2 タチバナ
暖かな日の光が降り注ぐ青空の下を歩いている、明るい茶髪を無造作にセットしている不機嫌そうな顔の葵惟。その左斜め後ろを、鼻歌を歌いながらピタリとくっついて歩いているのは、派手な金髪にイリオン内よりは多少色味は落ち着いたが派手な色合いの服を身に纏っている夏野。
電車を降りてバスに乗り継ぎ、今現在は住宅街の真っ只中にいる。理由は勿論、橘蒼斗を訪ねる為だ。
しかし、会社をすっ飛ばして直接責任者に会いに行く事を夏野に全力で否定された葵惟は先に、渋々ながらも管理会社であるテウクロスへ向かった。絶対に門前払いをされるだけなのだからと、心から乗り気ではなかったのだが、絶対に一言くらい言わないと駄目だと夏野は強情で、放っておけば延々と文句を言い続けるのは目に見えていたので仕方がなく、だ。
朝早くにテウクロスを訪ね、高層ビルのガラス張りの玄関口から広々としたロビーへ入り、受付へ真っ直ぐに向かった。
『橘蒼斗に会って話がしたい』
『アポイントはお取りでしょうか?』
『いや』
『では、お取次ぎ致しかねます』
ニコリと営業スマイルを浮かべた受付の女性は、暗に出直して来いと言っていて、葵惟は無表情のまま隣に立っている夏野を見やる。目だけで「ほらな」と伝えれば、何だか悔しくなった夏野はカウンターから身を乗り出すように受付の女性に詰め寄った。
『ね、ちょっとだけ! ちょっと話したいだけなんだって! お願い!』
『規則ですので』
『そこを何とか! ね?』
『規則ですので』
『どうしても?』
『規則ですので』
受け付けの女性は笑顔を張り付けたままで、返って来る言葉も変わらない。何を言っても無駄だという事に何故気が付かないのかと、懇願し続ける夏野に蔑むような視線を送る葵惟。
しかし、これ以上はどうしようもないと夏野も肌で感じているようで、ぼそりと、とても小さな声が漏れた。
『……ケチ。これだから若作りしたおばさんは……』
瞬間、ロビー内の空気が凍りついた。
『どうぞお引き取り下さい。お若いあなた方にも社会のルールは遵守して頂かなければなりませんので、理解できる年齢になられてから再度お越し下さいませ』
ニコニコと、明らかに怒った様子で笑う受付の女性。その言葉はとても丁寧だったが、「何も知らないガキが偉そうな事を。こちとら仕事だっつってんじゃねーか。大人になったら出直して来いや」という副音声が聞こえたような気がして、夏野は顔を引き攣らせ、溜め息をついた葵惟が夏野の首根っこを掴み、「失礼しました」とそそくさとその場を離れた。
『だから言っただろう』
『……女って、怖い……』
『あれはお前が悪い』
すっかりしょげてしまった夏野に、本当に頭が悪いなと思いながら出入口へ向かっている最中、不意に花の香りが鼻孔をくすぐった。会社の中で花の香りがした事に疑問を抱いて振り向いた葵惟だったが、ロビーの人ごみに紛れてそれが誰なのかという事は判らなかった。
それからテウクロスのビルを出、バスを乗り継ぎ、今は住宅街を歩いている。
結局、無駄足だったと文句を言うものの、夏野の興味はすでに別の事に向いていて、辺りをキョロキョロと忙しなく見回しながら夏野はポツリと呟いた。
「何か、普通のとこだね」
住宅街を歩いている最中に聞くとは思っていなかった台詞に、葵惟の口から自然と溜め息が漏れた。
「確かに橘蒼斗はイリオンを構築した権威だが、偉業を成し遂げた人物が皆、豪邸に住んでいるかと言えばそうではないだろう」
「まあ、そうだよな……」
「それに、橘蒼斗はあくまで一開発者に過ぎない。普通の生活をしているのが自然だ」
そう言い放つと夏野は黙りこくったので暫く静かになるだろうと思っていたのだが、何か妙な視線を感じて横目で夏野を見やれば、ボーっと間の抜けた顔でこちらを見つめている。
思わず、葵惟は眉を顰めた。
「何だ」
「へ? 何が?」
「じっと僕の事を見ていただろう」
「あー、いや、現実世界に戻って来ても茜音みたいな格好してるんだなと思って」
「僕は失踪中の身だと言っただろう。都築葵惟が見つかってしまっては意味がない」
何故、葵惟が茜音の姿をしているのかという理由はすでに告げている筈だというのに改めて問いかけてくるなど、夏野の気が知れない。話を憶えていないか、よく聞いていなかったか、憶える気も聞く気もなかったか、のどれかだろう。
それからスマートフォンで地図を見ながら歩く事、十数分で目的地に辿り着いた。
大きくも小さくもない2階建ての極一般的な家屋。塀にはチャイムと、橘と書かれた表札がかけられている事から、やはりこの家で間違いはなさそうだ。
門の前に立ち、葵惟は胚の中の空気を全て吐き出すように息をついた。チャイムに手を伸ばそうとして、その手が僅かに震えている事に気が付く。
緊張している。橘蒼斗という人物を訪ねる事を、少しばかり怖いと感じている。だからと言ってこのまま突っ立っている訳にもいかず、意を決しチャイムを見据えると、横から伸びてきた手がチャイムを押した。
ピンポーンと独特の音が鳴り響く。
瞬間、口をぽかんと開けて硬直する葵惟。しかしすぐに夏野を見やると青筋を浮かべ、夏野を睨み付けるなりその胸倉を勢いよく掴んだ。
「お前という人間は……!」
「え、何? 何で俺、怒られてるわけ?!」
まったく状況が理解できていない夏野は混乱していて、葵惟が夏野の考えている事が理解できないのと同じように夏野が葵惟の心情を知る筈もないのだが、それでも込み上げてくる衝動を抑える事は出来なかった。
