」
オカルト系は苦手らしく恐怖に顔を引きつらせている夏野を連れ、葵惟はその後も調査を進めていく。
《足跡追跡》と《トークストーカー》を使い、その当時の状況を大まかに把握し、《Q&Aコーリング》と、《脳内記憶シーカー》というスマートフォンを対象者の頭に向けると本人も忘れている記憶を探れるというアプリで情報を集めていった。
029ビッグワンダーランドエリアで、徳島笑香、中根義治、大川廉太郎の3人。
061電光都市エリアで、東城すず(トウジョウ)、上野祐二、奥村右京、野々村秋穂の4人。
049神秘の湖エリアで、岸谷篤朗、松永郁、末広栄吉、香川明香里、岩崎渉の5人。
035風そよぐ丘エリアで、馬場伊織と片瀬一悟の2人。
038ホーリークリスマスエリアで、飯島春菜、江崎俊夫、折原昌樹、市原千都留、葉山いずみ(ハヤマ)の5人。
そうして5ヶ所のエリアを回って半分ほどの人数を調査し終えると、葵惟たちは次の調査エリアであり、人気のない082クリスタルレギオンエリア、通称水晶洞へ来ていた。
周りはクリスタルの結晶で出来た、太陽の光もないのに明るい神秘的なエリア。人気はあっても迷宮のように入り組んでいる為に人に会う事はない。周囲に誰も居ない事を確認すると葵惟は黒いスマートフォンを取り出した。アイコンをスクロールさせ、緊急通信というアイコンに触れると画面の上にホログラムの頑丈な錠前が浮かび上がった。
「皇帝 橘蒼斗」
葵惟が声を発するとガチャンと錠の開く音がし、錠前が消えるとスクリーンが出現し蒼斗の姿が映し出された。私室から移動する事無く、神殿で会った時と同様に作業を進めているようだ。
『葵惟君か。何か判ったかな』
「失踪者がログアウトしたと思われる時間に、どのエリアでも時間のずれと景色の歪みを確認した。まだ半分ほどだがな」
淡々とした口調で伝えると、蒼斗は暫し目を閉じて何かを考えた後、目を開けて葵惟を見やる。
『ふむ……そのような観測は記録されていないが……その辺も改変されている可能性があるな。分かった。引き続き調査を頼む』
報告を終え、けれども葵惟はじっと蒼斗を見据えたままで、それに気付いた蒼斗はまだ何かあるのかと葵惟に問いかけた。どこか怪訝そうな葵惟だったが、息をつき、口を開く。
「このスマートフォンに入っているアプリだが、過去の映像の再現や他人の記憶に干渉するものばかりだ。まるで初めから調査をしようとしていたかのように」
「え……?」
驚いたように夏野が葵惟を見るが、葵惟はただ真っ直ぐに蒼斗を見たままで、その視線を受けても蒼斗は表情を崩さない。
だから葵惟が再び声を発する。
「貴方は気付いていたのではないか? 僕達に指摘されるまでもなく、イリオンに異変が起きている事を。思えば、イリオンから人が失踪するという、イリオンの存続に関わるような出来事があると僕から聞いても、貴方は表情を変えなかった。すでに知っていたから。違うか?」
ずっと疑問に思っていた。完全に管理されたイリオンでの謎の失踪。それだけでも十分に一大事だが、情報が改変されているかもしれないという事実。そして、イリオンの中枢であるディオスに何らかのウィルスが入り込んでいるかもしれないという、今後のイリオンに関する重大事。だが、蒼斗は至って冷静だった。
元々そういう性格だと言われれば納得できない事もないが、焦りを見せてもおかしくはなかっただろう。けれども、彼はあっさりと受け入れた。
そしてあのアプリ。最初に見た時にはふざけているとしか思っていなかったが、調査する上でこの上なく重宝されていた。むしろ、あのアプリがなければ調査どころではなかっただろう。
その理由を知っているのは蒼斗だけだ。
すると、蒼斗の口元に笑みが浮かんだ。
『いつ気付かれるかと思っていたが、なるほど、見込んだ通りだ』
「……いつから」
『残念ながら3ヶ月前だ。1通のメールが届いてね、イリオン内で異変が起こっていると。差出人は不明、どんなに調べても送り主は特定できなかった。その後、調査をしていても外からでは何も検出できず、ディオスに直接問いかけても返答はない』
「ディオスって、AIだっけ。話せるの?」
『ああ。ディオスと対話をする事も私の仕事なのでね』
へぇ、と夏野の口から感嘆の声が漏れる。
ディオスというAIは、イリオンの中枢に居て全ての情報を見て知る事が出来る。映像データというものを、ディオスだけは見る事が出来る。そうする事で、人間をよく知る事が出来るからだ。蒼斗はそんなディオスと話をする事で、イリオンの状況を把握している。
『管理者である私はイリオンへ行く事は叶わない。その為、慶太に調査をさせようと思っていたところだ』
「それであのアプリか」
頷き答える蒼斗。
疑問が解決された事で胸の内にあったもやもやが消え去り、葵惟は分かったと一言返した。先程、蒼斗はテウクロスをテストしていたのではないかと夏野に言ったが、恐らくは葵惟と夏野の事もテストしている。見極めようとしていると言った方が適格だろうか。
兎にも角にも、テストには合格したと言っていいだろう。それは蒼斗の表情が物語っている。
それ以上は何も言わず、調査に戻ると告げて一方的ながら通信を切ると、葵惟は小さく息をついた。安堵を含んだような息を。
「あれ、何。弟くん、どうかした?」
顔を覗きこまれればすぐにそっぽを向いてしまう葵惟に、夏野はムスッと眉間に皺を寄せる。そんな夏野には目もくれずに葵惟は黒いスマートフォンを操作して、イリオンの簡易地図を開いてじっと地図全体を眺めた。
失踪場所を知らせるように赤く点滅しているのを、ただじっと。
動かなかったからだろうか、ただ一点を見つめているのが不気味だったのだろうか。夏野から怪訝そうな視線を向けられた。
「弟くん、今度は何? 地図見てて何か面白い?」
「ああ」
「え?」
「この印の形、何か見覚えがある気がする」
疎らな点が示されているだけの地図。その筈なのに、最初に地図を見た時からどこか違和感はあった。それは地図だけではなく、失踪者をずらりと並べた時にも感じた。
それが何かを確かめようと失踪者達のデータをスマートフォンの画面上にずらりと並べた。
最初の被害者である渡辺彰浩から失踪した順に、星野愛花、東城すず、岸谷篤朗、松永郁、飯島春菜、六島絵美、.荻野幸一、江崎俊夫、久本亜里沙、徳島笑香、連城逸美、石沢聡、.上野祐二、香川明香里、折原昌樹、中根義治、能登詩織、元宮織江、夏木音哉、瀬川栄介、保屋野明菜、大崎スグル(オオサキ)、岩崎渉、小津寧々(オヅ ネネ)、伊東楓、岡田卯月、奥村右京、湯浅昭雄、衣笠篤史、常陸幾也、池谷奈々(イケタニ ナナ)、廣野一郎、高岡乙葉、茂木英梨、馬場伊織、橋本一子、大川廉太郎、野々村秋穂、末広栄吉、市原千都留、新見イツキ(ニイミ)、葉山いずみ、春木育美、片瀬一悟、都築茜音と並んだデータの羅列。
それらを眺めながら、夏野はつまらなさそうに頭の後ろで腕を組む。
「さっきから何がしたいわけ? ただの名前じゃん」
「違和感がある」
「違和感? って、何、カタカナとひらがなが2人ずつ、とか?」
「それは関係ないだろう」
「そりゃ、適当に言っただけだし」
不貞腐れるように口を尖らせている夏野だが、やはり葵惟には全くもって相手にされないので奥歯を噛み締めて気持ちを切り替えると再び氏名の羅列を見る。そうして順番に読んでいくと、ふと気付いた事があった。
「あとはあれじゃない? あ行の名前が多い。分かった、犯人はあ行が好き!」
ビシッと言い放った夏野を蔑んだ目で見やれば、冗談だってばと急いで取り繕っている。
「お前は、五十音に好き嫌いがあるのか」
「だーから、冗談だって! 俺の話、大体は流すのにこういうのだけ拾わないでよ! ほらほら、突っ立って考えてるヒマがあるんなら調査しながら考える!」