ガチャリと開いたドアの音で正気に戻った葵惟はチャイムを押してしまった事を思い出すと、パッと夏野の胸倉を放して橘家のドアを見やる。すると、開いたドアからひょっこりと顔を覗かせている者がいる事に気が付いた。
透き通るような白い肌にルビーのような紅い瞳、色素の薄い青みがかった絹糸のような白髪が印象的な、人形と見紛うような女性。
女と言うものにあまり興味のない葵惟だったが、その人間離れした美しさに思わず見惚れてしまい、夏野と並んで呆然と立ち尽くす。
「ちょ! いきなり開けちゃダメだってば!」
焦ったような声が聞こえてきたかと思うと、開いたドアの奥からダダダダッと駆けてくる足音が聞こえ、大学生くらいの青年が慌ただしく玄関先に出て来た。前髪も短い黒髪短髪の青年は出て来るなり顔を覗かせていた人形のような女性に注意を促し、家の中へ入るように必死に言い聞かせている。
客人が来ているというのにマイペースで、玄関先だというのにやたらと騒がしいなと葵惟は思う。他人様の事情なので口を挟むような事はせずに傍観していると、不意に人形のような女性と目が合った。
瞳が透き通っているからか、見透かされているような気がするけれど何故か視線を外す事が出来なくて暫し見つめ合っていると、彼女は小さく唇を動かした。
「貴方……変」
ぽつりと抑揚の乏しい声で呟かれた言葉に、その場の空気が凍りついた。降りた沈黙の中で最初に声を発したのは、後から出て来た黒髪の青年。
「ちょ、何言ってんの! 初対面の人にそれはないよ!」
慌ててフォローしようと取り繕っているが、そんな彼の必死さなどお構いなしに彼女は、今度は夏野を見て言葉を紡ぐ。
「貴方は……気持ち悪い」
「な、きも、えっ!?」
あまりのショックに脱力してしまい、その場にしゃがみ込んで完全に沈んでしまった夏野から視線を外し、彼女は再び葵惟を見つめる。そのルビーのような瞳には一点の曇りもない。
「変。普通じゃない。おかしい」
一体、彼女は何なのだろうか。普段、あらゆる物事に動じず、周囲の声など一切気に留めない葵惟だったが、さすがにこの時ばかりは不快に思った。何が変なのか、どこが普通ではないのか、どのようにおかしいのかが一切伝わってこない事も一因なのだろう。
自分でも、茜音に似せた髪色や髪型や服装には違和感を覚えるが、同じ姿をしていて片方は似合うがもう片方は似合わない、という事はないだろう。
「でも……懐かしい」
不意に、それまでの声音から一変した暖かな声と言葉が漏れた。澄んだ水のような声で紡がれた言葉が、身体の中に染み渡っていくような気がした。ある筈がないのに、それでも何かを感じ取ったような気がした。
そうして考えながらも怪訝な表情をしていたからだろうか。「分かったから家の中に入ってて」と黒髪短髪の青年が女性の背中を押して強引に家の中へ入れると、すぐにドアを閉めてドアを背に体重を預け、青年は大きく息をついた。
「毎度毎度、誰か来る度にドア開けちゃうから困ったもんだよ」
言い、葵惟と夏野を見やる。
「何かごめんな、あれで悪気はないんだ」
苦笑いを浮かべながら玄関先の石畳を歩いて来ると、門の内側に立って腰までの低い門に腕を置き、腰を屈める青年。
「あんな悪意の塊みたいな言葉で悪気ないって、ある意味、凄い……」
「否定はしないけど、でも気ぃ悪くするよな」
「や、慣れてるから平気……って言うのもどうかと思うけど」
自らの言葉で自爆した夏野が二重でショックを受けているが墓穴を掘っていたので青年は苦笑して流し、それから葵惟を見てくる。君はどう思ったと問われているようで、葵惟は小さく息をついた。
「別に……不快ではあったが、一番は何故あのような事を言われたか、不明なままというのが不愉快だ」
「あー、それはオレも分かんないからなぁ……すまん」
言った本人ではない人物に謝られたところで意味はないのだが、そもそも怒っていると言う訳ではないので無愛想に「別にいい」と呟いた葵惟に、頬杖をつきながら「そっか」と青年は微笑んでいる。
人懐こいという言葉が良く合う青年は、そう言えばと話題を切り替える。
「……誰?」
「今更!?」
ここまでフレンドリーに話をしていたというのにこのタイミングでそこに触れるのかと、夏野が即座にツッコミを入れたが、葵惟も同感なのか呆れ顔で青年を見つめている。
先程も思ったが、彼は相当マイペースらしい。
「僕は橘蒼斗に会いに来た」
「兄ちゃんに?」
その家の者を訪ねたというのに、青年は突拍子もない事を聞いたかのように驚いていて、上半身を起こして腕組みをすると品定めするように葵惟と夏野を見、おもむろに「よし」と頷くと家の中へ戻って行った。
バタンとドアは閉まり、門の前に取り残された葵惟と夏野はどうする事も出来ずに呆然としている。
これは門前払いされたという事だろうか。しかし、先程の青年は不快に思ったような態度は見せておらず、どう考えても不快にさせられたのは葵惟たちの方だ。
門前払いをされる謂れはない。
だが、今の状況を考えると次にどうすべきか思案する方が得策かと思った時、ドアが開いて青年がバッグを肩にかけ出て来た。
「お待たせ。さ、行こうぜ」
ニッと笑いながらやって来るなり門を開けて外に出て来た青年はそのまま、家の左手の方へ歩き始めているのだが、葵惟も夏野も状況についていけずに、青年を見つめたままその場に立ち尽くしている。
葵惟たちが動いていない事を感じ取ったらしい青年は振り返り、ニカッと笑う。
「兄ちゃんのとこ、連れてってやる」
そう言うと葵惟たちの反応を見る事無くさっさと歩き始めてしまったので、2人は言われるがままに橘蒼斗の弟らしい青年について行く。途中、彼はスマートフォンで誰かと話をしていたのだが、初対面の男に対してそれほど興味を持っている訳でもないので特に気にする事もなく歩いて行くと、住宅街を抜けて大通りに出た。
交差点に差し掛かると右の方から走ってくる一台の黒塗りの車がスーッと葵惟たちの前に停まり、運転席から老紳士といった風貌の男性が降りて来る。
「お待たせ致しました」
「相変わらずタイミング合いすぎ」
どうやら橘蒼斗の弟と老紳士は知り合いのようだが、この車は恐らくハイヤーと呼ばれるもので、一般人である筈の彼がここまで親しげにハイヤーの運転手と話をしているという光景はどうにも違和感がある。
しかし、その疑問をぶつける間もなく橘蒼斗の弟に促され、葵惟と夏野は後部座席に、青年は助手席に座ると老紳士は車を走らせた。
こういう車に乗った事がないのか慣れていないのかそわそわと落ち着かない様子で窓の外を見たり俯いたりキョロキョロしたりと忙しない夏野を尻目に、葵惟はドアの窓枠に頬杖をついたまま反対車線を走って行く車をぼんやりと眺めていた。
すると肩を指でつつかれ、今度は一体何だと眉を顰めながら横目で見やれば夏野が小声で耳打ちしてくる。
「なあ、これって公用車ってやつ? やっぱ橘蒼斗ってスゴイんだな」
期待を裏切らないような頭の悪い質問に答える気など起こる筈もなく、無視を決め込もうと今一度車の外を見ようとして、けれども聞こえてきた声に視線は前へ向いた。
ハハッと楽し気に笑う青年。
「ただのハイヤーだよ。これはオレ専用」
平然と言ってのけた青年だが、専用のハイヤーがあるなど彼は一体何者なのだろうかと思ってしまう。橘蒼斗の弟というだけで専属の車が与えられるとは思えない。住んでいた家は見た通りの普通の一軒家だった。彼専用のハイヤーだと言うのなら、運転手と親し気だった理由は納得がいったが、彼専用のハイヤーがあるというところには疑問を抱かざるを得ない。
もしかしたら、彼もまた何か偉業を成したのだろうか。
「何か、納得いかない?」
考えながら無意識に青年をじっと見つめていたらしい。真っ直ぐに葵惟を見ながらからかうような含みのある笑みを浮かべながら問うてくる青年の目が、どこか見透かすようなものに感じて、葵惟は思わずふいっと視線を逸らした。
「いけませんね。ご友人にそのような言い方」
「そう? 友達だからできることじゃね?」
「いや、サラッと肯定したけど友達じゃないし!」
こういう事は聞き逃さずにすかさずツッコミを入れた夏野。ツッコミは条件反射のようなものなのだろうか。
それにしても、今の流れで友人関係だと勘違いした運転手も運転手だが、友達だと断言した青年に驚くばかりだ。会ってまだ数分しか経っていない上に、先程会ったのが初対面だ。まともに会話をしていないどころか、彼は葵惟たちが兄に用事のある客人だと知っている。
それを踏まえての友人という言葉は、どう導き出しても出てこない答えだと言っていい。
ツッコまれ、一瞬キョトンとした表情になった青年だが、すぐにニカッと眩しい笑みを浮かべた。
「こうして話してたらもう友達だ。これ、常識な」
「……変な奴」
ぼそりと呟いた葵惟の言葉に青年は運転手の方を見、自分は変なのかと問いかければ運転手は人の良い笑みを浮かべながら、普通ですよと答えている。
初対面で名も知らない相手を友達呼ばわりするような人物が普通である筈がないだろうと思いながらも、何をどう言っても彼を説き伏せる事は出来ないような気がして、葵惟は何も言い返す事無く押し黙った。
そんな葵惟を見て、言い負かされたという事が分かったらしい夏野の目が、途端にキラキラと輝き出す。
「すっげー! 弟くんが負けた!」
嬉々として喜ぶ夏野の物言いにさすがの葵惟もカチンときたのか、図星だった為に苛立ったのか、負けたと言われたのが腹立たしかったのか、葵惟の眉間に皺が寄る。それは、誰が見ても不機嫌な顔だ。
「負けていない」
「うっそだー! 言い返せなかったじゃん」
「返す気が失せただけだ」
「負け惜しみなんて大人気ないなぁ。大人ぶってても本物の大人には勝てないってことか。弟くんもまだまだ子どもってことだね」
「その、まだまだ子どもの僕に言い負かされているのはどこの誰だ。子ども以下となると幼児という事になるが、自分で認めるのか」
皮肉を言われ、今まで楽しんでいた筈の夏野も途端にムッとする。
「なっ、俺が赤ん坊並みだって言うのかよ!」
「自分で言ったのだろう。僕は分かり易く訳しただけだ。悔しければ僕を言い負かしてみればいい」
やけに夏野に突っかかる葵惟と、その度にムキになって返す夏野の言い合いはヒートアップするばかりで、2人とも青年と運転手が同乗している事などすっかり忘れている。このままでは喧嘩したまま目的地に着くのではないかと思う程の言い合いを続けている中で、不意に青年が声を漏らした。
「仲良いんだな」
先程までの葵惟だったら、彼が会話に入ってきた途端に不機嫌な顔で黙り込んだところだろうが、今は夏野との言い合いに夢中だからか自然に入り込んできたからか、葵惟が言葉に詰まるような事はなく。
「仲が良いなど有り得ない。僕とこいつは昨日会ったばかりだ。第一、勝手について来られて迷惑している」
「うっわ、何それ。昨日、泊めてやった恩人に対してそれ?」
「僕は泊めてくれなど一言も言っていないし、強引に連れて行ったのだろう」
「そうだとしても、迷惑は酷いって!」