早く先に進もうと背中を押されるので強引に歩き始め、確かに今悩んでいてもどうする事も出来ないと思い直し、一度トランスポートの場所まで戻る事にした。
クリスタルレギオンエリアで失踪した、六島絵美、久本亜里沙、瀬川栄介、衣笠篤史、池谷奈々の5人を調べ、今日はもう日が暮れて人も少なくなるからとその日の調査は終了し、夏野の家で睡眠をとる事にした。
翌朝から、再び他のエリアを転々とする。
018ハロウィンナイトメアエリア、連城逸美、能登詩織、常陸幾也の3人。
073レインボーガーデンエリアで、大崎スグル、橋本一子の2人。
071ナイトハイダークネスエリアで、星野愛花、石沢聡、湯浅昭雄、廣野一郎、高岡乙葉、新見イツキ、春木育美の7人。
026桜吹雪エリアで、伊東楓、岡田卯月の2人。
045浮遊島スカイフォールエリアで、荻野幸一、小津寧々、茂木英梨の3人。
残すは1つのエリアとなるまで調べてみたけれど、結局、得られたのは時間のずれと景色の歪みが観測された事だけだった。
昼に差し掛かった今現在は、茜音が失踪したと思われる017海中施設ラグーンエリアに来ている。全面がガラス張りで、360度前後左右の海の景色が見られるというこのエリアは、潜水艦のように海中をゆっくりと移動している施設だ。アトラクション感覚で海の中を楽しめるという事で人気の高いエリアとなっている。広さは丁度、東京ドームくらいだろうか。
ここに来て、改めて蒼斗に連絡を取ろうと決めた葵惟は施設後方の端に寄り、周囲にいる人との距離を置いて壁の方を向いた。
そこで葵惟は再びスマートフォンを使い、地図を出現させて点滅した光をじっと見つめている。
「何だ、また見てんのか?」
「ああ。どうにもスッキリしなくてな。見覚えがあるのに出てこないというのは、気持ちが悪い」
確かに記憶にはある筈なのに、それがハッキリとしない。それがずっと渦を巻いていて、不快だ。
葵惟の隣で光の点滅を見ている夏野も、唸り声を上げながら顔の角度と変えつつジッと見つめる。
「これが、ねえ。上から見ても左から見ても、逆さから見ても、俺にはさーっぱりなんだけど……」
瞬間、葵惟は弾かれるように夏野を見、そして口元に微笑を浮かべた。
「なるほど……逆さ、か」
「へ? 何が?」
しかしそれ以上、葵惟が夏野に対して言葉を紡ぐ事はなかった。周囲を見ると、海を見ていたり話をしたりしてざわついているので、気付かれる事はないだろうと思い、緊急通信に触れてコールすればスクリーンに蒼斗の姿が映し出された。
前置きは必要ないだろうと、手短に調査内容を伝える。
「14ヶ所で調査を終えたが、昨日の報告と変わらない。どのエリアでも時間のずれと映像の歪みを観測しただけだった」
『そうか……こちらではデータの改変の痕跡が見つかったところだ。君達の報告がなければ見落としていただろう』
つまり、葵惟たちの調査は無駄ではなかったという事を示しており、その事実に葵惟も夏野もホッと胸と撫で下ろす。この調子ならば、頼まれ事は完遂できそうだ。
そう思い、すぐに最後の調査に踏み込もうと通信を切ろうとした時だった。
不意に蒼斗の視線がスクリーンから外れた事に疑問を抱き、どうしたのかと黙って様子を窺っていると蒼斗とは別の声が聞こえてきた。
『兄ちゃん、ちょっと貸して』
そう言って割り込んできたのは蒼斗の弟である慶太だった。その姿が映し出され、また神殿内に居たのかと思いながらも、どこか切迫したような慶太の様子に眉を顰める。
『アオ、今すぐそのエリアから離れて!』
「え、何、急に……」
キョトンとした夏野の声。突然、何の説明もなしにエリアから離れろと言われて混乱しない方がおかしいだろう。けれどそんな夏野の様子などお構いなしに、慶太は続ける。その声は、どこか鬼気迫るものがあった。
『説明してる時間がないんだ。そのエリア、何かに侵食されてる。危険なんだよ!』