ああ言えばこう言うというように言葉を投げ合う葵惟たちに、最初は堪えていた笑い声が次第に堪えきれなくなったらしく青年は腹を抱えて笑い出し、言い合いに夢中になっていた筈の葵惟たちにしっかりと笑い声が届くなり、矛先は途端に青年へ向いた。
「何で笑ってんのさ! 俺ら今、ケンカ中!」
「いや、喧嘩っていうか、仲良しアピールされてるみたいで何かおかしくなって」
「どこをどう聞いたらそうなるんだ」
「どこって……全部」
「話にならないな」
笑い過ぎて浮かんだ涙を拭っている青年に、くだらないと顔を背ける葵惟。水を差され気をそがれたらしい夏野もムスッとしたまま窓の外を眺めていて、その様子を見て一しきり笑ったところで青年は息を整える。
それからくるりと体の向きを変えて、真後ろに座っている夏野を見やる。
「オレは橘慶太。名前、教えてよ」
何の脈絡もなく自己紹介してきた、慶太と名乗った青年に付き合いきれないと葵惟は窓の外を眺めたまま無視を決め込み、けれども流されやすい性格らしい夏野がそういえば言ってなかったと思い出すと、躊躇いがちに答える。
「えっと、夏野、だけど……」
「夏野ね。そっちは?」
今度は葵惟の方を見るけれど、さっきの今で自己紹介をする気になれる筈もなく、そっぽを向いたまま押し黙っている。その内、夏野が紹介するだろうと思っていた。
口喧嘩をしていたが、あの鳥頭の事だからすぐに忘れるだろうと思い、夏野の言葉を待っていた葵惟だったが、すぐに慶太から信じられない言葉を聞く事になる。
「分かった。教えてくれないんなら、アオって呼ぶことにするわ」
思わず、葵惟も夏野も目を見開き、勢いよく慶太を見やる。
ニアミス、と言っていいのだろうか。葵惟と慶太は確かに今日、初めて出会った。それは互いに分かっている。それなのに、ほぼ名前を当てたと言っていい状況に混乱するのは当然の事だろう。
驚きだけでは済まされない状況に声を漏らしたのは、夏野の方だった。
「何で……」
知っているのかと続けようとした言葉は途切れ、今の夏野の言葉を「何でそう呼ぼうと思ったのか」と問われていると解釈したらしい慶太は、訊きたかった事とは別の見当外れな事を答えた。
「だってさ、何か青っぽいじゃん」
昔、母親に訊いた事がある。どうして自分の名は葵惟なのかと。名を決めた理由は難しくてその時には理解できなかったけれど、ハッキリと憶えているのは、茜音が赤っぽくて葵惟は青っぽかったからというもの。
だから慶太の言葉を聞いた瞬間、葵惟は何かを感じ取ったような気がした。
やはりこの人は何かが違うのだと。
それが何でどういうところが違うのかという具体的な事は何一つ答えられないが、確かに感じ取れたものがある。何をしてもこの人に勝つ事など出来ない、何をやっても敵わない、そう感じたのは慶太が初めてだった。
しかしこの後、それはまだ序の口に過ぎなかったのだと葵惟は思い知らされる事となった。
小一時間ほど車を走らせていると、景色はビルの中から山の中へ変わっていた。一本道の真っ直ぐではない緩やかな坂を上って行った先に、重厚な門構えの巨大な建造物が姿を現した。
それは日本という国にも、山奥という場所にも不釣り合いな物だった。
「ねえ、弟くん。これってあれだよね? ギリシャとかにある……」
「神殿が何故このような所に……」
古代の遺産と言うべき神殿が綺麗な状態で堂々とそこに建っている。それは正に、目を疑う光景だった。
車から降り立ち、神殿を前に唖然とした顔で呆然と立ち尽くす葵惟と夏野に、普通はそうなるよなと苦笑を浮かべながら、慶太はそれが兄・橘蒼斗の趣味なのだと葵惟たちに告げる。「オレも散々これは無いって言ったのに聞かなくてさぁ」と困ったように頭を掻く慶太に、葵惟の中にあった偉人の橘蒼斗像が壊れていくような気がした。もしかしたら、橘蒼斗は変人なのかもしれない、と。
どこかの遺跡のように、どこまでも続く支柱と壁と床と天井と――それ以外には何も見当たらない広い空間が広がっている神殿内を慶太に案内してもらいながら、葵惟はずっと、ある事を考えていた。それは橘蒼斗という人間について。
橘蒼斗。齢29にしてイリオンという仮想現実を創り出し実装化に成功した若き天才。その中枢であるシステムは彼が立案し構築したものだと言う。それも立案から僅か半年という短い期間で。第2の現実の創造というプロジェクトを、立ち上げて3年で日本全土に取り入れた。その時の世間の騒ぎようは凄まじかったと記憶している。世紀の発明家が誕生しただの、エジソンやノーベルの再来だのと明くる日も話題はそればかりだった。
本人の素顔が公開される事はなかったが、その名は日本に留まらず世界中に知れ渡っている。
その偉人が、それも尊敬する人物が変人だったとなればショックも大きい。
否、天才とは常人には理解し得ない変人であるという事は葵惟も理解してはいるのだが、それでも彼だけは違うと思っていたかったのは事実だ。
建物内部までこだわって造られている神殿の奥へ進んで行くと、最奥の壁にぶつかった。行き止まりかと思われたが、慶太が石壁の1つを押し込むと壁の一部が映像だったらしく消え去り、その奥にあった現代的な自動扉が独りでに開いた。中に入ると電子的な機械やコンピュータや空中に浮いたスクリーンが一面に広がる大広間のような場所へ出た。
それはさながら宇宙戦艦のコクピットのようで、古代と現代の入り混じった不思議な空間に葵惟も夏野も戸惑いを隠せない。
忙しなく動き回るスタッフらしき人物達は、目の前に展開させたスクリーンに触れたりスクリーンお移動させたりと自在に操っている。その部屋の中央で白衣を着た細身の男性が、周りで作業している者達にてきぱきと指示を出しているのが目に映った。恐らくはあれが――。
「兄ちゃん」
入り口からその男性に慶太が声をかけ、振り返ってその顔を見て葵惟は息を呑んだ。
整った端正な顔立ち。聡明で頭脳明晰というのが見ただけで判るような黒髪のその人物はどう見ても20歳そこそこにしか見えない。
慶太が呼んだ為にこちらへと微笑を浮かべて歩いて来る彼を目の前にして、葵惟の口から声が漏れる。
「……橘……蒼斗……?」
「そうだが」
それが何かとでも言うような口調で、平然と肯定した橘蒼斗。
若き天才だと騒がれていたが、これではあまりにも若すぎる上に情報とも異なっている。公開されているデータには確かに年齢は33だと書かれていた。ただ単に童顔なだけなのか、それとも実年齢を偽っているのか。
「慶太、彼らは?」
「兄ちゃんに用があるんだって。わざわざ、うちに来たから連れて来たんだけど」
「……なるほど、よく調べている……分かった、ついて来たまえ」
すぐ傍にいたリリスという名札のついた、白衣を着た女性スタッフに後の事を頼み、入り口から左の方にあるイリオンのトランスポートに良く似た装置の上に立つと、一瞬にして別室へ移動した。
玉座と思われる豪奢な装飾の施されている椅子が中央奥に置かれているだけの室内。数本の支柱に支えられている天井の高いその部屋は、神殿内の王座の間と言ったところだろうか。海の中に建てられているかのように支柱だけで壁の無い部屋の外は、海底の映像が流れている。海上から差し込んでいるらしい太陽の光が、水に反射してキラキラと輝いている幻想的な空間だ。
立体映像の類だろうが、本物と錯覚しそうなほど精巧な映像は、さすがはイリオンを創設した橘蒼斗の技術と言ったところだろうか。
真っ直ぐ玉座に向かい、蒼斗は椅子に腰を降ろした。
「ここは私の私室だ。私の許可なく出入りする事は出来ない」
「……何故、そこまで?」
どうしてわざわざ個室に呼んだのかと問えば、君達への配慮だと蒼斗は言う。
「私に直接会おうとしたという事は、テウクロスを通せば即座に切られるような話をしたいという事だろう? それに、あれほど騒がしい所では話をしにくかろう」
どこの誰か、どんな用事かも判らない状況でそこまで配慮してくれた訳だ。それは自分の身を護る為でもあるのだろうと葵惟は思う。どんな話を切り出されるか分からないからか、もしくは自身にとって都合の悪い話をされた場合に逃がさない為か。
どちらでも良い。ここに来た限りは、結果がどうなろうと話すのだから。
「先ずは自己紹介からだな。知っている通り、私は橘蒼斗だ」
「俺は夏野、です」
すぐさま夏野が答えた為に、蒼斗の視線は葵惟へ向く。当然の流れなのだが先程、慶太に対して自己紹介を拒否した手前、とても言い辛い。ここで蒼斗に自己紹介をすれば、慶太にも知られる事になるのだから。
けれど自己紹介をせずにこのまま話を続ける事は、今の状況からでは出来そうもない。何より、蒼斗にに対して礼節を欠く事は葵惟の意に反する。橘蒼斗という人間に対しては、きちんとしておきたいと思っているから。
一度息を吐き出し、葵惟は蒼斗を見据える。
「都築、葵惟」
その名に反応したのは慶太だった。アオと呼んだ事を思い出しているのだろう、驚いたような表情をしている。だから嫌だったのにと内心で思いながら、すぐに話題を切り替えようと葵惟は話を切り出す事にした。
「早速だが……ここ数ヶ月でイリオスペインは急激に増加しているが、何か不具合でもあるのか?」
切り出された言葉に、微笑を浮かべたままだが蒼斗の目つきが少しばかり鋭くなった。
「ああ、その事か……回答は随分前に発表した筈だが」
「貴方の回答はこうだった。《イリオンでは痛みを感じる。脳は痛みを認識するがその情報が肉体に反映される事はなく、依って現実に戻った時に記憶にしか痛みが残らない。故に診察をしたところで損傷は見つからない。それがイリオスペインだ》と」
「その通りだ。痛みは人間の防衛本能。故に痛覚は残したままにしている」
「けれどそれは、イリオスペインが起こるという事に対しての回答。僕が知りたいのは、その事実を何故、今まで隠していたのかという事だ」
イリオスペインが起こり得るという事は、イリオンについて蒼斗が語っていた時に想像はしていた。痛みを感じる事について疑問を持つ声も多く、人間が生きる為に必要なものだからと彼は答えた。だが、怪我についてはそうではなく、イリオン内に危険はないという事の証明の為に怪我を負う事はない、怪我は情報に含まれないとも答えていた。その矛盾によって生まれたのが、イリオスペイン。
この現象が起こり得る可能性を示唆していた彼が、その事実をひた隠しにしていた理由だけが思い当たらない。だから問うてみれば、どういう事かと問いかけてきたのはこれまで呆けて聞いていた夏野だった。
小難しかったのか黙って聞いていた筈の夏野を無視しようとしたが、蒼斗を見ると夏野に同意見だと言いたげな表情をしていて、葵惟は言葉を続ける事にする。
「世間がイリオスペインを認識したのは数ヶ月前だが、イリオスペインは2年前から起こっていた事だ。しかし、テウクロスはその事実をなかった事にしている。イリオスペインとして追えたのは、5ヶ月前までだ」
言って空中に指で触れると小さなスクリーンが現れ、そこに記事が映し出された。
それは昨日、警察のデータベースで見た、女性が事件として警察に訴えたもの。
「ちょ、弟くん。それコピーしちゃったわけ?」
「警察のデータではない。別で2年前の記事を見つけたのでな」