浸食されているという言葉に思い浮かんだのは、蒼斗が言っていた、ディオスがウィルスに侵されているかもしれないという言葉。もし本当にウィルスが侵入していてイリオンに影響を及ぼしているとしたら、それを慶太が見つけたのだとしたら、一体何が起こるのか想像もつかない。
だから慶太が離れろと言っているのだと理解した時、慶太の言葉が合図になったかのように周りの景色が一瞬にして黒に染まった。施設内にいた人々の困惑する声が聞こえてくるけれど、黒一色で光のない今、目を開けている事すら疑うように何も見えない。
そう思っていると、パッと辺りが明るくなった。否、黒だった世界が赤に埋め尽くされた。施設を取り囲むような赤茶色の岩肌、下はゴポゴポと煮え滾っている溶岩の海。今、施設はマグマの上に浮かんでいる状態だった。
何が起こったのか分からずに呆然とする葵惟と夏野。突然の景色の変化にパニックになるかと思われた施設内だったが、聞こえてきたのは感嘆の声。リアルなマグマに感心している人々の姿は、葵惟の目には異様なものに映った。
これは、非常事態だ。
『葵惟君、夏野君、今からこのエリアを封鎖する。エリア内に緊急避難命令も出す。君達は神殿に来てくれ』
すぐに戻って来いと言う蒼斗の言葉に、葵惟は間髪入れずに思っていた事を話す。
「いや、ここだけじゃない。イリオンから即刻、全員をログアウトさせろ」
蒼斗と慶太が驚いたように葵惟を見つめる。
『全員って、そんなの無茶だ! イリオンにどのくらい人がいると思って――』
『分かった。私の権限で勧告を出そう。君達は神殿に』
慶太の言葉を遮って決断した蒼斗。
互いの考えが分かっているかのように葵惟と蒼斗は頷き合うと、通信を切る事無く蒼斗は何かを操作していて、その間、夏野と慶太は共に不安そうな表情で見守っていた。
そして、30秒と経たずにエリア中にアラート音が響き渡った。騒然とするイリオン内の人々。
『イリオンにいる皆さん。私は橘蒼斗です』
橘蒼斗の名に、より一層ざわめきが大きくなる。
『イリオン内で不具合が見つかった為、イリオンの一時的な封鎖を決定致しました。現在イリオンにいる方は全て、即刻ナノゲートからログアウトして下さい』
ざわざわと、ざわめきが溢れ返る。「どうしたんだろう」「不具合だって」「橘蒼斗って本当かな」等の不安の声が飛び交っていると、ログアウトを促すかのようにアラート音が大きくなり、機械的な女性の声がイリオン内に響き渡る。
『これより、イリオン全域を封鎖致します。緊急事態につき、お近くのナノゲートより速やかにログアウトして下さい。繰り返します。これより、イリオン全域を……』
緊急のアナウンスとアラート音に、半信半疑だった人々が動き出す。イリオン創設から5年、初めての事態にパニックは必至と言えよう。
皆がナノゲートへ向かって行くのを確認し、葵惟たちも急いでイリオンから出る為に歩き始めようとした時、突如響き渡った男性の悲鳴によって足が止まった。
即座に声の方――施設前方を見て、愕然とする。
施設の一部が消滅し、そこに居た人々が数十メートル下にあるマグマの中へ落ちていく光景が瞳に映った。その様は、まるで地獄に落ちていくかのようで、落ちる者も周りに居た者も恐怖に顔が引きつる。
「うわああぁあああ!」
「きゃあああぁああぁ!」
途端にパニックに陥る施設内。逃げ惑う人々はナノゲートに殺到していて、けれども人1人が通れるほどの小さなゲートから出られる人数は限られている為に、立ち往生している間にも施設は消えていく。ナノゲートから現実へ戻ろうとしていた数十人の人間はマグマの中へ呑み込まれていった。
最初に消えた施設前方の一部分から、侵食するように消えていく施設。そのスピードに、葵惟たちのいる後方まで到達するのにそう時間はかからない。
しかし、ナノゲートはこのエリアには1ヶ所しかない。ナノゲートが消えた今、帰る術は残されていなかった。
こうなってはトランスポートで別のエリアに行くしかないと走り出そうとして、瞬間、エリア内のあちこちに突如としてナノゲートが出現した。
『緊急用のナノゲートを設置した。ラグーンエリアの者は近くのナノゲートから現実世界へ!』
再び響き渡った蒼斗の声に、形振り構っていられない人々は全速力で近場のナノゲートを潜り抜けていく。
葵惟たちもすぐさま後方に出現したナノゲートを潜り抜けると、蒼斗の居る神殿内へ戻って来た。神殿内は、慌ただしく動き回っている点に変わりはなかったが、騒々しさの質は先程とは全く異なっていた。
「状況は!?」
「027、019、088エリア、封鎖完了!」
「006、070エリアも封鎖完了です! 残るエリアは50を切りました!」
「急がせて!」
「ラグーンエリアの侵食、75%を越えました!」
「防げないの?!」
「やっていますが、ファイアーウォールが簡単に破られて……防ぎようがありません!」
緊迫した空気と追い詰められたように声を張り上げているスタッフ達に、緊急事態なのだと嫌でも痛感させられる光景に、葵惟は息を呑んだ。
その中心にいるポニーテールの勝気そうな白衣の女性は昨日、蒼斗に後を任されていたリリスという人物だ。後を任されているという事は、蒼斗の腹心の部下なのだろう。その人物が今、声を荒げて取り乱している。事態は、葵惟たちの想像よりも遥かに深刻なのかもしれない。
周囲に指示を出しながら対策を講じていた彼女は、葵惟たちに気が付くなり視線を向けずに声をかけてきた。
「貴方達は皇帝の部屋に行きなさい」
「えっ?」
「早くしなさい!」
それだけ言うと、再び他スタッフの報告の声が上がり指示を出していて、このままここに居ても邪魔になるだけだと真っ直ぐ、トランスポートとは逆側に位置する転送装置へ向かった。その途中で、視界の端で誰かが笑ったのを葵惟は捉えていたが、転送装置に乗っていた為にそれが誰かまでは判らなかった。
そうして蒼斗の部屋へやって来た葵惟と夏野。そこでは蒼斗が椅子に座りながら展開したスクリーンを操作していて、すぐさま葵惟たちに気がついた慶太がホッと胸を撫で下ろしていた。その横で、蒼斗がこちらを見ずに口を開く。
「先程の事、説明してもらえるだろうか」
それは葵惟に向けられた言葉。即行だなと思いつつも、時間がない事も余裕がない事も分かっている為に葵惟は、先ずはこれを見てほしいと被害者のデータをずらりと並べた。クリスタルレギオンで見ていたように失踪順に並んだデータに、蒼斗は視線を目の前のスクリーンから外した。
「これを見ていて、ずっと違和感があった。名前にあ行が多いと言った夏野の言葉で漸くその正体を知った」
他人の事を貶しておいてヒントになってたんじゃんかと言うような恨めしい視線を向けられるけれど、夏野の視線を気にする事無く葵惟は続ける。
「一見、関係の無い失踪者達だが、意図的に選ばれている。これは人間に対するメッセージだ」
「つまり、暗号だと?」
「暗号って、頭文字をとって繋げると文章になる、みたいな?」
考えられる可能性の中で一番高いものを口にした夏野に、葵惟はその通りだと頷いた。まさか当たっているとは思っていなかった夏野が密かに喜んでいたけれど、その事には触れずに葵惟は尚も続ける。
「ただし、ローマ字表記に直した際の、苗字と名前の頭文字だ」
最初の渡辺彰浩はWATANABE AKIHIROとなり、苗字の頭文字のWと名前の頭文字Aを取って《WA=わ》となるようにと説明すれば、夏野も慶太もなるほどなと納得している。
ただ1人、蒼斗だけは表情を変えずに静観していて、葵惟は眉を顰めた。
「ってことは、次の星野愛花はHとAで、東城すずはTとSで……って、あれ? これじゃ文章にならなくない?」