顎に手を当てたまま記事を読んでいる蒼斗。その記事はあくまで事件としてのもので、イリオンとの関連性はなかった。そしてそこには「その他にも似たような話があった」と書かれているだけで、事件にならなかった他のイリオスペインの可能性がある事例は、見つける事が出来なかった。
テウクロスが何らかの情報操作をしているという見解が妥当だろうと葵惟は思う。
それは蒼斗も同じ考えのようで、ふぅっと小さく息をつき、少々残念だと言うように目を伏せる。
「テウクロスも所詮は一企業か。イリオンの不利益になるような情報は私の許まで届かない、それだけの事。イリオスペインは騒ぎが大きくなり過ぎた事で隠せなくなったので、対応せざるを得なくなった」
これで満足か、そう言うように蒼斗は再び微笑を浮かべる。大体予想していた通りの答えだった為に驚きはない。テウクロスが独断でもみ消していたと言うのだから、やはりテウクロスを通さずに直接、蒼斗を訪ねて正解だったようだ。後悔したところで遅いのだが、夏野の提案など最初から聞かなければ良かったと、葵惟は小さく溜め息をついた。
「話はこれで終わりではないだろう?」
わざわざ訪ねて来たのだからな、と含みのある言い方に葵惟は少々眉を顰めるが、頷くと再び口を開く。本題はここからだ。
「イリオン内での失踪について、知っている事を全て話してもらいたい」
「失踪? 何の事だね」
「ここでとぼけるのは利口な対応ではないな。僕は、確固たる事実に基づいて言っている」
そう言い、先程出現させた記事にもう一度触れて消し去ると、左から右へ手を移動させれば幾つもの小さなスクリーンが現れ、そこにも記事が映し出される。40~50ほどの手のひらサイズのスクリーンがずらりとマス目状に並び、細かい文字が記されている。
「これらの人間が、現に行方不明となっている。イリオンから消えたという事実は書かれていないが、イリオンに行ったまま帰って来なかったとされている。イリオンで失踪したと思うのが当然だろう」
確信はある。
あの日、茜音はイリオン内で遊んで来ると言っていた。そして、そのまま消息を絶った。その日の内にテウクロスに所在の確認を依頼したがログアウトしていると言われ、それ以上は取り次いでくれなかった為に警察に通報する事となった。
他の失踪者たちも同じなのだろうと葵惟は思う。イリオンに不利益な情報を隠蔽するのだと先程蒼斗の口から聞いた時、それは確信となった。
だからこうして直接、蒼斗を問い質している。
この時、初めて蒼斗の口元から笑みが消えたのを葵惟は見た。初めて表情を崩したという事にどれほどの意味が込められているのか、計り知れない。しかし態度が変わった様子はなく、彼は背筋を伸ばし手摺に手を置き、真っ直ぐに葵惟を見据える。
その雰囲気がこれまでの優しげなものから一変し、緊張感に室内が包まれた。プレッシャーのようなものを感じ、葵惟は生唾を呑み込む。
「最初に言っておこう。テウクロスは運営しているだけの会社であって、管理は全てこの神殿内で行っている。ここにいるスタッフは私の指揮下にあり、テウクロスとは一切、繋がりを持たない」
「貴方はテウクロスの一員ではないのか?」
「全く別の組織だと言っておこう。私はテウクロスを信用してはいない。管理する事に専念する為に運営を任せただけだ。昔のよしみでな」
元々オンラインゲームの運営をしていた会社だったテウクロスは、その当時まだ高校生だった蒼斗が技術提供した事によってフルダイブシステムのオンラインゲームを確立させた会社として急成長した。そして蒼斗がイリオンの中枢を作り出すと、資金提供をすると言ってプロジェクトに参加し、日本中に導入する事となった際に運営する会社が必要だろうと名乗りを上げたのだ。
その実力を買い、提携しただけだと蒼斗は言う。あくまで提携しただけで、この神殿はテウクロスから独立している状態で、この場所をテウクロスは知らないのだとか。
その為に都合の良いように情報を改変して蒼斗に伝えていたと言う訳だ。利益の為、イリオンを長く維持させる為。
「知っての通り、ナノゲートを通る際にスキャニングが行われ、自動ログインする事によって情報がシステムに送られ、イリオン内にいる全ての人間の情報を統括する事が出来るようになっている。依って、イリオン内にいる間は行動全てをここで確認できる。故に、失踪は有り得ない」
「だが、現に僕の片割れは失踪している」
「名は?」
「都築茜音」
そう告げると手摺上で手を動かした蒼斗の前に文字が浮かび上がり、文字に触れるとスクリーンが浮かび、茜音の顔写真と文字の羅列が次々に現れる。
「失踪時期は」
「12日前になる」
ログイン、ログアウト、エリアの移動や施設への入出などが細かく記録されていて、時間も秒単位で記されている。12日前まで遡り、記録を見ている蒼斗。
「午後7時32分47秒にログアウトしているとある。その後1週間ほどログイン記録はなく、8日後の午前10時2分14秒にログインし、浮遊島スカイフォールエリアに居る。その後はエリアを転々とし、ログアウトとログインを繰り返している状態だ」
1週間の失踪中にイリオンに入った記録がないという事は納得がいく。ログアウトしてから消えたというのも分からなくはない。それであれば辻褄が合うのだから葵惟がこれ以上、追及する事は無い筈だ。
けれども葵惟の表情は未だ納得していないもので。
「失踪した日、どこでログアウトしたか、ナノゲートはどこに通じていたのかは分かるか」