順番に変換していったが、3人目であっさり変換に失敗し、どういう事だと葵惟を問い詰めるように見る夏野だが、葵惟は一度息をつくと口を開く。
「解読の仕方は今言った通りだが、このままでは完成しない。この暗号を解く鍵はエリアだ。先ずは、失踪者を失踪したエリア毎に分ける」
最初の失踪者である渡邊彰浩はスリーピングフォレストエリア、次の失踪者である星野愛花はナイトハイダークネスエリアというように、失踪者を分ける。蒼斗がくれた地図を出して少し操作すると、葵惟が展開していた失踪者のデータは消え、地図上に示された失踪場所に吹き出しのようになって失踪者のデータが表示される。
エリアは全部で14。
スリーピングフォレストエリアは、渡邊彰浩。
ナイトハイダークネスエリアは、星野愛花、石沢聡、.湯浅昭雄、廣野一郎、高岡乙葉、新見イツキ、春木育美。
電光都市エリアは、東城すず、上野祐二、奥村右京、野々村秋穂。
レインボーガーデンエリアは、大崎スグル、橋本一子。
ホーリークリスマスエリアは、飯島春菜、江崎俊夫、折原昌樹、市原千都留、葉山いずみ。
クリスタルレギオンエリアは、六島絵美、久本亜里沙、瀬川栄介、衣笠篤史、池谷奈々。
浮遊島スカイフォールエリア、は荻野幸一、小津寧々、茂木英梨。
ビッグワンダーランドエリアは、徳島笑香、中根義治、大川廉太郎。
ハロウィンナイトメアエリアは、連城逸美、能登詩織、常陸幾也。
神秘の湖エリアは、岸谷篤朗、松永郁、末広栄吉、香川明香里、岩崎渉。
マリーナエリアは、元宮織江、夏木音哉、保屋野明菜。
桜吹雪エリアは、伊東楓、岡田卯月。
風そよぐ丘エリアは、馬場伊織、片瀬一悟。
海中施設ラグーンエリアは、都築茜音。
「でもこれだと、どう並べるかって分かんなくない?」
「エリアには番号がついているだろう」
各エリアには作られた順に番号が付いている。地図に触れていくと、番号のついたエリア名と失踪者の氏名が浮き上がり、番号順に並んだ。
017海中施設ラグーン→018ハロウィンナイトメア→026桜吹雪→029ビッグワンダーランド→035風そよぐ丘→038ホーリークリスマス→045浮遊島スカイフォール→049神秘の湖→055マリーナ→061電光都市→071ナイトハイダークネス→073レインボーガーデン→082クリスタルレギオン→093スリーピングフォレスト。
その順番通りに、夏野が頭文字を読み上げる。
「た、り……次、NSって読めないけど」
どういう事かと問いかけてくる夏野。先ずは、と葵惟が言っていた事など憶えていないらしい。人の話を聞かない事は重々承知しているので、溜め息をついただけで先に進める。
「ここでもう一つ重要なのが、これだ」
これだと示されたのは、失踪エリアが赤く点滅している地図。
「この形には見覚えがあって、それが何かをずっと考えていた」
「これってSが横になった感じだろ。ちょっと崩れてるけど」
「形としてはこれで合っている。一つ足りないが、これは星座だ」
星座と聞いて、今まで黙って葵惟の推理を聞いていた蒼斗が、スッと目を細めると口を開いた。
「蠍座、か」
蒼斗の言葉に正解だと葵惟は頷き、そして地図を指で180度回転させると、右上に頭、左下に尾のある蠍座そのものとなる。ただし、蠍の体の中心部にある筈の赤く輝く星を欠いた状態だが。
「蠍座が逆だった事から、番号を逆にして失踪順に読んでいけばいい」
先程、番号順に並べた氏名の羅列がスライドするように触れていけば、順番が逆になるように移動していく。そしてもう一度触れると失踪者の使命が全てローマ字表記へ変換され、更に触れると苗字と名前の頭文字だけが浮かび上がった。
《wa re ha se ka in os hi ha is ya hi to ni hi ts uy ou na mo no ha ka mi se ka iw ok on me ih et om ic hi bi ki te ny or ik ou ri ns hi ta》
ローマ字を、葵惟が静かに読んでいく。
「我は世界の支配者。人に必要なものは神。世界を混迷へと導き、天より降臨した」
淡々とした口調で読まれたメッセージに、暫し沈黙が降りた。
皆が、言葉の意味が理解できないといった様子だ。言葉を直接受け止めるなら、イリオンの神であるディオスが世界に降り立ったという事になるが、それはあまりに現実的ではない。
しかし一つだけ、真実となった言葉がある。
混迷。
それが先程ラグーンエリアで起こった事を示しているのであれば、イリオン全域で同じ現象が起こる事になり兼ねない。メッセージを読み解き、それを危惧して葵惟は蒼斗にイリオン封鎖を願い出た訳であり、葵惟の表情からその事を察した蒼斗もすぐさま封鎖に踏み切った訳なのだから。
だがこの手法に、葵惟も蒼斗も、慶太でさえも不快に眉を顰めている。
「完全に遊んでいるな」
「このメッセージを送った者にとってはゲームだったのかもしれない」
「ゲーム? 人を攫って、消滅させて、そんなゲームないだろ!」
悲痛に顔を歪めて吐き捨てる慶太の言葉に、葵惟も夏野も驚いたように、弾かれるように慶太を見やる。
消滅。それが何を意味しているのか思い当たる事はあったけれど、それでも信じられずに夏野が声を漏らした。
「どういう、こと? 消滅って」
震えるような夏野の声。夏野も葵惟も気付いているのだと蒼斗と慶太は悟ると、慶太はぎゅっと拳を握って奥歯を噛み、蒼斗が静かに口を開く。
「ラグーンエリアでマグマに落ちた68名は、マグマの中で情報が解離しイリオンに溶けて消えた。もう二度と、人となる事も現実に戻って来る事も出来ない」
情報が解離しイリオンに消えた。バラバラになった体が世界中に散ってしまった事と同じだと示しているそれは、同時に死を意味していて、その事実が重くのしかかってくるような気がして、葵惟は服の裾を握りしめた。
けれどもそうして悔やんでいる時間さえも、今の彼らにはなかったのだとすぐに思い知る。
静寂は蒼斗に入った通信で一気に消え去った。声の主は、スタッフに指示を飛ばしていたリリスのもの。
『蒼斗様。大方のエリアは封鎖が完了しましたが、未だ46人がイリオンにいる状態です。こちらからの呼びかけにも一切、反応を示しません』
46という数字に嫌な予感が脳裏を過ぎる。
「エリアと人物を把握したい。データを送ってくれ」
了解しましたと言う返事の後、通信が途切れるとすぐに封筒のようなものが蒼斗の目の前に現れ、触れた直後に展開されたのは予想通りのものだった。
失踪者と全く同じ顔ぶれ、そして地図に示されている位置も失踪エリアと殆ど同じだった。違うのは、ラグーンエリアの場所が黒く染まり、別の1ヶ所が示されているという事。
その場所は、蠍座の中で唯一示されていなかった部分。
それぞれのエリアにいるのはその場所で失踪した者達。そして、新たに追加されたエリアにいるのは、ラグーンで消えた筈の茜音でしか有り得ない。
「あの馬鹿……!」
呻くように言い、踵を返すと葵惟はトランスポートに乗って部屋から出て行ってしまい、慌てて夏野がその後を追って行った。止めようと声を出した時にはすでに2人の姿はなく、蒼斗は慶太を見やる。
「慶太」
名を呼ばれ、行けと顎で示されると慶太は駆け出し、2人の後を追うように蒼斗の部屋を飛び出して行った。その後ろ姿を見る事無くすぐさま蒼斗は女性スタッフに通信を繋げるなり、鋭い口調で現状を告げる。
「今現在、イリオン内にいる者の救出に慶太達が向かった。これ以上の死者を出す訳にはいかない。イリオンの防衛を、侵食を抑える事だけに集中しろ。他エリアへの侵入を全力で防げ」
これ以上の被害を出す事など絶対にあってはならない。その間に次の対策を取らなければと、蒼斗は再び手元でスクリーンの操作をし始めた。