訊ねられ、文字に触れるとスクリーンが増え、更に詳細な記録が映し出される。スクロールしながら見ていれば葵惟の知りたい情報が映し出され、蒼斗は見たままを読み上げる。
「海中施設ラグーンエリアでログアウト、ナノゲートの接続先は更科町D327地区24番地」
「……そうか……」
ナノゲートの繋がっていた先を聞き、確信は核心へ変わる。自分の感覚は間違っていなかった。疑問は必然だった。
だから葵惟は口元に微笑を浮かべる。
「そこは僕の家だ。あの日、茜音がナノゲートを使ったという記録はなかった。つまり、その記録は偽りであるという事だ」
葵惟が嘘を言っている訳ではないと、ここにいる全員が分かっている。わざわざ開発者の許へ乗り込み、嘘をつく理由が何もないのだから。そして、蒼斗が読み上げた記録が本物であるという事も。しかしその両者に矛盾が生じている今、どちらかが偽りであると推測される。そしてその可能性が高いのは、蒼斗が手にしているデータの方だ。
家庭に備え付けられているナノゲートは量産できるよう簡素なもので、データを改変するような機能は存在していない。
「そして先程のイリオスペイン発生時期と、失踪の始まりは2年前になる。この頃にイリオンで何かがあったとしか考えられない」
どちらもイリオン内での事なのだから。
蒼斗は傍観者となっている弟の慶太を見、慶太が頷いたのを確認して一息つくと、話題をがらりと変えた。
「君達は、《流星河の日》を知っているかな」
突然、何を言い出すのかと訝る葵惟。様子を窺うように黙っていれば、やはり答えるのは夏野だ。
「あれでしょ。何年も前にあったっていう、全世界で同時に起きた、空を覆う流星群が降ったって日」
「そうだ」
当時の事を、まだ生まれていない葵惟が知る由も無かったが、《流星河の日》は世間一般に広く知れ渡っている、世界を震撼させた怪奇現象だ。
それは夏に差し掛かる前の、日本時間で午前11時47分。その日、日本のとある地域では、快晴だった空が急激に赤黒く変化した。その時点で騒ぎとなり、テレビやラジオでは緊急で生中継をしていた程だが、それから数分後、空を覆う程の流星群が降り注いだ。観測史上最も多くの流星群が降り注いだと言う。その流星群の多さから、河のような流星群という事で流星河の日と呼ばれるようになった。流星群から雨のように輝く光が降っていた事も、とても印象的だったと言う。
今では教科書に載るような現象で、知らない者はいないという程の出来事だ。
そして流星河の後に判明したのが、全世界で同時に観測されたという事だ。理論上不可能な現象に、世間は様々な説を立てていた。
「その時、浮上した説の中に異世界リンク説というものがある」
「この世界が、異世界と繋がったとするものだな。くだらない」
「だが、その異世界リンク説こそ真実だとするとどうだ。実際、私と慶太は異世界に行った事がある」
突然の、突拍子の無い話に葵惟も夏野も唖然としている。流星河の日がから数年間、異世界があるなどという現実味のない話題で盛り上がっていたという話は記憶の片隅にある。けれども異世界の存在を証明する事は出来ず、今では一部の人間が支持しているだけの非科学的な妄想とまで言われる程の説だ。
その異世界に行った事があると、目の前にいる男は言っている。良い年した大人が恥ずかしげもなく言える事ではなく、やはり橘蒼斗は変人の部類なのだと再認識したような気がした。
「さっきさ、オレの家に女の人がいただろ? あの子、オレと兄ちゃんが行った世界の人なんだ。異世界人ってやつ。ここにいるスタッフも、ハイヤー運転してた人も、な」
見た目は自分たちと何も変わらなかったのに、それが証拠だとでも言うかのように言い切った慶太。どこか普通の人間とは違う雰囲気を感じ取ったのは事実だが、ただの世間知らずか変人だと言ってしまえばそれまでだ。ここにいるスタッフは分からないが、ハイヤーの運転手も普通かと問われればそういう風には見受けられなかったのだから。
そんな葵惟の心情を察したかのように、蒼斗は言葉を紡ぐ。
「その世界はZEUSという、人工知能である一つのAIが生み出した世界だった。それはつまり、イリオン同様にバーチャル空間に生まれた新たな世界。世界と世界を繋ぐゲートを通る際にスキャニングし、ゼウスは人間の情報を得ていた」
「それって、イリオンと同じじゃ……」
「その通り。イリオンにはゼウスのAIの一部を改変したものを使用している。私は改変したAIにDIOSと名付けた」
「ディオス……根本は同じゼウスという事か」
そこまで知っているのかと感心しつつ、蒼斗は頷いた。
今、葵惟たちのいる世界よりもずっと進化した世界で生まれたAIが創り出したシステムを再構成して実用化したのがイリオンだと言われれば納得する部分も多い。短時間で中枢を作り上げられたというのも当然と言えよう。
しかし、バーチャル空間にある世界で生まれたという事は、慶太の家にいた彼女やハイヤーの運転手、神殿内にいるスタッフが現実世界に存在しているというのは聊か疑問ではある。
怪訝な顔をしていたからだろうか。蒼斗が口を開く。
「私達の体を構成している元素がデータで構成されていると思ってくれればいい。ただそれだけの違いで、他は全て私達と同じだ。見ただけでは判るまい」
人間を透過した時に元素で見えるとすれば、彼女達はデータ、つまりは0と1で見えるという事になる訳だ。見た目での違いがないという事も頷ける。
だが何故、今このような話をしているのかという疑問が消える事はない。蒼斗は更に話を続ける。
「ディオスはゼウス同様の人工知能だ。だが、違うのはこの世界にウィルスがあるという事。ゼウスが創った世界は完全に独立し、ネットワークとの繋がりは一切なかった。もし、ウィルスに侵されディオスに何かしらのバグが発生しているのだとすれば、情報が改変されていてもおかしくはない。防衛もテウクロスに任せている状態でね。彼らは優秀であっても完璧ではないのでな」
そう言い、右側の肘掛けに浮かび上がった緑色のボタンに触れると葵惟の前に並んでいたスクリーンが一ヶ所に集まり、蒼斗の前まで移動したスクリーンに触れ指を窄めると1センチ四方まで縮小した。
「このデータは預からせてもらってもいいかな?」
「好きにするといい」
「では、遠慮なく。それと、君達に一つ頼みたい事がある」
頼み事と聞いて、葵惟の表情が少しばかり強張った。隣にいる夏野からも緊張が伝わってきて、自分まで緊張していくような気がする。あの橘蒼斗の頼み事なのだから何か重大な事なのだろうと考えてしまうのは仕方のない事だ。
そんな彼らの心情を悟った蒼斗は笑みを零す。
「まあ、そう身構えないでくれ。これから私は、外からイリオスペインと失踪の原因究明にあたる。私は管理し統括する立場にいる為に、イリオン内に行く事は叶わない。依って、君達にはイリオン内部で調査をしてもらいたいのだ」
言いながら宙に触れ、幾つかのスクリーンを出現させると横スクロールしたり触れたり移動させたりと作業を進めていく。てきぱきと素早い動きで熟していく為に夏野はぽかんと呆けていて、葵惟でさえも全てを目で追う事はできない程だった。とても複雑な作業をしているという事だけは分かり、それだけの操作を秒単位で熟せるその力量に、改めて橘蒼斗という人物の凄さを思い知らされているような気がした。
先程葵惟から預かったデータに触れ、10×10のマス目状になっているスクリーンへ移動させると重なっていたデータから一つずつ離れてマス目の中に入り、入ったマス目が赤く点滅する。それが次から次へ、上から順にマス目の中に入っていき、赤い点滅が増えていく。バラバラに、けれども同じところに入っていくものもあって、それが何を意味しているのか葵惟は何となく悟っていた。
数十秒ほどで全てのデータがマス目の中に入り込み、先程と同じようにマス目状のデータが映し出されているスクリーンに触れて指を窄めると1センチ四方まで縮小し、もう一度触れると白衣のポケットから取り出した黒いスマートフォンに移動させた。
「今のはイリオンを簡略化した地図のようなものだと思ってくれればいい。印のついたエリアで失踪者の所在が途切れているので、そのエリアで何か変わった事がなかったか調べてほしい」
立ち上がり、葵惟に近づくとスマートフォンを手渡す。
「いろいろな機能をつけているので試してみると良い。それから、《皇帝 橘蒼斗》の音声認証で私に直通となるので、何か判明したら知らせてくれ」
皇帝というのも恐らくは彼の趣味なのだろうと思うと若干引いてしまう自分がいるが、なるべく考えないようにして葵惟は目の前にいる蒼斗を見上げた。
「見ず知らずの人間に何故そこまでする」
「君は観察眼が優れているから興味を持った、と言えば納得するかな」
一瞬驚くものの、すぐに目を細める。それは恐らく、この部屋でデータを操作した事を言っているのだろう。初めて入った部屋の中で、誰に言われるでもなく葵惟はこの部屋の、この施設内のシステムを把握した。イリオンと同様に情報を視覚化できると知っていた。それはこの部屋に来る前、スタッフが忙しなく動いている部屋で同様の事をしていたのを目撃したからだ。ここはイリオンと酷似した状態にあるという事をその時に悟った。
だから何の説明も無しにそのシステムを利用する事が出来たという事に、蒼斗は気付いていたのだろう。
「行動力、観察眼、洞察力、明晰さ、それらを総合して見て信用できると判断しただけの事だよ。不満はなかろう?」
不満があるどころか、たった数分の間にそこまで観察されていたのかと思うと脱帽するばかりだ。天才と呼ばれる所以がそこにもあるのだろうと思った。それだけの人物が目の前にいる、それがとても名誉な事だと今一度思う。
「そして私は、弟の――慶太の目と直感を信じている。慶太がこうして君達を連れて来た事に意味があると思っているよ」
今日ここに来て顔を合わせてから殆ど会話のない兄弟だが、どうやら見えているよりもずっと絆は深いようだ。
「貴方に必要とされる事は何より光栄だ」
「そうか、期待しているよ」
「痛み入ります」
スマートフォンを上着のポケットにしまい、差し出された手を両手で握ると深々と頭を下げた。
胸の内にある想いをどれだけ伝えられただろうか。けれど、自分にできる一番の方法だと思っている。解ってくれなどと傲慢な事は思わない。ただ伝えたい、それだけなのだから。
頭を上げ、手を離すと葵惟は再び蒼斗を見据える。
「1つだけ僕から頼みがある。僕は現在、失踪中となっている。僕の存在を他の人間に知られたくない」
「……理由は?」
「帰って来た茜音は茜音ではなかった。僕は本物の茜音を捜す為に茜音となった。貴方なら、これだけで充分だろう」
「なるほど、囮になった訳か。よかろう。互いに秘密があった方が信頼できそうだ」
言って、微笑を浮かべる蒼斗。その言葉にも笑みにも他の何かが隠されているような気がしたけれど、その事には一切触れず、葵惟はただ頷いた。
それから、この部屋への転送装置とは逆側に位置した所にナノゲートがあると告げられ、葵惟と夏野は室内奥に設置されているナノゲートへ向かって歩き始めた。